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消された街

 先日ひとと食事をしていた時の会話で、私が学生の頃に北海道へ旅行した時のことが話題になった。当時、私が阿寒湖の近くの宿屋に泊まった時、今と違って昔の小さな宿であったからであろうが、今風に言えば家庭的とでも言える所で、宿の人から近くに泥棒が入り、犯人が捕まった話などまで聞かされた。

 その中で、捕まった犯人の素性について「あいつはアイヌではないが、アイヌの血が四分の一入っている」と聞かされ、思わぬ人種差別の強さに驚かされた。今では大分変わったであろうが、昭和20年の後半頃の北街道では、まだまだ倭人アイヌ人の対立の跡が残っており、人種差別の強かったことに驚かされたことが忘れられない。

 そして翌日、やはり阿寒湖からさして遠からぬ場所で、お土産用の木彫りの熊を掘っている立派な髭を生やしたアイヌの老人と話す機会があった。「どこから来たのか」に始まって、「大阪から来た」というと「私も以前大阪に住んでいたことがある。大阪は良い所だ。誰もあいつはアイヌだなどといって差別しない」と。「大阪はどこにいたのか」と聞けば「釜ヶ崎」という。

 どのような生活を送っていたのかはわからないが、「釜ヶ崎」はいうまでもなく、昔から有名なスラム街であるが、全国から流れ者などが集まって来る所なので、誰に対しても平等で差別がなかったのであろう。「大阪と違って、故郷の北街道に帰ってくると差別される」と言っていた。

 それまで大阪ではアイヌ人のことなど考えたこともなかったので驚き、なるほど人種差別はある程度の割合でその一群の人がいないと起こらないのだなと思ったことを未だに忘れないでいる。

 話はそういうことだったのだが、そこで吃驚したのは「釜ヶ崎」と言っても話している相手に通じないのである。尼崎の聞き違いかと聞き返され、西成のあいりん地区のことだと言い換えてやっと判ってもらえた。

 私にとってはいくらなんでも「東京の山谷と並んで日本の二大スラム街としてあれほど有名だった『釜ヶ崎』を知らないとは・・・」とあっけにとられた感じであった。それも、まだ世間をあまり知らない二十歳ばかりの子ならともかく、普通の大人の大阪人なら当然常識としてでも知っていることを前提とした話だったのに、一瞬違った世界に紛れ込んだのではないかという気がした。いつしか世の中は変わってしまったのだなと感じざるをえなかった。

 全国から流れ者が集まり、ヤクザや暴力団もはびこり、犯罪の多発地帯でもあったが、食い詰めた人でも誰でも受け容れ、日雇い労働や廃品回収などで生計を立てられた場所でもあったのである。度々暴動も起き、西成警察所に大勢の住民が押し寄せたりして新聞を賑わせたりもしたが、宗教関係やボランティアによる支援活動なども盛んに行われてきた所である。

 「釜ヶ崎」という名前は元々は昔のこの地域の村の中の字名から来ているようだが、実際の住居表示では早くから「釜ヶ崎」という地名は消え、通称として「釜ヶ崎」という名前が続いてきたものであったそうで、ここの住民ももっぱら「釜ヶ崎」とか「釜」と言っていたようである。

 ところが色々と悪名を轟かしたので、高度成長時代に「あいりん地区」という名称が行政から付され、以後は報道などではそちらの名前を使うような約束ができたようである。そんなことから、従来からの名称に慣れている人はそのままの名前を踏襲していたが、それより後しか知らない人たちで、その地区に直接関わりのない人は、浪速区だとか「あいりん地区」と言えばわかっても、「釜ヶ崎」と言われてもわからない人が出てきたものであろう。

 食事を運んできてくれた中居さんに聞いても「釜ヶ崎」を知らず「あいりん地区」ならわかったので、」今では「釜ヶ崎」とは誰も言わなくなったのであろうか。古い大阪人にとっては大阪の不可欠な一要素とでも言える「釜ヶ崎」が消えってしまったのでは何か寂しさを禁じえない。

 しかし、実際の「釜が崎」の現状も厳しいようで、景気の停滞や高齢化が進み、人口も3万人ぐらいだったのが、最近では1万数千人足らずに減少し、昔のドヤ街も外人のバックパッカーなどを相手にした安ホテルに変わっているところも多いとか言われている。

 こちらが歳をとるとともにいつしか世の中も変わり、あれだけ有名だった町の名前さえ消え、人々の記憶にも残らないとは寂しいことであるが、これも仕方がない世の変遷であろうか。