こんな人に政治を任せている日本人

「九十歳になっても老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけれど、おい、いつまで生きているつもりなんだよと思った」

 アベノミクスの失敗でますますなけなしの金を大事にして財布の紐を固くしている老人に言っているのである。ひどいことを言う人だなと思ったが、この人は以前からいろいろと、問題になるような発言をしているのである。

「死にたいと思っても生かされたんじゃ敵わない。政府の金でやってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるよに・・・」

と老人の終末医療費についても文句を言い、

「喰いたいだけ喰って、飲みたいだけ飲んで糖尿病になって病院に入っているやつの医療費は俺たちが払っている。無性に腹が立つ」とも。

 まるで病人が好きで病気になったようなことを言いながら、自分は好きなように酒を飲んでいるのであろう。こんな発言をしたのが誰かはすぐに見当がつくであろう。

 こんなことならまだ許せるとしても、本音はもっと恐い。

「ヨーロッパで一番進んでいたワイマール憲法がいつの間にか変わっていた。(ヒトラーの)あの手法を学んだらどうかね」

 

 1930年代の米国の経済不況について「(当時の米国は)いかにしてそれを解決したか?・・・戦争です」とも言っている。

 こう言った政治家の発言はは普通失言として扱われるが、普通にリラックスした時に気軽に口から出てくるような言葉の中にこそ本人が日頃考えていること、思っていることが自然に出てくるもので、本心を表しているものと考えたらよいことが多い。もちろん気軽な時も用心して自分の本心を決して表さないようにしている口の硬い政治家も多い。

 最近、政府がこの独裁者ヒトラーの「我が闘争」という本を教育に使っても良いという閣議決定をわざわざしたたことをみれば、こういう言葉もますます単なる軽口として見過ごすわけにはいかない。

  このような場面を見ていると、こんな人が副首相の国はどうなるのだろうかと恐ろしくなってくる。やがてはヒトラーの大衆扇動術も真似したらと言いかねない。

 

追記: この人はその後も国会の答弁でも思慮の欠けた発言を繰り返している。

 社会保障費の増大に関しては、原因である政策の貧弱さを棚に上げて、若い人が子供を産まないのが悪いなどと言うし、リニア新幹線の政府からの出資金が他の場合同様に将来より高額に膨らむことを心配した質問に対し「私が生きているかどうかわからないのでなんとも言えない」と無責任な答弁を平気でしている。将来の予測を立てて将来のために判断すべき大臣が、先の将来にことはわからないとただ逃げるのはあまりにっも無責任ではなかろうか。

 

ラ・フォル・ジュルネ・びわ湖

 ここ数年毎年4月の末になると、待ちわびて、びわ湖ホールラ・フォル・ジュルネ・びわ湖(La Folle Journee)へ行くことになっている。

 このラ・フォル・ジュルネは、元は1995年、フランス西部の港町ナントで誕生したクラシック音楽祭で、 毎年テーマとなる作曲家やジャンルを設定。コンベンションセンターで、同時並行的に約45分間のコンサートが朝から夜まで繰り広げられ、入場料も安く、好きなコンサートを選び、1日中、音楽に浸ることができると言うことで始まったもののようである。

 それが2000年頃から世界に広がり、、2005年からは東京国際フォーラムで開催。ついで2008年には金沢、2010年には新潟、びわ湖、などでも行われるようになったものである。主にクラシック音楽であるが、会場の外では子供や学生の合唱や吹奏楽などもあり、ホールの周辺には屋台も出て、音楽の合間も湖畔を散策したりくつろいだりできるようになっている。私たちはもう五年以上は通い詰めていることになる。

 何よりもびわ湖ホールが魅力的なのである。湖畔にあってホールの外はすぐ湖に接しているし、ホールの中からも湖の景色を一望できるのがたまらない。国中で一番立地条件に恵まれたホールであり、ホールの中の構造も良いし、私の一番のお気に入りのホールでもある。

 そこで一日中ゆっくりと好きな音楽を聴いて、その間には広い湖の景色を眺めながらくつろいだり、食事をしたり、湖畔を散策するのがたまらない魅力である。ちょうど気候も良くなったところだし、湖畔の開放感がどこのコンサートホールでも味わえないない良さである。

 大阪からは少し遠くて不便なので、始終行くというわけにはいかないが、やはり湖畔の魅力のためか、何か気の利いた催しでもあると、自然とまた行きたくなるのである。

 このラ・フォル・ジュルネでは演奏時間もだいたいは1時間以内に終わるようなスケジュールが組まれており、一日に色々な演奏が次々に行われるので自分の好きなものを聴きながら、間には湖畔を楽しむことで一日を有意義に過ごせるようになっている。

 今年のテーマは「ラ・ダンス 舞曲の祭典」ということで、私は聴かなかったが、日本センチュリー交響楽団によるベートーベンがあり、ついで大フィルのハンガリー舞曲をはじめとするいろいろな舞曲の演奏があり、それを聴いたが、いつもの身振り手振りの大きな大植英次指揮が遺憾なく発揮されていて楽しかった。

 その他キオスクでは、難しい曲に挑戦していたピアニストや、よく訓練された子供から高校生までの合唱、湖畔での高校生の吹奏楽なども聴いた。今年は行かなかったが、この会にはびわ湖遊覧船のミシガンの船上での演奏もあり、昨年だったかに参加したが、湖の船上での音楽もなかなか乙なものである。

 湖畔でゆっくりするだけでも楽しいのに音楽付きではたまらない。毎年また来年も行こうと思いながら帰りの送迎バスに乗る次第である。

 

 

瓦屋根の家が減った

 昔、母が歳をとってから何処かへ汽車や電車で旅行したりするごとに、車窓から外を見て「藁屋根の家が減ったね」と繰り返していた。それがいつ頃のことであったろうか。私の記憶でも戦前は田舎へ行けば何処へ行っても藁屋根の家が続いていたものだが、戦後になって経済の高度成長とともに急速に姿を消していったような気がする。

 ところが最近では、今度は瓦葺の家がどんどん減っているようである。都会ではマンションや事務所など、新しく建てられるのは四角いビルばかりだし、住宅街でも最近の建物は三角屋根であってもほとんどがスレート引きのような軽量の屋根で、瓦を乗せた重量感のある屋根や建物はほとんど見られなくなった。

 私の子供の頃の記憶では、東海道線で東京へ行く途中、熱海を過ぎると車窓からの景色が変わり、瓦屋根の家が少なくなって、スレート引きのような、軽い感じの家が多く見られるようになり、あれは関東大震災の影響だと教えられたものであった。

 その時は震災後に急いで建てられたいわば一時しのぎの建物のような気がしていたが、おそらく重い瓦を乗せた古来の日本式の建物は屋根の瓦が重いため地震に弱かったので、その教訓からむしろ積極的に軽いスレート屋根にしたのであったのかもしれない。

 神戸の震災の時を見ても、昔からの重い瓦を乗せ、それを柱で支える構造の日本家屋の倒壊が多く、私の先輩も純和風の大きな屋敷に住んでいたが、この地震で倒壊しその犠牲になってしまわれた。その経験から、それ以後新たに建てられる家はほとんど瓦を載せることがなくなり、瓦の産地であった淡路島の経済に大きな打撃を与えてことがニュースになっていた。

 私の子供の頃が瓦屋根の全盛時代だったのではなかろうか。学校の唱歌でも五月の節句の歌に「甍の波と雲の波・・・高く泳ぐや鯉のぼり」というのがあったし、中学校の頃、通学で毎日乗っていた城東線(現在の環状線)から東の方を見ると、遥かな生駒山までどこまでも瓦の屋根が海のように続き、その間の所々のコンクリートの白い学校など浮かんで見える景色が特徴的であったことを覚えている。

 それがもう今ではどこを見ても、瓦葺の家は新しい家並みの間にわずかに残っている古くからの家だけのようになり、それすら老朽化が進んで次々に壊され、新しい家に変わっていくようで、瓦屋根はますます減少していくばかりである。

 何処かへ行く時に新幹線などの車窓から眺めて、改めて瓦屋根の減少を確かめる度に、母の言い草を思い出し、一世代経てば「藁屋根が減ったね」が「瓦屋根が減ったね」に変わるのだなと思わされるとともに、それなら次の世代になると、今度はすでに始まっているようだが、「三角屋根が減ったね」とでも言うことのなるのかも知れないと思う。

 事実、都会ではオフイスやマンションのビルばかりが増え、従来からの三角屋根を乗せた建物は次第に減り、ビルの陰に隠れてしまって来ている。この傾向が続けば、次の世代には日本の都会では本当に三角の屋根が少なくなってしまって、四角いビルばかりの時代がやってくるのかも知れない。

 私もいつまで生きられるかわからないが、周囲の風景もどんどん変わって行くのを感じさせられている。

 

先人の教え

 東日本大震災の時、ニュースで知ったのだが、今回津波に襲われた地域では、以前にも津波を経験したところも多く、当時津波にあってひどい目にあった人が、その教訓を子孫に伝えようとして、安全だった高台に石碑を建て、「これより下には家を建てるな」と刻んでいたそうである。

 リアス式海岸の続くこの地域では、明治二十九年、昭和八年、さらに昭和三十五年のチリ地震と何度も大きな津波に襲われており、そのための石碑の数も300基以上にも及んでおり、その先人の教えを守って被害を軽くした所もあるし、いつのまにか忘れられて大きな被害にあった所もあるようである。

 姉吉と呼ばれる小さな地区では、明治の津波では2人、昭和の津波では4人しか助からなかったという過酷な経験から、海抜60米の地点に、「ここより下には家を建てるな」と刻んだ石碑を建て、以来それを守ってきたので、漁業で生計を立てていて浜にいた住民達も、津波とともに高台の自宅に逃げ帰り、おかげで3人の子供を学校へ向かいに行った母親ら4人以外は皆助かった由である。

 先人の教えは守るべきであり、このように守ったところは助かったが、守れなかった所もあながち非難はし難い。災害は稀にしか起こらないものである。特別なことのない平素の生活の中では、万いつの場合の先人の教えよりも、その時々の生活の便利さの方がどうしても優先し、いつしか先人の教えも無視されることにもなりやすいのである。そんなわけで生活にも仕事にも便利な海岸べりに街が発達していた所などでは、今回の大きな津波で多くの死者や被害にあったようである。先人の教えもいつしか忘れられがちになっていたこともあろう。

 被害にあった当初は誰しも貴重な体験を何としてもいつまでも子や孫にまで伝え、二度と同じ目に遭わないようにしたいと一致して思うであろう。しかし災害は忘れた頃にしかやって来ないものである。直接災害にあった人たちは骨見に応えているので忘れることはないし、子や孫にも将来の教訓として話を聞かせるであろうが、実際に体験していない者にとっては話としては理解しても、日々の生活の中では、いつも先にしなければならないことに急き立てられているので、どうしてもそちらが優先することになる。

 東北の地震で言えば、高台に家や街を再建しても仕事は漁業なので、仕事のために毎日浜まで降りていかなければならないことになる。仕事の忙しい時や仕事の打ち合わせなどではどうしても海辺で済ませなければならないことが多い。必然的に、初めは特別だと思いながら、次いでは時々と、浜辺にとどまることが多くなる。そのうちに便利さに負けて浜辺に定着する人ができ、都合の良さから次第に同じような仲間がふえてくる。そのうちにそれらの人を相手にした商売なども浜辺に出来てきてやがては街になるということになりやすい。

 災害は何十年に一度ぐらいしかやってこないので、子や孫の時代になり、実際に災害にあったことのない人たちにとっては、実際の災害の怖さはわからない。やがて災害は意識の上で次第に薄らいでくるし、それより日常生活の繁栄や便利さが優先されてすべてが進んでいくようになってしまう。そして全く思いもよらないある日にまた突然の災害に見舞われ、また過酷な運命を繰り返すことのなりがちなのである。

 東北大震災からもう六年経ったが、今ではまだ皆が災害の恐ろしさを身にしみて感じており、再発防止のための措置が打ち出され実行されて来ている。しかしそれがいつまで続くであろうか。私が子供の頃は関東大震災の話をよく聞かされたものだが、戦後は戦争のことでいっぱいだったせいもあり、ここ何十年ぐらいはもはや関東大震災の話をする人はほとんどいなくなってしまった。

 今頃どうしてこういう話をするかというと、大震災のことより、最近はあの無残な戦争のことさえ知らない人が多くなってることを憂えるからである。実際に戦争を経験した人たちが少なくなっていくにつれて、記憶が薄らぎ、戦争の記憶も風化して来て、実際とは離れた理解をしている人たちも増えて来ているように思われる。親から戦争の話を聞いた子供たちが今や高齢者の仲間に入るようになり、孫の世代が中心となってくると、戦争の実態を理解するのが難しくなるのも当然であろう。

 戦争はもう遠い昔の歴史上の出来事である。そういう時に戦前復帰を意図する政府が出てきて、それに同調する世論が力を増せば、誰しも自分の国の長所は歓迎しても負の部分はできることならあまり触れたくないので、政府の宣伝に乗せられて侵略戦争ではなくて民族解放のための戦争であったとか、南京事件慰安婦の問題はでっち上げられたもので真実ではないとか、被害をいつまでも主張する方が間違っているのだというような主張までする人が多くなってきている。

  我々のように戦争を体験したものにとっては、大日本帝国帝国主義政策をとり、台湾や朝鮮を植民地とし、傀儡としての満州国を作り、中国大陸に侵略し、その結果として太平洋戦争となり、悲惨な敗北をきたしたことは変えようのない歴史的な事実である。

 その悲惨な戦争を通じて日本人は多くのことを学び、その教訓の上に曲がりなりにもその後の平和な経済大国を築いてきたのであり、以来年月が経ち、戦争を経験した世代が次第にこの世を去り、戦争を知らない人達ばかりになってくると、せっかくの先人達の貴重な教訓も忘れられがちになり、また同じ過ちを繰り返しかねないような傾向になってきていることに非常に憂慮せざるを得ないのである。

 歴史を振り返ってみると、戦争は決して急に始まるものではない。戦争が出来る国にするには、戦争が出来る国家体制にしていかねばならない。そのためには反対派を制御し、体制の整備から国民の意識の変化などまで、一段一段積み上げていかねばならない。こうして大勢の準備が整って初めて戦争が可能な国が出来上がるのである。そこまで行けばもはや引き返すことはできない。そのような体制が出来上がってしまうと、体制であるので最早誰もそれを止めることができなくなってしまう。勝つ見込みがあろうとなかろうと行き着くところまで行ってしまうことになる。

  日本の戦前の歴史を見てもまずは教育勅語や修身教育、戦陣訓、天皇崇拝、宮城遥拝などによる国民の教化、治安維持法などによる反対勢力の抑え込み、言論の抑圧、軍部の発言力の強化、政党の解散に続く大政翼賛政治による独裁政治等々の体制が固められ、国民精神総動員や隣組組織による相互監視システムなども出来、もはや引き返しが効かなくなり。誰も戦争に反対することもできない状態となって戦争が始まり、行き着くところが国中焼け野が原となり飢餓にさらされるあの惨めな敗戦となったのである。

 戦後七十年経った現在どのような世の中になっているか。安倍内閣によって、秘密保護法や安保関連法案などが出来、今更に戦前の治安維持法に当たる共謀罪取り締り法が審議中であり平和憲法の改定さえ目論まれている。戦時の加害に否定や、侵略戦争そのものの否定や戦前の大日本帝国の復活を唱える人まで出て来ている。言論の自由も次第に抑えられ、嫌中、嫌韓の世論が煽られ戦争の切迫さえ唱えられている。

 我々戦争を知っている世代はやがてはこの世からいなくなってしまうであろう。しかし生まれ育ち、生きて来た故郷だるこの国の運命には無関心ではおれない。戦後アメリカの従属国になったが、それを隠しながらも幸い経済大国になったが、今や少子高齢化で経済の発展も望めない。アメリカにとっては日本は前線基地に過ぎないのでいつ捨てられるかわからない。戦前への復帰は日本を孤立化させるだけである。

  先人の血の滲む貴重な体験からくる教えを今一度思い出して欲しい。広島の原爆の碑にも「静かに眠ってください。過ちは繰り返しません」と刻まれていることを忘れてはなるまい。それが戦前路線の終着地であったのである。ドイツのように二度までも世界大戦による国の壊滅を経験する前に、何とか賢明な道を選んでいつまでも平和で幸福な生活を続けられる国であって欲しいものだと願わざるを得ない。

益々閉鎖的になる家

 最近建てられる個人住宅を見ているとどれも窓の狭い閉鎖的な外観の家ばかりのような気がする。

 もともと日本の家は、開け広げの夏型の作りで、広い縁側があって、その中間的な感じがする場所を通じて、内外の交流が行われる開放的な建て方が基本であった。近所の人がやって来て縁側に座り込んで交流したり、家族が縁側を通じて入ったり出たりして屋内と屋外を気安く出入りしたものであった。夏はそこから風が入って屋内もいくらか涼しくすることも出来たわけである。

 親しい近所の人や家人などは夜間に訪れて表で応答がないと庭に回って縁側の雨戸を叩いて中にいるものを起こすようなこともあった。病気で診療を休んでいた田舎の医者が、寝ていても知った患者が庭に回って雨戸を叩くのでゆっくり寝てられないとこぼしていたことを思い出す。

 そんな伝統から、分譲住宅や建売住宅でも20世紀の間ぐらいは狭くても縁側が欠かせないもののようであったが、最近の家からはは縁側というものが消えてしまった。それでもまだ比較的最近までは床まで開けられるガラス窓の部屋が一つや二つは用意されており、縁側ほどでなくても窓ガラスにもたれて日向ぼっこをするぐらいのことは出来る家が多かった。

 ところがいつ頃からか縁側や床まで開く大きな窓もなくなり、せいぜい腰の高さぐらいまでしかない普通の窓だけしかない家が増え、さらには最近は腰の高さの比較的広い開口部さえ少なく、小いさな窓しかないような家が増えて来た。外から見てもあれでは風も入らないし暑いだろうなと思わざるを得ないような家ばかりである。

 いずれも新築で少なくとも外観の設計はなかなか洒落ている家が多いが、窓はいずれも人の出入りも困難な狭い縦型のガラスのはめ込み窓で、取りつく島もないような閉鎖的な冬型住宅の感じである。おそらく今はエアコンに依存しているので外気を取り入れなくても快適な空間を作れるからであろうか。

 どうしてこんな家が流行るのであろうか。初めて見た時には訝しがったが、最近の住宅は50坪とかそれ以下の狭い土地に、敷地一杯の建物を建てる上、駐車スペースもいるので、広い開口部を作ると、隣家と中まで見え見えになりプライバシいが保てないので、必然的に開口部を狭くして、内部はエアコンなどで温度や湿度を調節するということになるからのようである。

 こうなるとせっかくの一軒家の開放感も薄らぎ、マンションと変わらない感じになるので、むしろマンションの高層階の方がベランダの開放感があり、より快適なのではとも思うのだが、それでも今の段階では共同所有のマンションより狭くても土地付きの一戸建ての方が人気があるようである。

 昔の住宅地であれば、狭くても庭があり、そこで子供達が遊んだり大人が庭木の手入れや草花を育てたりして、隣家の住人と顔をを合わせたりして交流が出来、向こう三軒両隣ぐらいはお互いに何かにつけて助け合うようなこともあったが、少子高齢化の時代では住宅地でも隣近所の付き合いが薄らいで閉鎖的ななったが、そこに閉鎖的な建物ばかりが並ぶと、建物ばかりでなく、人間関係までが益々閉鎖的になって、隣は何する人ぞということになっていくのではなかろうか。

 まだマンションであれば、共同住宅なのでその維持管理について住民同士に話し合いをしなければならない機会もあるし、エレベーターなどで顔を合わせて話をするなどの機会があり、近隣の交流の機会が多いかもしれない。

 今後益々進む少子高齢化の時代で人口も減少がみられる時代に、高齢者の多い地域などでは、何かの時のためにも、せめてお互いの顔ぐらいは見知っていていて欲しいものである。地価の高騰する大都会では仕方がないのかもしれないが、一戸建ての住宅ではせめて小さくても少しでも庭がありもう少し開放的な家にして欲しいし気がする。そうでなければ少し広い目のマンションを目指してはどうであろうか。

 狭い敷地に小さい窓しかない閉鎖的な家は住む人にとっても開放感に乏しいし、住む人の人生までを閉鎖的にしてしまうような気がしててならない。

高齢者年齢の引き上げ

 今年の1月5日、日本老年学会と日本老年医学会が高齢者の定義を「65歳以上」から「75歳以上」に引き上げることを提言したが、当然のことながら医学界のみにとどまらず、社会全体を巻き込んだ議論になっている。もちろんその理由は、年齢の引き上げが喫緊課題の社会保障制度の見直しに影響しかねないと受け止められたからであろう。

 確かに私たちの年齢層の老人を見ると、昔の同じ年代の老人と比べると元気な人が多く、平均寿命も伸び、外見だけ見ても今の年齢の八掛けぐらいが昔の年齢に相応すると言っても良いぐらいである。

 昔なら百歳と聞けば「へー」とびっくりするぐらい稀な存在であったが、最近では「うちの親父が百四歳で死んだ」とか、「母親が百何歳で老人ホームに入った」と言ったような話を日常会話でもよく耳にするようになっている。九十歳近くなった私のクラスメート達も昔と違ってまだかなりの者が健在である。

 いつかこのブログにも書いたが、今一番元気な年齢層は65歳から75歳ぐらいの人たちではなかろうか。定年退職して仕事から解放されてストレスは減り、体はまだ元気だし、在職時代からの友人もまだ多く、退職金をもらって経済的にも少しはゆとりもあり、何にも増して自由な時間がある。連れ立って旅行や、ハイキングに出かけたり、趣味に没頭したりして、生活を楽しむゆとりがあるのがこの時期の人たちの特徴である。電車の中などで見かけても、これらの人たちは現役のサラリーマンとは全く違って生き生きとして目に輝きがある。

 そう言った健康度のようなものだけから言えば確かに高齢者の定義を六十五歳から七十五歳に引き上げるのも一つの考え方かも知れない。しかし、老人になるほど個人個人のばらつきが若い時より大きくなるものである。六十五歳から七十五歳というと、今言ったように元気な老人が目につきやすいが、ガンや脳卒中心筋梗塞肺気腫などといった老人病が増えてくるのもこの時期であり、こう言う人たちは世間の表面には出てこないので目立たないが、病気や障害、健康面で劣る人も多いことにも注意すべきである。

 高齢者の生物学的な定義を考慮する場合には、単に平均的な状態のみでなく、このばらつきの多くなる健康度をも考慮に入れなければ、弱者を切り捨てることになりかねない。何も平均的な健康度が良くなったからと行って高齢者の定義を引き上げる必要性はないのではなかろうか。

 高齢者の定義と言ったものは生物学的な特質だけで決められるべきものでなく、極めて社会的なものである。これまででも六十五歳から七十五歳までを前期高齢者、それ以後を後期高齢者として分けて考えられてきた経緯からも、今ここで高齢者の定義を七十五歳に引き上げなければいけない必然性はないのではなかろうか

 少子高齢化時代となり、高齢者に対する社会保障制度が経済的に行き詰まってきているこの時期に定義を変えれば政治的に利用されるのは目に見えていることである、勘ぐればむしろその筋からの社会的な働きかけがあって、学会がそれに合わせて高齢者の定義を変えたという政治的なものである可能性も否定できない。

 新しい定義が利用されて社会保障制度が見直され改悪されることによって、相対的に若くても平均値より健康の劣る人たちが十分な社会保障を受けられなくなり、病弱で不自由な老人も仕方なしに無理やり働かなければならないことにもなりかねない。

 以前にどこかでも書いたように、ようやくのことで定年を迎えやれやれと思う疲れ果てた老人が、まだまだ働けると不自由な体に鞭打たれて、無理やり働かされる時代がやってくると言う悪夢が現実のものになりかねない恐れも出てきかねない。

 MedPeerという所が会員医師に聞いたアンケートの結果を見ると、「引き上げに賛成、社会保障も見直すべき」というのが約6割に上り、他の回答を大きく上回ったことも注目しておこう。医者や科学者はえてして自分の専門分野の中だけを見て判断しがちであるが、それが社会的にどう利用されるかについても関心を払うべきである。

 学会の意向がどうであったにしろ、高齢者の定義を引き上げることが直接高齢者の社会保障制度の改悪に利用されることを学会としても理解して提言すべきであったと思う。

 

右傾化の将来は

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 最近の安倍内閣の右傾化の傾向はますます激しくなってきた。アメリカの国際法を無視したシリアの爆撃にさえ安倍首相は支持を表明し、多くの日本人の心から願いであり、日本の国是にも近かった核兵器廃絶運動にもかかわらず、国連核兵器禁止条約にさえアメリカの意向を”忖度”して反対し、アメリカ従属の姿勢を益々強める反面、尖閣諸島竹島問題など国境問題をことさら煽って、嫌中、嫌韓の世論を高め、中国や韓国に対する無用な緊張や敵対関係を進めている。

 それとともに国内的にも憲法の解釈を変えてまで、秘密保護法や安保関連法案、共謀罪法案などを次々に強引に成立させ、国旗、国歌の強制や監視社会の強化、言論の統制を強め、憲法改正さえ目指し、先日は教育の分野でも道徳教育の必須化、教育勅語の強化への取り入れを容認するなど右傾化の傾向はとどまるところを知らない。

 そう思っていたら今日はさらに驚くべきニュースが飛び込んできた。

「政府は14日の持ち回り閣議で、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの自伝的著書「わが闘争」の教材使用について、「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校設置者の責任と判断で使用できる」とする答弁書を決定した。」(時事通信2017年4月4日)そうである。

 思わず今流行りの「フェイクニュースではないか、悪い冗談ではないだろうか」と目を疑ったが、どうも本当に閣議決定されたもののようである。

 安倍政権は、教育勅語といい、「我が闘争」といい、過去の負の歴史を肯定的に評価することに躍起になっているようである。日本が過去に引き起こしたアジア・太平洋戦争は安倍首相らにとっては侵略戦争ではなく、アジア解放の聖戦であるらしく、ナチス・ドイツと同盟を結んだことも否定的に評価することはできないようである。彼らは戦前の大日本帝国の復活を目指しているようで、 安倍政権の暴走が止まらない。

 しかしこの戦前復帰の右翼路線に将来の展望はあるのだろうか。世界は未だヒトラーのナチズムを許さないであろうし、アジアにおける日本の侵略戦争の歴史は消しようがない。しかも、アジアの情勢は当時とはすっかり変わっている。もはや中国は日本を抜いて世界第二の経済大国になってしまっているし、韓国や東南アジアの諸国の進歩、発展も著しい。アメリカの一方的な覇権も確実に揺らいできている。日本は今や少子高齢化の時代で労働者不足で経済も停滞せざるを得なくなっている。

 その中での戦前復帰路線は再び大日本帝国滅亡の愚を繰り返すことになるのではなかろうか。 以前に安倍首相の右傾化をやゆってヒトラーになぞった像がSNSに出回っていたが、まさにその写真の通りに、「我が闘争」まで持ち出してきたのかと驚くとともに、このまま行けばナチス化した日本はアメリカにも裏切られ、アジアでも孤立して、そのまま再び奈落の底へ落ち込む以外に道がなくなるのではないかと恐れるものである。