回転性めまい

 一概に「めまい」といっても、人によっていろいろあるようだが、大きく分けて二つある。

 普通よく見られるのは、急に立ち上がった時などに感じるフラフラする感じ、頭の中から急に血が引いていくような感じといった、いわゆる立ちくらみや、あるいは、目の前が霞むような、あるいは真っ暗になるような感じ、気を失いそうな感じといった「めまい」で、英語でいうとdizzinessと言われるものに当たる。

 それと違って、もう一つの「めまい」のタイプは天井が回る感じ、周囲が回って立っていられない回転性の「めまい」で、こちらは英語ではVertigoと言われ、成り立ちも異なっている。

 普通によく見られるのははdizzinessの方で、これは誰でも立ちくらみなどで経験があるといっても良いぐらいのものであるが、vertigoの方は「回転性のめまい」というもので、珍しくもないが、dizzinessほど多いものではない。

 dizzinessは急に立ち上がった時などに多いことからもわかるように、脳へ行く血流が悪くなり、一時的な脳貧血のために脳の働きが落ちて、意識が薄らいだり、無くなったりするために起こるものであるが、vertigoの方は平衡感覚をつかさどる、耳の中にある三半規管や前庭神経の働きに関するもので、少し違った原因で起こるものである。

 私もdizzinessの方は経験があるのでどんなものか実感があるが、vertigoについては知識として知ってはいても、実際に体験したことはこれまでの九十年の生活の中でも一度もなかった。

 それがこの22日の朝、突然起こったのである。朝、目が覚めた時はもう空が明るくなりかけていた。5時頃だったのであろうか。いつもなら、もうその頃には女房の方が先に目を覚ましていて、部屋の明かりをつけたり、テレビのスイッチをひねったりしているはずなのに、その朝は何の動きもない。目を開けてみてもまだ夜のままで、静かである。

 夏の暑い頃は、女房は風の通りやすい北側の部屋で寝ているので、ひょっとして何か異変でもあってはと気になり、飛び起きて、女房の寝ている部屋の入り口まで行ったら女房はまだ寝ていた。いつもと反対に声をかけて起こしてみた。

 ところがその時、全く突然、薄暗い周辺が急に廻り出して、立っておれず、倒れるようにしてドアの外に崩れ落ちてしまった。瞬間はどうしようもない。しばらくじっとしていたが、周囲の世界がぐるぐる右から左へ廻り目を開けていられない。目を閉じると幾分マシだが、やはり暗黒の世界がぐるぐる廻る。

 しばらくうずくまったままじっとしており、少し落ち着いたかなというところで、這うようにして自分のベッドへ帰り横になった。それでも、目を開けると、やはり部屋の周辺がぐるぐる廻っている、テレビも床頭台のランプも廻っている。初めて見る光景である。そのうちに次第に回転速度が遅くなってきて、止まるような感じでやれやれと思って、目をつむり、じっと上を見て静かに横臥することにした。

 このような回転性のめまいというのは、全く突然の初めての経験だったから驚いた。まったく気持ちの悪い恐ろしいものである。何しろ自分が存在する空間が安定せず、ぐるぐる振り回されて、自分の存在の根拠を否定されるような感じで、それがこれでもかこれでもかと言わんばかりにいつまでも続くのである。まるで生きたまま存在を否定されているような感じさえする。

 目を瞑ってじっと寝ていると良いが、少し経って、もういいかなと思ってそっと目を開けて見ると、まだゆっくり周囲が廻っている。廻るといっても単純に周囲が回転するのではなく、例えば机の上のランプが次々現れて、幾つものランプが一斉に右から左へと廻り、目がくらくらする感じである。

 初めての経験なので興味を惹かれ、廻るランプの光を眺めていたが、少し気持ちが悪くなり、悪心を感じたので、また目を瞑った。そうしてじっとしていると良かったが、また起こるのではないかという恐怖から、しばらくはじっと動かないで寝ているよりなかった。

 じっとしていると、今度はどうしてこんなめまいが起こったのかが気になってくる。起きる前に足を高く上げて寝ていたのが、急に起き上がり、急いで立って歩き出したので調節が悪く、脳血流が急に減って起こったのであろうか。そう言えば2〜3日前に飛び起きた時にも一瞬ではあったが、軽いめまい感があったことを思い出した。

 それにしても回転性のめまいとはどうしてだろうか。これはこの間の頭の怪我と関係があるのだろうか。外部の怪我は良くなったが、頭部外傷後の硬膜下血腫ということもあるから、何か三半規管や前庭神経に関した障害か、炎症による脳の圧迫か何かの影響で起こったものか色々心配になる。

 回転性のめまいには発作性頭位性めまいといって、一定方向に頭を向けた時に起こるめまいがあり、これは良くあり、良性なものとされているので、寝たまま体の向きを色々変えてみて試してみたが、その時はどう変えてもめまいは起こらなかった。

 2〜3時間もじっと寝ていただろうか、時々目を開けてみたり、そっと半分起き上がってみたりしてみると、もう大丈夫のようであった。ゆっくり起き上がってみたがめまいはもう起こらなかったので、しばらくベッドに腰を下ろしたまま様子を見た。

 その後、恐る恐る手すりにつかまりながら、一段一段づつゆっくり階段を降りて、一階の食堂に行き、朝食用のパンをやっと昼に食べることができた。まだ不安は残っていたが、食事は普通に出来たし、新聞を読むことも出来た。それでもその日はまだ何か浮遊感のようなものがあり、また倒れるのではないかという不安感もあったので、なるべく横になって静養した。

 その後、夜も普通に眠れたし、トイレに起きた時も、恐る恐る起き出して行ったが何も変わりはなかった。こうして何とか落ち着いたようであったが、あくる朝、確かめてみると、臥たまま目を開けて周りを見ると、やはり少し周りの世界が動揺し、ゆっくりだが揺れて回っているようにも見える。

 心配して、しばらくしてゆっくり起き上がってから、徐々に日常生活に戻ったが、めまいはもう起こらなかった。ただ何か、浮遊感のような感じが消えなかったので、もう一日出来るだけ横になるようにして過ごした。 

 こうして、二日経ってようやく浮遊感のようなものも消え、次第にいつものように家に中で動けるようになり、普段の生活に戻ることが出来た。ただ、また起こる可能性は消えないし、先の頭部外傷との関係はもう少し時間をかけて見ていかないとわからない。

 今のところ、他に心配するような症状もないし、普通の生活を続けながら様子を見ていくより仕方がないと思っている。とんだ怪我がいつまでも後を引いているようだが、90歳という歳を考えれば、こんなのが普通の経過ということになるのかも知れないと考えている。