モノからコトへ

 「モノからコトへ」というのは、主としてマーケッティングの世界で言われる言葉らしく、モノが豊かになり競争が激しくなったところでは、更にモノを売るには単にモノを売るだけでなく、人々が好みや楽しみを満足させるコトのために求める商品作りが必要だというような意味で使われることが多いようだが、最近では、商売を離れた一般の生活様式にもその傾向が顕著になってきている。

 一昔前までは若者はお金の工面をしてでも、新車を買って女性を誘ってドライブに行くとか、他人の持っていない高級時計だとか、カメラを買ったりして自慢するとか、モノに対する欲求が強かったが、最近の若者は車を買うよりレンタカーで済ませ、生活を切り詰めてでも、それぞれに自分の好きなコトに金を使って、生活を楽しむ傾向が強いようである。

 戦後の何もなかった時代から、経済復興、高度経済成長の「会社の時代」にはモノを作ることだけが目的のごとくに、社会にモノが供給され、多いこと、大きいことが良いことで、会社人間には自分の生活の豊かさを顧みる余裕はなかった。必要なモノを手に入れることが全てで、それに伴うコトはモノに付随するものに過ぎなかった。お金にならない趣味などは片隅に追いやられたり、忘れ去られていたと言っても良い。

 しかし高度な経済成長期を経て、物余りの時代や、バブルの崩壊などを経験すると、人々は漸く精神的な貧しさに気付かされ、今度は最低限の生活が確保されさえすれば、有り余るモノよりも、自分のしたいコトに惹かれることになっていったのであろう。

 時代の変化に敏感な若者たちに、こういう変化は先に起こるからであろうが、我々からすると孫の世代に当たる若者たちを見ていると、そんなことをしていて将来どうするつもりなのだろうかと心配するような生活をしている人が多い。

 音楽に打ち込んで、バンドを組んで金にもならないあちこちでの演奏を続けている人もいるし、変わった絵を描いてあちこちで個展を開いているが、あれで食っていけるのか心配になる人もいる。その他にも落語家になったり、いつまでもボランティアのようなことばかりしているとか、孤島に住み着いてダイビングなどに興じていたり、山が好きで山小屋に住んでガイドをしているとか、いろいろいる。

 時代が変わり、社会も変化して我々の知らない今後の時代を生きていく若者たちなのだから、おせっかいに我々の時代の基準を押し付けない方が良いのだろうが、それでもやはり気になる。

 こういう傾向は若者に限ったことではなく、最近では社会一般の傾向としても広がってきているのではなかろうか。団塊の世代が定年を迎えるようになってきてからこの波は老人社会にも次第に押し寄せてきているように思われる。

 老人こそ、もはや断捨離の時代で、物欲の時代は過ぎているのである。定年退職などで仕事を辞めてしまうと、今更新しいものを買う必要も意欲もなくなる。必然的に関心はモノよりコトに向かわざるを得なくなるのであろう。それまで出来なかった旅行をしたり、何か趣味を始めたりすることになりやすい。

 世間の様子を見ても、随分変わってきたことに驚かされる。まだ10年ぐらい前には音楽会などに行っても、来ているのは女性ばかりで、わずかな男性は白髪頭やハゲ頭の人ぐらいで、若い男性は関係者以外は皆無といったのが普通であったが、ここ数年の間に急速に変わってきた感がある。

 最近、近くの小ホールで室内楽の演奏会を聴きに行ったが、満席の五〜六十人 の会で、平日の午後ということもあったが、来場者は老人ばかりで、男性も結構多かった。近くの別のホールへ行った時も同様であったし、私の絵のグループに新たに加わったのも定年過ぎの男性である。ツアー旅行に行っても、以前より男の老人が増えているようである。

 今や旅行やスポーツ、ハイキングや登山、書画工芸、音楽、芸能その他ボランティア活動なども含む、あらゆる方面で、それぞれの人がそれぞれに自分にあった趣味に打ち込み、自分の人生を豊かにしていることこそ、この国の文化であり、平和な国の象徴とも言えるのではなかろうか。

 若者も年寄りも含めて、社会がモノの時代からコトの時代になったことは、この時代の貧困化とも無関係ではないかも知れないが、それだけ社会に文化が定着してきたことを示すものでもあり、これも平和な時代が続くからこそ可能になったものであろう。我々戦中戦後を経験した者にとっては、今を知らず、あの時代に死んでしまった人たちに申し訳ないような気がしてならない。

 もう後は次の世代のことになるのであろうが、この国では、今また周辺国の脅威を煽り、軍備を増強し、国内世論に圧力をかけて、戦前復帰のような雰囲気が意識的に増強されてきているが、折角定着しかかって来ているこのコトの時代を大切に守り育てていくために も、戦争に反対しあくまで平和を守っていくことが必須である。

 我々の先輩たちが、短命に終わった大正デモクラシーを懐かしがった、あの長い惨めな戦争の時代を、決して再び繰り返すことのないようにして貰いたいものである。戦争はモノもコトも全てを破壊してしまうものである。