初めてのアメリカ渡航

 1961年に初めてアメリカへ渡航した時のことを記しておこう。当時は敗戦からまだ十五、六年、安保反対闘争の直後で、高度成長も未だ始まりかけたかなという時代である。まだまだアメリカが大きく輝き、日本はまだ小さな貧しい三等国であった。

 1ドルが360円で、300ドルまでしか海外へ持ち出せない時代。アメリカへ行くのに、飛行機など高くて、船でしか行けない時代であった。それも豪華客船などは夢の話。北米から木材を輸入する貨物船で、おまけに客も乗せてやるといった貨客船で、横浜から出向してサンフランシスコへ向かった。

 当時はまだ日本人はJAPとも言われて蔑視されることもあり、日本からアメリカへ行く人も今ほど多くないので、私も横浜の港では、中国人と間違われ、アメリカの空港では「フィリッピンから来たのか」と言われた。そういう時代であった。

 飛行機と違って、船は大圏航路に沿って走り、アメリカまで11日かかった。毎日毎日、高いうねりの黒い海ばかりを眺めながら、殆ど一日中霧に包まれ、海と、船が切り開いていく波しか見えない。晴れた日はわずか一日ぐらいしかなかった。乗客も殆どが船酔いしながら、やっと辿り着いたという感じの航海であった。

 乗客は、アメリカ育ちで日本へ渡り、家庭を持ったが、夫は戦死、戦後は占領軍関係で働いていたが、それも無くなったので、アメリカの両親の元へ帰る二人の子供連れと、戦争花嫁なのか、アメリカ軍人の妻で、赤ん坊を見せに日本へ一時帰国した女性、それに私と同じようにアメリカへ留学する東大からの一家3人、計4家族の9名であった。

 連日の単調な日の連続の後だったので、やっとアメリカに辿り着いて、サンフランシスコへ入港する時の感激は今も忘れられない。先ずは、船長さんがもうすぐアメリカ大陸が見えるはずだと言って貸してくれた望遠鏡を見る。

 初めは何もわからなかったが、やがてぼんやりと陸地らしきものが見えてくる。それが時とともに大きくなり、はっきりと見えるようになって来る。しまいにはゴールデンゲートブリッジが見え、白い建物が並んでいる街が続いている。それが次第に大きくなっていく。船橋に一緒に立っていたパーサーの人が、「近付いて来たサンフランシスコの高層ビルが林立した街並みを見ると、いつも日本の墓場を思い出すのです」と言っていた言葉を何故か今でもよく覚えている。

 そのうちにやがてゴールデンゲートブリッジがどんどん大きくなって、とうとう船はその下をくぐり、サンフランシスコ湾に入っていく。長い単調な日の後だっただけに、この時の感激は忘れられない。よくもはるばるアメリカまでやってきたものだ。夢が目の前の現実になった感じで、思わず身震いするような気がした。

 サンフランシスコは今では飛行機で簡単に行けるが、ゴールデンゲートブリッジをくぐって下から見上げた人はそれほど多くはないのではなかろうか。随分不便な旅行であったが、今では忘れがたい若い日の思い出となっている。 

アビーコレクションの竹工芸名品展

 先日女房が留守なので、作ってくれていた昼飯を炬燵に持ち込んでテレビを見ながら食べていると、テレビが表記の展覧会の案内をしていた。何でも日本の竹の造形に魅了されたアメリカ人Diane and Arthur Abbeyが収集した竹を素材とした作品で、ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催されたJapanese Bamboo Art:The Abbey Collectionを再編成したものということであった。

 同じアートの中でも、繊細な工芸品に関する関心は絵画や彫刻ほどではないので、何となくテレビを見ていたら、竹製品とは思われないような細長い茶褐色の女性像を思わせるシルエットの作品の説明があり、どう見ても竹細工とは思えない素晴らしさに思わず画面に惹きつけられた。何処でやっているのかと思ったら、中之島の東洋陶磁美術館とわかったので、それならと思って、食事を済ませてから早速出かけてきた。

 美術館に入るなり、受付を兼ねた吹き抜けの空間を生かした巨大な竹のインスタレーションが目に付いた。二本の曲線を描いた大きな竹の筒が、地面ではお互いに絡み合い、上にいくにつれて離れ、二階の天井にまで達し、そこで天井一杯に広がるといった雄大な作品である。大阪の現代を代表する作家、田辺竹雲斎の作ということであった。

 入場券を買って階段を上がる。第一の部屋は現代の作家の作品を集めたようで、竹の軽やかな曲線を存分に生かして空間に飛び出すような作品や、地に這うような作品、或いは地を転がるようなものなど多彩で、それでいて軽やかなものも、きっぱりとしたものもあり、それぞれに竹による表現の多様性が発揮されていて面白い。

 次いで、階段のすぐ横の比較的広い部屋に入ると、そこにテレビで見た女性像を思わせる清楚な像があった。近くで見ても竹で出来ているとは思えない。極細な竹紐を組み合わせて作り、漆を載せているので、銅か何かの金属ででも作られている感じの外観。最上部は竹の節がそのまま使われた開口部で、細長い花入れになっており、女(ひと)と名付けられていた。細長い胴体部分は途中でわずかに婉曲し、壁に映った影が細っそりとした女性を思わせる素晴らしい作品であった。

 その他のものも素晴らしいものが多く、全てで75点だそうだが、竹を素材にして、こんなに色々出来るのかと驚かされる作品にあふれていた。竹で作ったトランク様の真四角な箱と硯箱、複雑な編み物の花器、長い柄のついた車に重厚な花器が載った作品など、どうしてこれが竹で出来ているのか不思議に思われるぐらい、竹の造形表現の幅の広さに感心し、その魅力に圧倒される催しであった。

 竹の造形といえば、竹籠や竹の花入ぐらいを思い出すぐらいのことであったが、竹の造形、表現の広さを改めて認識させられた1日であった。

 

徴兵検査

 現在、我が国には徴兵制度というものはない。しかし自衛隊があり、日米同盟があるので、やがて自衛隊が拡大された時には、再び徴兵制度が復活しないとは限らない。少子高齢化で兵役に適した若者が少ないので、自衛隊への応募者が必要数に満たないようになれば、お国のためにというプロパガンダとともに、徴兵制度復活が叫ばれるようになる恐れも大いにあるものと見ておくべきであろう。

 旧大日本帝国では、明治の初めから敗戦まで、すべての国民は満20歳になると徴兵検査を受けねばならず、その結果命令によって、一定期間兵役に服し、その後も一旦緩急があれば、応召の義務を負わされることになっていた。

 誰しも徴兵されて自分の仕事を中断され、しかも危険な目にあうのは嫌なので、何とかして逃れたいと思うのは人情であろう。そのため人々は色々な工夫をしたもののようである。今も覚えている色々な話がある。

 私が子供の頃、母方の親戚では、祖父母にあたる世代が、3人兄弟の筈なのに、3人とも苗字が違っているのが不思議でならなかったが、後から分かったことは、明治の初め徴兵制度が始まった頃に、戸主や家督相続人は兵役を免除されていたので、次男以下の息子を小作人などの家の名目上の家督相続人に仕立てて、兵役を逃れさせたために、それぞれ違った姓になったということであった。

 徴兵制度が始まったのは明治の初め頃であるが、当時はまだ家族制度が強く、家督の継続が重く見られていたので、徴兵制度でも戸主や長男は免除されることになっていたらしい。何とか徴兵を免れるために、子のない小作人などに頼んでそのようなことが行われてのであろう。家を継いでも、小作を継いだ訳ではなく、家だけ継いで実質はそれぞれに元の仕事を続けていたようである。

 いつだったか長女の家族と一緒の時にその話をしたら、長女の亭主がドイツ系のアメリカ人だが、ドイツでも同じようなことが行われていたそうで、所が変わっても、人間のすることは似たようなものだなと思ったものであった。

  また、徴兵検査を受けるにあったては、色々な工夫をした人がいた話もよく聞かされた。検査の前に大量の醤油を飲むと血圧が上がってとか、貧血とかで跳ねられるという噂が広く言われていたが、真偽の程は知らない。わざわざ怪我をして逃れようとした人さえいたようである。

 当時は結核が恐れられていたので、X線検査の時にそっと胸に銀紙を貼って、病気の影と思われて即刻帰郷とされたという話も聞いたことがある。たまたま風邪を引いていて、結核と間違われて徴兵を逃れた人もいた。

 また聴力検査ばかりは貴方任せの検査なので、聴こえてない振りをして検査を終えて不合格とされ、しめしめと思ったところで、そこにいる軍医がお前はそちらへ行けと口頭で行き先を指示するのでそちらへ行こうとしたら「貴様聞こえてるじゃないか」と嘘がバレて連れ戻されたという話も聞いた。軍医は困っている者を助けるためにではなく、嘘を見抜くために配置されていたのであった。

 いくら表では、天皇陛下のためとか、お国のためとか言っても、誰しも本心は出来れば避けたいのが兵役であったのには間違いない。伝手を頼っったり、お金で誤魔化そうとした人もいたし、理系の大学へ行ったり、医者になって、危険を避けようとした人も多かった。

 戦争末期には徴兵も厳しくなったが、軍医も不足したので、医学専門学校(医専)といって医師の短期養成コースが作られたので、私の中学校の同級生には何と医専に行った者の多かったことであろう。今は昔の徴兵検査であるが、二度と同じようなことにならないことを願うばかりである。

韓国映画「パラサイト 半地下の家族」

 韓国映画「パラサイト」が面白かった。2018年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞・パルムドールを取った是枝裕和監督の「万引き家族」と同様の社会の底辺で暮らす家族を取り上げた映画であるが、是枝監督も「『見ろ!』としか言えないし、『面白い!』としか言いようがないと絶賛する映画である。

 ポン・ジュノ監督のこの作品も昨年の第72回もカンヌ国際映画祭パルムドール賞を韓国人として初受賞している。昨年末から公開されていたようだが、正月休みに見に行った。映画館は世の嫌韓ムードなど、どこ吹く風で、満席だった。

 4人家族全員が失業中のキム一家は、スマホの電波も届きにくい不便な半地下住宅で暮らす。長男ギウが名門大に通う友人を介して、高台の大豪邸に住む超裕福なパク一家の家庭教師になったのをきっかけに、妹ギジョンを美術の教師としてもぐりこませることに成功し、次は……とキム一家は巧みにパク一家に“寄生”生活をしていく。最初のうちは笑っていられるが、後半はかなりえぐい韓国映画っぽくなっていく。

 日本の「万引き家族」と比べると、まるで漬物とキムチの違いのようで両国の文化の違いを象徴しているようで・興味深かった。

ピカドン

 ピカドンとはあの8月6日の、広島への原爆投下について、被害者たちが現実の経験に基づいて付けた名前である。

 私は当時、広島の南にある江田島海軍兵学校という海軍士官を要請する学校にいた。全寮制というより、入学してから卒業するまで、ずっとそこに住み込んで、勉強したり、訓練を受けたりする仕組みになっていた。

 原爆が投下された8月6日の午前8時15分は朝の自習時間で、分隊ごとに教室でそれぞれに勉強しているところであった。雲ひとつない夏の良い天気の日であったが、何の前触れもなく、突然ピカツと閃光が窓ガラス越しに部屋の中まで差し込み、一瞬教室の中が明るくなり、皆を驚かした。何事だろうと思っているうちに、しばらく間をおいて、今度はドカーンという強烈な音がして地響きがし、建物が揺れた感じがした。

 戦時中なので、当然爆撃だと思って、皆外へ飛び出した。そして空を見上げると、あの原子雲がもくもくと立ち上がっていくところであった。ピカドンとはこの閃光と爆発音をつないで、的確に原子爆弾投下を表した言葉なのである。

 それを見ても何事が起こったのか俄かには分からなかったが、これは今までの空襲などとは違って特別な事態だと言うことは分かった、そのうちに被害の状態などが伝わってくるとともに、教官たちは新型爆弾と言い出し、やがては原子爆弾ということも理解されて来たようであった。

当時は白い軍服はよく目立ち標的になりやすいというので国防色に染められたのであったが、 原爆の閃光から身を守るためと言って、わざわざ白い布の袋に目の部分だけ穴の開いた袋を作り、次に空襲があれば、それを被って逃げるようにとの指示が出された。

 しかしその後は空襲もなく、15日を迎へて敗戦となり、海軍兵学校も解散となった。元気な上級生の「お前たちは帰ったら最寄りの特攻基地へ行け!帝国海軍は最後まで戦うぞ」という勇ましい声もあったが、結局、8月20日過ぎには全員引き揚げることになり、カッターに乗り、2〜3隻ごとに曳航されて広島の宇品まで行き、そこで上陸して、広島の焼け跡を歩いて広島駅まで行った。

 宇品から広島駅まで、辺りはすっかり焼けて、何も残っていない。焼け野が原が比治山を背景にして何処までも続いていた。空襲を受けた他の都市の焼け跡と少し違って、燐の焼けるような変な匂いがしていたと思う。上半身裸で、背中が一面赤と白の斑点のようになった人が、二人肩を支えあう様にして、ヨタヨタと歩いて行くのに出くわした。

 原爆症で下血しているのを赤痢と思ったのか、焼け跡に残ったひん曲がった鉄棒に「赤痢が流行っている。生水飲むな!」と書かれて紙切れが括り付けられていた。敗戦をひしひしと感じながら、小一時間焼け跡を歩いて、広島駅に着いた。

 そこからあらかじめ用意されていた無蓋の貨車に乗って、夜に出発して、トンネルをいくつも通って、煤で真っ黒な顔になって、朝になって漸く大阪駅にたどり着いたのであった。広島駅では、大勢の人が貨車に乗せてくれと言って車にしがみついてきたが、係りの兵隊が皆を引き離して貨車が動き出したことも忘れられない。

 こうして広島の被害状況の詳しいことはまだ何も知らないまま帰ってきたが、広島の焼け跡を歩き回った間に、原爆による放射能も大分浴びたことであろう。後になって、歳の割に頭が早く禿げたので、「広島の原爆のためだ」とアメリカの知人に冗談を言ったら、本当にされて困ったことがあった。それはあくまで冗談で、私自身は特に原爆の直接の被害は受けなかったし、後遺症に悩まされることもなかった。

 しかし、原爆を体験した衝撃は後々まで残り、毎年夏に、空高く立ち上る入道雲を見る毎に、原爆の原子雲を思い出し嫌な気分にさせられたものである。原爆の思い出は、単にその被害だけではない。それは昭和5年の満州事変に始まる長年の軍国主義の時代、侵略戦争の最後の一ページに過ぎないのである。中国やその他のアジアの国々を含む多くの戦争犠牲者の霊を悼むとともに、再びこの国が誤った道を進み、あの悲惨な戦争を再び繰り返さないことを痛切に思うばかりである。

 

 

最後の海軍兵学校生徒

 先日アメリカから帰ってきた娘が、スマホで私の海軍兵学校生徒だった時の名簿を見せてくれたのにはびっくりした。

 もう75年前に消滅した旧海軍の士官養成の学校のことである。当時三千人からいた生徒の個人名簿が、現在もスマホで見られるとは夢にも思っていなかった。正しく学年別、分隊別に一覧表になっていた。

 懐かしさ半分、嫌な過去を垣間見る気持ち悪さが混ざったような気になって一瞥した。もう当時の仲間たちも同じ歳だから91歳になる。名簿を見ると、もう大抵死んでしまった者ばかり、消息不明者が後に残るだけである。

 自然と古い昔に引き込まれる。敗戦の1年ほど前、旧制中学の4年生だった私は、大日本帝国天皇制の神がかりな体制しか知らない忠実な「愛国者」だったので、国の為、天皇陛下の御為には命を投げ出してでも尽くさなければと心から願い、親には内緒で兵学校の入学試験を受験し、合格したのであった。

 父親は「お前が海軍へ行くようになったら日本もおしまいだな」と嘆いたが、当時の社会ではそれ以上のことは誰も言うことも、することも出来なかった。こうして翌1945年の4月に江田島へ行き、8月の敗戦までの約4ヶ月を海軍兵学校の最後の77期生として過ごした。

 と言っても、最下級生では未だ実戦的な訓練にまでは至らず、基礎的な学習や、カッターや水泳、陸戦の訓練、それに当時はもはや瀬戸内海でも安全ではなかったので、ごく短期間の乗艦実習ぐらいなもので、急速な戦況の悪化で、空襲に備えた校舎の間引きや、山腹の地下防空壕掘りに駆り出されたり、腸チフス事件があったりで、あまり兵学校としての本来の学習は出来なかった。

 もう遥かな昔のことで、思い出も断片的なものしかないが、いくつか当時の思い出を記しておこう。

 軍隊なので、全ては命令のもとに、一斉に迅速に正しく行動することになっており、あらゆる作業が時間通りに、分隊ごとの競争のもとに行われていた。一方、生徒たちは、全国から集められており、今より生活習慣や文化が都会と田舎や地方では違っていたし、体格の良い者から小さいひ弱な者までいたが、全て同じようにしなければならなかった。

 こういう規則を強要されると、人はよくそれに適応出来るもののようで、例えば、朝は起床ラッパとともに置き、起きたらすぐ校庭へ出て整列し、点呼を受けることになっていた。いくら疲れていても、5分前ぐらいには自然と目が覚め、身構えてラッパの鳴るのを待ち、鳴るやいなやパッと飛び起き、着替えて、寝具などを片づけ整頓して、急いで校庭に飛び出したものであった。私は体は小さかったが、敏捷さにおいては他人に負けず、大抵、一番か二番目ぐらいには校庭へ飛び出していたものであった。

 また、掃除や諸々の雑事も分隊ごとの競争でこなされていたが、私は我が分隊の仕上がり具合を見て、真っ先に報告に行く役割を引き受けていた。いつも私が報告に行くので、担当の一号生徒(最上級生徒)に「貴様の分隊はいつも貴様が報告に来ることになっているのか」と言われたことを覚えている。

 このように日常の立ち回りは、都会の要領の良いチビには良かったが、体力の差で一番困ったのはカッターの訓練であった。大きなカッターの座席に座って、自分の背丈よりも長い太いオールを皆に合わせて、いっせいに漕がねばならないのである。ここでは要領を効かせる余地はない。小さな男も大男に合わせて漕がなければならない。頭より上にあるオールを握って、体をそり返して手元に引っ張り、また戻す操作を際限なく休まず続けるのは一番骨の折れる仕事であり、皆に合わせるのに必死であった。

 こうした生活が続く中で、戦況はますます悪化し、「本土決戦」「最後の決戦」に備えてということが盛んに言われるようになり、訓練も海軍の訓練というより、陸戦の訓練が主になり、「第4匍匐」といって銃口を持って地面に這いつくばって前進したり、爆薬を想定した箱を抱えて戦車のキャタピラ目掛けて飛び込む訓練などもした。

 そのうちにアメリカ軍による空襲も始まり、7月末の空襲では防空壕から出てきて見ると、江田島の湾内にいた巡洋艦の「利根」も「大淀」も沈んでいたし、重油がないので動けないので島影に隠れたいた多くの軍艦も殆ど沈んでしまっていた。

 また大和級の戦艦になる予定が、航空母艦に変更された「天城」が艤装中だったが、アメリカの飛行機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」と書かれたビラを撒いていったこともあった。もう完全にバカにされていたようである。

 それでも当時は、神祐天助があり、神風が吹いて日本は勝つことになっていたので、本土決戦、最後の一戦などと言うのはおかしなことを言うものだ、論理的に日本が勝つなら、アメリカへ攻め込んでからではないかとも思ったが、現実はどう考えても勝ち目は無くなってきているのを感じないわけにはいかなかった。

 そうかと言って表面上は「鬼畜米英、撃ちてし止まん」で、負けるとは誰も口にすることは出来なかったので、結論としては「何とかなるだろう」という無責任な言葉よりなかったことも覚えている。

 そして、やがて広島の原子爆弾投下、8月15日に敗戦、兵学校も解散となり、8月末には広島の焼け跡を通って汽車で大阪へ戻って来たが、原爆以後のことについては長くなるので、改めて書くことにしたい。4分の3世紀前の戦争の記憶は断片的になってはいても、未だに鮮明に残っている。あの歪んだ世の中だけには決して戻ってはいけない。

ファシズムの初期症候

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 SNSに上のような、元政治学者ローレンス・ブリット氏という人が書いた「14のファシズムの初期徴候」という箇条書きが載っていた。元々同氏が2003年に書いた記事が元のようで、米国のワシントンのホロコースト記念博物館に掲示されているものだそうである。

 SNSにこれを載せた人も、そう思ったから載せたのであろうが、今の安倍政権のやり方にあまりにもそっくりなのに驚かされる。最近世相が次第に戦前に似て来たのを肌で感じているが、これに照らし合わせてみると、この国はまたあの破滅に向かって走り出そうとしているのかと戦慄を感じざるを得ない。

 街には強情なナショナリズムの右翼の宣伝カーががなりたてて走っているし、靖国神社に国会議員が大挙して参拝に行く。閣僚の大半が右翼の日本会議のメンバーであることなどはあからさまな事実である。

 人権の軽視は、沖縄の再三の反対する民意を全く無視した辺野古埋め立てや、街頭演説にやじを飛ばしただけで警官に排除された事実があちこちで見られたことや、「あいちトリエンナーレ」での一方的な補助金交付の取り止め、さらには「桜を見る会」などの国会追求などで、政府が全く答えないで隠蔽を図るなど、国民の人権を無視した行為は挙げればきりがない。

 軍事優先も最近ますます露骨になってきた。自衛隊の増強だけでなく、中露、韓国、北朝鮮などを敵視して愛国を煽り、軍事優先でアメリカの言うなりに過剰な武器を買い、先島に自衛隊の基地を作り、イージスアショアを建設するなど、民政を無視した軍備の増強が止まらない。

 性差別は今も横行し、世界の進歩にも遥かに遅れ、性的被害も未だに男性優位のまま放置されている。報道機関のトップが政府に買収され、メディアの放送はますます偏り、政府の報道伝達機関になり下がった感さえある。

 一方で、国民への監視機構はますます進み、何か事件が起これば必ず街頭の監視カメラの映像が出てくる時代になっており、法的にも安保法などによって、戦前の治安維持法に似た制度が既にに作られており、いつでもその適応を広げられるようになっている。

 宗教と政治の関係については、政府の閣僚の大半が神道連盟のメンバーであることだけでも十分であろう。靖国神社参拝も、外国の反発を考えながら執拗に続けられている。天皇の政治的利用も次第に強くなって来ている。

 企業の保護や労働者の抑圧については、大企業に対する減税、企業に有利な種々の法律、益々ひどくなる労働条件、低賃金に、過重労働など、実態を見れば詳しい説明さえ必要でない。

 また、学問と芸術の軽視は大学の法人化、予算の減額、「あいちトリエンナーレ」で見るような政府の一方的な補助金の削減、表現に自由の抑圧を見れば明らかであろう。

 犯罪の厳罰化への執着は、世界の趨勢に反しての死刑の継続が見られるし、入局管理局による不法移民に対する非道とも言える取り扱いは人道上も問題である。

 更には、身びいきの横行と腐敗は、今まさに問題となっている「桜を見る会」の成り行きを見るだけで、誰の目にも安倍内閣のやっていることがよくわかる。官邸への権力の集中、それによる過剰な官僚の忖度で、政治は大きく曲げられている。

 不正な選挙では、選挙制度自体が小選挙制度自民党に有利になっており、棄権する人が多いことが政権を支えているが、それでも選挙違反で問題になる自民党議員は後を絶たない。

 こう見てくると、まさにここに書かれている通りなのが現情で、今や日本はファシズムの初期症状が出ている真っ最中だということが言えるのではなかろうか。一人でも多くの人がこれを敏感に感じ取り、ここらでこの傾向に歯止めをかけないと、この先どうなることか。これ以上進めば、もはや誰にも止められず、戦前の日本同様に、また破滅の淵まで行ってしまう恐れ十分である。

 何とかならないものだろうか。