入院中、廊下で出会った八十五歳のおばあさん。「ステントを入れて貰ったのです」と言ったら「私もはいっているんですよ。それで今度はペースメーカーも入れなきゃいけないようです。コロリといければいいんですがね」と微笑んだ。
上品そうなご婦人であったが、その笑顔が何とも可愛らしかった。その笑顔は決して生きる悲しみや不安を隠そうとしているものではなく、同病者と話の出来た喜びと治療による回復の希望を含んだものに感じられた。
「そうなのだ。これが老人の心理なのだ」と思った。片方では「ここまで生きたのだからもういつ死んでも構わない。同じ死ぬならコロリといきたいと思いながらも、ステントを入れた上に、またペースメーカーを入れる手段があるならそれも利用して、もっと生きて楽しみたい」というアンビバレントな思いを抱えながら生きているのが老人の姿なのであろう。
寝たきりで、胃瘻で栄養され、下の世話までしてもらってまで生きるのは嫌なので、コロリといきたいが、今のように医療が発達してくると、やっぱりそれを利用してでも長生きをしたいと思うのが人情であろう。そうなると今では色々な救命手段が発達しているので超高齢の老人でも兎角それらを利用することになる。しかし結果は若い人と違って救命は出来ても回復は出来ないことが殆どである。
その結果が多くはコロリとは反対の寝たきりや中途半端な生き方に陥りがちなのである。人工透析も人工呼吸や酸素療法も、胃瘻栄養も、ペースメーカーもいずれも素晴らしい療法である。これらによって寿命が延びることは間違いない。しかし、それが多くの超高齢者にとって幸せなのかどうかは別の問題である。
ヨーロッパなどでは、寝たきりがいない。胃瘻栄養で生きながらえている人もいない。人工透析を受けている人も少ないなどと言われている。あちらの老人はどう違うのであろうか。安楽死などが受け入れられている国もある。
自分ではコロリといきたくても、今の医療制度に乗せられたら、いつの間にか意思に反して寝たきりや中途半端に生きざるを得ない道に落ち込んでしまう可能性も高い。救急医療に始まり、今の医療はいかに命を救うかに全力で努力するように組織されているが、回復力のない衰えた体の老人は入院しているだけでも廃用性萎縮で動けなくなることが多いものである。命は助かっても元気な状態にまで戻ることはむしろ稀である。
そこへ最近では老人の医療費高騰で財政困難に陥っている政府の何とか医療費を削りたいという思惑が絡んでくる。百パーセントの致死率の超高齢者に余分な医療費をかけたくないと思っても不思議ではない。しかし例え無駄と思える治療でも老人の意思に逆らってまで止めるわけにはいかない。
本人の意思が第一であるが、超高齢者の意思がアンビバレントで決まりにくいので、どこまで医療すべきも決め難い。それに社会的資源としての医療の限界や経済的な問題も絡んでくる。医療は共通社会資本だという意見も強い。社会的に老人の生命をどう見るかも議論は纏まり難い。
そんなことを考えると、超高齢者の個々の希望が第一と言えても、この国の今の制度の中では、老人が皆寝たきりにはなりたくないと思いながらも社会は一生懸命に寝たきりを作り出す努力をしているかにも見える。コロリと行くのも決して容易ではないようである。誰か確実にコロリといける方法があれば教えて欲しいものである。