人災なのに誰も責任を取らない

 去る9月19日、東京電力福島第一の原発事故をめぐり、旧経営陣の勝俣元会長ら3人が業務上過失致死罪で強制起訴された東京地裁で被告たちに無罪の判決が下った。

 裁判も人間の行うものであり、裁判は法律によって決まるものであるから、種々の条件により影響されるものであり、必ずしも客観的に正しい判断が下されるものとは限らない。

 この原発事故については、単に東日本大震災による不可避の自然災害によるものではなく、国会の事故調査委員会の調査の結果でも「事故は自然災害でなく、明らかに人災である」と結論されているものである。

 津波対策にしても、国会で既に2006年頃から共産党の吉井委員が繰り返し対策を危険性を指摘し、対策を要求しているのにも答えず、東電自体でも、15米の津波を想定しながら、対策を取らなかった経緯がある。

 他でも原発に対しては、あちこちで危険を想定した裁判が行われた歴史もある。これらが全て無視されて建設された原発が、現実には安全ではなく、事実として災害を起こしてしまったのである。

 この災害の責任を取るものが誰もいないということは、裁判の判断が如何であれ、明らかな人災であるにも関わらず、誰にも責任がないと結論づけるものであり、将来の重大事故の予防ためにも由々しきことである。

 多くの人が命を失い、家を追われ、今尚知らない土地で暮らし続けなければならない人々の責任を誰が取ろうというのか。小さな人災については、誰かが責任を取らされるのに、国家的とも言える大きな人災がうやむやにされても良いのであろうか。

 東電が起こした事故であり、原因もはっきりしているのに、誰も責任をとる者がいないとは驚くべきことである。二度とこのような災害を繰り返さないためにも、単に法的な措置だけでなく、原発のあり方を含めて根本的に再考しなければならない。そのためにもこの事故の責任を明らかにして、はっきりと総括することが不可欠である。

 決してうやむやに終わらせてはならない問題である。