大河の一滴

 鴨長明方丈記のように、人生を川の流れに例えたものは多い。美空ひばりの「川の流れのように」という歌もある。幸田文さんの小説にも「流れる」といったものもある。その他にも多くのものがあろうし、人生を川の流れに例えようとするのは誰しも考えることであろう。 

 多くは抽象的な「人生」を抽象的な「川の流れ」に対比したものであるが、もう少し細かく、自分を流れる水の一滴に擬して、大きな川の流れの中での運命を案じたものもある。私もいつ頃だったか忘れたが、自分を川の流れの水の一滴に例えて、その運命について描いたことがあり、大河一滴というペンネームまでつけてみたこともある。

 人類の歴史を大きな川の流れにたとえ、その流れの中のほんの微小な水の一滴を自分の人生に擬したものである。自分という小さな水の一滴が、滔々として流れる大きな川の流れに乗せられて、良くも悪くも、時には本流の中の一滴として大きな流れと一体となって流されて行くが、時には岩にでもぶつかって、跳ね飛ばされて本流から外れ、空中に舞ったり、流れの外に落とされて消滅してしまうこともある。あるいはかろうじて傍流としてひっそりとして流れるようなこともある。そうしたことを繰り返しながら、行方も知らず流されて行かざるを得ない必然性に、自分の運命を重ねた表現である。

 短い人生の間に個人がなしうることは本当に限られている。その時々の小さな周囲の環境の中で、いろんな条件に振り回されて、一所懸命働きかけても自分で出来ることはごく僅かなことに過ぎない。歴史の大きな流れの中で、組織や環境に支配されて、否応なしに流されていく中で、個人のささやかな喜怒哀楽を繰り返しているうちに、無情な時の流れや、大きな運命が予測も付かない所に連れて行ってしまうのである。

 方丈記の書き出しはもう少し小さな流れを指しているが、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」という書き出しである。天災や飢饉の続いた世の無常感を表したものである。

 ところで、最近たまたま新刊の雑誌を見ていたら、村上春樹が「猫を捨てるーーー父親について語る時に僕の語ること」(文藝春秋2019.6月号より)という一文が目に入った。そこで、著者が人の生を雨粒の一滴に喩えて書いているのを見て、また大河の一滴を思い出した。興味があったので、ここに引用させて貰っておくことにした。

「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。例えそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこういうべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」

昔の電車の車掌さん

 昨日電車に乗っていて、どこかの駅で止まった時のこと。どこの駅でもよく見られる風景だが、ドアが閉まって発車する間際に、慌てて乗ろうとした二人組の目の前で、ドアがピタリと閉まってしまって、二人は無情にもホームに取り残されてしまった。

 その時、急に若かった頃の駅の光景をに思い出した。昔は発車間際にホームへ駆け上がって、待ってくれと言わんばかりに、閉まりかけた電車のドアに駆け込んだことがよくあったものだった。

 昔の電車は今ほど混んではいなかったし、電車の回数も今より少なく、連結車両数も少なかったこともあったためか、車掌さんも、僅かなことなら待ってくれることもあったものであった。それも「可愛い女性が走って来たら、車掌さんは待ってくれるが、憎さげな男だったら、間に合うものでも、早くドアを閉められてしまう」などと言い合ったりしたものであった。

 まだ知らない都会の中でも、人の温もりを感じる機会が多かった時代だったのである。 それが今では、駅のホームには絶えず「駆け込み乗車はお止め下さい」とアナウンスが流れているし、電車の運行システムも巨大となり、鉄道会社の管理も厳しくなり、ことに鉄道は安全第一でなければならないので、ちょっとしたことでも、融通を利かせるゆとりが無くなってしまっている。

 その方が利用者にも便利だし、複雑化する都会のシステムを確実に動かしていくためには、規律は厳密に守るのが当然であるが、JR宝塚線の尼崎で起きた事故のように、わずかな遅れをとり戻すための速度超過が返って脱線転覆に繋がるようなことにも配慮すべきであろう。

 丁度この事故のあったすぐ後でイタリアへ行ったが、イタリア人が「イタリアでなら1分や2分の遅れなど全く問題にならないのに・・・」と言っていたのを思いです。

 もうこちらも歳をとっているので、今更駆け込んで電車に飛び乗るほどの元気も無いが、社会の組織がどこもかしこも複雑で頑丈なものになるにつれ、ゆとりがなくなり、人間的な接触が薄くなってしまったのも仕方がないことであろうか?走ってくる乗客をちょっと待ってくれた車掌さんがいた頃が懐かしく思い出される。

杖歩行も色々教えてくれる

 脊椎間狭窄症で右足が悪く、杖を使うようになってもう一ヶ月になる。大分慣れてきたというか、身についてきて、最早、杖は必需品で置き忘れるようなこともない。

 つい先日は、杖仲間という一文を書いたが、杖をついて歩くようになると、それがまた色々なことを教えてくれるものである。先に書いた杖仲間の一体感というか、同病愛哀れむというか、弱者同士の連帯感のようなものを感じるのも一つだが、他にも色々教えられることがある。

 まずは忍耐である。私はもともとせっかちな方で、年を取っているのに歩くのが早いと言われてきたが、足が悪いと最早そういう訳にはいかない。今や大勢の人の流れにさえ、ついていけない。そのためにイラつくこともあるが、足が悪くてはどうにもならない。ゆっくり歩くより仕方がないが、以前だったらさっさと行けた距離の所が、遠く遠くなり、前方を見ては歯がゆくなるばかり。

 そうかと言って、どう足掻いてみても、足が良くなるわけはない、そのうちに諦めて、じっと我慢して、自分のペースでゆっくり行こうと自分に言い聞かせることになる。昔の誰かの言葉に、「いくら遅くても、目的地に向かって、一歩一歩進んでいけば、時間はかかっても、必ず目的地に到達出来るものである。」というようなのがあったのを思い出した。幸い、今は時間もたっぷりある。ゆっくりでよいから確実に進もうと言い聞かせて、自分のペースでゆっくり歩くように心がけている。足が悪くなって、少しは忍耐力がついたであろうか。

 更には、杖は黄門さんの印籠みたいなものでもある。杖をついてヨタヨタ歩いていると、他人は必ず道を開けてくれる。電車に乗っても、杖を持っていると、席を譲ってくれる頻度がずっと高くなる。足が悪くなると、他人の善意がひしひしと感じられる。そんなことを経験していると、人間の性善説を信じたくなってくる。

 序でに言えば、杖のような目印のない、外見からは分かり難い、体の内部の障害者が気の毒になる。最近は身障者用の札などもPRされ始めているが、これなどは是非もっと広めて、わかり難い障害者の人たちが、もっと社会の助けを得られ易いようにしたいものである。

舅姑夫の三人介護の村一番の嫁の最期

 敦賀で舅、姑、夫の三人を介護していた71歳の嫁が三人の首を絞めて殺したとして逮捕されたというニュースが新聞に載っていた。両親はともに90代、夫も数年前に脳梗塞を患い、足が不自由だったようである。

 田園地帯の一軒家で、夫は建設業を営み、本人は夫を会社まで運び、自分も仕事をし、昼前には家に帰り、食事や身の回りの世話など、3人の介護をしていたそうである。しかも、義父は流動食で、排泄の世話も本人がしていたという。要支援1と2だった由。 義母は週一回ぐらいデイサービスに通っていたが、自治体などへの支援の相談はなかった。

  娘二人が家を出てからは、四人の暮らしが10年以上続いていた。夫婦仲も良かったそうで、地元の住民らによると、義父、義母ともに「村一番の嫁」と褒めていたと言われる。「あんな優しい人はいない。愚痴一つ言ったこともない」と言われるぐらいであったが、最近は世話するのがしんどいとこぼすようになっていたとも。

 こういう田舎の古くから続く家庭では、嫁や息子が両親の面倒を見るものだという意識がまだ強く、多重介護、老老介護で大変であっても、嫁の立場からは施設に入れたいとは言えない。

 こういう条件を考えるなら、この嫁は犯人というより”犠牲者”と言わねばならないのではなかろうか。過疎化の上に、高齢化の進む田舎では、都会以上に福祉などの社会的支援は手薄なだけでなく、人々は都会以上に旧来の陋習にとらわれざるを得ず、忠実に生きようとした結果が、このような悲劇を引き起こしたのではなかろうかと考えざるを得ない。

 この事件は決して偶然起こったものではなく、社会の構造の歪みの綻びであり、同じような事件が他に起きても決して不思議ではない。人間はどんの試練にも耐えられるほど強くはない。犯罪は処罰されるべきだが、人間の弱さを補うのが社会であり。国であるのではなかろうか。

 最近の朝日歌壇にも下記のような歌があった。

「障害をもつ娘との日々疲れ果て我が身も病んでそれでも我が娘」

 このような悲劇の記事に心を動かされて、同じ新聞に載っている、安倍首相の「桜を見る会」の権力を私物化しての税金を使った後援会や反社会的な人物までの招待や、それに対する追及への傲慢とも言える逃げの対応を見ると、思わず強い憤りが湧いてくるのを抑えることが出来ない。

足を引きずり嵐山の秋へ

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 今年の秋は10月の末から脊柱管狭窄症になったらしく、歩くと右足が痺れてきて、途中で一服しないと先へ進めないようになってしまった。年を考えれば仕方がないが、来秋にはひょっとしたらもう紅葉を見に行けなくなるかも知れないと思い、足が悪くても行けるうちに、紅葉を楽しんでおきたいものと、先日は箕面へ出かけたが、今度は朝のテレビで嵐山の紅葉を写していたのを見て、急にまた行きたくなり、早速女房と一緒に出かけることにした。

 足の都合があるので、嵐山といっても、JRの線路を越えて、常寂光寺や二尊院、落柿舎あたりまでは無理だろうから、川沿いに少し歩いて、天龍寺ぐらいまで回って来てはと思って出掛けた。最近、渡月橋の近くに福田美術館というのが出来たというので、そこを覗いて見るのも一つの目標であった。

 阪急で嵐山まで行き、ゆっくり歩いて中之島に辿り着き、ベンチに座って一休み。天気も良かったので大勢に人で賑わっていた。半分以上が外国からの旅行客のようであった。渡月橋の袂で、若い中国人らしいカップルが河原に降りて三脚を立てて、自分たちの写真を撮っていた。昔、女房とよく外国へ旅行に行ったことを思い出し、恐らく、あのカップルもそんな感じなんだろうと思ったりした。

 渡月橋も満員の感じだったが、人波について何とか休まずに渡ることが出来た。そこから川に沿って左へ進み、最初は福田美術館に入る予定だったが、入り口が分からず、そのまま進み、宝巖院まで行き、その入り口から庭園に入った。この庭も紅葉と苔で有名なだけあって、大勢の見物客で賑わっていた。紅葉は丁度見頃で、夜間参観も実施しているようであった。

 しかし回遊式に通路が決まっているので、人々はスムースに流れ、私たちは休み休み、ゆっくりと紅葉を楽しむことが出来た。この宝巖院のお庭の紅葉の写真が初めに掲げた写真である。また、平成に出来た新しい本堂では、お寺にはそぐわないような幻想的な田村由里子の襖絵を見ることも出来た。

 宝巖院を出て、紅葉のトンネルになった道を通って天龍寺へ行く道があるが、紅葉には堪能したことだし、足の事も考えて、無理をしないで、そこから静かな、こんな所に住んでみたらと思われるような裏道を通って、福田美術館へ着いた。

 ここはアイフルの社長が集めた日本画を展示した、まだ最近出来たばかりの美術館で、建物は元日建設計にいて、箱根のポーラ美術館を手がけた人の設計だとかで、モダンなガラス張りのような建物で、小高い所にあるので、そこからの保津川の眺めが素晴らしいらしい。ただ、ここも混み合っていたので、少し見物するだけで、また河岸へ出て帰ることにした。

 帰途も休み休みで、中之島ではホカホカの赤い焼き芋を食べたりした。それでも全行程で1万歩ぐらいにはなるが、何とか行って来れた。早昼を済ませて出かけ、帰宅したのが2時半だったのでわずか3時間ぐらいの行程だったが、十分心行くまで嵐山の紅葉を楽しみことが出来た。

スポーツジム

 時々西宮北口の兵庫芸術文化センター(PAC)の音楽ホールへ行くことがあるが、北口の駅からホールへ行くブリッジの通路の横に、大きなスポーツジムがある。ガラス張りのジムなので、広いガラスの向こうで、こちらを向いて並んで、多くの人が一斉にマシーンに乗って、トレーニングをしている姿が目に入る。

 通路に面してトレッドミルが何十台も並んでおり、大抵、多くの人がこちらに向かって機械の上で走っているのが、ガラス越しに見える。その周りを壁に沿ってランニング用のコースがあるのか、時に部屋の外縁に沿って、一生懸命走っている人の姿も見られる。

 いつもそこを通るたびに、トレッドミルで走っている姿を見ると、昔、子供の頃によく見た、リスが滑車に乗って、それを際限もなく、一心に回していた姿を思い出さずにはいられない。

 同じ走るなら、何もリスの真似などしなくても、気持ちの良い公園にでも行って、オープンな空間の中で、良い空気を吸いながら思う存分走った方が、ずっと気持ちが良いだろうと思うのだが、今の時代の現役世代は、中々そうもいかないらしい。

 毎日の過密なスケジュールをこなしていくには、朝から夜遅くまで仕事があるし、客の接待で飲み食いの時間も多い。一日中、事務所の中にいては、体を動かす機会も少ない。歩けるのは通勤や社内での移動ぐらいで、その歩数も限られる。

 健康のために運動しなければと判っていても、体を動かす機会を作ることは少ない。そのような中で、時間を作って効率的に運動をするためには、スポーツジムへ行くのが一番効率的なのかも知れない。そういう風潮を商業主義が煽り、それに乗せられた文化が作られ、一層人々をスポーツジムへ向かわせることとなる。

 平素運動をする機会がないので、ここへ来ることが健康法だという信念が出来ることになる。そうなると中には、車でジムへ来て、運動をして、そそくさと、また車で帰るという人さえ出て来る。自然を奪われた都会人の、人工的な生活の一環とでも言えようか。

 スポーツジムの効用を否定する積りはない。定量的に運動を測定することも出来る。どれだけ運動をしたか、効果が上がったかなども判る。それを知って安心できる部分もあるであろう。

 ただし、体を動かすことの好きな人には良いが、公園で走るのと違って、お金がかかるし、忙しいので長続きしにくく、三日坊主で止めてしまう人も多いらしい。ただ、こういったジムは月払い、年払いの前金制度をとっているところが多いので、払ったお金がもったいないというのが、多くの人が何とか続けていける理由だとかとも言われている。

 仕事に振り回されて、運動をする機会を奪われた、サラリーマン達の弱みに付け込んだ商業主義が、運動産業を押し付けて、スポーツジムが繁盛する姿を見ていると、これが本来の人間の生活の進むべき方向なのかと、ふと疑問が湧いてくるのを止めようがない。

 

杖仲間

 最近街を歩いていても、如何に杖を持っている人が多いことか。家の近くでも、梅田あたりの繁華街へ出ても杖を使って歩いている人に必ず出会う。

 私も歳をとって転ぶことが多くなり、転ばぬ先の杖と、念のために杖を持って外出する機会が増えたが、最近は脊椎間狭窄症なのか、二〜三百米も歩くと右足が痺れた痛くなり、一休みしなければならなくなって、杖仲間に加えて貰うこととなった。

 自分が杖仲間になると、杖をついた人が余計に目につくものである。昨日など、近くの通りで杖をついて歩いていると、向こうから若者に付き添われた年寄りが杖をついてトボトボとやって来る。と思ったら、今度は脇道からこれも杖をついた老人が出て来て、三人の杖つきが出くわしてびっくり。高齢社会になったものである。

 過日は、駅の近くの通路の角で向こうから来る人とぶつかりそうになって道を譲ったが、杖つき同士はお互いに相手の事が分かるからか思いやりがあり、お互いに道を譲り合い、思わずお互いに微笑んで会釈をし、気をつけて行ってくださいねと言いながら通り過ぎたのであった。

 そのようなことがあったので、道で杖をついた人に出会った時には、そちらに目をやってちょと会釈をするようにすると、向こうも必ずと言って良い程、にっこりとした笑顔が帰ってくるものである。何も言わないでも、以心伝心で、相手への思いやりが伝わるのであろうか。

 杖を持つに至った事情はそれぞれに千差万別であろうが、杖を持つ人は皆杖を持たねばならなくなった他人には言えない苦しみを秘めているものである。それが同じ杖を持った人と接すると、自然と相手の心情のどこかに響くところがあり、何か反応があると思わず同病愛哀れむような心情がくすぐられるのであろうか。

 杖を持つぐらいのことで、健全な人に自分の不自由さを訴えるわけにもいかないので、普通、誰しも黙っているが、やはり、杖を持たないでさっさと歩けるのと、杖に縋らなければならないのとでは雲泥に差があるものである。杖を持つだけでも、そう感じるぐらいだから、もっと強い肢体の不自由を持つ人たちが、どれだけ人には言えていない苦しみを抱えているかが想像される。

 自分に困ることがあれば、他人の困ることも理解しやすくなるようである。