勝手つんぼ

 昔から老人は息子や嫁から「勝手つんぼ」だと非難されたり、野次られたりすることが多いものである。年をとると耳が聞こえにくくなることが多いものだが、大抵は全く聞こえないわけではなく、耳が遠い難聴といわれるものである。

 75歳以上の後期高齢者ともなると、半数が難聴になるといわれるが、静かな環境では聞き取りやすくても、雑音が入ると音が大きめでも聞き取りにくくなる。対面している人の話は分かっても、隣に座っている人の声は聞きづらいというようなことが起こる。

 自分が聞きたいことや必要なことはなんとか聞き取れても、どうでも良いことや重要度の低いことは余計に聞き取りにくく、老人はそんな場合は大抵聞こえたふりをしてご

まかすことが多いものである。

 若い人でも雑音の多い所や、雑音の入るスピーカーの放送などでは聞き取りにくく困ることもあるが、 耳に入ってくる音は脳によって選別されるので、注意すれば雑音の大きい放送などでも大事なことは聞き分けられて理解できることも多い。

 聴力は音の大きさや性質など、外部からの音の物理的な性質だけによるものではなく、耳に入った音が主として中脳の制御の元に処理され、皮質によって理解されるもので、音が意味のある言葉として理解されるまでにかなりな選択が働いているようである。

 年をとると実際の聴力の衰えの他に、この脳の処理能力もともに低下していることが多いようである。したがって雑音が入ると静かな環境下での場合以上に、老人は若者よりも聞き取り能力が落ちるそうである。

 最近の研究によれば、高齢者などでは、実は聴力にはまったく問題がないのに、脳が会話を素早く処理する能力が低下しているために聞き取れない場合ももあるそうである。 

 このように言葉の聞き分けには耳の聴力だけでなく脳の働きが大きいので「勝手つんぼ」も起こることになるし、若い人でも皆が一斉に「おはよう」と挨拶しても、好きな人の声だけがはっきり聞き取れたというようなことも起こるわけである。

 補聴器がメガネのようには役に立たないのもこの脳の働きによるものであろう。視力の場合にも、昔から「見えざるにあらざるなり、見ざるなり」といわれる如く、見る場合も目から入った情報が脳で処理されていることには変わりがないが、見る方は主に一瞬一瞬の空間的な情報を処理しているのに対して、聴く方は継時的な情報を処理しなければならない違いがある。

 その差が雑音の問題となり、補聴器がメガネほどには老人の助けになり難い理由ではなかろうか。メガネは対象を拡大すれば良いが、補聴器の場合は音を拡大すれば雑音も一緒に拡大してしまうからである。

 ある女性が耳の悪い老人が私らの声だけがとりわけ聞き取りにくいようなことを嘆いていたが、老人からすれば女房や嫁の文句だけが聞こえないわけではなく、年寄りの難聴は高い音ほど聞き取りにくいのが普通であり、あながち「勝手つんぼ」とは言えないものである。

 それにしても、「勝手つんぼ」は言う方にとって腹立たしいが、言われる方からすると半ば以上は意地悪でも何でもなくて、生理的とも言える老いのなせる必然の姿でもあるのである。若い人たちもそういうことも理解して対応してもらいたいものである。