先般コロナ(Covid19)の感染が広がり、特別措置法まで出され、医療崩壊が心配された時、ICU等での人工呼吸器や人工肺(エクモ)などが不足がした場合に、それをどの患者に使用するのか、その選択をどういう基準で決めるかが問題となった。人命の選択を迫られることだけに、それに直面する医療従事者の精神的負担も大きい。
日本ではコロナの流行以来、その診断にPCR検査が制限され、基準が作られて、医師が必要と考えて、窓口とされた保健所の「帰国者接触者窓口」に申し込んでも断られることが多く、それが元で死亡例も出たと問題になったが、そんな中で橋下徹氏や某プロ野球選手、西村経済再生大臣が、該当する症状もないのにPCR検査を受け、有名人は別格なのかとの非難を浴びたことも参考にしなければならない。
当然人の命に関することは平等であるべきである。その平等であるべきことが守れないところに医療崩壊の問題があるのである。常識的に社会的な利益からすれば、将来の長い若者を優先して、先の短い老人を後回しにするのが良いということのなり易いが、多様な個人はまさにあらゆる面で多様である。コロナで予後の悪いのは断然高齢者であるが、高齢者こそすべてが多様で、考え方もより多様である。それを他人の判断で命を決めてしまって良いものであろうか難しい問題である。
人の命は天運によって決まるとしか言いようがないが、その中で決められるなら、自分の運命は自分で決めるべきであろう。CPCなどの救急治療は急を要するために、機械的に運ばれ、機械的に処理され勝ちであるが、救命医療を受けるかどうかは本来は自分が決めるべきものである。医療崩壊に際しての集中治療も本来は自分で決めるべきところを、それが不可能な場合にどうするかという問題である。担当する医療者の精神的負担は大きいのは当然である。
このような背景の下に、表題の「集中治療を譲る意思カード」というものが作られたのであろう。作ったのは64歳で、多発性の骨転移を来した前立腺癌の加療中の医師で、「新型コロナの治療で過度な負担がかかる医師らに、人工心肺装置エクモなどが足りないからといって治療をするかどうかを判断させるのはあまりに酷だ」と語っている。
この経過から見ても、このカードはあくまでも善意の下に作られたものであり、作者も述べているように「高齢者が切り捨てられる」といった批判があることは承知しているが、いざという時にどうして欲しいのか。先送りせず、考えるきっかけにして欲しい」と訴えている。
私の場合は、元から「Do notCPR(救急車を呼ぶな)」というプラカードまで作っており、今回のコロナに際しても、このカードを見る以前から集中治療を受けないことに決めているので、このカードの如何によらず、コロナに罹患してもエクモなどのお世話になりたくないが、一般の老人となると、選択は複雑となろう。
こういうカードは便利だからといって作られるべきものではない。いきなりこういうカードに遭遇させられた老人は、多くの人がどう選ぶべきか迷うのではなかろうか。殊に日本では、社会の同調圧力に弱い老人が多いのである。自分の身にかかる重大な決定でも、人から勧められれば、それに従っておいた方が良いのではと思う人が多く、結果として、老人が切り捨てられることが本当に起こってしまう恐れがあるのではなかろうか。
このカードはあくまで医療者側の要望から生じたもので、医療における人間関係で言えば、今では時代遅れとされる「父性的医療」に基づいていることになる。現在では一般医療でも「説明と同意」の時代である。あらかじめ十分な説明があり、本人が真に理解した上で、同意してカードにサインした場合には良いが、一旦カードが出来てそれが広く利用されるようになると、カードは多かれ少なかれ一人歩きし勝ちなのがこれまでの歴史である。
面倒で、しかも同意が取りにくい状況であろうことは十分理解できるが、やはりカードのサインさせるような安直な方法をとるのでなく、医療者側がいくら酷であっても、症例ごとに、個々の患者と十分に向き合って、十分「説明と同意」の上で判断して決めるべきことだと思う。それが医療のあるべき姿だと思うがどうであろうか。