今の老人、昔の老人

 今は少子高齢化の時代である。これからも年寄りが増えてその介護や医療の体制も設備もお金も間に合わない。2025年には団塊の世代後期高齢者の仲間に入ってくる。当然元気な人ばかりではない。一人で生活出来ない人も増える。子供が少なく面倒見てくれる人もいない一人暮らしの老人が増える。

 それに対する社会保障や医療、看護、介護などはどう見ても十分には出来そうにない。介護難民も増えるだろうし、老人の生活困窮者も増えるだろう。生活保護などの対策も間に合いそうにない。老人のホームレスや行倒れも増えることであろう。

 昔は老人が少なく家族主義の日本では家族に守られ、家督を息子に譲って悠々自適も可能だった。生活も医療制度も貧しくとも大家族制度が最後まで面倒見てくれた。儒教の教えもあり老人が尊敬され大事にされた。

 土地にへばりついて生きてきた農村社会では多くのことが代々伝承され守られてきたので老人が情報を握っていた。それによって村の出来事も決められたので隠居しても老人が社会的にも力を持っていた。いわゆる古老の知恵である。

 農業用池のユルをいつ抜くか、田の水をどのように引くかなど昔からの仕来りを知っている老人が決めた。人が死んでも葬式を村でどのようにするか、土葬をどこに埋めるか、埋める順序などを知っているのも老人であった。村の祭りから冠婚葬祭まですべて老人が受け継いできた知識に頼らなければならなかった。

 戦争の時も若者たちは政府の宣伝に乗せられて威勢の良いことを言っても、歴史を知っている老人は経験からより客観的にものを見て批判することが出来た。

 町に麻疹が流行っても若い病院勤めの医者はその病気の症状や所見は知っていても、近所の情報には疎い。それに比べて老人は病気のことには詳しくなくても近所の情報に詳しい。あそこの子もここの子も病気になったことを知っておれば同じような病気の子が出れば流行りの病気ではないかとすぐに想像出来る。

 その上、病気の症状はその初期にははっきりしないことが多いので、感染症などでは症状や所見しかわからない若い医者よりも素人の老人の方が診断出来ることが多い。昔から老人の言うことには逆らうなと言われていた所以である。

 昔は夜に子供が熱を出したりしても、年寄りがおれば経験からこのぐらいなら明日まで様子を見れば良いかどうかの判断がついたので慌てることはなかったが、核家族の若い家庭では経験がないので、子供に何か変わったことでもあれば天下の一大事でどうしてよいかわからず、慌てて救急車を呼んで病院に連れて行くことになる。

 近代資本主義の時代になり会社や都会の生活が拡がると昔の伝統は要らなくなる。新しい技術は年寄りより若者の方が知っている。年寄りは若者より体力的に劣る。労働力としては若者の方が優れている。昔からの仕来りも重んじて緩徐な変化にしようとして年功序列制にすると、日進月歩の技術革新の世では老人は給料の割に働きが悪いことになり定年制を敷かざるを得なくなる。

 最近のようにパソコンやスマホの流行などを見ると、技術革新の時代の老人の立ち位置がはっきりわかる。老人ははもはやどう転んでも若者にはたちうち出来ない。子供の方が見よう見まねですぐに覚えるのに、老人にはそのような器用さはない。

 折角人々が昔より長く生きられるようになったのに老人は疎まれ厄介者になる、老人になれば当然必要になる医療や介護の費用が嵩み、老人が悪者にされ、若者の生活を脅かすとまで言われる。どんな社会が良いのかは別にしても、老人が増えるのにつれて、ますます老人には生きにくい世の中になりつつあるようである。