便器の上にコーヒーカップ

 金沢の21世紀美術館へ行った時のことであった。男子用トイレで用を足していたら後から入ってきた人が隣の便器の上に「コーヒーカップを置いて用を足し出した。

 一瞬びっくりさせられた。ここは病院だったかなという思いに駆られた。病院のトイレでは検尿のためにトイレの上に紙コップを置いて尿の採取に備える人がいるので、そんな気がしたのであった。私が医者なのでそう思ったのかもしれないが、てっきり採尿用の紙コップのような気がしたのだった。

 だが考えてみるとここは美術館である。そう思って見直してみると採尿用の紙コップではなく、館内のコーヒーショップでのテイクアウト用の白いプラスチックのコップで、ちゃんと蓋までしてある。こちらは目が悪いので、いくらか薄暗いトイレの中では一見しただけでははっきりしなかったための錯覚であった。

 しかし、いくらなんでもトイレとコーヒーカップはあまり相性の良い組み合わせとは言えない。昔の日本人なら「口にするものと排泄するものを一緒くたにするなど滅相もない」というところではなかろうか。世の中は変わったものである。

 1960年頃アメリカにいた時、スポーツで汚れたシャツと運動靴を一緒に洗濯機に入れて洗うのを見てびっくりしたり、長旅の旅行者が列車の中で平気で床に座り込んだりするのを見て驚かされたものだが、今では日本人の清潔感もだいぶ変わってきたようである。

 昔は日本人は上の物と下の物を区別したものである。鞄などの持ち物を地面に直に置くことはなかったが、今では電車の中などで高校生らにとっては大きな鞄などは床に置くのが普通のようである。

 それでもまだまだ昔の名残は残っている。女性などは電車の中でショッピングバッグなどを床に置くことを嫌って座席に置く人が多いし、駅のホームなどでは荷物を椅子に置いて自分は立っている人を見かける。駅の待合椅子に荷物用のスペースが拵えてあるのも日本ぐらいではなかろうか。

 日本人の生活スタイルが変わってきた上、生活空間全体が綺麗になったことなども関係して、上と下との区別が曖昧になってきたこともあり、人々の意識も変わってきた結果が上記の便器の上のコーヒーカップというのにもさして抵抗感がなくなったのではなかろうか。

 最近はどこでもトイレが清潔になり綺麗になったので、便器の上にカップを置いても決して不衛生であるとか汚いものではなかろう。21世紀美術館は時々興味深い催しをしてくれるので好きな美術館のひとつであるが、この時には思わぬ経験をさせてもらって一層印象深いこととなった。

火遊びは危険

 ここ二、三日の新聞やSNSを見ていると、今にでも戦争が始まるのではないかのようなキナ臭ささえ感じる。

 ここ数年来の竹島尖閣諸島をめぐる対中、対韓の領土問題や、南シナ海東シナ海をめぐる対中関係、慰安婦問題に絡んで大使まで召喚した対韓関係の悪化などは意図的に煽られて来ている面が強いが、SNSなどの書き込みを見ていると最近は「ここまで言ううか」と思われるぐらいに嫌中、嫌韓の極端な発言が増えている。

 そういうところに、大統領にトランプ氏がなって以来、アメリカの政策も変わり、つい最近シリアの政府軍がサリンガスを使ったというのを口実に、アメリカがシリアの軍事基地に攻撃を加えたと思ったら、北朝鮮に対しても、核実験やミサイル発射を非難して、中国が動かなければアメリカが独自に動くとして、カール・ビンソンという原子力空母を中心とする艦隊を朝鮮半島の向けて出発させたりして、一気に地域の緊張感を増している。

 それにともなってSNSの書き込みなどを見ると、今にでも朝鮮半島で戦争が起こるのかのような気配さえ感じられる。先制攻撃を煽ったり、金正恩の斬首だとかの物騒な発言もあるし、韓国からの難民が日本へ押し寄せて来るのでその対策が必要だとか、自衛隊による在留邦人の救出作戦をすべきだとか勇ましい言葉が並んでいる。

 戦前、戦中にも同様なことがあったが、実際の戦争の怖さを知ってそんなことを言う人はいなくなった。ところが戦争を経験した人がいなくなって、戦争を知らない平和の時代に育ってきた人たちばかりになってくると、深く考えもしないでまたこうした勇ましいことを言う人が出てくるようである。

 自分が安全な国にいるから勝手なことも言えるが、言うまでもなく戦争は一瞬で決まるものではない。勝手も負けても共に深く傷つくものである。先制攻撃をすれば必ず報復攻撃を受けることになる。しかも今や戦争になれば武器も過去の戦争とは桁違いの破壊力である。核戦争ともなれば勝敗に関わらず共に全滅ということにもなりかねない。

 世界戦争でなく地域的な戦争であっても、どちらかが単純に「攻撃した、やっつけた、終わり」というわけに行くはずがない。日本に米軍の基地がある限り、朝鮮半島に戦争が起これば、かっての朝鮮戦争の時とは異なり、日本が戦禍を浴びないで済ますことはできない。かっての空襲による焼け野が原や飢餓よりもっとひどいことにもなりかねない。

 悲惨な戦禍を避け平和を維持するためには、ここは何としても話し合いによる解決しかありえないことを知るべきである。いくら嫌いな相手であっても、勇ましい発言は慎んで、いかに戦争を避け、平和に共存できる地味な道を真摯に追求するよりない。

 火遊びのような勇ましい言葉や言動は自分のところへ返ってくるものである。戦争では自分も家族も守れないことは先の大戦が大勢の先輩たちが無残な犠牲によって教えてくれた貴重な遺産であることを知ろう。

だんだん壊れていく国

 戦争で国中焼け野が原になって餓死者まで出る騒ぎ、街には闇市や浮浪者が溢れ、買い出しとララ物資でようやく生き延びたた時代を知っている人が少なくなるとともに、最近の世の中はこうも変わっていくものかと驚くばかりである。

 戦後、朝鮮戦争ベトナム戦争の特需などにも助けられて幸い経済的には復興し、経済大国と言われるようになり、人々の生活も豊かになり、一億総中流と言われた時期さえあったのに、世の流れに盛衰は避けられず、少子高齢化の時代となり、産業も停滞し、国の借金も増え、社会的な格差や貧困化が問題となり、その上、アメリカ追随の政治は次第に右傾化が進み、近隣諸国との対立も徐々に強くなってっきている。

 戦後引き続いて政権を握ってきた自民党も、戦争を知らない世代に交代するに伴って、大日本帝国ノスタルジアを感じる右翼政治家達に占められるようになり、国粋主義神道主義が主流を占め、野党勢力の脆弱化もあって着々と法的整備も進め、独裁政治化が進んでいっている。

 最近の法案の動きだけ見ても秘密保護法、安保関連法案、テロ等関連法などと、一歩一歩国民を取り締まり、独裁政治化へと進んでいるし、メディアや教育への干渉も強くなってきている。それに呼応して孤独な貧困青年などの不満のはけ口としてのポピュリズムが力を増し、近隣諸国や国内の少数派への悪口や嫌がらせ行動などの右翼的な言動なども次第に公然化してきている。

 こう見てくると、ちょうど昭和の始まり頃の社会を思わせるものがある。何だかまたこの国がだんだんと壊れていくような気がしてならない。以前から言っているように戦争は決して急に始まるものではない。一歩一歩準備が積み重なって行って最後に起こるもので、もう直前まで行けば誰にも止められなくなって、否応無しに始まり、皆を悲惨と絶望の坩堝の中に放り込んでしまうということはつい百年にも満たない歴史が示している通りである。

 このまま進めば同じ過ちを繰り返すことになる恐れが非常に強いことを危惧する。今度かりに戦争が起これば、先の戦争よりもっと惨めなことになるのは間違いない。日本国土が戦争に巻き込まれるであろうから、沖縄戦で経験した人口の4分の1が戦争のために死亡する以上のことのなることを覚悟しなければならないであろう。

 しかも大きい枠で前回と違うのは、良かれ悪かれ大日本帝国は独立国であったが、現在の日本国は憲法に優先する日米同盟に支配されている従属国であることにも注意しておく必要があろう。アメリカの意向に振り回されてひどい目に遭わされないようにくれぐれも懸命な対処して欲しいものであるが、安倍政権の姿勢を見ているとまるで忠犬のごとくである。

 今の事態が今後どのように進んでいくのか。予測は難しいし、私は余命も長くはない。子たちも一人も日本にいないので、この国がどうなろうと知ったことではないと開き直ることも出来ようが、やはりここで生まれ、ここで育ち、長い間住んできたこの国の将来に無関心ではいられない。せめて二度とあの惨めな戦争の惨禍にだけは次世代の同胞たちに逢わせたくないと強く思うので、やはり今の世相が心配なのである。

 

 

今年の花見

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 毎年桜が咲くと春を実感させられる。戦後長らくの間は桜は戦争を思い出す切っ掛けとなり、桜並木を見ると隊列を組んだ兵隊が浮かび、「万朶の桜の花色・・・」と軍歌が聞こえ、花の宴の途中に幕の端から死んだ兵隊の亡霊が顔を出すような気がして、素直に桜の花を楽しめなかったものだが、最近になってようやくゆっくり桜を眺め、写真でも撮ろうかという気も起こるようになったきた。

 そうしたらもはや卒寿である。近頃は友人たちとの別れの挨拶も「生きていたらな」という言葉が交わされたりするようになった。桜の季節は毎年やってくるが、果たしていつまで見えることやらと思いながら今年の桜も愛でることになる。

 今年は気候の関係か、例年より少し遅くなったようであった。テレビの開花情報では東京は3月31日だったが、大阪は4月に入ってからだった。もちろん開花前線は毎年南から北へ上がって行くが、ここ何年かを見ていると、東京が早く大阪の方が遅れることが多いようである。面白いのは鹿児島が案外遅いのである。

 人の話の受け売りで自分で調べたわけではないので、どこまで本当かわからないが、東京は大都会のヒートアイランド現象で早いのだという人がいたし、桜は少し冷えた日があって、その後暖かくなると急に咲くのだそうで、鹿児島はずっと暖かいので冷えがなく開花が遅れるのだと説明してくれた人もいた。

 私の住んでいる池田の現状は、4月3日の月曜日に五月山の桜を見に言った時はまだほんのわずかの花が咲きかけているだけだったが、6日の木曜日に同じところへ行った時にはもう7〜8分も咲いていて、ほんの2〜3日でこうも急に一斉に咲くものだなあと驚かされたものであった。

 金曜日に姉を訪ねて駒川へ行った時の今川緑地の桜も見事で楽しめた。これならちょうど週末が見頃だろうと予想されたが、天気予報では週末から来週の初めにかけては雨とのこと。これでは今年の花見もこれまでかと思い、日曜日は朝から雨が降っていたので梅田へ映画を見に行ったが、午後は曇ってはいたが雨は止んでいた。

 せっかくの機会だからと思って、環状線桜ノ宮まで行って大川堤の桜並木を見に行くことにした。駅を降りた所から大勢の見物客で賑わい、桜も見事であった。大川の桜並木は毛馬の閘門から中之島公園までずっと川の両岸に続いているものである。

 満開の桜並木の遊歩道はどこまでも見物客でいっぱい。桜の下には青いビニールシートが所狭しと敷き詰められて、そこで大勢の人たちが車座になって食事などをしている。川面にも次々とお花見の観光船や水上バイクがやってきて大丈夫かなと気になるぐらいであった。

 どこにでも見られる昔からの日本の典型的なお花見風景である。しかし昼過ぎのせいもあってか、酔いつぶれた客や歌声がない。青いシートに集まった人たちも皆行儀よく食べたり喋ったりしているし、歩く人、立ち止まって桜の写真を撮っている人たちも楽しそうである。家族連れも多かった。

 しかし、そこで驚いたことは、歩いている人からも、座って食事をしている人からも、聞こえてくる言葉が中国語だったことである。桜の下の絶好の場所もほとんど中国人に占拠されているようであった。おそらく観光会社が中国人向けの花見旅行を計画して場所を抑えたものであろう。

 日本も国際化してきたものである。歩きながら行き交う人を観察していると、中国人以外にも欧米系の人もいるし、インド系、スカーフを巻いたインドネシアかマレーシア系、帰りの電車では出稼ぎに来ているベトナム人らしい若者の集団もいた。

 一見変わらないようでも、昔の花見とは知らないうちに随分変わって来ているようである。中国や韓国だけでなく、東南アジアや欧米からの観光客も多いようだし、少子高齢化が進み人手不足が深刻になるとともに出稼ぎにやってくる外国人も増えているのであろう。色々問題も起こるであろうが、もはやこの傾向は変えようがないのではなかろうか。

 単一民族だとか、戦前復帰だとかを望んでも時代を後戻りさせることはできない。元々、この島国の人は遅かれ早かれ、殆どの人たちは大陸から渡って来た人たちの後衛なのである。有名な聖徳太子ペルシャ系の血を引く茶髪の人だったとも言われている。

 今後もどんどん”渡来人”が増えた方が日本にとっても良いのではなかろうか。多民族国家の方が思わぬ知恵も生まれるもので、長い目で見れば、生物学的な人類の発展にも貢献するであろうし、新しい文化の生まれる可能性も高くなるのではなかろうか。この国の発展の契機ともなるのではなかろうか。

 花見もこれが最後のなるかもしれない私が見ることはできないであろうが、未来のこの国で、どんん人たちがどんな文化を築き、どんな社会に生きるのだろうかを空想してみると楽しくなる。そんなことを想像しながら今年の花見を楽しんだのであった。

 

 

 

私の暖房の歴史

 ようやく今年の冬も終わり、もう桜も満開である。ようやく抜け出せたが、歳をとるほどに冬が寒く感じられ、春が待ち遠しくなるものである。それでも今は昔と違って寒いと言っても知れている。今の家は気密性が高いし、エアコンや床暖房などで室温もかなり温められる。

 昔はそうはいかなかった。日本の家屋は夏用に建てられているようなもので隙間だらけだし、セントラルヒーティングといった考え方がなかった。暖房は火鉢などの局所的なものだけであった。冬は布団に潜っていても肩から冷気が染み込んできて布団に潜ったりしたものであった。今でも平安絵巻など見るたびに昔は寒かっただろうなと他人事ながら心配したくなる。

 さすがに北海道だと局所暖房だけでは間に合わないので、家庭でも石炭ストーブが使われ、北海道の勤務者にだけには給料にも暖房代が上乗せされることが多かった。したがって気温の低い北海道から東京や大阪へ来た人は北海道よりこちらの方がかえって寒いと言ったものであった。

 そんな時代の暖房手段は主としてこたつと火鉢だけで、あとは厚着をすることと、外では焚き火にあったたり、酒を飲んだり、風呂で温まることぐらいであったろうか。そんな生活の結果が今でも風呂は温まるものだという習慣から抜けきれず、長風呂で風呂で死ぬ老人が多いことに繋がっているのかも知れない。

 戦前の都会では普通の家の暖房の中心は火鉢とこたつであった。昔は灰を入れた素焼きの箱に炭火を入れ、灰を被せて火が長く保つようにして、それを木のケージに入れ、上から布団をかぶせた「櫓こたつ」が普通であった。電気器具が普及するようになって電気ヒーターに取って代わられたが、いずれにしろこたつに潜り込むのが全身が温められるので一番気持ちの良い暖房方法であった。

 ただ背中は外に出ているので、厚着をするか、厚手のマントでも羽織って暖かくせねばならないことと、一旦入ると動きにくく、外は寒いので、コタツから離れるのに勇気が要ることなどが問題であった。しかしこたつに体ごと潜り込むと暖かくそのまま寝てしまうと快適だったりもした。厚着をして動きも鈍くなるので、若くても冬になると肩が凝りやすくなったものだった。

 しかし何と言っても部屋全体を暖めるわけではないので、こたつから出ると寒いので、用があってもつい出たがらなくなり、あまり生産的と言えないのが欠点であった。エアコンなどのない時代には、夜は湯たんぽやコタツを入れた布団に潜って寝ていたので、朝起きるのが大変であった。朝方は一番冷えるものである。もう時間なので起きねばと思っても、外が寒いので少しでも長く寝ていたい。それでも仕事や学校があるので起きねばならない。思い切って起きるのが問題であった。

 若かったので私は夜中に排尿に起きることがなくてよかったが、年寄り、それも東北地方などの人は、寒い夜中に起きて、当時は便所は大抵外にあったので、零下にもなる所へ出ていかねばならなかったから大変だっと思う。栄養も悪い当時の東北で脳出血の多かったのもそんなことも関係していたようである。

 朝起きても水道管から湯が出るようになったのはまだ半世紀ぐらい前からのことだから、それまでは湯を沸かして洗面器に入れた水に湯を差して温め、それを大事に使うよりなかった。子供の頃アメリカ帰りの伯父の家でガス湯沸かし器を見て目を見張って眺めた記憶がある。

 瞬間湯沸かし器といえば、1970年の大阪万博の時、外国からの客を泊めて良い条件として湯が使える蛇口があるかどうかというのがあったので、その頃から日本でも湯沸かし器が普及しだしたようである。

 エアコンが普及するまでの暖房はコタツを除いては火鉢が主で、電気やガスのストーブが後から徐々に普及してきた。石油ストーブの普及は日本では遅れ、初めの頃はイギリス製のものが重宝がられたことがあった。薪ストーブは昔からあったが、都会では普通の家の構造に向かないので事業所向きであった。練炭火鉢などというものもあったが、それで一酸化炭素中毒を起こして死亡する事件などもあった。

 私が学生の頃に使っていたものは、もっぱら小ぶりの瀬戸物の火鉢で、勉強する時など厚着をして火鉢を抱え組むようにして座り込んで火鉢に手をかざしながら本を読んだりしたものであったが、本読みながらついウトウトすると、手が炭火のところに落ち、「あちち」となって目を覚ますようなことがよくあった。今では懐かしい青春の思い出である。

 今の若い人たちはもう知らないであろうが「股火鉢」という言葉もあった。ただ火鉢の横に座って手をかざすぐらいでは上半身は多少温まっても下半身は寒い。火鉢で全身を温めようと思えば、火鉢の上に跨って下から炭火の暖かさが伝わってくるようにするのである。行儀は良くないが一番効率よく温まるにはこれが一番であった。

 また両親の家の居間には真ん中に掘りごたつが切ってあり、皆がそこへ足を突っ込むとともに、部屋の片隅にはガスストーブがあり、うっかり近づくと危ないのでその周囲は立方形の金網で区切られており、その金網に母がよく濡れた布巾などをぶら下げて乾かしていたものであった。

  そんな炭火暖房の事情が変わり始めたのは1960年代の高度成長時代からである。今の若い人たちにとってはもうエアコンなどはあるのが当たり前で、火鉢を抱え込んで暖をとることなど考えられないであろうが、今でも我が家の軒先には昔使っていた大きな瀬戸物の火鉢が捨てられずに置いてある。

 火鉢が使われなくなって、もう今ではそれに不可欠であった火箸とか五徳などは死語になってしまったし、股火鉢などどういうことか説明がないと理解できないかも知れない。今ではユニクロヒートテックなどの薄くて保温性の高い下着も普及していて、冬の厚着のために肩がこるようなこともないであろう。

 半世紀も経てば世の中は考えられないぐらい変わってしまうものである。格差拡大や貧困が社会的な問題となっているが、生活環境は昔と比べれば遥かに良くなっている。若い世代の人たちは私から見れば幸福である。ずっと快適な環境の中で暮らしていると言える。もちろん今もいろいろな問題で頭を抱えておられるであろうが、将来は決して暗くはない。未来に期待して生きていって欲しいものである。

 今後世の中がどう変わっていくかはにわかには予測できないが、ただ心配なのは最近の戦前復帰を望む勢力の台頭である。他国に従属したままでの戦前復帰がいかに危険なものか、再び戦争に巻き込まれでもしたら、折角築かれてきた環境もたちまち灰燼に帰してしまうであろうが、それさえなければ今より良くなっても悪くなることはないのではなかろうか。

 なんとか人々が英知によって最悪の事態を避けて、現在のような緩やかな環境の中で暮らし続けていけるように願うばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貧しかったこの国では

炭火を入れた櫓こたつ 湯たんぽ 電気こたつ 電気毛布

股火鉢 五徳  薬罐、鉄瓶 火箸 灰押さえ 餅網 おかき 煙管タバコ

田舎では囲炉裏 

湯沸かし 熱田の家

電熱器 電気すと−ぶ

万博時代

ガス暖房 ガス中毒 ガスサーキュレーター

 石油ストー

電気サーキュレーター 床暖房

 

 

総入れ歯

 歯科の領域では「八十、二十」という標語があり、八十歳になっても二十本の歯が残っているように若い時から歯の手入れを怠らないようにということらしく、地域の健康祭などでも該当者の表彰式が行われてたりしている。

 しかし、私の場合は五十代で前歯が欠けて入れ歯を入れなくてはならなくなり、「八十、二十」どころか。七十過ぎからすでに自分の歯は下顎に左右一本ずつが残るだけとなり、自嘲気味に「八十、二」と言ったりしていたものであった。

 上顎は総入れ歯であっても、入れ歯は吸引力で吸い付いているので問題は少ないが、下顎の入れ歯は言わば歯齦にただ乗っかっているだけのようなものなので、残った二本の歯が入れ歯を支えているのだから大事にして置かなければならないものである。歯が二本だけとなると手入れがしやすいこともあり、以来できるだけ大事に取り扱ってきたつもりである。

 そのせいか、十年以上も二本の歯の時代が続いた。しかしやはり次第に歯齦が萎縮し、歯の背丈がだんだんと高くなり、徐々にぐらつき加減にもなって来る。いつまで持つか、時間の問題となる。二本の歯にかかる入れ歯の負担も無視できず、二年前にとうとう左の一本が抜けてしまい、右の一本だけになってしまった。

 歯医者に行こうとしたら以前に入れ歯を作ってもらった医者はもう亡くなって診療所も閉鎖されてしまっていた。仕方がないので近くの古くて良さそうな歯科医院を見つけて入れ歯の抜けた歯の所を補ったもらったが、同時にいっそのこと残る一本も抜いてもらって下顎も総入れ歯にしてはとも思ったが、一本でも入れ歯の支えになっているので大事にしておいた方が良いとの忠告も真っ当なので、最後の一本を大事にすることにした。

 自分の歯が一本だけになってしまうと、入れ歯を外して口を開けると土手のような歯齦に白い背の高い歯が一本だけ残っており、まるで寂しい野辺の土手に一人ぽつねんと立ったお地蔵さんのような感じとなった。いつまで持つかわからないが最後の一本だから大事にしてやろうと思ったものの、一本だけになってしまうと下顎の入れ歯の負担が全て一本の歯にかかってしまうので、もういつまでも持ち堪えられるものではない。大切にしていたが、おおよそ二年経ったこの正月についに最後の一本がなくなってしまった。朝起きたら歯がない。てっきり寝ている間に飲み込んでしまったのではないかと思ったが、ベッドサイドに落ちていた。こうして全くの無歯となった。

 いよいよ総入れ歯ということになる。これまで入れ歯になってからは返って歯のトラブルがなく、食物の咀嚼にも問題がなく肉でも普通に食べれたので、入れ歯で何の問題もなく、歯医者にも長らくかかったことがないと自慢していたものだったが、下顎まで何もなくなると今後は下顎の入れ歯が浮いて何か接着剤でも使わないと食事がうまく食べられないのではと不安になった。

 事実、抜けた最後の歯の部位がカラになったままの入れ歯ではそのまま食事をしようとすると咀嚼とともに歯が浮いてしまって食べられない。しかし、食事を口にする時少し上の方を見て食事を口に入れ、そのまま下顎の入れ歯をできるだけ動かさなくても良いようにして、注意深くゆっくり咀嚼するとなんとかいけるが、それでも途中で入れ歯が外れて食物に混ざり、噛めなくなってしまうことにもなる。仕方がないのでポリグリップなどという歯の接着剤を買ってきて、それを入れ歯に塗って食事をせねばならなくなった。

 それでも四、五日は何とかやっていたが、そのうちに外れやすい入れ歯に不要な力が加わったのであろう。下顎の入れ歯が真ん中で折れてしまった。こうなるともうどうにもならない。いよいよ下顎も入れ歯を作り直して、総入れ歯にするより仕方がない。

 以前の話では総入れ歯は健康保険では良い物は出来ず、自費では五,六十万かかるとかいう話だったが、もういつ死んでもおかしくないこの歳であれば、死んだ後に真新しい入れ歯だけが残るのは笑い話にもならない。どうしたものかと考えた。下の入れ歯の吸着には色々問題もあるようで、インターネットでも「よく吸着する下顎総入れ歯の作り方」などという歯科医用のビデオの広告などもあるぐらいなので、果たしてうまく行くのかどうか少し不安であった。

 しかし歯科医へ行って、まずは折れた入れ歯を直して貰い、欠けた歯のところを補ってもらうと、うまくフィットするし、穴の塞がれた入れ歯は思いの外、下顎によく吸着するではないか。「案ずるより産むは易し」で歯医者も接着剤など使わなくてもこれでいけるだろうからこれで様子を見てはということとなり、これまでの入れ歯のままで様子を見ることになった。

 以来、また以前と同じように何のトラブルもなく、総入れ歯でも何でも普通に食べられる。また何のトラブルもなく入れ歯の時代を過ごすことができている。総入れ歯は上も下もうまくフィットしており何でも噛める。人間の体の適応力の素晴らしさを感じるこの頃である。総入れ歯も決して恐れることはない。虫歯や歯槽膿漏で苦しむより早く総入れ歯にした方が良いかもしれないと勧めたくなるぐらいである。

 ただ、「エイッ」と言って口を開けて叫んだような時や急に咳き込んだ時などに、口内の圧力で下顎の入れ歯が口から飛び出すことがあることだけには注意しておかねばならない。それを除けば、今のところ、総入れ歯万々歳である。

漢字の読み方は難しい

 もう昨年のことになるが、安倍首相が「・・・云々」と書いてあるのを「デンデン」と読んで失笑をかったことがあったが、こういった覚え違いには時々出くわすものである。今は思い出せないが、私もある漢字の読み方を間違えて覚えていて、何年も経ってから何かの拍子の気がついて訂正したことがあった。

 滅多に使わない難しい漢字もあるし、読み方もいろいろあるので間違って覚えてしまう可能性もある。それに通常は振り仮名なしで使われるので、読み方がわからなかったり、間違えていても、困らないことも多いので、訂正される機会に恵まれないで済まされることにもなりがちである。

 ことに固有名詞となると、時に思いもかけない読み方をすることもあるので困ることも少なくない。普段にその地名なり人名に慣れている人たちにとっては当たり前のことなので、通常、振り仮名もつけずに使っているので、部外者にはなんと読むのが良いのか一層わからなくなる。

 地名について思い出すのは、子どもの頃親の仕事の関係で東京と大阪を行き来したが、東京にいた時は先生が大阪の枚方のことを「まいかた、まいかた」と呼び、大阪では先生が五反田のことを「ゴハンダ、ゴハンダ」と読むので吹き出したことがあった。今でも地方へ行った時など、読めない地名に出くわすことがあるが、幸い最近では道路標識にローマ字が併記されているので、それで読み方がわかることが多い。

 しかし、人名となると同じ漢字でも人により読み方が違うこともあるので一層ややこしい。「エンドウさん」と言うから、てっきり「遠藤さん」かと思ったら、「猿渡さん」であったり、次に「猿渡さん」に出会ったので、これはてっきり「エンドウさん」だと思ってそう話しかけたら、私は「サルワタリ」ですと言われたこともある。「上田」と書けば「ウエダ」と読む人が多いが、中には「カミタ」と呼ぶ人もおり、「カミタ」と呼ばれないと返事をしない人もいた。

 地名や氏名などの固有名詞はいっそのこと皆仮名書きに統一すれば良いがとも思うが、歴史的なものを引き合いに出して反対する人も多い。歴史を辿れば実際には固有名詞の漢字や読み方が途中でいつの間に変ってしまっていることも多いのだが、長年続いた漢字とかなの混合文化なので容易には変わらない。いつまでも年号と西暦が併用されているのと似たようなものであろうか。

 その上に、漢字の読み方で難しいのは漢字も生き物であるからその読み方も時代によって変わっていくことである。どの読み方が正しいかと言ってもその時代、時代の多くの人たちがどう読むかによって正しさも決まってくるものである。

 子どもの頃に喫茶店を「キッチャテン」と言うおばあさんがいて、私は間違えて読んでいると思っていつも気になっていたが、後になって「キッチャテン」と言う呼び名がなまっていつの間にか「キッサテン」と言うようになったのだと聞いて納得したことがあった。

 そんなことを言っていると、医学関係の日本語の述語には、昔漢学の素養のある人が外国語から翻訳したものが多いので、難しい言葉が多く、その読み方も難しいものが多い。そのため時代とともに誤った読み方をする人が多くなり、今では間違った読み方の方が一般に使われ、正しい読み方になってしまっているものが多い。

 以下の漢字をどう読みますか。試して見られてはいかがでしょう。

   口腔 今は コウクウ   昔は コウコウ

   洗浄    センジョウ     センデキ

   弛緩    チカン       シカン

   消耗    ショウモウ     ショウコウ

   貼付    テンプ       チョウフ

   脆弱              キジャク      ゼイジャク

   播種    バンシュ      ハシュ

 漢字も人間が使っているものなので、使う人間が変われば漢字の読み方も変わってきているのです。「・・・云々」もいつの日にか「・・・デンデン」と呼ぶようになるかも知れませんね。