浅間山荘事件から50年

 新聞を見ていたら、今年で浅間山荘事件から50年だそうである。そう言えば、沖縄返還も同じ1972年の5月のことであったし、田中角栄が中国へ行って周恩来と会い、日中共同声明を出して日中国交が正常化したのもその年の9月のことであった。

 まだ最近あったことの様な気さえするが、50年はあっという間に過ぎてしまっているのである。丁度、浅間山荘事件の山場の2月28日は、偶然、父の喜寿の祝いのために、箕面に当時あった鶴屋という料亭で家族が一堂に集まっていた日であったので忘れられない。料亭の部屋のテレビで皆で固唾を飲んで見入っていたことをよく覚えている。大きな鉄球で建物を壊して機動隊が突入する場面が今も忘れられない。当時のテレビの視聴率が89.7%もあったそうで、その記録はいまだに破られていないそうである。

 あれから時代はずいぶん変わってしまった。思えば赤軍とか中核派などといっった話は今ではもう遠くなり、産業形態の変化もあって、今では人々はバラバラにされ、ストライキの話さえ殆ど聞かなくなってしなってしまっている。平和憲法も何処へやら、直接戦争にさえ繋がる政府の敵基地への先制攻撃の閣議決定にさえ反対の声は弱い。

 その時の父が七十七歳だったわけだから、仮に今生きているとしたらもう127歳ということになる。息子の私がこの正月がくれば数えで96歳になるのも当然であろう。その時の料亭の鶴屋もいつしかなくなり、マンションに建て替えられてからでさえもう久しい。

 当時集まった家族も、今やあらかたいなくなり、まだ子供だった娘たちがもう還暦の年周りで、孫たちでさえ三十歳近くとなり、今や世界中に散らばってしまっている。

 その時、復帰した沖縄も、戦争末期のあれほどの犠牲に報われることもなく、未だに米軍占領時とあまり変わらず、多くの日本人の沖縄への関心もまるで外国の事の様に冷たく、沖縄の人々の悲しみは深い。その上、最近では更に沖縄の前線基地化が進められ、再び沖縄を戦争の犠牲に供しようとさえされ始めている。

 その背景にある米中関係の悪化に伴い、日中関係も悪化しつつあり、中国に対する世論の評価も悪くなり、折角の日中国交50周年記念の年であるのに、相互の交流もうまくは進んでいない。すぐ隣の大国で、経済的にも最大の貿易相手であり、文化的にも古代からの深い繋がりがある国なのに残念である。それどころか、今やアメリカに乗せられて「台湾有事は日本の有事」とまで言われ、このまま進めば、戦争に巻き込まれかねないか心配である。

 日中国項正常化を成し遂げた田中角栄が「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない、戦争を知らない世代が政治の中枢となった時はとても危ない」と言っていた言葉を思い出さずにはおれない。

 

 

 

 

 

 

 

19日から