最後の海軍兵学校生徒

 先日アメリカから帰ってきた娘が、スマホで私の海軍兵学校生徒だった時の名簿を見せてくれたのにはびっくりした。

 もう75年前に消滅した旧海軍の士官養成の学校のことである。当時三千人からいた生徒の個人名簿が、現在もスマホで見られるとは夢にも思っていなかった。正しく学年別、分隊別に一覧表になっていた。

 懐かしさ半分、嫌な過去を垣間見る気持ち悪さが混ざったような気になって一瞥した。もう当時の仲間たちも同じ歳だから91歳になる。名簿を見ると、もう大抵死んでしまった者ばかり、消息不明者が後に残るだけである。

 自然と古い昔に引き込まれる。敗戦の1年ほど前、旧制中学の4年生だった私は、大日本帝国天皇制の神がかりな体制しか知らない忠実な「愛国者」だったので、国の為、天皇陛下の御為には命を投げ出してでも尽くさなければと心から願い、親には内緒で兵学校の入学試験を受験し、合格したのであった。

 父親は「お前が海軍へ行くようになったら日本もおしまいだな」と嘆いたが、当時の社会ではそれ以上のことは誰も言うことも、することも出来なかった。こうして翌1945年の4月に江田島へ行き、8月の敗戦までの約4ヶ月を海軍兵学校の最後の77期生として過ごした。

 と言っても、最下級生では未だ実戦的な訓練にまでは至らず、基礎的な学習や、カッターや水泳、陸戦の訓練、それに当時はもはや瀬戸内海でも安全ではなかったので、ごく短期間の乗艦実習ぐらいなもので、急速な戦況の悪化で、空襲に備えた校舎の間引きや、山腹の地下防空壕掘りに駆り出されたり、腸チフス事件があったりで、あまり兵学校としての本来の学習は出来なかった。

 もう遥かな昔のことで、思い出も断片的なものしかないが、いくつか当時の思い出を記しておこう。

 軍隊なので、全ては命令のもとに、一斉に迅速に正しく行動することになっており、あらゆる作業が時間通りに、分隊ごとの競争のもとに行われていた。一方、生徒たちは、全国から集められており、今より生活習慣や文化が都会と田舎や地方では違っていたし、体格の良い者から小さいひ弱な者までいたが、全て同じようにしなければならなかった。

 こういう規則を強要されると、人はよくそれに適応出来るもののようで、例えば、朝は起床ラッパとともに置き、起きたらすぐ校庭へ出て整列し、点呼を受けることになっていた。いくら疲れていても、5分前ぐらいには自然と目が覚め、身構えてラッパの鳴るのを待ち、鳴るやいなやパッと飛び起き、着替えて、寝具などを片づけ整頓して、急いで校庭に飛び出したものであった。私は体は小さかったが、敏捷さにおいては他人に負けず、大抵、一番か二番目ぐらいには校庭へ飛び出していたものであった。

 また、掃除や諸々の雑事も分隊ごとの競争でこなされていたが、私は我が分隊の仕上がり具合を見て、真っ先に報告に行く役割を引き受けていた。いつも私が報告に行くので、担当の一号生徒(最上級生徒)に「貴様の分隊はいつも貴様が報告に来ることになっているのか」と言われたことを覚えている。

 このように日常の立ち回りは、都会の要領の良いチビには良かったが、体力の差で一番困ったのはカッターの訓練であった。大きなカッターの座席に座って、自分の背丈よりも長い太いオールを皆に合わせて、いっせいに漕がねばならないのである。ここでは要領を効かせる余地はない。小さな男も大男に合わせて漕がなければならない。頭より上にあるオールを握って、体をそり返して手元に引っ張り、また戻す操作を際限なく休まず続けるのは一番骨の折れる仕事であり、皆に合わせるのに必死であった。

 こうした生活が続く中で、戦況はますます悪化し、「本土決戦」「最後の決戦」に備えてということが盛んに言われるようになり、訓練も海軍の訓練というより、陸戦の訓練が主になり、「第4匍匐」といって銃口を持って地面に這いつくばって前進したり、爆薬を想定した箱を抱えて戦車のキャタピラ目掛けて飛び込む訓練などもした。

 そのうちにアメリカ軍による空襲も始まり、7月末の空襲では防空壕から出てきて見ると、江田島の湾内にいた巡洋艦の「利根」も「大淀」も沈んでいたし、重油がないので動けないので島影に隠れたいた多くの軍艦も殆ど沈んでしまっていた。

 また大和級の戦艦になる予定が、航空母艦に変更された「天城」が艤装中だったが、アメリカの飛行機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」と書かれたビラを撒いていったこともあった。もう完全にバカにされていたようである。

 それでも当時は、神祐天助があり、神風が吹いて日本は勝つことになっていたので、本土決戦、最後の一戦などと言うのはおかしなことを言うものだ、論理的に日本が勝つなら、アメリカへ攻め込んでからではないかとも思ったが、現実はどう考えても勝ち目は無くなってきているのを感じないわけにはいかなかった。

 そうかと言って表面上は「鬼畜米英、撃ちてし止まん」で、負けるとは誰も口にすることは出来なかったので、結論としては「何とかなるだろう」という無責任な言葉よりなかったことも覚えている。

 そして、やがて広島の原子爆弾投下、8月15日に敗戦、兵学校も解散となり、8月末には広島の焼け跡を通って汽車で大阪へ戻って来たが、原爆以後のことについては長くなるので、改めて書くことにしたい。4分の3世紀前の戦争の記憶は断片的になってはいても、未だに鮮明に残っている。あの歪んだ世の中だけには決して戻ってはいけない。