人は具合の悪い時には言葉を言い換えて具合の悪さを誤魔化そうとする。家族や友達の間でなら場合によってはそれも許されようが、仕事の場合などでは責任が伴うだけに言い換えで誤魔化して切り抜けようとするよりも、はっきりと本当のことを言って事態の局面を解決するよう努力しなければ、結局自分が追い込まれるだけでなく周囲にも迷惑をかけることになる。
ましてや政治のことになると誤魔化すための言い換えの影響は大きい。過去の歴史を見ても日本が中国への侵略を始めた時には、宣戦の布告もしていないので戦争を事変と言って済まそうとした。満州事変、上海事変、支那事変など、どう見ても戦争しているのに戦争と事変とどう違うのか私にも子供心に疑問であったのを覚えている。
その後、「東洋平和のため」が、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」に発展して「大東亜戦争」に突入したが、そのうちに連戦連勝の皇軍が負けだすと「退却」が「転進」となり、「全滅」が「玉砕」に、しまいには戦争に負けたのに「敗戦」と言わずに「終戦」と言い、「占領軍」は「進駐軍」。やがて再軍備が始まっても平和憲法があるので「軍隊」ではなくて「自衛隊」、「戦車」でなくて「特車」と言われた時代もあった。
役人は言い換えの名人である。法律の名称を見ればその苦労の後が分かる。いつも名前で誤魔化して自分たちの思いを遂げようとして来たようである。
うっかりすると誤魔化されそうになることもある。同じ原子力について英語では Nuclearというひとつの言葉を、時と場合によって都合の良いように「原子」と「核」に使い分けることまでしている。また「国際的貢献」というから世界に広く貢献することかと思えば、アメリカの言うことを聞いてアメリカに貢献することだったりもする。
こんな言い換えはいくらでもあるが、ただ「平和」とついた言い換え語が流行りだした時には注意が必要である。戦争の時には必ず平和のためと言われるのが歴史の常識だそうだからである。平和を掲げないで戦争をしたのは近代国家ではナチスドイツぐらいだとか。「東洋平和のためならば」と歌にもされ、何度聞かされたことだろう。その結果があの惨めな戦争であった。
それがどうであろう。最近またぞろ法律にまで「平和」、「平和」が目立つようになってきた。これまでより軍事介入に深入りしようというのが「積極的平和主義」であり、どう見ても戦争に関連した法案が「国際平和支援法」や「平和安全法制」であったり、「国際平和共同対処事態」が考えられたり、とまるで平和の安売りが始まりそうである。
ここまでくれば戦前の歴史からすると、戦争が大分近づいて来たことを感じさせられる。しかし、武力で対処して平和は守れるものではない。次に本格的な戦争が起これば、もう勝っても負けても人類そのものの滅亡も考えねばならないだろう。アジアの情勢を考えれば、イラクやアフガニスタン、中東などの局地戦ではすまない地球規模の戦いになることは必定であるからである。ましてこの小さな島国はまず全滅するであろう。
戦争が始まるには幾つかの段階があるが、ある程度進んでしまうともうどうにも引き返せなくなるものであることを歴史は教えてくれている。現在本当に「平和」のために重要なことは軍備より、先を見越した外交にもっと力を注ぐべきである。