”新弥生時代”の始まり

 日本人と一口に言っても、その実態は戦前の私が子供だった頃と今では随分違ってきてしまっている。

 外見だけからしても、戦前の日本人と比べると、今では背が高く、太っている人が多くなり、平均値が大きくなっただけでなく、人によるばらつきも、大きくなったのが特徴であろう。

 戦前なら、身長が160センチもあれば普通であったが、今では190センチを超える人も少なくなく、以前だったら、電車のドアに頭が使えるような人を見たら「高いなあ」と思わず声を出したくなるぐらい驚いたものだったが、最近はそれぐらいの人はいくらでもいて、驚くほどのことではない。女性でも、背丈が電車のドアにつかえるような人も見かける。

 身長だけでなく、体重もメタボと言われるような人が増えてきたし、それ程でなくても、中年の男性では殆どと言って良いぐらい小太りで腹が出ている人が多い。アメリカ人と変わらないような大柄で極端に肥えた人も見かける。

 体格だけでなく、顔貌も昔と変わってしまった。以前の日本人は目が細く、鼻が低く、もっとぺっちゃりした顔の人が多かったが、最近はそのような人を殆ど見かけなくなってしまった。鼻が高く彫りの深い人も増えた。老人でも深い皺を刻んだ顔をした人や、腰の曲がった人は少なくなってしまった。

 肉体だけでなく、文化も変わってしまったので、服装などもすっかり昔の面影がなくなってしまっている。以前は季節によって皆が同じようなものを着ていることが多かったが、今や人それぞれに自分の好みに応じた装いをしていると言っても良い。着物姿がごく少数しか見られなくなっただけでなく、色々な制服姿が減り、多彩な服装が見られるようになった。男が赤い服やシャツ、ズボンや靴などを身につけるなど、昔は考えられないことであった。

 そこに来て、最近もう一つ顕著になってきた風景は、外国人や外国人との混血の人が街中でも普通に見られるようになってきたことである。外国からの観光客が増えたこともあるが、それらの人たちを除いても、いわゆる”日本人離れ”した混血の日本人が増えている。厚生労働省の人口動態統計によっても、2017年に日本で生まれた子供の2%は親のどちらかが日本以外の国籍だそうである。

 現に、今度沖縄知事になった玉木氏も、テニスで優勝した大坂さんもそうだし、テレビなどに出てくる人たちの中にも混血の人も何人もいる。ましてや巷にも今や混血の日本人は珍しくもない。それだけ外見上の多様化も進んでいる。

 そこへ少子高齢化社会が進み、人口減少による人手不足とあれば、嫌でも外国人労働者を招き入れて助けて貰わないと、社会が回らなくなる。移民に消極的な日本政府も、外国人労働者を受け入れざるを得なくなっている。そうなると、嫌でも日本に定住する外国人が増え、その子や孫も日本人となり、彼らと日本人の混血も増えるであろう。

 当然、日本人と言ってもばらつきも大きくなり、それらの人たちを含んだ新しい多様な日本人が作られていくことになる。従来からの日本人を、外国人から区別して、日本人としたい単一民族国家の幻想にとらわれている人たちもいるが、もはや叶わぬ夢である。時代の趨勢を見ると、嫌でも応でも、近未来の日本人は今よりも雑多な起源の多様性の大きな集団になって行かざるを得ないであろう。

 これまでがむしろ、長い間の狭い島国の中での交流だけで純粋な大和民族だの、固有の文化などと言いながらも、一方では先行きのないガラパコス的な袋小路に次第に追い詰められつつあったのではなかろうか。伝統を重んじることも大事であるが、将来の発展を望めば、 国内の変化を促すとともに、外国からの移民や文化をむしろ積極的に取り入れるべきであろう。伝統は時に壊されてこそ生き延びるものである。

 民族の移動や混血は日本に限ったことではない。世界中で人々の交流が進み、混血が世界中で進んでいる。それによって新たな人類の進化が促進され、新たな世界が始まることになるのであろう。この世界の趨勢から取り残されてはならない。

 日本におけるこの文化の急激な変化や人口減少はむしろ変革を促すチャンスである。ヨーロッパなどでも見られるように、移民が多くなるにつれて、一時的には従来の住民との間の矛盾や軋轢などの起こる時期も来るであろうが、それを乗り越えて、多くの人たちを迎い入れ、同化して行くことによって、新たな日本人が形成されていくのではなかろうか。

 他民族の流入と混血、同化、外来文化の摂取による、生物学的ならびに文化的な多様性こそが将来の日本の発展の道であろう。縄文、弥生の移民時代のことを想起するべきであろう。今後は、この国にいわば”新たな弥生時代”がやって来て、大勢の外来者が移住して来て、多様性に富んだ新しい優れた日本人が出来ていくことを夢見たいものである。