老後を楽しめない時代

 2〜3日前、阪急電車で梅田に出かけた時のことだった。足が悪く杖をついているので、優先席が空いていないか確かめてみたが、席はすべて初老の男ばかり5〜6人に塞がれていた。仕方がないので、端に凭れて立とうとしたら、座っている一人が立ち上がり席を譲ってくれた。礼を言って腰掛けたら、隣の男性が笑いながら立ち上がって、私の方が若いからと言って、先に立った男を座らせて自分が立って交替した。

 話を聞いていると、67歳と68歳の一つ違いということであった。どうやら、この集団は何処かの会社か何かのOB達で、皆で一緒に何処かへ行くところのようであった。

 以前にもどこかで書いたような気がするが、今の世の中で一番元気で輝いて見える男の集団は、この人たちのように、65歳から75歳あたりのいわゆる前期高齢者にあたる年代の人たちではなかろうか。

 厳しい現役時代をやっと乗り越えて、仕事のストレスはなくなり、ゆっくり出来る時間が出来たし、まだ体力も残っている。仕事関係や学校の同窓生など、同年代の仲間もまだ元気でいる。少ないながらも退職金を貰い、年金の入るようになった人もいて、懐は多少とも暖かい。気のあった仲間たちが集いあって、何処かへ出かけたり、一緒に何かしようとする条件が全て整っている。人生で最高の時代かも知れない。

 少子高齢化の時代になって、電車の中などでもこういう人たちが見立つようになったのはいつ頃からであろうか。彼らと対照的に、現役世代の人たちに元気がないこと。多くは寝不足とストレスでぐったりして、電車に乗っていても眠っているか、虚ろな眼差しで虚空を眺めているなど、全く退職者とは対照的である。中には電車の中でまで、パソコンを開いて仕事をしている人もいるし、スマホでゲームをしてストレス解消をしている人もいるが、いずれも疲れ果てて精彩がない。元気な老人たちが一層目につくわけである。

 こういった初老の人たちを見ると目の輝きが違う。皆生き生きとして生気に満ちている。勿論、その陰には、定年を過ぎても生活のために働かなければならない人も多いし、せっかく定年を迎えて仕事から解放されたのに、ガンや脳卒中その他で苦しみ、不自由を強いられている人たちの多いことも忘れてはならない。

 元気な人たちがお互いに話す内容にも、旧友の病気や死亡の知らせがあったり、血圧や血糖、コレステロールなどの値が共通の話題であったりもする。それらが一層彼らの仲間意識を高めてくれることにもなっているようでもある。

 いずれにしても、こうした細やかな老後の楽しみは、いわば長年の労苦に報いる老人たちへの社会からのご褒美とでも言えよう。若者から見ても、自分たちの将来を考えても、やがて訪ずれるであろう休息の楽しみとして、社会が皆で微笑ましく讃えるべきものではなかろうか。

 老後に特にお金をかけたい分野はという現役世代のアンケートでも、「趣味やレジャー」と「旅行」が目立って多いのを見ても、現役世代、ことに定年が近くなるほど、老後の楽しみを温めながら仕事に励んでいる人が多いようである。

 ところがこういった元気な老人たちの風景も、やがて消えていってしまうのではなかろうか。どうも近未来の世界は、せっかくの老後の楽しみさえ、次第に許してくれなくなっていきそうな気配である。政府の政策の方向が対米従属、大企業優先で、消費税増税ですら大企業の減税の穴埋めに使われ、少子高齢化の時代への対策は遅れ、老人の年金制度や社会保健制度の財政が困難になっても、政府の対策はそちらの事態改善にはには回らないようである。

 政府の狙うのは「全世代型社会保障」などと言い出して、定年を延長して75歳まで働かせ、年金を減らし、老人医療の自己負担を増やし、介護保険医療保険の適応を厳しくするなど、老人の社会保障制度の財政を絞り込んで、政府の負担を減らそうということのようである。

 年金が減っては、せっかく定年でやれやれと思った老人も、やがては生活のためには老いに鞭打っても働かざるを得なくなるのではなかろうか。仲間とつるんで何処かへ出かけるような機会は奪われてしまうであろう。老いの楽しみは奪われ、動ける限り働かされることになるのではなかろうか。果たして、社会にはこうした折角の長年の労苦の果てにやっと手にした老後の楽しみまで奪う権利があるのだろうか?

 国の予算を大規模な軍備や大企業への減税などへ使うことを止めてでも、長年社会に貢献してきた老人たちに、せめてものささやかな老後の楽しみを残すのが国民のための政治ではなかろうか。