銃後の守り??

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 SNSを見ていて驚いた。一瞬、戦時中のポスターが出ているのかと思って、何だろうと思って見返してみると、最近のものである。記載のように一般財団法人 日本防火・危機管理促進協会という所が宝くじの社会貢献広報事業として作ったもののようである。

 今にもどこかの国が攻めてくる?驚かさないで欲しい。ポスターには飛行機やミサイル、ダイナマイトに放射性物質入りのドラム缶まで書いてあって、色も戦時中を思わせるような茶褐色。まるで戦時中の銃後の守りのポスターの印象である。「武力攻撃への備えと対策」と大きく書かれていて、今にでもどこかの国が攻めてくるから準備をせよとでも言っているみたいである。

 地震や台風のような自然災害に対しては、あらかじめ準備しておくことは悪くないが、武力攻撃というからには戦争である。自然災害と違って、戦争は人間が始めるものである。戦争を防ぐには軍備よりも先に外交である。周囲の国と良好な関係を結ぶのが先である。軍備増強は近隣国の不信を買い、相手国の軍備増強を招くだけである。今どこの国が攻めてこようというのであろうか。

 現在、政府がアメリカに言われて、軍備を増強し、大量に武器を輸入するために、始めは北朝鮮の核やミサイルが絶好の危機の兆候として利用されたが、それが出来なくなったので、今度は尖閣諸島竹島、それに南シナ海までを取り上げて、一所懸命に危機を煽っているのが現状である。客観的に見れば、何処にも戦争の危機が迫っているという情勢はないし、誰もそう感じている人もいないのに、何か不安を煽られているような気がしてならない。

 恐らくこうした動きに乗って作られたポスターなのであろうが、頭ごなしに「国民保護への対応」と上から目線で書かれているが、誰が何の目的で作り、誰を対象として想定したものであろうか。これを見ると、単に人々の恐怖を煽るだけのものとしか考え難い。こんなことに宝くじの売上金を使って欲しくないものである。

 恐怖を煽って、ミサイル基地の建設や軍備拡張に協力させようという積もりなのであろうか。何だか戦前のきな臭い匂いが漂ってきてくるようで、気持ちが悪い。再び戦争中のような世界に、人々を引っ張っていこうとする邪悪な勢力が蔭で蠢動しているのであろうか。憲法違反の強大な自衛隊に、時間をかけて国民を慣らしていったように、この上は戦時体制にも少しずつ慣らしていこうという魂胆なのであろうか。恐ろしいことである。

 序でに言えば、宮古島石垣島など南西諸島に自衛隊の基地を作り、ミサイルを配置しかけているが、無防備な島には攻撃しないという国際的な取り決めもあるぐらいで、これらの島は、これまで通りなら、そのまま平和な島でいられるのに、わざわざミサイル基地などを作ると、当然、攻撃目標になって危険になるだけである。住民達にとっては何の利益にもならず、危険になるだけである。住民が反対するのも当然である。それに、ミサイルは他国への威嚇や攻撃には使えるにしても、国の防衛にとっては役に立たないのではなかろうか。

沖縄はどうなるのか?

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 24日に沖縄の辺野古基地建設反対の住民投票があり、結果は予想通り、反対が72%と住民の明確な意思が示された。ところが次の朝の25日の各新聞の朝刊の見出しを比べてみると面白い。

 沖縄の2紙は勿論、朝日や毎日、東京新聞なども「辺野古反対7割超」などとトップに掲げて大きく報道しているが、日経や産経は経済記事や海自観艦式が優先し、二番手に回っている。読売に至ってはトップは「人生100年と健康」という連載記事である。他の大新聞が社説にも取り上げているのに、読売には社説もないそうである。

 それどころかSNSでは、「読売の調査で内閣支持率横ばい49%で、辺野古反対よりはるかに数字が高いですね」などと書いている。読売に限らず、沖縄県民の住民投票に反対する人たちは、NHKをはじめ、法的拘束力のないことを強調し、「4分の1超えぐらいでは圧倒的な民意とも言えません。通知して終わりです。国としての安全保障の観点から粛々と進めていただきたいです」とか書いている。

「反対の意を示す住民投票においては、投票者における反対の割合ではなく、有権者における反対の割合に意味があります。これは一般の国政選挙とは異なり、投票自体に反対の有権者が大量に存在するためです。投票率が約50%なので反対が圧倒的という数字の独り歩きには問題があります」というのもあった。

 しかし、直接民主主義でのこの住民投票の結果は、県民投票条例で「結果を尊重」し、首相と米国大統領への通知を義務付けた有権者数の4分の1(約29万人)をはるかに超え、昨年9月の県知事選挙で玉城デニー知事が獲得した県知事選最高の約39万票をも大きく上回る43万の得票数で、沖縄県民の新基地建設・辺野古埋め立て反対の民意を圧倒的な形で突きつけたものであり、県民の歴史的勝利と言えるであろう。

 当然、政府はこれを尊重して、辺野古の埋め立て工事を一時的にでも中止し、沖縄の意見を聞き、アメリカとも折衝して、普天間の返還、辺野古の工事について新たな方策を考えるべきである。それが民主主義の基本である。沖縄の声は今に始まったものでなく戦後からずっと続いてきているもので、政府もその声を「真摯に受け止め、沖縄の民意に寄り添って」と言って来ているのである。

 それにもかかわらず、この結果の後も辺野古の埋め立ては続いているし、首相も今回も「真摯(しんし)に受け止める」と述べた一方、普天間の固定化を避ける必要があるとして「移設をこれ以上、先送りすることは出来ない」として、引き続き辺野古移設を進める考えを示すだけで、何も手を打とうとしていない。

 アメリカの国務省当局も24日取材に対し「普天間の継続的使用を回避する唯一の解決策として、日本政府とともに引き続き辺野古への移設計画を推進する」と改めて表明したそうである。日米の約束があるから当然そういうであろう。

 しかし、現地の住民がこぞって反対の意思を表明しているのであるから、日本政府はそれを受けて、憲法95条に照らしても、当然アメリカと再交渉するべきであろう。アメリカの下請け政府なのか、国民のための政府であるのかが問われているのである。

 アメリカに言われるままに、戦争の出来る国づくりに励み、何兆円にも達する武器を買い、憲法を変えてまで、自衛隊アメリカ軍に組み込んで、アメリカの手先の軍隊として戦えるようにし、トランプ大統領ノーベル平和賞に推薦することまでしながら、国民に対しては聞く耳を持たないやり方は、沖縄に対してだけの問題ではない。この国の民主主義が問われているのである。今まさに独裁による軍国主義の復活への道か、独立した平和な民主主義への道かの岐路に来ているのではなかろうか。

 今回の住民投票の結果までが無視されるようであれば、日本政府は最早沖縄を切り捨て、単に利用しようとしているに過ぎないと見なさざるを得ない。見捨てられた沖縄が生きる道は閉ざされ、独立運動が起こっても不思議ではなくなるであろう。沖縄が沖縄県であり、沖縄人が同じ日本人であるならば、日本政府は本州の人たちと同様に、沖縄の人たちの意思を尊重すべきである。

 

 

日本へそ公園

 いつの頃からか、兵庫県西脇市が「日本のへそ」とか言われ、磯崎新の設計した美術館や宇宙科学館のようなものが出来たということを写真で知り、以前から機会があったら一度行ってみたいと思っていたが、車を持たない者にとっては、交通の便が悪いので、そのままになり、殆ど忘れられていた。

 しかし、最近、以前から行きたいと思いながら行っていない所をチェックしてみた機会に思い出して、先日、女房と一緒に行ってきた。どのように行こうかと少し迷ったが、結局、JR川西池田から福知山線で谷川駅へ出、加古川線に乗り換えて、「日本へそ公園駅」へ行った。

 谷川と西脇の間は全く過疎地の電車となり、私の乗って行った電車が9時半頃その「へそ公園駅」に着いた後、次の電車は12時半しかないという惨状である。これでは時間を持て余すのではないかと心配したが、結果はなんとか充実した内容となって助かった。

 その「日本へそ公園駅」という、小さな小さなと繰り返さなければならないような、ホーム一本と出入り口の門構えだけの駅を出た所がもう日本へそ公園の中で、すぐ前に「岡の山美術館」という美術館が建っている。大型の連結列車のような細長い、美術館としては小さな建物であるが、入り口は分不相応なロマネスク調で、立派な六本の円柱が並んでおり、なかなかユニークな構造になっている。磯崎新氏の設計と言うだけに、建物全体としても、素敵である。

 円柱の間から正面玄関を入ると、真ん中に階段があり、そこを上がると二階が展示場になっている。入り口の暗幕をめくって中へ入ると、一瞬に別世界に入ることになる。壁面には横尾忠則のY字道路の絵や、昔の西脇のドローイング作品などが並ぶが、奥の次の部屋の入り口の周囲の壁は派手な装飾的図案で満たされ、そちらへ移ると、壁中の装飾に、部屋の床にはめ込まれたガラスや鉄柵なども加わって、びっくりするような派手な異空間を構成していて驚かされる。

 二番目の部屋は真ん中が吹き抜けになっていて、一階の青や緑のタイルが見下ろせ、色彩の対照が面白い。また次の三番目の部屋からは螺旋階段で下へ降りられるようになっていて、その曲線も異空間の構成要素になって、興味を倍加させてくれる。建物全体としては細長い連結列車のような感じになっていて、各部屋共に遊び心豊かで気に入った。

 この本館に沿って、とんがり帽子の瞑想室や、ブランチになったギャラリー等が付属している。美術館の外へ出て建物を廻ってみると、外側に大きく張り出した建物に通じるブリッジがあり、先ほど出てきたJRの駅の入り口がすぐそこになる。少し先には、「日本のへそ」を記念して加古川に架かる「緯度橋」が線路の上を跨いでいるのが見える。

 そして、幾らか離れた美術館の横から続く丘に、階段で登れるようになっており、丘へ上がると、これも二つの円を重ねた、両目を思わせるようなユニークな外観をした、テラ・ドームと言われる宇宙科学館や、野外の遊戯器具が並んでいる広場があり、山の上から滑り下りられる長い長い滑り台も二つあるのが見える。

 こちらの施設は主として子どもを対象といているようが、小さなプラネタリウムや、本物の天体望遠鏡も備えており、解説付きで、月や太陽、金星、土星などの惑星まで実際に覗かせてくれた。この公園の中には、その他、オートキャンプ場や、立派なレストランなどもあり、結構流行っているようであった。

 あちこち巡っている間に 、心配していた帰りの電車までの時間も忽ち過ぎて、レストランで多少急ぎ気味で食事を済ませて、12時半の電車に丁度間に合う具合になった。 

 帰りは西脇市駅で乗り換えて、加古川を経て山陽線の新快速で尼崎に至り、また乗り換えて、宝塚線川西池田まで戻った。朝、川西池田福知山線に乗って、加古川線山陽線福知山線と巡って、丁度一回りして来たことになった。

 時間があれば、もう少し西脇の古い街でも歩いて見たらとも思ったが、だだ広くて、徒歩では無理なようなので、取り止めたが、日本へそ公園あたりだけでも、特に磯崎新横尾忠則にかかる美術館が思いもかけず面白かったので、訪れただけの値打ちは充分あった。

 ことの序でに、少しだけ付け足しておくと、「日本のへそ」というのは昔の陸軍によるこの地の測量が始りで、東経135度、北緯35度の交差点を意味しているそうだが、日本の中心だと名乗りを挙げている自治体は他にも多く、それぞれの基準の決め方によって、群馬県渋川市や栃木県佐野市山梨県韮崎市、長野県辰野市、同飯田市岐阜県関市などで、「全国へそのまち協議会」というものまであるそうである。

過去の歴史を忘れてはならない

 韓国海軍の自衛隊機へのレーザ光線照射事件や、戦時中の徴用工の補償問題などで、またもや日本と韓国の関係が難しくなっている。自民党の額田氏や河野外務大臣が韓国側と接触して打開を図っているようだが、外に現れている日本の頑なな姿勢では解決は容易ではなさそうである。

 経過を新聞などで見ていると、韓国側の国民の間に未だに残る植民地時代の被害の補償を徹底してやりたいという強い願いと、日本側の政府間の外交的な処置で早く片付けてしまいたいという態度との間の矛盾が大きいようである。

 日本政府は2〜3年前の外交交渉で、国家間の補償問題などは一切済んだので、以後韓国側からとやかく言われる筋合いはないという態度で臨んでいるが、韓国側は政府間の補償問題は済んでも、日本政府も認めている個人の補償問題は別で、今尚請求権があることを主張しているようである。

 日本側から見ると、過去の嫌なことは早く済ませてしまいたいというところだが、韓国側は過去の辛い被害の思い出はいつまでも忘れられないという感情が絡んでいるところが、解決を難しくしている背景にある。

 そのため親日家でもある、韓国の国会議長が「日本の総理か天皇慰安婦被害者直接会って誤ってくれればすぐ解決のつく問題なのに」と自分の思いを語った言葉に、安倍首相までが反発して、「取り消せ」などというものだから余計にこじれてしまった。

 日本の右翼にとっては「天皇とは、何を無礼な」と色をなすが、外国から見れば、「戦争責任者の息子で、国を代表する者」に過ぎないであろう。韓国の国会議長はむしろ好意的に解決法をサジェストしたのにと心外に思ったようである。「謝るべき方が謝らないで、謝れとはけしからん」と怒るのは当然であろう。

 以前にもこのBlogに書いたことがあるが、イソップの話の中にも少年が池の蛙に石を投げる話がある。加害者の子供は軽い気持ちでやったことで、すぐ忘れてしまうが、被害者の方は命にも関わることで、いつまでたっても忘れられない出来事なのである。(2017.06.05.慰安婦問題)

 日本人も戦時中の原爆や大都市空襲の被害は決して忘れてはいけない、いつまでも伝えるべき出来事だと思っていることを考えれば、韓国の人たちが植民地時代に受けた数々の悲惨な被害を同じようにいつまでも忘れてはならないと思うのも当然であろう。

 ドイツでは、今だにナチス時代の残虐行為の記憶を見える形で残しているし、最近の移民にさえ、そのネガティーブな歴史を学ぶことを国籍取得の条件にしているようであるが、日本政府には「もう謝ったから一切済みだ」として、もはや過去に対する謙虚な姿勢がないのが対照的である。

 外交的な取り決めはお互いに守るべきである。しかし、それで過去が清算されるわけではない。植民地時代に犯したネガティーブな歴史の責任はいつまでも日本が負うべきである。安倍首相たちにはその過去に対する反省や被害者に対する思いやりが欠けているのである。

 アメリカに対しては、沖縄問題一つにしても、自国の国民の強い要望を無視してまで、低姿勢に終始して、何でも相手の意に沿いながら、他方、韓国に対してはその弱さを補うかのように、高圧的な態度で臨んでいるように見える。

 遠い将来まで見通せば、近隣国との友好はアメリカとの友好関係以上に大切なものである。韓国政府や韓国国民の思いにも、もっと心を配って対処すべきではなかろうか。

桃尻語

『「あいつウザくね?」「ハブっちゃえよ」と言ったのがバズってね』などと言われても老人にはわからない。しかしこれは新聞から取った言葉である。

 昔から新しい言葉は若者から始まるものであるが、最近は女子高校生などがスマホでLineなどを通じて文字でやり取りをすることが多くなったからだろうか、この頃はやたらとカタカナ混じりの珍奇な省略語が流行っているようである。

 それも若者の間だけの流行なら良いのだが、昔からこういう流行はすぐに大人の間でも流行るようになるもので、この間亡くなられた橋本治氏の小説「桃尻娘」から桃尻語などとも言われているようである。SNSなどを見るとこういった言葉のオンパレードである。

 流行語なのでしばらく流行っても、そのうちにまた消えていくものも多いが、中には定着して、広く日本語として用いられることになるものもあるのがこれまでの歴史である。

 この間、私の作ったカプルの人物像の作品の表題を「アヴェック」としようかと思っていたら、今時「アヴェック」とか「ナウい」などという言葉を使う人はある年代以上の人しかいないと言われて、そんなものかと気がついたが、こういう時代遅れのものは「オワコン」と言われるそうだ。「終わったコンテンツ」ということらしい。

 同じ間略語でもスポドリコスパ、コピペ、コンサル、オフレコ、サブスク、アグリ、パワハラぐらいはすぐ分かったが、「トリセツ」は何だろうとまごついた。しかし、これなどは漢字で「取説」と書いてくれればすぐ「取扱説明書」の略だと分かるのだが、スマホなどでは漢字変換しなくても良いからトリセツになったのであろうか。

 「リア充」などは「リアルな世界で充実している」ことだと、一度説明を聞かないと分からない。ましてや新聞に「えほロス」とあったが、これは恵方巻きの売れ残りが大量に捨てられることで、解説がないと理解の仕様がないが、一時的なことなので無視してもよかろう。

 また、「イヤミス」というからてっきり「嫌なオールドミス」のことかと思っていたら、嫌な気分になるミステリー小説のことだそうで、おぞましいものを「オゾミス」とも云うそうである

 昨日は「カスハラ」と言われて分からなかったが、カストマー・ハラスメントのことであった。次から次へ出てくるとカタカナ混じりに間略化された桃尻語にはとてもついていけないが、最近はインターネット上だけでなく、新聞などの文字文化の中にまで、こうした間略語が入り込んで来ているので、嫌でもある程度は付き合わざるを得ない。

 最近どんどん増えてきている我々よりは少し若い老人世代はどう対応しているのであろうか。もう半世紀ほど先に、この国ではどんな言葉が使われているのであろうか興味が尽きない。

国民に恥をかかせる安倍首相

 アメリカのトランプ大統領が日本の安倍首相がノーベル平和賞に推薦してくれたことを発表し、安倍首相もそれを認めた。初めはフェイクニュースではとも思われたが、本当であった。トランプ大統領は安倍首相から送られた5ページに及ぶ推薦状の写しを見せたそうである。

 それには日本国民を代表して推薦すると書いてあるそうである。まさかと思うでしょう。ごく一部の人たちは安倍首相のこの行為を支持するであろうが、多くの日本人がこのような知らせを聞いて、どんなに恥ずかしい思いに駆られたか、首相は分かっているのだろうか。

 トランプ大統領は国際協調路線に背を向けて、アメリカ第一主義を掲げ、ロシアとの中距離弾道ミサイル制限条約からも脱退し、せっかく成立していたイラン核合意からも抜けて制裁に復帰するなど、国内国外から反対の声が強い大統領で、およそ平和とは程遠い施策を進めているのにである。

 そんな人にいくら頼まれたからといって、日本国民を代表してノーベル平和賞に推薦するなど、あまりにも軽率ではなかろうか。世界の前で、日本国民に大恥をかかせたようなものである。

 そこまでして、トランプ大統領に忠誠を尽くさねばならないのだろうか。国民の前では居丈高な首相でありながら、アメリカ大統領に対しては、まるで飼われたポチではないか。多くの国民は穴があったら入りたい気持ちではなかろうか。

 それに、安倍首相にしてもトランプ大統領の言うように、北朝鮮からのミサイルが飛ばなくなって、日本国民が安心して眠れるようになったことを認めるなら、何も高額なイージスアショアを2基も買うことはないし、100機を超える戦闘機も要らないことになるのではなかろうか。この矛盾をどう考えたら良いのだろうか。

 同じノーベル賞でも平和賞の場合は多分に政治的な絡みがあるので、安倍首相も親族になる佐藤栄作元首相が貰ったことも考慮に入れたのかも知れないが、それでも国民としては、安倍首相が国民を代表としてでなく、総理大臣個人として推薦したことにして貰いたいものである。

好ましい外国人と好ましくない外国人

 最近は2020年の東京オリンピックを視野に入れて、観光日本、観光日本の呼び声が盛んに聞かれるようになって来た。咋年は外人観光客が二千万人を突破したようで、オリンピックの年には四千万人を目指そうという話もある。

 そのための宣伝パンフレットやテレビなどのコマーシャルのようのものも増えて来た。しかし、いつも思うのは、これらに出てくる外国人というのはほとんどが欧米人で、アジア系の人の姿は滅多に見かけない。観光以外のコマーシャルでもモデルになっているのは大抵欧米人で日本人のモデルよりはるかに多い。

 ところが、実際の観光客の大部分はでアジアからの客で、一番多いのは中国人である。心斎橋などを歩いても「今日は」と声をかけるよりも「ニーハオ」と言った方が通じそうな人ばかりといってもよいぐらい。最近は顔つきや服装も日本人と区別がつかない。言葉を聞いて初めて判別がつくのが普通である。日本にとっては大のお得意様とも言える。

 それなのに、中国からの観光客に対する日本人の評判は決して良くない。それどころかネットなどを見ると、嫌韓、嫌中のおぞましい書き込みなどが溢れている。やかましい、行儀が悪いなどと毛嫌いする人も多い。しかし、これまで日本より発展段階の遅れていた中国の人たちを今の日本人と比べるのは酷であろう。

 一頃の日本人はパリへ行ってもどこでも「よっこいしょ」と行って腰をおろすし、マナーが悪いといって非難されたものである。中国からの観光客も一頃は団体客ばかりだったが、最近は個人客が多くなったし、顔つきや服装も昔の農村から飛び出て来たような日焼けした顔の人はあまり見かけなくなった。日本でも田舎から出て来た人でも節くれだって日焼けした手の女性を見ることがなくなったのと同じであろう。

  中国の嫌いな人も直接個人的に中国人と付き合う機会を増やすと良いであろう。文化の違いはあっても、日本人と同じで、良い人が多いが悪い人もいることがわかる。人口が十倍だから素晴らしい人も日本で一人なら中国では十人いることになる。とにかく隣の大国である。学ぶべきことも多い。親切に付き合わねばならないのは当然であろう。

 韓国の人も多いが、最近は嫌中、嫌韓の流行で、ネットなどでは韓国の人にめっぽうもない罵詈雑言を浴びせている人も多いが、もともと日本人の大多数といっても良い人が先祖を同じくしている間柄なので、韓国人に対する悪口はご先祖様をけなしているようなものであることを知るべきであろう。隣人は大切にもてなすべきである。

 もはや日本の人口は減るばかりであるのに対し、アジアに人口は今後も増え、経済的な発展も素晴らしく、アジアの文化を受け入れ、アジアの若い人たちのエネルギーを吸収し、上からの目線でなく、同じ目の高さで接することが今後ますます必要になるであろう。経済的にも文化的にも、今更「脱亜入欧」ではこの国は世界の発展に取り残され、アジアの孤児になってしまうであろう。

 観光客だけでなく、もっと多くの分野でアジアの人々との人的な交流を深めるべきであろう。ところが人口減少で労働力確保のために嫌でも外国人労働者を受け入れなければならない事態なのに、その受け容れとなると途端にこの国の態度は冷たい。

 外国人労働者技能実習生という名の下、低賃金、重労働の仕事につき、非人間的扱いを受けていることは周知の事実だ。厚生労働省も2014年だけでも、実習実施機関に3918件の監督指導を実施。そのうちの76%で労働基準法関係法令違反があり、最低賃金のおよそ半分である時給約310円での業務従事や、月120時間の残業、さらには安全措置が講じられていない就労があったこともわかっている。

  政府の移民や外国人労働者受け入れ態勢は対象者を下働きの労働力としてしか見ず、人間として考えていない。定住されるのを嫌がり、期間限定の研修生などと称して、ひどいところでは、パスポートまで取り上げ、低い賃金で、まるで奴隷に近い扱いをしているところもあるらしい。

 このような見下した対応は日本人の下士官根性、上にへつらい下に傲慢、アメリカにへつらい、アジアには傲慢といった態度にも関係があるのではなかろうか。しかし時代は急速に変化しつつある。大事に扱わなければいつかしっぺ返しがくるものと思わなければならない。

 今後のアジアの発展を考えるならば、アメリカ一辺倒の従属関係を少しづつでも改め、アジアとの関係を良好なものにしていく必要があるのではなかろうか。それが今後の日本が生きていく唯一の道のような気がする。外国人といえばアメリカ人の時代は過ぎた。これまで外国人とは見ていなかった外国人も、同じ外国人とみなすべきであろう。

 やはりアジアでは国土の広さや位置、人口、経済的な発展などからいっても中国が中心であり、それを軸に西欧文化を取り入れた新しいアジア的な文化が作られていくのであろうが、その中での日本の立ち位置や役割を考え、今から一歩一歩その足場を固めていくことが必要なのではなかろうか。