中国人に助けられる

 先日の友人の話しから・・・。その友人は最近ようやく車の運転をやめて、公共乗り物を利用するよになったらしいが、長年車でばかり移動していたので、公共交通機関に慣れていないので、勝手がわからなくて困るそうである。車をやめて初めて電車で大阪まで出た時のことだそうである。

 帰りに地下鉄の切符を買おうとしたが、自動販売機は会社により操作の仕方が少しづつ違うので、どこをどの順番で押せば良いのか、慣れている人にとってはなんでもないことでも、初心者には分かりにくい。パソコンやスマホの操作でも同じである。ATM での送金でも初めはまごつくものである。

 私も、昔パリの地下鉄で、器械で切符を買うのに困ったことがあったし、ロスアンジェルスではわからないでまごついていると、親切な青年が教えてくれた。その時はお蔭でシニア割引のあることがわかり、ロングビーチまで安く行けたことなどを思い出す。

 友人の場合は、後ろに中国からの旅行者がやって来て、老人が切符を買うのにまごついているのを見兼ねて、助けてくれたそうである。最近は外国からの旅行者も多いが、初めての旅行者でも若い人の方が地の年寄りよりも機械の扱いには慣れていて強いものである。

 こうして漸く地下鉄に乗って、千里ニュータウンに住んでいるので、北大阪急行千里中央までは問題なく帰ってこれたが、そこでまた問題が起こった。

 そこから先、家の近くまで行くバスの乗り場がわからない。なるほど、千里中央のバスの乗り場は広いターミナルのあちこちに分散しているから、勝手のわからない人には見つけにくいのであろう。

 案内板もあるのだが、夜だと分かりにくい。夜になると昼間とは景色もすっかり変わるので、同じような建物の続く中では、慣れないと方角も定かでなくなり、何処が何処だかわからないことのなりかねない。

 足が悪いので気軽に歩き回るわけにもいかず、人の聞いても南の端と教えて貰っても、方角がわからない。どうしたものかと思案していたら、親切な青年がいるもので、杖をついた老人を労ってか、確かあっちだと思うがと教えてくれて、自分で走って行って確かめて来てくれたそうである。

 これまでは大阪から車で新御堂筋を走って、千里中央インターチェンジで出て、千里阪急ホテルの横を走れば問題なく家まで帰れたのに、こうして人に助けられて漸く家にたどり着いたそうである。車の運転を止めた老人には、自分の家に帰るだけでもしばらくは大変である。

 その大変さは同じ年の老人にはよくわかるだけに同情に耐えない。それでも、頭の回転も遅くなり、運動神経も鈍くなってくるので、運転を続けて事故など起こすより、不便になっても運転はやめた方が良いと勧めた次第である。

 

中国の経済成長率が6.2%に落ちた

 米中の貿易摩擦で、最新の中国の統計で、経済成長率が6.2%に落ちたことが報じられ、これはリーマンショックの後以来の最低値だと言われる。

 日本のメデイアでは、まるでざまあみろと言わんばかりの書き振りのところもあるが、中国の成長率はここのところ6%台で続いて来ており、米中貿易摩擦の影響はあるだろうが、それほど大きな落ち込みとは言えないのではなかろうか。

 それより日本の経済成長率を心配する方が先ではなかろうか。2018年の日本の経済成長率は0.81%で世界の中の順位でいうと、191ヶ国中166位なのである。

 他の国々と比べてみると、全体のGDP が小さいが、アフリカやアジアの国々は6〜7%成長しているところが多く、ヨーロッパの仏、独、英などでも1.4~1.5%の成長率は確保されており、、アメリカは2.86%となっている。

 最近の新聞によると、シアトルはアマゾンのおかげで建設ラッシュが続くなどで景気が良く、昨年の経済成長率が5.7%と全米トップだったそうである。

 これらの数字を比べると、成長率が落ちたと言っても6%台の続いている中国の経済成長率は、日本などと比較してまさに驚異的な値であることを知るべきであろう。

 それより現在ますますこじれて来た日韓関係問題に絡んで、韓国の成長率はを見ると2.67%と日本よりも大きく、戦時中の徴用工の補償問題など政治問題を経済制裁によって解決しようという試みがそう簡単に片附く問題ではなく、今後長くお互いの反目が続くことになるのではないかと心配である。

 中国や韓国を見る場合に、どうしても過去の歴史や政治的な思惑が絡んで来やすいが、将来の東アジアの平和や経済的な関係を考慮する時には、感情に左右されない冷静な判断をする必要があるのではなかろうか。

 もうそろそろアメリカ一辺倒の政治を見直して、将来的にますます巨大化していく中国を中心にした東アジアの平和をいかにして構築していくかということも考えていかねばならない時が来ているのではなかろうか。

中国映画「芳華」(Youth)

 知人に勧められて「芳華(Youth)」という中国映画を見た。

 表題通りの中国の青春ラブストーリー。フォン・シャオガンという有名な監督の映画だそうで、4000万人が涙したという広告があった。

 踊りの才能を認められて、毛沢東の時代の軍の文芸工作団に入った若い女性が、毛沢東の死、中国ベトナム戦争文化大革命の時代、鄧小平による資本主義を取り入れた発展の時代へと、劇的に変化した時代を経て、文工団も解散してしまうという長い生活の歴史の中でずっと秘めていた恋心を描いたもの。

 文工団における舞踊活動から、集団生活の中での色々な葛藤を経験しながら、精神を病んだり、従軍看護婦として活躍したり、紆余曲折を経て、文工団も解散して皆がバラバラになった後になって、やっと初めから憧れていた男性に愛を打ち明けて一緒になれたというような話。

 まあ言えば、よくあるストーリーだが、京劇と現代的なバレーを組み合わせた踊りが仲々良かったし、長い時間的なスパンの中でのそれぞれの時代がよく描かれており、見ていて飽きない映画であった。

 ただ外部からの私などからすると、せっかくのこういう映画だから、文化大革命などを含む世の急激な変化を人々がどう受け止め、それに適応してきたのか、その中での人々の生活や心の変化などがもう少し描かれておればよかったと思うのは欲張りすぎであろうか。

隠岐旅行(2)

 隠岐には神社が多いようで、観光ルートとしても、水若酢神社に玉若酢神社、それに隠岐神社がコースに入っていたが、その他にもあちこちで神社を見かけ、「隠岐島前・島後神社マップというパンフレットまで貰った。

 そのパンフレットによれば、そこに載っている神社だけでも68社あり、しかも、朝の散歩でたまたま通りかかった小さな祠、といっても立派な鳥居まであったが、そこなどはパンフレットに載っていなかったので、隠岐の神社の実数はそれよりももっと多い筈である。

 神社の数もさることながら、気になったのは隠岐の人たちと神社の関係が我々とは少し違っている感じがしたことである。隠岐の人には”神道”の人が多いのであろうか。

 案内してくれたガイドさんの態度も敬虔で、鳥居の前では一礼をし、皆に手を洗ってくださいと勧め、社殿の前では二礼二拍、一礼、礼を告げ、後に参道を過る時にも礼をしてから渡りましょうと言い、神社を出る時も、鳥居の外で振り返って、もう一度礼をするという作法を皆に勧めていた。ツアーの客も皆一斉にそれに習っていたので、私のような無神論者にとっては、何か少し異様な感じさえした。

 このような”神道振り”はいつからなのであろうか。昔から本土などと比べて、仏教よりも神道が相対的に有力だったのだろうか。戦後の時代の変革期に、内地では氏子に支えられて来た氏神様も廃れてしまった所が多いが、隠岐では、隔離された島だけに、そのまま続いたのであろうか、あるいは本土同様に廃れかけたが、最近の世間の右翼化に伴って復活して来たものなのであろうか気になった。

 そこでふと気がついたのは今回の旅行で、隠岐ではお寺を見かけないことであった。当然、その気になって見れば、お寺もあるだろうが、どうも他の地方と比べると、お寺の勢力が弱いのではなかろうか。

 詳しいことはわからないが、明治維新の頃にあった1868年の隠岐騒動と明治の初めの廃仏毀釈が重なった結果に関係しているようである。隠岐騒動で島根藩の郡代を追放したのは隠岐の神官と地主の指導によるもので、尊王の思想に裏付けられていたようであるし、当時の廃仏毀釈が他所よりも徹底して行われたであろうことは、隠岐では首を切られたり、傷付けられた地蔵さんが多く、廃寺の跡に建てられた学校も多かったということもあるようである。

 隠岐は離島であるが、明治の初期に先覚の学者もいたし、北前船の風待ち港でもあり、案外世界の情報にも明るかったことも関係していたのであろうか。

 想像するに、そのような歴史が隠岐の人たちに強く神道の伝統を残し、今に続く神社に対する信仰や敬虔さをもたらしているのであろうかと思われた。

隠岐旅行(1)

 隠岐へ2泊3日の旅行で行ってきた。

 もう十年以上も前になろうか、ギリシャへ旅行した時、エーゲ海サントリーニ島を訪れてから、島の成り立ちが火山で構造的に似ている隠岐に興味が湧き、一度行ってみたいと思っていたが、そのままになっていた。

 ところが2〜3年前に、田中一村美術館に惹かれて、奄美大島へ行ったのがきっかけで、以前から行きそびれていた日本の離島を思い出し、朝鮮との関係で行きたかった壱岐対馬へ、次いでは隠岐へということになった次第である。

 隠岐へ行って知った知識では、島の成り立ちは5万年前の火山の爆発に由来するものらしく、今の島前、島後の火山が噴火して出来たが、その頃は日本列島はまだ大陸の一部であったらしい。それがやがて日本海に当たるところに湖ができ、それが広がって日本海となり、日本列島が形成されることとなったようである。しかし、その頃は隠岐の島々はまだ島ではなく、島根半島に続く日本列島から伸びた半島として地続きであったようだが、その後の海面の上昇とともに現在のような島になったということらしい。

 その証拠に島根半島隠岐は地質学的に連続しており、同じ黒曜石の地層が続いており、今でも両者の間は水深70米ぐらいの海底丘陵でつながっているそうである。

 そうした長い歴史の間に、火山性の岩石の崩壊などが進み、現在のような姿になったもののようである。従って、島前では焼火山(たくひ山)、島後では大満寺山を中心とした火山島になっているが、島前では外輪山の内側まで海が入り込んで、三つの島になっている。

 サントリーニ島と異なるのは、サントリーニ島では中心となる火山島は小さく、外輪山に当たる島の内側の海岸が急峻で、その崖の上に街が発展しているのに対し、隠岐の島前では外輪山に当たる島の内側はそれほど急峻ではなく入江毎に海岸に沿って人が住み、外輪山の外側の外海に面した方が長年の侵食で削られて、断崖絶壁の海岸線になっていることであろう。

 そこでは最高257米にも及ぶ直立した断崖が続いたり、海蝕による奇岩や洞窟などをも多数作り出されて、結構興味深い観光資源になっている。隠岐を代表する観光スポットのローソク島が有名であるが、島前の国賀海岸などの方が遥かに変化に富んでいて訪れる値打ちがある。遊覧船で船ごと洞窟内へ入れるような所もあった。また、これらの絶壁の上は平坦な草原で、放牧や遊歩道、展望台などになっている。

  なお、島の内部も山また山で変化に富むが、平らな農地もあり、米の栽培も行われているし、どこもかしこもアジサイの花盛りであった。

 

多様化する日本人

 近頃、街に行ってつくづく感じるのは、この半世紀ですっかり人々の様子が変わってしまったことである。一言で言うならば昔と違って、最近の日本人は、同じ日本人と言っても、昔と違って随分体格が立派になり、しかも多様になったような気がする。服装なども様々になったし、外国人も普通に見られるようになって、余計に多彩である。

 昔より平均して随分背が高くなったのが顕著な違いであるが、それが若い人だけでなく、次第に高年令層にまで広がってきている。もちろん、昔ながらの背の低い人もいるので、身長のバラツキが大きくなったとも言えよう。私が子供の頃は、日本人は平均して背が低く、今より均等であり、戦後に占領軍が来た時には、彼らの巨体を見て、よくこんな大きな奴らと戦ったものだと思ったものだったが、もうその頃とはすっかり変わってしまった。

 以前にも書いたが、昔はたまたま電車に乗って、入り口のドアに頭がつかえるような背の高い人を見たら「ウヘー、高い人もいるものだなあ」とびっくりしたものであるが、今ではそのぐらいの背丈の人はいくらでもいる。昔なら、私でも満員の地下鉄に乗っても、周囲が女性であれば、頭越し、肩越しに向こうが見えたものが、最近は背の高い人ばかりで、男女を問わず全く見通せない。

 それどころか、周りを若い男性に取り囲まれたりすれば、まるで壁の間に挟まれたようで、何も見えないし、窒息しそうな感じさえする。肩の高さが私の背丈より高い若者がいくらでもいる。ただ、そうかといって、今でも時には私と変わらないぐらいの男性もいるのが私を救ってくれている。

 高さだけでなく太った人も増えたが、これについては、今でもアメリカ人のように太った人は少ない。それでも、昔と比べると太ってブヨブヨな感じで、腹だけ出ている男性が多くなったことは確かである。日本では、20台ではむしろやせ気味の男性が多いが、30歳後半ぐらいから肥え始め、40過ぎになると、中年太りになる人が多いようであるが、肥満の面から見ても、昔の日本人とは違って多様になってきている。

 昔アメリカの漫画で、太った男と痩せた男のコンビや、大男と小男の組み合わせなどを見て、あれは漫画だからわざと誇張しているのだとばかり思っていたが、アメリカへ行ったら、本当にそれぐらい極端に違った人たちが普通に見られて驚かされたことがあった。

 こういった体格のバラツキが大きくなったっだけでなく、服装も昔と比べると隔世の感がある。昔はどこへいっても制服が多かった。軍人や警察官などは勿論だが、小学校から大学まで学生は皆制服を着ていたし、サラリーマンも制服のごとき黒っぽい背広にネクタイ姿と決まっていた。冬服と夏服の衣替えが一斉に行われるのも見事であった。夏の男性は一斉に白の開襟シャツ姿であった。来日したドイツの知人が、日本では皆が一様で、色がないと言ったことを思い出す。

 女性では昔から男より服装にバラエティがあったが、それでも制服姿も多かったし、そうでなくても、勤め人は地味な上着にスカートで、季節により一斉に衣更えをするのが普通であったし、一般の人も模様などは多彩でも、基本的な服装は一様であった。

 そのような昔のことを思い出すと、今では街で見かける服装もすっかり変わり、それぞれの人の好みに合わせて好きなように着ている感じになった。学生の制服も殆どなくなったし、サラリーマンでも昔のように背広のネクタイまでしているのは、今ではセールスマンか、会社の幹部クラスぐらいになってしまった。

 背広を着ていても、クールビスがはやるようになってからネクタイ姿が減り、背広でないカジュアルな服装の人が増えた。昔なら行楽の時にしか着ないような格好で会社へ行く人もいる。自由業が増えたこともあるし、退職後の高齢者で出歩く人も増えたのであろう。昔には考えられないぐらいのばらつきが服装にも見られる。

 1961年に初めてアメリカへ行った時には、先ずは、すべてが大きいことに圧倒された感じであった。国も大きければ、人間も大きい、背が高いだけでなく、体重も私の二倍もある人がいくらでもいる。建物も大きければ、車も大きい。冷蔵庫も、食べ物や飲み物の容量も、果てはスイカや茄子などまで大きいのにびっくりさせられた。

 しかし、もう一つ驚かされたのが、人々の外観のばらつきが大きなことであった。初上陸した港(当時はまだ船で行った)が5月のサンフランシスコであったが、道ゆく人を見ると、白人系から、メキシコ系、東洋系、黒人系と、人種も違えば、大きい人、小さい人、痩せている人から太っている人まで様々であった。

 その上、服装もはるかにバラエティに富んでいる。女の人では、毛皮のコートを着た人のすぐ横を水着姿のような女性が歩いていく有様に目を見張ったものであった。当時は日本ではまだ衣更えの風習も残っており、制服が流行っていて、5月までは冬服で6月になると一斉に夏服になるといった風習があり、だいたい皆社会的に決まった同じような服装をしていたので、あまりの違いに強烈な印象を受けたものであった。

  それが半世紀遅れて、今や日本もそれに近づきそうになってきていると言えば言い過ぎであろうか。天候の不順、温暖化などの影響も関係しているのか、一年の四季が二季になったかのようで、合服(間服)がなくなり、日本でも真夏の格好と、冬の服装が同時に見られるようなことさえ珍しくなくなってきた。 

   その上、最近は日本に住んでいる外国人も増えたし、外国からの観光客も多いので、街で見る人々の外見も昔と違って、ばらつきが大きくなったことも確かである。テレビなどで見ても、外国出身の日本人や、外国人で日本語の上手な人も多くあったし、スポーツ選手でも国際的に活躍する混血の日本人も多くなっている。

 今でも単一民族にこだわる人もいるが、最早、日本人自体が変わり、混血も増え、文化もますます国際化し多様化して行きつつある。男女同権から始まって、LGBTの受け入れ、障害者や高齢者など弱者の権利の尊重なども進み、少子高齢化で人口減少のこの国では、外国からの移民もいずれ受け入れざるを得ないであろう。この勢いを止めることは出来ない。必然的にこれからの世界は多様化を支え、推進する時代になって行かざるを得ないであろう。

 多くの移民を受け入れた先では、やがてヨーロッパのような問題も起こるかも知れないが、それを乗り越えた先の多様な人々こそがこの国の将来の発展の元になるのだと思う。この国では、未だに単一民族にこだわり、同調主義を唱え、「郷にいれば郷に従え」「 赤信号みんなで渡れば怖くない」といった傾向が強いが、入って来た異文化との対立を乗り越え、その先の多様性の融合こそが新しい世界を築くもとになるのではなかろうか。

  縄文時代弥生時代などの渡来人を受け入れた歴史などを見ても、多様な人々の融合こそが未来の発展を約束してくれるものであろう。

帽子

 

 中年になって、もともと薄かった髪がいよいよ禿げだしたので、帽子を被ることにした。まだ子供が小学生の頃であったと思う。家族でデパートへ行った時に、中折帽を買おうと思って、色々と選んでは鏡を見てどれが似合うか見たが、どれを被っても皆が口を揃えて「似合わない」という。

 それでも私は帽子が欲しかったので、自分に一番似合いそうな黒の中折帽を買った。その時は多少不安であったが、帽子というものは、初めて被る時には誰しも似合わないものらしい。それまでの無帽のイメージと急に変わるからであろうか。それでも被っている間に次第に慣れてくるものである。被り方も自分でああでもない、こうでもないと、色々工夫しているうちに、だんだん慣れてきて、それなりに自分のスタイルが出来ていくもののようである。

 また、被り始めのうちは、つい被って出るのを忘れたり、どこかで脱いで、次に被るのを忘れて、置き忘れたりということもあるものだが、次第に帽子のある姿が普通になったきて、帽子を被っていないと何か物足らない感じがして、置き忘れるようなことも少なくなり、帽子が身についてくると言えようか。

 そうなると今度は、その時々のシチュエーションに合わせて、少し違った帽子が欲しくなり、次第に帽子の数も増えてくる。季節に合わせ、場に合わせて帽子も使い分けられるようになる。

 帽子の種類は数え切れないぐらいあるが、服装に合わせて変えることになるので、必然的に、改まった所でも被って行けるものから、少しくだけたもの、カジュアルなもの、あるいは登山や散策用、全くの普段着のようなものなど、それに冬物、夏物、などと次第に数が増えていく。

 それに被っているうちに汚れたり傷がついたりで、捨てたり、洗濯したり、買い直したりもしなければならない。ことに夏の麦わら帽やパナマ、メッシュのようなものはすぐに痛んだり破れたりするので2〜3年しか持たない。

 それと帽子は保存に場所を取るのも問題である。衣服類と違って折り畳めないものが多いので、収納場所を節約しようとしても、せいぜい重ねて置くぐらいしか方法がないので困る。季節外れのものは収納庫の棚にでも放り込んでおけば良いが、その季節のものは、一つ一つ箱に入れたままでは、出し入れに不便だし、並べれば場所を取り過ぎる。重ね置くにしても、大きさや形の違いで、そういくつも重ねられない。

 いつも帽子を被っている他の人達はどうしてられるのか気になるが、日本では男の帽子はまだ少数派なのでなかなか聞く機会がない。

 それはそうとして、帽子を被っていると、冬は確かに暖かさが違う。体温は頭から抜けていくので、帽子のあるなしで体温の喪失も大分違うであろう。また夏は帽子によって紫外線もある程度はシャットアウトされるであろうし、パナマのようなメッシュの帽子をかぶっていると帽子の中で風が通り抜けていくのを感じられ、確かに少しは涼しい気がするのものである。

 ただし、帽子を被っていると、それなりのエチケットにも気をつけなければならなくなる。日本ではそれ程うるさく言う人も少ないが、私は大きな原則としては、屋外では被っても屋内では取るようにしている。と言っても、電車の中などでは被ったままだが、エレベーターに他人と一緒に乗るような時には取るようにしている。

 昔、ヨーロッパで、エレベターに途中から女性が乗って来た時に、初めから乗っていた男性が一斉に帽子を取ったのに驚いたことがあるが、日本ではそこらは守られておらず、音楽会のホールの中で野球帽を被ったままの聴衆を見たことがあるし、テレビでも、帽子を被った姿が売り物なのかも知れないが、、帽子を被ったまま番組に出演している人も見かけるので、どうもヨーロッパの紳士道は日本では無視しても良いもののようである。

  それでもずっと帽子を被っている姿が常態となると、被っていない姿が何処かの鏡にでも映ったりすると、何かが足らないような不審さを感じるものである。

 この一文を書こうと思ったのは、つい最近たまたま駅で出会った知人の女性が、その時の私の格好を気に入ってくれたのか、その後に会った機会に、その時の帽子姿を褒めてくれたので、嬉しくなって、つい帽子のことを書いておこうと思った次第である。