水と空気はタダだった

 小学校に集団登校する子どもたちを見ていると、皆がランドセルの他に水の入った魔法瓶や水筒を肩からかけているのが分かる。まだ一年生ぐらいの小さな子供が大きなランドセルを背負い、水筒を肩からかけ、おまけに何やら入った手提げ袋まで持って登下校している姿を見ると思わずご苦労さんと声をかけたくなる。

 私の小学校の頃は水筒など持って行ったことは一度もなかったし、手提げ袋など持ってもいなかった。水はどこでも飲めるので、水筒など遠足に行く時の他は用がなかった。

 小学校には、どこにも運動場の端に水飲み場があり、いくつかの水道の蛇口が並び、何人かの子供が同時に使えるようになっていた。 各の蛇口ごとに、アルミのコップがチェーンで蛇口に結び付けられていた光景が今も懐かしく思い出される。

 休み時間や放課後に走り回って喉が渇いたら水飲み場に行って、コップで水を飲むのが普通であった。水はタダだったし、水道の水は安全だった。

 当時は大都市の郊外でも、まだ水道が敷設されていない所もあり、そういう所では井戸水が活用されていた。水道のある所でも井戸水はなまだ広汎に使われていた。田や畑などの水やりは当然のこと、農家でない家でも、風呂の水や暑い時の打ち水、掃除の水などには広く井戸水が使われていた。

 井戸水の方が水道水より冷たいからと言って、スイカなどを冷やすにはもっぱら井戸が使われていた。ただ、市街地が発展してくると、伝染病などが流行り、赤痢菌などが地下水を通じて井戸水が汚染される恐れが大きいということで、井戸水の飲用が禁止されたこともあった。

 当時は、空気と水はタダが当たり前のこととして考えられていたので、フランスでは水道の水が硬水なので、そのままでは飲まない方が良いらしく、瓶詰めの水をお金を出して買わなければならないのだという話を聞いて、フランス人は可哀想だな、こんなにガブガブ飲む水にまでお金を払わなければならないなんて、日本にいて良かったなと思ったものであった。

 それが今ではどうだろう。もう日本でも殆どの人がコンビニやスーパーで水を買って、それを飲み水にしているのではなかろうか。資本主義が發達すると、最低限のコモンである、皆の共有物である水までが商品化され、お金を出さなければ手に入らなくなっているのである。

 昔は山で薪を拾ってきて家庭の燃料にするのもタダで、自由に処分して良かったが、今では薪も有料でしか手に入らないのと同じである。資本主義が何にでも価値をつけて商品化するわかりやすい例であろう。罷り間違えば、将来のある時には、空気までお金を払わなければ手に入らなくなるかも知れない。

  既に空気ではないが、酸素は既に商品として売られている。酸素吸入などの医療関係だけではなく、酸素カプセルだとか酸素ルームと言われる有料の酸素供給施設があり、疲労回復に良いとかで営業している所もあるし、逆に低酸素室で運動耐用力を上げるとしている施設もある。以前には、大気汚染が問題になった頃も、酸素ルームが話題になったこともあった。酸素ルームは1回50分で5,000円だそうであある。

 今は酸素でしかも小規模だが、資本主義時代が続けば、いつか空気も「お金を出して新鮮な空気を吸いましょう」と言う時代が来ないとも限らないであろう。