今年の1月5日、日本老年学会と日本老年医学会が高齢者の定義を「65歳以上」から「75歳以上」に引き上げることを提言したが、当然のことながら医学界のみにとどまらず、社会全体を巻き込んだ議論になっている。もちろんその理由は、年齢の引き上げが喫緊課題の社会保障制度の見直しに影響しかねないと受け止められたからであろう。
確かに私たちの年齢層の老人を見ると、昔の同じ年代の老人と比べると元気な人が多く、平均寿命も伸び、外見だけ見ても今の年齢の八掛けぐらいが昔の年齢に相応すると言っても良いぐらいである。
昔なら百歳と聞けば「へー」とびっくりするぐらい稀な存在であったが、最近では「うちの親父が百四歳で死んだ」とか、「母親が百何歳で老人ホームに入った」と言ったような話を日常会話でもよく耳にするようになっている。九十歳近くなった私のクラスメート達も昔と違ってまだかなりの者が健在である。
いつかこのブログにも書いたが、今一番元気な年齢層は65歳から75歳ぐらいの人たちではなかろうか。定年退職して仕事から解放されてストレスは減り、体はまだ元気だし、在職時代からの友人もまだ多く、退職金をもらって経済的にも少しはゆとりもあり、何にも増して自由な時間がある。連れ立って旅行や、ハイキングに出かけたり、趣味に没頭したりして、生活を楽しむゆとりがあるのがこの時期の人たちの特徴である。電車の中などで見かけても、これらの人たちは現役のサラリーマンとは全く違って生き生きとして目に輝きがある。
そう言った健康度のようなものだけから言えば確かに高齢者の定義を六十五歳から七十五歳に引き上げるのも一つの考え方かも知れない。しかし、老人になるほど個人個人のばらつきが若い時より大きくなるものである。六十五歳から七十五歳というと、今言ったように元気な老人が目につきやすいが、ガンや脳卒中、心筋梗塞、肺気腫などといった老人病が増えてくるのもこの時期であり、こう言う人たちは世間の表面には出てこないので目立たないが、病気や障害、健康面で劣る人も多いことにも注意すべきである。
高齢者の生物学的な定義を考慮する場合には、単に平均的な状態のみでなく、このばらつきの多くなる健康度をも考慮に入れなければ、弱者を切り捨てることになりかねない。何も平均的な健康度が良くなったからと行って高齢者の定義を引き上げる必要性はないのではなかろうか。
高齢者の定義と言ったものは生物学的な特質だけで決められるべきものでなく、極めて社会的なものである。これまででも六十五歳から七十五歳までを前期高齢者、それ以後を後期高齢者として分けて考えられてきた経緯からも、今ここで高齢者の定義を七十五歳に引き上げなければいけない必然性はないのではなかろうか
少子高齢化時代となり、高齢者に対する社会保障制度が経済的に行き詰まってきているこの時期に定義を変えれば政治的に利用されるのは目に見えていることである、勘ぐればむしろその筋からの社会的な働きかけがあって、学会がそれに合わせて高齢者の定義を変えたという政治的なものである可能性も否定できない。
新しい定義が利用されて社会保障制度が見直され改悪されることによって、相対的に若くても平均値より健康の劣る人たちが十分な社会保障を受けられなくなり、病弱で不自由な老人も仕方なしに無理やり働かなければならないことにもなりかねない。
以前にどこかでも書いたように、ようやくのことで定年を迎えやれやれと思う疲れ果てた老人が、まだまだ働けると不自由な体に鞭打たれて、無理やり働かされる時代がやってくると言う悪夢が現実のものになりかねない恐れも出てきかねない。
MedPeerという所が会員医師に聞いたアンケートの結果を見ると、「引き上げに賛成、社会保障も見直すべき」というのが約6割に上り、他の回答を大きく上回ったことも注目しておこう。医者や科学者はえてして自分の専門分野の中だけを見て判断しがちであるが、それが社会的にどう利用されるかについても関心を払うべきである。
学会の意向がどうであったにしろ、高齢者の定義を引き上げることが直接高齢者の社会保障制度の改悪に利用されることを学会としても理解して提言すべきであったと思う。