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現代の姨捨山

 戦後の団塊の世代が高齢化し、超高齢化時代がやって来て、それに対応する医療介護体制が間に合いそうになく、2025年問題などと言われている。ことに首都圏では大量に増える老人を前にして、その対策が破綻することがもう目に見えている。

 そこで、その対策として地方の過疎化に目をつけて、その対策としての地方創生政策と噛み合わせて、首都圏高齢者の地方移住の構想が本気で考えられているようである。

 良い組み合わせが見つかったとばかり喜んで跳びついた感じであるが、いかにも役人の考えそうな発想である。まるで品物のようにマスとしてしか人間を見ないのが官僚の考え方である。

 体力が衰え、適応力の弱い老人が住み慣れた所を離れ、環境の違う所で暮らすことがどれだけ大きなストレスになるか、対象となる老人の人間としての特性を見ていないか、見ていても無視しようとしているのである。

 よく見られることであるが、都会に住む息子たちに引き取られて田舎から出てきた老人たちが急に認知症になったり、動けずに廃用萎縮に陥って命を落とすことになっているのを見るだけでも、老人の環境の変化がどのような結果をもたらすかが分かるであろう。

 裕福な老人は良いとしても、ただでさえ多くの身体的な障害を抱えた上に経済的にも恵まれない老人たちは嫌でもこのような施策にのせられて見知らぬ僻地で最後を迎えねばならないことになりそうである。

 誰かが新聞に第二の疎開だと書いていたが、丁度戦争末期に疎開した子供たちもこの年齢層に入っているのであろう。あの時はそれでも戦争が終わってまた家に戻れたが、今度はもう戻る家もなくなり、永久の別れとなるのが哀れである。

 現に今でも東京などでは特別養護老人ホームなどが絶対的に不足しているので、貧しい老人たちが遠い他府県の施設に収容される例が多いと聞く。現代の姨捨山である。

 この政策の一環としてもう少し広い範囲の老人を相手にした構想もある。アメリカの例などを参考にしてCCCR(Continuing Care Retirement Community)などというものも考えられているようである。

 これは老人が健康な時から地方に移住して安心して老後を過ごし、ケアを受けられる設備として考えられているようだが、やはり、住み慣れた都会を離れ、勝手の違った辺鄙な所に閉じ込められるという点ではやはり体の良い姥捨山と言ってもよいであろう。

 為政者はいつの時代にも民衆を人間としてでなく政策の対象物としてしか見て来なかったようである。戦前の人口対策としての中南米への移民政策、中国侵略のための満蒙開拓団などでどれだけの人たちがその口車に乗せられて、どれだけの苦労を味合わせられたことであろうか。

 今また同じような無慈悲な政策が推し進められようとしているのである。老後の世話から死ぬまで、多くの人たちは憲法25条に書かれた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるにもかかわらず、貧困な施策に振り回されて無理やり移住させられ、多くの老人たちが見も知らない姨捨山で寂しく生を終えねばならないことになりそうである。

 アメリカに言われるままに、憲法に違反してまで我武者羅に「戦争法案」を通そうとするより先にこの国の国民の超高齢化社会の問題を真剣に考え、手を打つべきではなかろうか。