NHKの正午のニュース

 秋の彼岸の今日、台風が日本海を北上していたので、NHKのテレビは盛んに台風17号のニュースを流していた。最近は天気予報の精度も上がり、テレビの画面も詳しくなって、台風の中心が何処にあり、風速15米の範囲や風の方向などまで、刻々変わる変化を詳しく見せてくれるのでよくわかる。

 昔の「今日は晴れるでしょう」とラジオが言った途端に、外を見ると雨が降り出したというような、私の子供の頃とは雲泥の差である。最近は、それでも災害があちこちで起こるので、天気予報に、災害時の避難の呼びかけや注意の喚起がやたらと多くなった。それも台風が来た時などは、四六時中と言っても良いぐらい、気象状況の放映が繰り返されている。

 今日も朝から繰り返し台風17号のニュースを流していた。早昼を食べながらも、また台風の進路や風の状況などについての長い解説や注意事項などを聞いていた。やっとそれが終わって、12時になったので、昼のニュースを聴こう待っていたら、ニュースはまた台風のことから始まり、長々と台風情報が続いた。

 つい先ほど聴いたたばかりのニュースなので、次の普通のニュースはと思って待っていたら、やっと始まったニュースは韓国の法相の疑惑を検察が追求しているとかのニュース。最近どのテレビでも韓国のニュースがやたらと多い。よその国のスキャンダルなどどうでも良い。それより日本のニュースをもっと見せて欲しいと言いたくなる。

 今やテレビを見ている日本人はハンサムな韓国の法務大臣の名前は皆知っているのに、日本の法務大臣の名前も顔も知っている人がどれだけいるであろうか、疑問を呈したくなるような状態ではなかろうか。

 このテレビの昼のニュースも、台風情報以外は、この韓国の法相の件と、何処かでの殺人事件の話が簡単に述べられただけであっけなく終わってしまった。まるで日本は平穏無事で、政治の問題も、社会や経済の問題も何もないかのようである。最近のテレビは政府に都合の悪いことは出さないことになっているのであろうか。

 NHKは受信料を集めて運営されている公共放送で、政府のための広報機関ではないはずである。台風情報ももちろん必要だが、もっと日本のニュースを流すべきである。新たな大臣の政治基金の問題や、消費税増税の迫っている問題、アメリカからのとうろこし輸入の問題、台風15号の被害の問題などと、新聞にもたくさん載っている問題がテレビでは十分取り上げられていないのではないか。

 正午のニュースぐらい、もう少し色々な問題のニュースを流してもらいたいものである。

人災なのに誰も責任を取らない

 去る9月19日、東京電力福島第一の原発事故をめぐり、旧経営陣の勝俣元会長ら3人が業務上過失致死罪で強制起訴された東京地裁で被告たちに無罪の判決が下った。

 裁判も人間の行うものであり、裁判は法律によって決まるものであるから、種々の条件により影響されるものであり、必ずしも客観的に正しい判断が下されるものとは限らない。

 この原発事故については、単に東日本大震災による不可避の自然災害によるものではなく、国会の事故調査委員会の調査の結果でも「事故は自然災害でなく、明らかに人災である」と結論されているものである。

 津波対策にしても、国会で既に2006年頃から共産党の吉井委員が繰り返し対策を危険性を指摘し、対策を要求しているのにも答えず、東電自体でも、15米の津波を想定しながら、対策を取らなかった経緯がある。

 他でも原発に対しては、あちこちで危険を想定した裁判が行われた歴史もある。これらが全て無視されて建設された原発が、現実には安全ではなく、事実として災害を起こしてしまったのである。

 この災害の責任を取るものが誰もいないということは、裁判の判断が如何であれ、明らかな人災であるにも関わらず、誰にも責任がないと結論づけるものであり、将来の重大事故の予防ためにも由々しきことである。

 多くの人が命を失い、家を追われ、今尚知らない土地で暮らし続けなければならない人々の責任を誰が取ろうというのか。小さな人災については、誰かが責任を取らされるのに、国家的とも言える大きな人災がうやむやにされても良いのであろうか。

 東電が起こした事故であり、原因もはっきりしているのに、誰も責任をとる者がいないとは驚くべきことである。二度とこのような災害を繰り返さないためにも、単に法的な措置だけでなく、原発のあり方を含めて根本的に再考しなければならない。そのためにもこの事故の責任を明らかにして、はっきりと総括することが不可欠である。

 決してうやむやに終わらせてはならない問題である。

昔と今の喫茶店

 先日、久しぶりで古くからの友人と昼食を共にし、その後、近くの駅ビルにある喫茶店で長い間話をしたりして、時間を潰した。

 昔は駅の近くの裏通りのような所に、行きつけの個人経営の小さな喫茶店があったりして、そこで人と落ち合ったり、ゆっくり話したり、一人で来て、時間の調整をしたり、ゆっくり休憩したりしたものであった。

 場合によっては、そこのマスターやマダムと顔見知りになって、話し込んだり、レコードを聴いたり、ゲームをしたりと、街の喫茶店は人によりいろいろと利用されたものであった。

 外回りの営業マンなどは、そういう所を隠れ家と決めて、そこに居れば何処からも呼び出されず、ゆっくり息抜きが出来るようにしていたこともあった。

 そういう希望を満たすかのように、大抵の喫茶店は店の装飾などにも気を使って雰囲気を出し、ゆっくり出来るように低めのテーブルとゆったり座れる椅子などのセットも用意していたものであった。

 しかし、今ではもうスマホなどの発達で、何処にいようが呼び出され、昔のような隠れ家は無くなってしまった。隠れ家どころか、ノートパソコンなどで何処ででも仕事が出来るので、喫茶店はリラックス出来る所というより、報告書などを仕上げる職場?になってしまているようでもある。

 喫茶店の方も、個人経営のような店は廃れ、スターバックスその他の大型チェーン店といった、機能的で効率の良い店ばかりになってしまった感がある。

 店の構えも不必要な装飾などはなく、事務的となり、席に座ってから係の女性が注文を聞きに来るような制度もなくなり、真ん中のカウンターへ行って自分で注文し、自分で持ち運びするように、効率的になっている。

 私たちが行ったのもそんな所であった。殆ど座る席もないぐらいに混んでいたが、壁寄りに小さな丸テーブルと椅子二つの席が空いていたのでそこへ座った。

 丁度、店の一番端にあたり、ゆっくり話をしながら店の構造や客の様子などを観察するのに最適な場所であった。

 すぐ前には8人がけの大きなテーブルがあり、すべて占拠されていた。見ると一組の仕事仲間らしい二人が並んで座り、二人ともノートパソコンを開いて何か仕事をしているようで、時々話を交わしていたが、後の6人は皆おひとりさまのようで、それぞれがパソコンやスマホを見て何かしていた。

 ノートらしいものを開いて、必死に教科書らしきものの書き写しのようなことをしている男性がいるかと思えば、学生らしい女性は教科書らしきものを開いて勉強しているようだったが、そのうちに机にもたれ込んでしばらく寝ていたようであった。

 皆一人で来ているようで、それぞれ黙って自分の仕事を片付けているようで、誰ひとり一言も喋らない。少し離れた別のテーブルに若い女性が4〜5人集まって話に花が咲いているようだったが、あとは店中押し黙っていて、話し声ひとつしない。

  最近の喫茶店は殆どの人がひとりで来て、ひとりで何かをしながら、コーヒーでも飲むように出来ているようである。以前に書いたことがあるが、名古屋のその店などは、大きなテーブルの真ん中に衝立が端から端まであり、周囲から邪魔されないような個人的な空間が確保されており、一見、喫茶店というより図書館といった方が相応しいような雰囲気であった。

 時間が経つとともに、徐々に人の入れ替わりが起こっていたが、見ていると、入って来る人も殆どがひとりである。それらの人たちは入ってくると、先ずは席を確保し、そこに自分の荷物を置いて、カウンターに行って注文するようである。

 日本は安全な国だと言われるが、こんな光景を見ていると本当の良い国だなと思う。知らない人ばかりの所に入って来て、空いた席を見つけて荷物を置き、そのまま直接視野も届かないカウンターに注文に行くのである。

 外国では考えられない行為である。外した席に残された荷物など、後から入ってきた人が黙って持っていても、誰も気がつかないのではないだろうか。ところが日本ではそれが当たり前で、誰しも心配しているような気配さえ見えない。

 皆ひとりで来て、ひとりで注文し、品物を自分で運び、黙って飲んで、ひとりで仕事をし、済んだら言われなくても、自分の飲んだものやトレイを規定の場所にしっかり片付けて店を出て行く。よく躾けられたものである。それを守らない人もいないし、文句を言う人もいない。

 この間ユーチューブで見たところだが、中国のスターバックスではこうは行かないようである。机の上に足を乗せていた女性に他の客が注意したところ、女性が切れて大騒ぎになった事件があったようだが、こちらではそんな光景とは、それこそ天と地ほどの違いである。

 しかし、それを見ているうちにふと思った。何か日本の今の社会を象徴しているようで、空恐ろしい気さえしてきた。皆が羊のようにおとなしい。特段、強い命令や要請がなくとも、決められたことは黙ってその通りにこなしてくれる。これほど為政者にとって有難いことはないのではなかろうか。

 日本では昔からムラ社会の伝統があり、村の掟は言われなくても守り、いつも右を見、左を見て忖度し、周囲に同調して行動し、世間のやり方に反対するようなことをしないと言われている。この喫茶店における行動なども、ひょっとしたらその延長線上にあるのかも知れないという疑問であった。

 ついこの間の関東地方を襲った台風の後、運休の後の朝の出社時、電車に乗るために 終わりのないぐらいにどこまでも続くサラリーマン長蛇の列を思い出した。それまでして、大人しく皆が会社に行かねばならないのだろうか。

 そう言えば、あの戦争による破滅も、政府から強制されたというより、社会全体が上を見て忖度し、お互いを見ても忖度しながら、皆が同調してあらぬ方向に進んで行ってしまった結果だったのではなかろうか。

 思い過ごしであれば良いが、今また社会が静かに、同じような怪しげな方向に動き始めているような気がしてならない。 そんなぼんやりした不安を感じながら、悠に2時間ぐらいはゆっくりと、友人と途切れ途切れの話をしながら、周りを観察して時を過ごしたのであった。 

 

 

 

優先座席

 九十二歳ともなると、電車でも立っていると疲れるし、よろけて危ないので、出来るだけ座りたいという思いと、駅のホームに着いた時に階段が近いこともあって、最近出掛ける時には、いつも同じ車両の優先席に行く事になる。

 もちろん、ラッシュアワーなどは混んでいるので、出来るだけ避けるようにしているが、それ以外の時間帯なら、他の席が詰まっていても、優先席は案外一人分ぐらいは空いていることもある。

 空いていなくとも、若い人が座っていて席を譲ってくれることも多い。しかし、面白いことに、私の経験では、譲ってくれるのは殆どが女性である。たまに若い男性が譲ってくれることもあるが、殆どは学生で、サラリーマンが譲ってくれることは先ずない。

 サラリーマンは眠ているか、スマホに夢中で、前に老人が立っていることに気がつかない人が多い。日本のサラリーマンは疲れているので、そっとしておいてあげることにしている。

 それにしても、日本ではまだまだ男尊女卑の観念が根強く残っているようで、席を譲る風景を見ているだけでも、その執拗な名残が感じられて面白い。

 ある時中年の女性が席を譲ってくれたので、お礼を言って座らせて貰った。その時は女性が一人で乗っているのかと思っていたが、そのうちに隣の男性と話をして何かを手渡したりするではないか。夫婦で乗っていて、嫁さんの方が譲ってくれたのであり、一緒に乗っていた男の方は、全く我関せずと座っていたので気がつかなかったのであった。

 また昨日は、他の電車で、二十歳代の女性が優先座席の前へ行くなりさっと立って席を譲ってくれたが、見ると若い男性とのアベックであった。その君はさすがに自分も立とうと思ったのか、体を少し動かしたが、女性が席に立ったので、そのまま座り続け、女性の鞄を膝に持ってやったりしていた。

 いずれもアメリカなどでは考えられない風景なので驚いた。幾ら何でも、一緒にいる女性が立って席を他人に譲ろうとしているのに、男の方が黙っていて代ろうとしないのが、未だに日本では常道なのであろうか。

 それよりもっとひどい光景も、先日見た。電車に座っていて何となく車内を見ていた時、若いカプルが並んで立っているのが見えた。とある駅で、二人に立っているすぐ前の席が一つだけ空いた。横から見ていて、当然男が女を座らせるのだろうと思ったら、男が平然と座り、女がその前に立ち、男が女の持ち物を自分の膝の上に置いた。それがごく自然に行われていたのが、何かすごく印象的であった。

 また、つい二、三日前に見た地下鉄内での風景を思い出した。電車は比較的空いていた。コーケジアンのカップルが端の優先席に座っていたが、男の方は電車が駅に着くごとに、乗って来る人に席を譲らなくてはならないかと思って立ち上がっては、譲るべき人のないことを確かめて、また座る動作を繰り返していたが、隣の女性は全く我関さずの感じで、体一つ動かさずにスマホを眺め続けていた。

 アジアの他所の国ではどうか知らないが、中国での経験では、地下鉄に乗る時には、我先にと押し合い圧し合いで乗るが、中に入ると、儒教の影響があるのか、こちらが老人と見るや若い人が席を譲ってくれたのを覚えている。男女の関係については知らない。

 こういう人々の行動を観察していると興味が尽きない。それぞれの行動には、それぞれの長い文化の歴史や背景があるので、一概にどれが良いとも言いにくい点もあるが、やはり男女は同権で、誰もが周囲の弱いものに配慮する文化が好ましい気がするがどうであろうか。

アマゾンの熱帯雨林の火災

 最近アマゾンの熱帯雨林の火災が問題になっている。地球上の酸素産生の20%にも及ぶと言われる広大な地域の火災で焼失する雨林が、近年大きくなっており、地球の温暖化にも影響してくるので、それを抑えるよう国際的な問題として取り上げられているとか新聞に出ていた。

 その原因が、最近のブラジル大統領による景気回復のための、アマゾン開発計画であるとも言われており、ブラジル政府も鎮火のために軍隊を派遣するようなことも行なっているようだが、環境保護団体などが非難しているものの、簡単には解決出来そうにないらしい。

1月から8月までの焼失面積だけでも九州より広く、すでに昨年の1年分を超えた由であるが、

 もともとアマゾンの熱帯雨林は原住民の焼畑農業で、昔から人為的に燃やされてきているものらしく、住民によると、「野焼きをしないと私たちは生きていけない」と憤っているそうである。 

そこへ開発業者が入り込んで不法伐採なども行われ、余計に事情が複雑化しているようなこともあるらしい。また気候変動の影響もあって、自然災害としての火災も加わっているとかである。

 もともと、こういう広大な熱帯雨林では、植物による酸素産生も大きいが、繁茂した植物があれば、その朽ち果てた枯れ木や代謝産物も多くなり、それを処理する動物や微生物による炭酸ガス発生も多く、焼畑農業も加わり、大森林が必ずしも大きな酸素供給源になっているわけでなく、酸素産生の効果はそれほど大きくないという説もあるらしい。

 詳しいことはわからないが、先進国がブラジルなどの熱帯雨林開発に反対するのは果たして妥当かどうか疑問に感じないわけにはいかない。先進国と言われる国々も長い歴史の中で、林を切り開いて農業を進めた上で、今の先進国となっているのである。先に開発をした先進国が、遅れて開発しようという国にこれ以上開発するなという権利はないであろう。

 地球温暖化の原因が熱帯雨林の開発による縮小や消失であるとしても、先進国のなしうることは開発を妨害することではなくて、自分たちも犠牲を払って後進国の開発による負の結果を分かち合って、先進国、後進国に関係なく、ともに協調して地球温暖化対策などを含めて、地球規模の対策を考え、実行するより他ないのではなかろうか。

 先進国が先に荒らした地球を、後進国に荒らすなということは出来ない。地球全体でともに考え、ともの工夫し、絶えなばならぬことにはともに耐え、平等に対策を講じるべきであろう。 

オリンピックに旭日旗を持ち込むことを禁止しよう

 朝日新聞によると菅義偉官房長官は9月5日午前の記者会見で、来年の東京五輪パラリンピックの競技場に旭日(きょくじつ)旗の持ち込み禁止を求める韓国側の動きについて「旭日旗は国内で広く使用され、政治的宣伝とはならず、持ち込み禁止は想定していない」と述べたという。

 旭日旗については、韓国国会の文化体育観光委員会が、東京大会の開催期間の前後に競技場で旭日旗をあしらったユニホームを着たり、旭日旗を持ち込んだりして応援することを禁ずるよう、国際オリンピック委員会(IOC)と大会組織委員会に求める決議を採択したという報道について述べたものである。韓国内には「日本軍国主義の象徴」と反発する声が根強くあるからであろう。

  以上がオリンピック競技場への旭日旗持ち込みについてのニュースである。

 この韓国の動きに反発した菅官房長官の発言はあまりにも子供じみているのではなかろうか。日韓関係がこじれている時に出てきた問題なので、単純に感情的に反発しただけのものかもしれないが、政府を代表した発言としてはあまりにも思慮に欠けているのではなかろうか。

 日本では、 招致の際、国際オリンピック委員会総会の壇上に立った滝川クリステル氏が発言して以来、「おもてなし」という言葉が、同大会のキーワード的に使われることが多くなっており、2013年の新語・流行語大賞にも選ばれているぐらいである。

「おもてなし」は、言葉の通り、客の「もてなし」の丁寧語。しかし、ただのサービスとは異なる。「もてなし」の語源は「モノを持って成し遂げる」だが、「おもてなし」は「表裏無し」、つまり表裏がない心で客を歓待するという意味が込められている。この精神こそ、古来より息づく日本人の心、そのものではないだろうかと言われている。

 『「おもてなし」は、ただのサービスとは異なる意味を持っています。例えば、レストランで出されるおしぼりや旅館での布団の準備は「サービス」ですが、その際に「ゆっくりとお寛ぎください」といった言葉をかけることは「おもてなし」にあたります。』などとも解説されてもいる。 

 そして今、日本では東京オリンピックパラリンピックの開催に向け、そんな「おもてなし」を実現するための様々な取り組みが、各地各所で進んでいると言われている。

  それを考えると、果たして旭日旗を持ち込むことが「おもてなし」に合致する行為であろうか。ホスト役がまず最初に心得るべきは客に嫌な思いをさせないことであろう。

 韓国の人たちがIOCに言ってまで拒もうとする旭日旗を禁止しないのは果たして「おもてなし」の精神と一致するのであろうか。旭日旗を嫌う人は韓国だけでない。中国や東南アジアで、かって戦禍にあった国々の人たちの間にも多いのではないかと考えざるを得ない。

 然も他方、旭日旗はオリンピックに必須なものではない。日本選手の応援には国旗があれば十分ではないか。わざわざ嫌がる人のいる旭日旗を使って客をもてなすほど礼を失することはないであろう。「おもてなし」の精神から行けば、たとえ韓国の動きがなくとも、気を使って旭日旗など、嫌がる人がいることが想像出来るものは排除して応対するのが「おもてなし」ではないだろうか。

 単なる韓国の動きに反発した旭日旗持ち込みOKというのは、あまりにも子供じみた、いじめにも繋がる、狭量な判断ではなかろうか。旭日旗を使わなくても何ら不都合が生じるわけではないのである。オリンピックを政治的に利用することも、ナチスによる1940年のオリンピック以来禁止されていることでもある。

 それを押してまで、旭日旗をオリンピックの会場に持ち込んでは、「おもてなし」を台無しにするばかりでなく、日本が世界の笑い者にもなりかねないのではないかと恐れる。日本政府としての態度が問われるところである。

我が家の蝉の変遷

 毎年夏には蝉の声が欠かせない。私が子供の頃は夏になると、まず初めに「にいにい蝉」が鳴き始め、そのうちに「油蝉」が全盛の時代になり、夏が進むにつれて「クマ蝉」や「ミンミン蝉」も混ざるようになり、お盆が過ぎると「法師蝉」の「ツクツクホーシ」の鳴き声が聞かれるようになり、夏の終わりが告げられるという印象であった。

 「にいにい蝉」は少し体が小さく、木の幹の下の方に留まることが多いので、素手でも捕まえ易かったが、少し小型で灰色がかり、斑点状の羽をして、鳴き声もあまり魅力的でなく、いつも「油蝉」のお供え物のような感じで、「油蝉」が出てくると、関心はそちらに移って行くのが普通であった。

 その頃は庭の蝉といえば「油蝉」が殆どで、「クマ蝉」や「みんみん蝉」は少なく、子供の蝉取りの収穫では、「油蝉」が普通で、「クマ蝉」や「みんみん蝉」を捕まえると自慢したものであった。これらは「油蝉」と違って羽が透明で肢体が美しいので、ひとクラス上に数えられていた。

 子供の頃のそのような印象から、毎年庭で鳴いている蝉は今でも「油蝉」が大部分だとばかり思っていたら、今年の夏に気が付いたのだが、いつの間にか「油蝉」が減って、「クマ蝉」がやたらと多くなった感じで驚かされた。玄関先や庭に落ちた蝉を見ても「クマ蝉」ばかりで、「油蝉」を見かけないことに驚かされた。以来注意して見ていてもやはり、昔あれほどいた「油蝉」が減って、「クマ蝉」が増えていることは間違いがないようである。

 それに最近は「にいにい蝉」をすっかり見なくなってしまった。注意して見ているわけではないので詳しいことは分からないが、私自身はもう長く「にいにい蝉」を見ていない。

 さらに今年は「ツクツクボーシ」の鳴き声が聞かれたのが、たった1日だけだったことにも驚かされた。例年、「法師蝉」が鳴き出すのを聞くと、もう夏も終わりかと、何か急き立てられるような気持ちにさせられたものだったが、「法師蝉」の鳴き声を一度しか聞かないのは何だか気が抜けたようで寂しかった。

 「みんみん蝉」も今年は減ったようで家ではあまり聞かなかったような気がする。ただ、昨日、箕面の滝まで行ったが、滝道では「みんみん蝉」も「法師蝉」も「ひぐらし」までが沢山鳴いており、何だか安心した。「みんみん蝉」や「ひぐらし」はもともと山の蝉のようである。

 いつも蝉の鳴き声に気をつけているわけではないが、ふと振り返ってみると、蝉の生態にも変遷があるようである。「クマ蝉」はもともと熱帯地方の由来のものだが、地球温暖化の影響なのか、最近日本では北の方まで増えているということが何かに書かれていた。それに押されて「油蝉」や「にいにい蝉」が少なくなったのであろうか。

 蝉の生態を積極的に調べたわけではないので、どれだけ正確かはわからないが、印象では確かに我が家の界隈の蝉の生態は昔とは変わって来ているようである。地球の自然の変化や、人類の行動や文化の変化とともに、昆虫たちの世界にも静かな変化が進んでいるのであろう。

 昔は箕面の山は昆虫の宝庫とも言えるぐらい、色々な種類の蝶やとんぼ・蝉や兜虫などが豊富で、箕面の駅前では電車が着く毎に「昆虫採集の人は集まりください」というメガホンの声が響いていた時代もあったのだが、今では箕面の昆虫といっても、昆虫館の標本や飼育されている蝶々ぐらいになってしまっているのが寂しい。

 その変化を見れば、我が家の周辺の蝉の生態の変化も当然のことで、時代の移り変わりを感じざるを得ない。