現代の日本

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 最近SNSを見ていたら、こんなのがあった。丁度現在の日本を象徴しているようで、興味深かった。 災害の復旧や、国民の生活よりもオリンピック。オリンピックのためには災害復旧などは遅れても、不十分であっても良い。オリンピックのためなら、国民が嫌でもサマータイムでも何でもする。オリンピックに反対する者は非国民。オリンピックで国威発揚するのだ!と言わんばかりの図である。

 地球の気候状況の変化に伴って、今年は猛暑で、台風も多く、その被害も大きかった。今後の国民の安全のためには、この際必要なことは地震や台風などの避難などの情報伝達の方法だけではなく、もっと根本的な治山、治水対策ではないか?200年に一度の災害にも備えるべきではないか。被災者に対する保護や救援体制ももっと整備すべきではなかろうか。

 緊急避難場所の整備では日本は遅れているそうである。学校の体育館での雑魚寝が普通で、トイレ不足が一番の問題とも言われるらしい。そのため早めの避難を呼びかけても効果が上がりにくく、自分の車などで寝泊まりして、エコノミー症候群で亡くなる人もあり、その他の劣悪な環境のために災害関連死とされる人たちもあるのが実情のようである。

 上の写真を上下比べてみると、あまりにも極端な対比に驚かされるが、このような仮設住宅にさえ入れる人は幸運ということもあるらしい。入れても多くは期限付きで、期限が過ぎたら追い出されるようである。オリンピックに浮かれるより、もっと先にするべき大事なことがあるではないかと思うのは私だけであろうか。

 オリンピックより先にすべきことは、オリンピックのための国論統一でも、憲法改正でもないでしょう。多様性の時代であり、いろいろな意見のあるのが民主主義だし、憲法改正も決して急いでやる必要はないであろう。大部分の国民も急いではいない。

 それより、国民の切実な願いは国民ををもっと大事にして欲しいということではないだろうか。自然災害は被害を受けた人たちの責任ではない。これこそ、国には国民の安全を確保する義務があるのである。オリンピックより、憲法改正よりも先に、国民を保護するのが国であり政府の責任である。基本的な政府の存在意義とも言えるのではなかろうか。

 国の最大限出来ることがこの写真の対比まででしかないのであろうか?自然災害に対しての備えはここまでが限度なのだろうか。もし、国の力がそこまでなら、むしろオリンピックは返上するか、延期した方が良いのではなかろうか?

眼輝閃光

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 眼輝閃光といっても多くの方にはわからないであろう。これは偏頭痛に関係が深いもので、閃輝暗点ともいって、偏頭痛の発作が起こる前兆として時に見られるようで、見え方は人によっても異なるようだが、例えば、上の図のように、眼の前の視野の周辺にギザギザとしたような光の輪のようなものがチラチラ光り、ひどくなると目を開けてられなくなるが、目をつむっても消えないもので、そのうちに頭痛がひどくなってくるもののようである。

 なぜこんなことを取り上げたのかというと、最近初めて「回転生のめまい」を経験した序でに、つい以前から経験してきたこの珍しい現象である、眼輝閃光のことを思い出したからである。そう言えば最近はあまり起こらなくなっているが、すっかり出なくなったわけでもない。

 60歳を過ぎた頃からであった。パソコンを見ている時に、そんな眼輝閃光に見舞われるようになり、始めは一時的な目の疲れかなというぐらいに思ったが、そのうちに時々起こるようになり、パソコンを見過ぎたような時ではなく、むしろ朝などに多く、寝不足などとも必ずしも関係しないようであった。

 これが見られるようになると、そのために画面が見えなくなるわけではないが、そのチカチカに妨げられて、ゆっくり画面が見えなくなる。邪魔になって、うるさくなって、どうしようもない。目をつむっても、暗い中で眼輝閃光は依然として続き、どうにも逃れようがない。しばらく仕事から離れて、消えていくのをじっと我慢して待つよりない。

 ところが私の場合、これが起こっても偏頭痛は起こらない。若い頃に時々、突然起こる偏頭痛に悩まされたことがあるので、始めの頃は、そのうちに偏頭痛でも起こるのではないかとか、脳腫瘍の兆候かもと気になったが、偏頭痛は全く起こらなかったし、脳腫瘍なども、その後に調べた頭のCTなどでも異常がなかったので否定しても良さそうである。

 調べてみると、偏頭痛を伴わない眼輝閃光も結構あるようで、特別心配はいらないことを知って安心した。そういうことがわかれば、次に起こっても、また来たかと思うぐらいで、仕事を邪魔されるのを苦々しく思っても、今度は両眼だなとか、今度は早く消えたななどと心配せずに、しばらく休憩を取ることが出来るようになった。

 何故だか、最近はあまり起こらなくなったが、それでも先日少し見られたので、すっかり消えてしまったわけでもなさそうである。九十歳の老人ともなれば色々あって当然なのであろう。悪い病気や危険につながるものでなければ、無くならなくても、むしろ、時に経験させてもらえる非日常的なエピソードとして、死ぬまで一緒に付き合わせてもらおうかと思っている。

 

 

サマータイムに反対しよう

 オリンピックと猛暑が重なるので、サマータイムを導入して朝の早い時刻から競技を始めるようにしようという案がオリンピック委員会あたりから出され、政府もそれに乗り気で、衆議院議員の船田元氏などが自分のサイトなどで意見を述べているようである。

 それに対する反対意見も多いようだが、今から毎日のようにマスコミをあげてオリンピックのことで騒ぎ立てている状況から見ると、自民党あたりからサマータイムにしろという声が上がり、法案として国会に上がってくる可能性も小さくはないようである。 

 サマータイムについては戦後GHQの要請で、日本でも既に実行された経験があるが、結局、日本ではなじまないとして3年か4年で取り止めになった歴史がある。

 それをなぜまたオリンピックのために取り上げなければならないのか。誰でも疑問に思うのが当然であろう。オリンピックは選手たちのスポーツ競技であるから、それを開催するためにスポーツ選手が活躍しやすいように配慮するのは当然である。

 しかし、オリンピックは「東京オリンピック」であり「日本オリンピック」ではない上、いかに盛り上がるにしろ、社会の諸活動のほんの一部の事に過ぎない。そのために直接関係のない人々や、社会の分野までも巻き込んで、社会の時間体制まで変えねばならない必然性があるのだろうか。 オリンピックの暑さ対策は、先ずはオリンピック委員会やそれを主催する東京都の出来る範囲で考慮すべきことであろう。

 もともとこの猛暑下の競技の問題は、オリンピックを誘致するために多額の賄賂を使った上に、あらかじめ決められていたこの季節を「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」とまで言って誘致したところにあるのであり、この季節の開催に問題があるなら、違約金を払ってオリンピックを取り止めるか、IOEと掛け合って、秋の開催に変更してもらうのが、もっとも正しい解決法なのではなかろうか。

 それを国民全体を巻き込んで、サマータイム導入で乗り越えようとするのはあまりにも安易で姑息な、他人迷惑な解決法であろう。まさかオリンピックを成功させるためには国民が一致してどんな犠牲をも払うべきだというのではなかろう。

 世界的に見ても、サマータイムは見直される時期に来ており、サマータイム導入の歴史の古いヨーロッパでは廃止の検討がされているところもあるぐらいなのである。 またデイライトセイビングタイムと言われる、夜間のエネルギー消費の減少やレジャー活動の活性化の効果も明らかではなく、むしろ、体内時計に対する影響も大きく、実施国で心筋梗塞が増加したというデータもあるようである。

 しかもサマータイム導入には莫大な費用もかかるし、それに伴う電子機器などについての混乱が伴う恐れもある。その上、生活習慣が乱されるなど問題点も多い。

 オリンピックを盛り上げることにやぶさかではない。今年の夏の異常な暑さを見ても、猛暑対策は不可欠であろう。英国の「タイムズ」紙は今年1月、既に「東京五輪では選手だけでなく観客も極度の蒸し暑さによる熱射病で死亡するリスクにさらされている」と報じている。熱中症を恐れる発言も多い。

 しかし、オリンピックは国威発揚の場ではなく、個々の選手の競技の場であることを忘れてはならない。オリンピックの準備は大切であるが、2年も先のことに対するマスコミなどの現在のはしゃぎ様を見ていると、少し度を超しているようにも見受けられる。それが挙国一致で、オリンピックを応援すべきで、そこから外れるものは非国民だという風潮になりかねないことを恐れる。

 世界から訪れる選手たちが自己の最高の力を発揮出来るように準備することは開催国としての義務であろう。しかし、オリンピックは色々な国際的、社会的な出来事の一つに過ぎない。オリンピックに関心の深い人もおれば、関心の薄い人、ない人もいる。忙しくてオリンピックどころではない人もいるであろう。

 すべての人を巻き込んで、国中が一体となってオリンピックを迎え、それを国威発揚に利用しようというようなことはIOC 憲章にも違反することである。オリンピックのためにサマータイムを導入するような愚挙は止め、静かにオリンピックの世界の選手の活躍を楽しむようにしたいものである。

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片目の老眼でも悪いことばかりではない

 まだ現役の50歳代後半の頃、左目の黄斑に浮腫が起こり、ストレスが原因だが、これは通常片眼だけにしかおこらず、両眼に来ることはないと言われて安心し、そのままにしていたが、それはそのまま治らず、浮腫が繊維化してしまったのか、、未だに中心暗点として残り、左目でものを見ると真ん中は見えず、周りが歪んで見える。視力もどんなに方向をずらすようにして見ても0.3~0.4ぐらいしか見えない。

 その上、歳をとって軽い近視も老眼もあるので、実質的には老眼の右目だけで見ているようなものである。しかし、それでも右眼は健全で、視力も裸眼で0.8ぐらいあるので、日常生活で困ることはあまりない。家の中では読書や新聞を読むような時以外は眼鏡なしで過ごしている。

 そんな具合で、あまり困らないだけに、知らないうちは、若い時と同じように行動しては、道で躓いたり、階段を一段踏み外したり、チェーンの存在に気づかずに引っかかったりしたようなことが時として起こった。

 また、いくら探しても見つからない老眼鏡が、目の前の机の上にあるようなこともおこった。片目で見ているようなものなので、立体視が効かないので、机の上の同色の眼鏡ケースが見えなくて、探し回っても判らなかったのであった。

 それでも眼の問題を自覚するようになるにつけて、自然とそれに合わせて行動するようになるので、次第に慣れて、日常生活にはさほど不便を感じることもないものである。むしろ見えないからこそ経験出来るようなこともあるものである。

 毎日のように通る最寄りの駅に通路に、事務所か何かの入り口の近くに木を植えた植木鉢が置いてある所があるのだが、その木の佇まいが、遠くから悪い視力で見ると、丁度、人が少し手を前下方に出して、扉の鍵を開けて入ろうとしている姿に似ていているのである。少しばかり薄暗い通路なので、余計にそうなのかもしれないが、初めの頃は通る度に、いつも人がいると勘違いさせられたものであった。

 また2−3日前には近くの道路の突き当たりが三叉路になっている所で、そこへ近づきながら行く先を見ると、人が立っている。白いシャツに黒っぽいズボンを履いている。道を横切ろうとしているのかと思ったが、一向に動く気配がない。誰かを待って道端に立っているのかとも訝ったが、近づいて見ると、動かないはず、人かと思ったら立て看板であった。

 目が悪いとこれに似たようなことがちょくちょく起こる。暗いと当然余計に見誤りやすいが、ただの看板や標識などより、人に見える方が楽しいものである。

 そんなことを繰り返していると、人がものを見て何かと認識する時の仕方の参考にもなって面白い。人は決して対象物を正確に理解してから認識するものではなく、何か物を見たら、自分の記憶と照らして、大雑把に形を把握した時点で、まず記憶にある近いものと照らして認識するもののようである。

 立体視がまずいので、先日は何かの蓋に斜めに切れ込みが入っていたのだが、それがなぜか、細い柄のついた小さなブラシのように見え、こんなところになぜこんなブラシがあるのだろうと不思議に思い、取り上げようとしたら途端に幻影が消えて、ただの凹んだ切れ込みになってしまったようなこともあった。

 社会的に仕事をしている時であれば、見間違いは失敗や、時には事故にさえつながる恐れもなしとしないが、家の中での老人の暮らしの中では、目が悪いための見間違えは思わぬ楽しみを与えてくれることもあるものである。そのうちに認知症になって思わぬ幻影に驚かされることになるのかも知れないが。

 何気なしにここまで書いたが、以前のブログを遡ってみたら同じように、視力の悪いことに絡んだ話が出てくる。年を取れば、健康だと言っても目や耳、その他の些細な障害は避けられないようなもので、そんなトラブルと一緒に暮らしているのだということを感じさせられる。

回転性めまい

 一概に「めまい」といっても、人によっていろいろあるようだが、大きく分けて二つある。

 普通よく見られるのは、急に立ち上がった時などに感じるフラフラする感じ、頭の中から急に血が引いていくような感じといった、いわゆる立ちくらみや、あるいは、目の前が霞むような、あるいは真っ暗になるような感じ、気を失いそうな感じといった「めまい」で、英語でいうとdizzinessと言われるものに当たる。

 それと違って、もう一つの「めまい」のタイプは天井が回る感じ、周囲が回って立っていられない回転性の「めまい」で、こちらは英語ではVertigoと言われ、成り立ちも異なっている。

 普通によく見られるのははdizzinessの方で、これは誰でも立ちくらみなどで経験があるといっても良いぐらいのものであるが、vertigoの方は「回転性のめまい」というもので、珍しくもないが、dizzinessほど多いものではない。

 dizzinessは急に立ち上がった時などに多いことからもわかるように、脳へ行く血流が悪くなり、一時的な脳貧血のために脳の働きが落ちて、意識が薄らいだり、無くなったりするために起こるものであるが、vertigoの方は平衡感覚をつかさどる、耳の中にある三半規管や前庭神経の働きに関するもので、少し違った原因で起こるものである。

 私もdizzinessの方は経験があるのでどんなものか実感があるが、vertigoについては知識として知ってはいても、実際に体験したことはこれまでの九十年の生活の中でも一度もなかった。

 それがこの22日の朝、突然起こったのである。朝、目が覚めた時はもう空が明るくなりかけていた。5時頃だったのであろうか。いつもなら、もうその頃には女房の方が先に目を覚ましていて、部屋の明かりをつけたり、テレビのスイッチをひねったりしているはずなのに、その朝は何の動きもない。目を開けてみてもまだ夜のままで、静かである。

 夏の暑い頃は、女房は風の通りやすい北側の部屋で寝ているので、ひょっとして何か異変でもあってはと気になり、飛び起きて、女房の寝ている部屋の入り口まで行ったら女房はまだ寝ていた。いつもと反対に声をかけて起こしてみた。

 ところがその時、全く突然、薄暗い周辺が急に廻り出して、立っておれず、倒れるようにしてドアの外に崩れ落ちてしまった。瞬間はどうしようもない。しばらくじっとしていたが、周囲の世界がぐるぐる右から左へ廻り目を開けていられない。目を閉じると幾分マシだが、やはり暗黒の世界がぐるぐる廻る。

 しばらくうずくまったままじっとしており、少し落ち着いたかなというところで、這うようにして自分のベッドへ帰り横になった。それでも、目を開けると、やはり部屋の周辺がぐるぐる廻っている、テレビも床頭台のランプも廻っている。初めて見る光景である。そのうちに次第に回転速度が遅くなってきて、止まるような感じでやれやれと思って、目をつむり、じっと上を見て静かに横臥することにした。

 このような回転性のめまいというのは、全く突然の初めての経験だったから驚いた。まったく気持ちの悪い恐ろしいものである。何しろ自分が存在する空間が安定せず、ぐるぐる振り回されて、自分の存在の根拠を否定されるような感じで、それがこれでもかこれでもかと言わんばかりにいつまでも続くのである。まるで生きたまま存在を否定されているような感じさえする。

 目を瞑ってじっと寝ていると良いが、少し経って、もういいかなと思ってそっと目を開けて見ると、まだゆっくり周囲が廻っている。廻るといっても単純に周囲が回転するのではなく、例えば机の上のランプが次々現れて、幾つものランプが一斉に右から左へと廻り、目がくらくらする感じである。

 初めての経験なので興味を惹かれ、廻るランプの光を眺めていたが、少し気持ちが悪くなり、悪心を感じたので、また目を瞑った。そうしてじっとしていると良かったが、また起こるのではないかという恐怖から、しばらくはじっと動かないで寝ているよりなかった。

 じっとしていると、今度はどうしてこんなめまいが起こったのかが気になってくる。起きる前に足を高く上げて寝ていたのが、急に起き上がり、急いで立って歩き出したので調節が悪く、脳血流が急に減って起こったのであろうか。そう言えば2〜3日前に飛び起きた時にも一瞬ではあったが、軽いめまい感があったことを思い出した。

 それにしても回転性のめまいとはどうしてだろうか。これはこの間の頭の怪我と関係があるのだろうか。外部の怪我は良くなったが、頭部外傷後の硬膜下血腫ということもあるから、何か三半規管や前庭神経に関した障害か、炎症による脳の圧迫か何かの影響で起こったものか色々心配になる。

 回転性のめまいには発作性頭位性めまいといって、一定方向に頭を向けた時に起こるめまいがあり、これは良くあり、良性なものとされているので、寝たまま体の向きを色々変えてみて試してみたが、その時はどう変えてもめまいは起こらなかった。

 2〜3時間もじっと寝ていただろうか、時々目を開けてみたり、そっと半分起き上がってみたりしてみると、もう大丈夫のようであった。ゆっくり起き上がってみたがめまいはもう起こらなかったので、しばらくベッドに腰を下ろしたまま様子を見た。

 その後、恐る恐る手すりにつかまりながら、一段一段づつゆっくり階段を降りて、一階の食堂に行き、朝食用のパンをやっと昼に食べることができた。まだ不安は残っていたが、食事は普通に出来たし、新聞を読むことも出来た。それでもその日はまだ何か浮遊感のようなものがあり、また倒れるのではないかという不安感もあったので、なるべく横になって静養した。

 その後、夜も普通に眠れたし、トイレに起きた時も、恐る恐る起き出して行ったが何も変わりはなかった。こうして何とか落ち着いたようであったが、あくる朝、確かめてみると、臥たまま目を開けて周りを見ると、やはり少し周りの世界が動揺し、ゆっくりだが揺れて回っているようにも見える。

 心配して、しばらくしてゆっくり起き上がってから、徐々に日常生活に戻ったが、めまいはもう起こらなかった。ただ何か、浮遊感のような感じが消えなかったので、もう一日出来るだけ横になるようにして過ごした。 

 こうして、二日経ってようやく浮遊感のようなものも消え、次第にいつものように家に中で動けるようになり、普段の生活に戻ることが出来た。ただ、また起こる可能性は消えないし、先の頭部外傷との関係はもう少し時間をかけて見ていかないとわからない。

 今のところ、他に心配するような症状もないし、普通の生活を続けながら様子を見ていくより仕方がないと思っている。とんだ怪我がいつまでも後を引いているようだが、90歳という歳を考えれば、こんなのが普通の経過ということになるのかも知れないと考えている。

 

自民党の体質

 

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 自民党杉田水脈(みお)衆院議員が月刊誌「新潮45」への寄稿で、性的少数者(LGBTなど)を「生産性がない」などと主張して問題になったことに対して、二階幹事長は「人それぞれ政治的立場、色んな人生観もある」と容認の姿勢を見せていたが、反対の声が大きくなったのを受けて、自民党は「今後、十分に注意するよう指導した」ことを党のホームページで明らかにしたようである。

 人間は生産性によって価値づけられるものではなく、「如何なる人も、男も女も、異性愛者も同性愛者も。健康な人も病気の人も、障害のある人もない人も。子供も老人も、右翼も左翼もアナーキストも、生まれながらに人権がある」というのが「天賦人権論」である。その権利は決して責任や義務の対価として与えられるものではない。

 ところが、天賦人権論を認めたがらない人が自民党の中にはこのように多いようである。今なお個人の権利より国家への忠誠を優先させよういいうのが自民党が目指す方針のようで、かって改憲案の起草委員会のメンバーだった片山さつき参議院議員は以前、ツイッターで「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」といっていた。

 さらには、上記の写真の人たちの過去の発言などもある。これらからも多くの自民党の人権意識の傾向が伺える。杉田議員の問題の後にも、自民党の谷川とむ衆議院議員が「同性愛は趣味みたいなもの」であり、同性婚の法整備は不要だと言っているようなこともある。

 どうも自民党の議員にはいまだに夫婦と複数の子供のいる昔の家族の形を「伝統的な家族」として重んじ、それから外れるものは夫婦別姓でさえ、家族の崩壊につながるとして反発する傾向が強い。

 ましてや同性愛やLGBTなどについては、「考えるだけでゾッとする」という差別感情が強いようだが、オリンピックを控えて、五輪憲章性的指向による差別禁止の根本原則も考慮せざるを得ないので、世界の潮流に合わせているようである。

  これらのことから明らかなことは、自民党に集まる人たちには、古い戦前社会への郷愁からか、今だに遅れた昔の日本社会の価値観から抜け出せず、時代錯誤にも、そこへの複古をさえ目指しているような人が多いということであろう。

 しかし、考えるべきはただ歴史は進歩し、決して逆戻りしないことである。彼らが国民を導こうとしているアメリカ従属路線に将来の明るい展望があるのであろうか。戦前復古を望みながら、それをどのように続けて行く積もりであろうか。その先に再び大きな矛盾と破綻が待っているような気がして恐ろしい。

 

 

 

 

スポーツ界の古い体質

 アマチュアボクシング界に君臨していた山根会長に対する会員の反旗が上がり、山根会長が辞任したが、この人は暴力団とも関係もあり、会員からの除名の要求に対してもどうするのか危ぶまれたが、結局は辞任ということで落着したようである。

 このアマチュアボクシングの問題の前には、しばらくマスコミに騒がれた日大アメリカンフットボールの監督の指示による不当なタックル問題があり、これも責任者が辞任に追い込まれた事件があったが、大学の責任などなお曖昧な点を残したままである。

 最近のスポーツ界にはその他にも、オリンピックの日本レスリングや 同じく日大のチアリーダ部のパワハラ問題が報道され、それを追うようにオリンピックの体操でもパワハラ問題が報道されたと思えば、今度は剣道界の不祥事が明るみに出るなど、スポーツ界の不祥事が次から次へと絶えない。

 スポーツ界の一角を担うと言ってもよい相撲の世界でも、昔からしばしば暴力事件が問題になってきたし、学校レベルでのスポーツ関連でも、桜宮高校のバスケット部での暴力、自殺事件があったし、高校の体育部などでの暴力行為などは昔から時々話題になってきている。

 これらのことを見て来ると、日本の体育、スポーツ関係の世界には、何か共通した古い暴力に結びつき易いような体質が、未だに執拗にに残っていると考えた方がよさそうである。戦争中までに築き上げられた軍隊組織に似た集団主義、絶対服従の上下関係、滅私奉公、一致団結などと言った精神主義が残っているようである。

 学校の体育などでも罰則が多く、罰として校庭を何周か走らせるとか、兎飛びを何回かさせるとかいう、意味にわからない強制が平然と行われたり、絶対服従精神主義のようなものが先輩から後輩へと伝統のように受け継がれてきている。

 科学的な訓練法を取り入れながらも、指導者がいまだに精神主義を押し付ける体制が全体を支配し、それを肯定する雰囲気が断ち切れないでいるようである。時々問題となる事件や事例はそれが顔をもたげて露わになったものだとこらえるべきであろう。この国ではさらに産業界でのこう言った集団主義精神主義の尊重がこの傾向をより助長してきた面も強い。

  二年後のオリンピックが必要以上に騒がれているので、スポーツ界のトラブルも多く表面に出てきているのかも知れないが、今こそ体育系の体質を従来からの軍隊式、精神主義的訓練法から民主的個人的な科学的訓練法に変える絶好のチャンスであり、日本の体育やスポーツ界、引いては国民の皆が楽しめる健康やレジャーとしての体育やスポーツの発展につながるようにすべきであろう。

 東京オリンピックを控え、日本のスポーツ界が大きな流れを変えて生まれ変わるべき時ではなかろうか。