危機を煽って金儲け

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 北朝鮮が核開発や弾道ミサイルの打ち上げを行なって、アメリカを自分たちに有利な交渉の席に着かせようとして、一気に東アジアの緊張が高まっているが、今のところ戦争を望む者はおらず、アメリカ政府も言っているように交渉で解決しようとしていることは明らかである。

 北朝鮮イラク戦争などの経験から、自衛のために核やミサイルを持つことを目指しているが、実際の現在の段階でこれを使えば自国が壊滅させられることも知っており、アメリカも東アジアで今の時点で戦争の起こす可能性は低い。

 日本や韓国にいるアメリカ人も普段通りだし、韓国がが平静なことを見ても分かるであろう。むしろ、アメリカやそれに乗せられた日本がこの機会に便乗して、今にでもミサイルが日本に飛んでくるぞとばかりに、必要以上に危機を煽り立ててそれを利用しようとしている方が目につく。

 日本ではミサイルが飛んできたらどうするかと行って、アラーム警報を鳴らし、住民の退避訓練が行われた所まである。それもミサイルが飛んできたら体を低くして頭を抑えろだとか、バケツリレーで火を消せだとか、およそ時代遅れの対応を勧めているに過ぎない。

 そんなことで国民を騙せると思っているわけでもないであろうが、そんなことより狙いはこの機会を利用しての軍備増強である。来年度の予算で防衛省は過去最大の5兆2500億円を要求することになったと新聞は報じている。ステルス戦闘機36機、オスプレイ17機、無人偵察機グローバルホーク3機、イージス・アショア一1基とか言われている。

 兵器と言われるものの値段があってないようなもので、上記のうちグローバルホークは値段が25%程つり上り、さらに今後もっと上がる可能性があるからと言って躊躇されているとか報じられている。

 これで一番儲けるのはアメリカの軍需産業である。トランプ大統領のバイアメリカ政策にとっては願ってもない機会であり、相手である。兵器ほど高額の消耗品で、使わなくともすぐに時代遅れで更新しなければならない物はない。

 アメリカの言うままに高額の出費をしてアメリカ軍の補填用の武器をたくさん買うぐらいなら、もう少し高齢者の年金や医療保険少子化対策、貧困対策、その他国民経済のために緊急を要する問題も山積しているのだから、そちらの方に、お金を回して欲しいものである。

 それまでしてアメリカに尽くしても、いざ有事の際にアメリカがどこまで日本を守ってくれるか甚だ疑問である。アメリカにとっては日本が利用価値がある間は、日本をとことん利用すれであろうが、不利になれば自己の大きな犠牲を払ってまで日本を守るはずはない。

 今朝の新聞を見ても、元の自衛隊の幹部も日本を守るのは日本であり、日米同盟でアメリカの果たす役割は、日本が攻撃された時、敵国に反撃するのがアメリカの役割だといい、尖閣諸島防衛などににアメリカが出動するようなことは考えられないと言っている。

  アメリカとの友好関係を反故にする必要は更々ないが、徐々に真に独立した日本を考えていくべき時がきているのではなかろうか。

国はいつでも国民を守ってくれるか

 最近の朝日新聞に戦争孤児のことが載っていた。もう今の若い人にはわからないだろうが、敗戦後何年間かは東京でも大阪でも周囲が焼け野が原だった大きな駅の近くには闇市が出来、闇屋や買い物客に混じって、浮浪者や傷痍軍人、娼婦が欠かせない存在であった。

 殆どの国民が飢え、その日暮らしであったが、戦争によって傷付き、不具になった人や、家族を失った人、親を失った子供たちさえも誰も助けてくれないので、人の集まるところに群がって、人に物をせびったり、盗みを働いてでも、なんとか生きる道を探すよりなかった。

 敗戦後の国にはこれらの人々を助ける余力もなく、多くのこうした人々は自力では生きられず、多くに人たちは次々に亡くなっていった。周囲の人たちも自分が生きることに精一杯の時には、周りの人たちを助ける余裕もないので、こういった弱者はむしろ忌み嫌われ、排斥さえされていったことも忘れられない。

 上野駅の地下道などに屯していた浮浪児たちを当時の言葉で「狩り込み」といって一斉に捉え、トラックの荷台に乗せて、そのまま夜の山奥に捨てたといったことまであった。

 これらの人々は決して怠惰であったわけではなく、殆どの人は普通の善良な国民であった。それどころか国のために戦って傷ついた人であったり、戦災で家を焼かれ家財を全て失った人たちであるとか、夫の戦死で戦争中は「誉の家」として表彰されていたのが敗戦で打ち捨てられた人、あるいは学童疎開している間に都市の空襲で親も家族も亡くしてしまって孤児になってしまった子供達などであったのである。

 当時の世論では皆が戦争の犠牲になったのだから仕方がないとする声も強かったが、戦争による被害の性質や程度は人それぞれであった。戦争中は「一億一心」だの「忠君愛国」と言い、「挙国一致」が叫ばれたが、国が敗れれば全てがおじゃん。世の中の秩序も失われ、誰も助けてはくれなかった。

 政府や為政者たちは敗戦の交渉時にも、戦後においても天皇制を守ること、天皇の責任を回避することには最大限の努力はしても、自分たちの生き残りに汲々として、国民の窮乏を救う努力は二の次で、殆ど放棄されていたと言っても良い。占領軍に媚び、かろうじて治安を維持していくのに精一杯であった。

 どこからの助けもない一般の人たちは、敗戦後の混乱した無政府状態では、人々は勝手に生きるよりなかった。強い者は生きれても、弱い者は生きられない惨めな世の中であった。そういう時代には、モラルは低下し、弱肉強食となり、占領軍に媚を売ったり、隠匿物資を着服したり、裏社会で権力者と結びついて、大衆の犠牲の上に生き延びた一部の人たちもいた。

 戦争に負け、外国軍隊に占領され、社会が崩壊したこういう時代の社会が如何に惨めで、政府も国民を救ってくれず、如何に多くの人が飢えや窮乏のために亡くなっていったことか。亡くならなくてもこの戦争や敗戦によってすっかり運命を変えられてしまった人たちの多かった事実も忘れてはならない。

 

戦前の移民政策

 私の子供の頃は日本の人口は7千万人だと教えられていた。朝鮮半島や台湾の植民地の人口を加えて1億人ということであった。それでもよく聞かされたのは「こんな小さな国土にこんな大勢の人を養って行ける訳はないだろう。」ということだった。

 そんな言葉に乗せられて始まったのが、南米への移民政策であった。その頃の日本の農村は貧しく、「働けど貧しくじっと手を見る」状態で、移民をして新天地を開拓しなければ、というキャッチフレーズで貧しい農民たちを勧誘して、国策として移民政策を進めたのであった。その頃の国の経済の収支バランスは例年少し赤字であり、それを出稼ぎ労働者からの海外からの送金で何とか辻褄を合わせるような状態であったことも関係があったのかも知れない。

 昭和の初めは凶作が続き、貧しい農家などは新天地開拓という国策に乗せられて大勢の人が遠く南米まで移民することになったようである。ところが政府の援助は移民を送り出すところまでで、その後は自己責任で保護はなく、初めての知らぬ異国で移民たちは随分苦労させられたようである。しくじって帰ってきた人もいたが、多くの人たちは残るも地獄、帰るも地獄で、そのまま前向きに我慢するよりなかったらしい。

 その後、昭和ももう少し進み満州に傀儡国家が出来、ここを日本が支配するようになると、今度は満州こそ日本の生命線と言われるようになり、王道楽土のキャッチフレーズも加わり、満蒙開拓団が貧しい農村を軸に組み立てられ、村ごとの所もあるぐらい、国策として大規模な移民が奨励され、送り出された。

  ところが、大々的な宣伝に乗せられ希望を持って送り出された彼らの運命は、あの戦争の結末によってこれ以上のない悲惨なものになってしまったのはご承知のとおりである。この時も国は彼らを助けなかったのである。

 精鋭を誇った関東軍も戦争末期にはほとんどが南方戦線へ転進し、満州には補充部隊のような戦力しかなく、ソ連の参戦とともに、軍の幹部は一般人を捨て置いていち早く内地に逃げ、残された人々は誰にも保護されることなく放置され、過酷な経験を強いられ、多くの犠牲者を出し、日本まで引き上げることの出来た人はごく限られて人たちだけとなったと言われる。

 いづれの場合を見ても、国はその時その時の国の方針によって国民に勧め国民を利用するが、事態が変われば、決していつまでも面倒を見てくれるものではない。政策が変われば、その時の政府に都合の良いように扱われることになり、最悪の場合にはすっかり捨てられることにもなることが分かる。

 満蒙開拓団の場合など、うまくいけば日本の生命線である王道楽土の満州の建設者として褒め称えられるべきであったのであろうが、現実に起こった結末は命さえ保障されずに敵地に放り出される運命であったのである。

 国家は都合が悪くなれば、一部の国民を見殺しにして顧みないこともあることの歴史的証査ともいえるのではなかろうか。

 

ふたつのフィリッピン映画

 最近、偶然フィリッピンの映画を二本立て続けに見た。

 一つはMa Rosa(邦題:ローサは密告された)というフィリッピンの監督、ブリランテ・メンドーサの作で主役の女性はカンヌ国際映画祭で主演女優賞をもらっている。

 もう一つはBlanka(邦題:ブランカとギター弾き)。こちらは監督は日本の新人監督の長谷井宏紀氏。ヴェネツィアビエンナーレヴェネツィア国際映画祭の全額出資を得て作られ、ヴェネツィア国際映画祭他で多くの賞を得ている作品である。

 両作品とも、マニラの貧民窟で逞しく生きる人々を描いたもので、ギター弾きは本物の流しの盲目の人で、他の出演者もほとんどがスモーキーマウンテンあたりで監督が見出した素人ばかりということだった。

 どちらもなかなかの力作で見応えがあったが、Ma Rosaの方は貧民窟で小さな雑貨店を営むが、麻薬も扱っており、警官に踏み込まれて夫婦が逮捕される。ところが警察も腐敗していて、常習的に金を積んだら釈放するという裏取引を持ちかけるような所なのである。

 親が逮捕されたのを知った息子や娘が警察署にやって来て、親から金を要求されていることを聞き、それぞれ子がそれぞれに無理をして金を算段するが、集めても要求額に少し足りない。最後にその分を母親のRosaが任せろとばかりに質屋に行ってケイタイを売って、用立ててくるストーリであるが、 Rosaの演技が素晴らしい。 

 最後の串刺しの饅頭(?)を一つづつ食べながら街を眺める彼女の逞しい表情にはこちらもついホロリとさせられるものがあった。

 マニラの貧民窟やそこで暮らす人々の様子、腐敗した警察内部のまるでヤクザのような裏事情などもよく描かれており、私には日本の戦後の闇市なども思い出されたし、マニラの貧民窟の様子もいくらかわかるような気がした。

 なかなか力強い作品で、最近見た映画の中では一番印象深いのではないかと思われた。

 一方、Blankaの方も主演の11歳の少女の演技も歌も立派だったが、監督が見つけてきた子供たちの演技も素晴らしく、全体としてもなかなかよく出来た作品に仕上がっていた。

 この映画がヴェネチアで映画賞を貰った3日後にこのギター弾きが亡くなったと出ていたのも印象的だった。

 こちらもマニラの貧民窟での孤児たちの逞しい生き方をうまく描いており、それでいて少女の母を買おうとする発想や、盲目のギター弾きとの友情など印象に残る場面も多かったが、MaRosaに比べると、見方が第三者的で、ストーリーももう少し整理した方が良かったのではなかろうかと感じた。

 現在のフィリッピンの経済状態がどうなのか、その中でマニラの貧民窟の現状などがどうなのか、フィリッピン映画の現状がどうなのかについて詳しい知識はないが、人々はどんな厳しい条件に置かれてもそれなりに工夫して逞しく生きるものだなと考えさせられた。

 今の日本と照らし合わせても、両作品ともに見て良かったというのが今の感想である。

軍隊は国民を守るためのものではない

 私の子供の頃には「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです、お国のために戦った兵隊さんのおかげです」という歌があり、まともに軍隊はいつも国民を守ってくれるものだと思っていました。

 今でも自衛隊は災害時などでは真っ先に人々の救助に当たったりして被災者らに感謝されており、それらを見て、多くの人たちは国民が困った時には自衛隊が助けに来てくれるのではないかと期待しているようです。

 それだけに国民は困った時には必ず自衛隊が助けてくれるであろうと期待するのは当然のことかも知れません。万一何処かの国が日本に攻めてくるようなことがあれば、自衛隊が国民を守るために戦ってくれるであろうと考えるのが普通でしょう。

 しかし、自衛隊にしても、軍隊にしても、外国が攻めてくれば、国を守るために戦いますが、それは国家権力を守るためであって、国民を守るのはそれに付随した行為に過ぎないのです。軍隊は国家の組織であって、国民を守るための組織ではありません。国家の権力と国民とは違うことを知るべきです。

 もちろん、大日本帝国の軍隊では、隊員に対して天皇や国家への忠誠を誓わせても、国民を守ることについては教えませんでしたし、おそらく自衛隊にしても同じようなものではないでしょうか。

 あの戦争の時を思い出してください。沖縄戦の時には軍隊は自分らが戦うために都合が悪ければ、せっかく退避している住民を壕から追い出したり、自殺を強要したり、泣き声が邪魔になると言って赤子を殺したりもしました。

 終戦間際の旧満州ではソ連が攻めてくると、高級将校たちは住民を捨ておき早々と内地に逃げ帰り、そのため残された住民は塗炭の苦しみに遭わされました。サイパン島では多くの一般人が追い詰められて島の端の断崖から海に飛び込んで亡くなりました。そのほかにも多くの例があるでしょうが、負け戦の軍隊は国民を守るどころではありませんでした。

 これらは負け戦だったから仕方がなかったと言えるかも知れないとしても、勝ち戦であろうが、軍隊が戦うのに邪魔となれば一般のの国民はそこから排除されることになります。

 戦争中のことでなくても、戦後にソ連が攻めて来た場合を想定した北海道での自衛隊の机上演習の時も、札幌は人口が密集しているので、守るのは困難なので一旦周辺の山地に撤退して反撃するという案が採用されたそうです。

 また軍隊は国民の政府に対する反対を抑圧する手段としても使われます。警察の対応では制御が困難になった時に軍隊を動員して民衆を抑圧するのは、世界中で見られる政府の対応の仕方です。日本でも安保闘争が激しくなった時に、実際に自衛隊を動員する案が浮上していたと中曽根元首相が書いています。

 これらから見ても軍隊が国家の暴力機関であって、国民を守るためのものではないことがわかるでしょう。

 その上、今の日本では国家権力を守るべき自衛隊地位協定によってアメリカの実質的な指揮下にあり、アメリカ軍の許可がなければ日本の国家権力を守ることすらできない仕組みになっていることも忘れてはならないでしょう。

 当然自衛隊はアメリカが許可し、日本の国家権力がそれを望む時に限って、国民を守るために働くことが出来るということです。災害時の自衛隊はその範囲で被災者のために働いているのです。

 国と国民は異なるもので、国民が何よりも守りたいものは国家権力より先に、自分たち家族であり、財産であり、故郷としての国ではないでしょうか。

敗戦の日に

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 1945年8月15日は私の少年時代のあの長かった戦争が敗戦で終わった日である。もう72年も前のことになるが、未だに昨日のことのようにさえ思われる。

 この写真は「焼き場に立つ少年」という有名な写真で、戦争直後にアメリカの従軍記者が撮ったもので、委細は知らないが、すでに死んだ幼児を背負って、親か家族かわからないが、親密だった人が荼毘に付されるのを、直立不動の姿勢で、唇を噛み締めながら必死に悲しみに耐えて、眺めているところである。

 この写真は戦後に取られたものであろうが、この姿は戦争末期の少年たちの姿を象徴しているようで、似た世代の私には特に強く訴えてくるものがあり、忘れられない。

 敗戦間際になってくると、アメリカの飛行機は我が物顔で上空を飛び回るし、こちらの軍艦は皆沈められてしまって醜態を晒しているし、日本国中都会と言われるところは殆ど皆空襲で焼け野が原になり、沖縄まで占領され、広島、長崎の原爆投下も加わって、殆ど国民生活が成り立たないまでに追い詰められてしまっていた。

 いくら大本営発表で戦果が唱えられても、、ここまで来ては、誰の目にも戦いの帰趨は明らかであった。ラジオでも本土決戦、最後の決戦、一億火の玉、敵を本土の引きつけて一挙にやっつけるのだといっても、もはや誰も信じられない。

 しかし、大日本帝国に純粋培養されたようなもので、他の世界を全く知らない少年にとっては、天皇の国が負けるという考えは選択肢になかった。おかしなことをいうものだ。最後の決戦ならアメリカに攻めていってからのことではないか。もはやどう見ても勝つ見込みは見当たらないが、神州は不滅、負けるはずがない。そうかと言って神風が吹く可能性もない。結論としては「どうにかなるだろう」としか言いようがなかったことを覚えている。

 それでも、海軍兵学校の生徒として、「天皇陛下の御為には死を賭して与えられるであろう任務を果たさなければならない」と心から思っていた。その時の思いが上の写真の少年の姿に共通しているところがあるように思えてならない。極度に追い詰められてもなおじっと我慢して頑張り抜こうとしていたのであろう。

 この少年がその後どうしたのかは知らない。私の場合、その気持ちが消えていったのはいつだっただろうか。敗戦の報を聞いてもなお残念無念、「帝国海軍は最後まで戦うぞ。貴様たちは帰ったら最寄りの特攻基地へ行け」という上級生の声にも半ば同調していた。 

 しかし、敗戦の事実は変わらない。事実として次第に受け入れて行かざるを得なかった。ただ、本当に敗戦を身を以て感じ、自分のそれまでの精神的な支えが崩れていったのはもう少し先になってからである。復員して大阪に戻り、荒れ果て疲弊した町や近郊を見てからであった。

「国破れて山河あり」とつくづく思いながら、人々の行動や世の中の価値観の急変振りをみて、自分の中のすべてのものがまるで建物が崩壊するように崩れ落ち、虚無の世界へ突き落とされていくのを感じた。

 私にとっての敗戦は単にこの国が戦争に負けたというだけではなかった。それまでの自分の生存の根幹が全て奪われ、無くなってしまったのであった。神も仏も救ってはくれなかった。信じられるものは何もなくなった。

 どうせ人類も何千年先かは分からないが、いずれは滅びるものだ。どう転んでも大して変わりはないのではないか。どんな努力も所詮は無駄だというような自暴自棄のニヒリズムに陥り、あてどもなく闇市や焼け跡をふらつくこととなった。寂しい顔をしていたのであろうか、友人に孤児と間違えられたこともあった。

 自殺を考えたこともあった。当時は多くの若者が暴走したり、薬物中毒になったりし、自殺も稀ではなかった。ひょっとして途中で後悔するかもという微かな希望が自殺から救ってくれたのかも知れない。しかし希望もなく、何の努力をしようという意欲もなく、ただ呆然と生きているといった状態が長く続いていたような気がする。今で言えばPTSDといったところであろうか。

 こうした戦後の虚脱状態から立ち直るのには数年以上もかかったような気がする。同年代の人でも敗戦による衝撃の大きさはかなり違ったようで、敗戦をすぐに喜べた人もいるし、そうでなくても社会の変化にうまく適応して行けた人もいる。

 しかし精神的な発達が奥手で、表の大日本帝国しか知らなかった私は敗戦を契機にした百八十度の世の中の価値観の変動に戸惑い、新たな社会の変化に適応するのに時間がかかったようである。

 敗戦を契機に昨日まで熱烈に忠君愛国と言っていた人が急に民主主義を唱え、為政者の無能を批判して、自己の利益だけを追い、占領軍に媚びを売るなど、周りの人々の豹変ぶりに無性に腹が立ち、時代に背を向けていた時期も続いた。

 その傷はその後も完全に消えることなく続き、これまでの人生にもあちこちで影響して来たのではなかろうか。未だに何処かにニヒリズムの痕跡を残しているような気がしてならない。

 これが私にとっての敗戦であった。もうこんな経験を次の世代の人たちにして貰いたくない。戦争はするべきでないし、若い人たちには広く世界に開かれた知識や判断を養う教育をして欲しいものである。

 

「おはよう」の押し売り

 他のところでも書いたように、私はここ十年ばかり、月に一度は女房と一緒に箕面の滝まで歩くようにしている。阪急の箕面駅から滝まで往復5.8キロ、渓流沿いの道で、春は新緑、秋は紅葉を愛でながら行き、滝を眺めて帰って来るととても気持ちが良い。

 たいてい箕面線の一番電車で行くが、地元の人が多いので、こちらが行く頃には早くも降りてくる人もいる。最近では走っている人も増えたようだし、滝の上にある政の茶屋にサイクリングのチェックポイントがあるので、自転車で上がって行く人もいる。

 最近は減ったが、猿の群れに遇うこともあるし、山の上に鹿がいるのを見ることが出来ることもある。何の鳥か、遠方の枝に止まった鳥を望遠レンズで観察している人がいたりもする。

 大抵は一番電車が箕面駅に着くのが5時10分頃なので、そこから出発して滝まで往復して6時14分の電車に間に合うように降りてくるので、かなりの速度で登り降りしていることになる。

 年をとるごとに次第に歩く速度は落ちてはいるが、まだまだ連れ立って登っているような人達を何組か追い越して行くことになる。朝の山道はさっさと歩いた方が気持ちが良い。森の緑や谷川のせせらぎの音、鳥の鳴き声など自然に包まれて歩ける幸せさえ感じる。

 その上人知れぬ深山と違い、所々で人に出会うのもよい。山道などは一人で歩くのも悪くはないが、少しは人気があって、出会う度ごとに人懐っこくお互いに挨拶を交わすのもまた楽しい。いつからか、出会った人には必ず誰にでも「おはようございます」と挨拶をすることに決めている。

 大抵は向こうからも「おはようございます」と返事が返ってきて、こちらも気分が良くなるものであるが、世の中には色々な人がいることもわかる。すぐに喜んだ声が返って来ることもあるが、中には仕方がなさそうに返事をする人もいる。「おす」とか何とか口籠もったまま通り過ぎる人もいる。

 だいたい女の人は挨拶は返さなければと思う人が多く、返事をされるのが普通だが、若い男性では、日頃から挨拶に慣れていない人もいるのか、挨拶をしても黙って通り過ぎる人もいる。人によっては、道ですれ違った人にいちいち挨拶するのを煩わしく思う人もいるのではなかろうか。

 返事はいろいろだが、こちらは滝道の公園の範囲内では、走っている人や自転車の人は別として、滝に向かって登り降り、歩いている人には、すべての人に例外なく「おはようございます」と挨拶の言葉をかけることにしている。挨拶することによってこちらの心も解放されるので、自分のためにしているのである。

 あまり律儀に声をかけるので、女房に「挨拶の押し売り」だと言われたこともあるが、「おはようございます」と言われて怒る人もいないだろうし、声を出すことがこちらにとっても気持ちが良いので止められない。

 アメリカから来た孫たちも、一緒に滝まで行ったことがあるが、おはようはOHIOと同じと言ったらすぐに覚え、一緒におはようございますと挨拶していたことがあった。

 朝早くの滝道は何回行っても気持ちの良いものである。遠方にお住まいでなければ、是非一度早起きをして試して見られてはどうだろうか。