外国語は難しい

 アメリカ人である孫が来ていた時の話。母親が私の娘なので、大学生の孫も最近は少し日本語も勉強しているようで、以前より日本語もいくらかわかるようになってきた。

 英語と日本語のチャンポンのような会話の中で、何事かが話題になってそれが何年前のことだったか尋ねた時、「サンネン」前という返事なので三年前のことかと思って確かめたら、「サンネン」ではなく「センネン」だという。千年といえばthousand yearsだよと言い返すと、一所懸命に指で漢字を書く。わかりにくいので何かと聞くと先生の先だという。

 なるほど先年か。どこかで先年という言葉を覚え、過ぎ去った年の意味なので昨年のことと理解したものであろう。通常は先年といえば何年もたった以前の年を指すことが多いが、昨年のことを指すこともあり得るので間違いとは言えない。しかし日常の会話では普通は昨年のことを指しては使わない言葉である。

 こういったところが文化の違う外国語の難しいところであろう。言葉は文化に根ざすものであり流動的なものである。同じ言葉でも、時代により、地域により、また文脈によっても色々に使い分けられる。そういう微妙な使い分けとなると、日常それを使っている人にとっては何でもないことも、他所の人がそれを使おうとする時にはなかなか難しいことになるものである。

 何もこれは日本語に限ったことではなく、日本人にとっての外国語でも同じである。私も昔、部署の割り振りのような時にarrangeと同じようにaccommodateを使って、accommodateは普通宿泊のような時にしか使わないということを教えられたことがあった事を覚えている。

 またアメリカのいた時にある女性から「安物の毛皮はなぜか死んだ毛皮と言われるのです」と聞いてなぜかと思ったことがあるが、気がついたのは染めたというdyedと死んだというdiedが同じ発音だからということだった。こう言う思い違い、誤った記憶はどうしてもある程度は避けられないであろう。

 外国語が上達するにはやはりその言葉を話す現地へ行って間違いを恐れず実際に喋りその国の文化になれるよりないのではなかろうか。