核の小型化は核戦争につながる

 2月4日の朝日新聞の朝刊を見て驚いた。一面のトップ記事に大きく『米、「使える核」開発明記 新戦略「核なき世界」放棄』とあり、それに続く記事には『トランプ米政権は2日、中期的な核政策の指針である「核戦略見直し」(NPR)を発表し、オバマ前政権が目指した「核なき世界」の理想を事実上放棄した。非核攻撃への報復にも核を使うことがあり得ると明示した他、核兵器を本当に「使う」と敵国に思わせるため爆発力を抑えた小型核兵器の開発も明記。冷戦後から米ロが続けてきた核軍縮の流れに逆行する新方針となった』と書かれている。

 広島、長崎の被害を教訓として、折角これまで世界中で核軍縮を進め、曲がりなりにも国連で核拡散防止条約(NPT)が出来、オバマ大統領の核なき世界への訴えもあり、昨年には核兵器禁止条約も採択されたというのに、ここへ来て、アメリカが真っ向から核兵器使用を言い出したことは、これまでの先人たちの努力を否定し、力で世界の人々の願いを踏みにじろうとするものである。米国主導でイランや北朝鮮の核開発に対して国連あげての経済制裁をしているのに、制裁している側の米国が新規の核開発を始めるのも加盟国の希望を覆す方針でもある。

 米国の言い分は「過去10年間、米国が核兵器の役割と数量を減らそうと努力して来たが、他の核保有国は数量を増大させ、安全保障上の脅威が高まっており、世界は「かってのように大国間の競争に戻った」と云うことらしい。

 しかもそれに対して、情けないことに、核廃絶の国民の切なる願いにも逆らって、日本政府はこの米国の「核戦略見直し」が同盟国の安全確保に対する米国の関与強化を強調したとして「高く評価」との外相談話を出しているしているのである。これは米国のご機嫌を伺って国連で採択された核兵器禁止条約に加わらなかったと云うような話ではない。人類を滅亡させかねない米国の核戦争に加担することを表明したことになる。

 現在の核弾頭保有数を見ても、圧倒的多数を保有しているのは米国とロシアだけであり、第二次世界大戦後にほとんど切れ目なく世界のどこかで戦争をしてきた国は唯一米国なのである。小型で利用しやすくなった核兵器が現実に使われる可能性がいかに高くなったか容易に想像できる。

 今回米国が言うように小型で「使いやすい」新型核兵器が開発され、水上艦や潜水艦から発射されたり、通常兵器やサイバー攻撃などを受けた場合にも核兵器で報復する可能性も排除しないと言うのであるから、通常兵器と核兵器の区別が曖昧になって、将来必ず何らかの戦闘においてそれらの小型核兵器が使用されることは避けられないことになったとも言えるであろう。

 想像するだけでも恐ろしいことである。人類の滅亡さえ窺えることにもなりかねない。核兵器が招く破滅への想像力を欠き、武力で自国の優越感を満たそうとするトランプ大統領の姿勢や、それに全面的に同調する安倍内閣の姿勢は、人類にとっての最大の懸念材料である。未来の人類の生存や幸福のためにも、何としてでも世界の多くの人たちが力を合わせてこの暴挙を防がなければならないであろう。

 

疑惑の多すぎる安倍内閣

 安倍内閣ほど権力の私物化が問題になった政府はこれまでになかったのではなかろうか。モリ カケ 問題などと蕎麦屋のように言われていたが、今度はスーパーコンピュータの会社の詐欺事件との関係も問題になって、同じ麺類のスパゲティまで加わった。

 更には、安倍首相礼賛の本を選挙に合わせて出した元テレビ局の大物記者の準強姦事件や、加計学園と同様な特区で出来た成田の国際福祉大の問題なども浮かび上がり、政府の圧力や、政府への忖度で行政が歪められ、税金が不当に使われている疑いの強い事件が続発している。

 いずれも国会の追及にも政府は返答をごまかし逃げているが、矛盾の数々が時とともに明らかになり、そろそろ逃げ切れないところまで追い詰められてきているのではなかろうか。

 森友学園の問題では、現佐川税務局長が破棄したと答弁した資料が会計検査院の調査やその後にも出てきて、佐川局長の捨てたとする国会答弁と明らかに異なることが判明したし、森友氏の国会における証言と首相の夫人に代わる答弁は全く矛盾している。それにもかかわらず、政府はあくまでも佐川局長の国会への出頭を拒み、首相夫人の電話を否定するなどして逃げている。

 しかし、下の表だけ見ても、、誰が見ても森友学園の土地取得が正当な取引として行われたとは言えない事は明らかである。政府の関与がなければあり得ない話であることを示していると言わざるを得ない。このような国政を私物化したような税金の使い方が許されて良いわけがない。

f:id:drfridge:20180204105803j:plain

 怪しいことがなければ、当事者が反論すれば良いが、国税局長も安倍夫人も、加計氏も誰一人国会の証人にも応ぜず公的場面での釈明もない。政府の明快な説明もない。その上、森友学園の森友氏夫妻が未決のままの7ヶ月以上に亘って拘留されているのも異常である。

 加計学園の問題でも、前川前文部事務次官からの明らかな発言にも関わらず、強引に学園の開学を認め、多額の税金を国の補助として学園につぎ込んで、学園側からの明快な説明もないまま、うやむやのうちに開学させることにしてしまっている。

 また、元テレビ局の記者の準強姦事件についても、一旦出された逮捕状が官邸筋に近い上層部からの指示で突然取り下げられて不問に付されるようなことは通常あり得ないことだし、外国のメディアが広く取り上げているのに日本で全くと言って良いぐらい報道されないのも普通ではない。

 その記者が絡んだスーパーコンピュータの会社への補助金の出し方、使い方も通常ではなく、詐欺罪として告発されたものの、政権中枢の関与でもなければあり得なかった話であったに違いない次から次へと出てくる疑惑があまりにも多過ぎるのではなかろうか。

 さらには安倍首相の演説にも取り上げられて有名になった下町ボブスレーラトビアボブスレーに負けてジャマイカチームから断られたが、この件も主催者が安倍首相と懇意な人らしく、首相の肝いりで補助金なども貰っていた由で、モリカケ問題と類似したケースだとも言われている。

 このような経過を見てくると、政府のあまりにも国民を無視した政治の私物化に怒りがこみ上げてくるのを止められない。これだけ多くの疑惑が重なっているにも関わらず、政府から何らの明快な説明もないのである。国民は怒るべきである。

 安倍首相は再々「真摯に受け止め丁寧に説明する」と言いながら、これらの疑惑に関しては、話をそらして問題の解決を図ろうとせず、それらを無視して数の力で国会を強引に牛耳ろうとするばかりである。今や、国民の疑惑は怒りに変わらざるを得ない。

 国民はこの政府の国民を侮った傲慢な態度に怒り、安部内閣の退陣を求める時が来ているのではなかろうか。

90歳ともなれば

今年の七月が来れば私は満で九十歳になる。よく生きてきたものである。戦争直後には希望もなく、四十二歳まで生きれば十分だと思ったこともあったが、もうその倍以上も生きたことになる。幸い体に大きな障害もなく、普通に暮らせているので良しとしなければならないだろう。

しかし、この歳になれば、若い時とは何かにつけて変わってくる。どうしても自分の経験から物事を見たり考えたりすることになりがちだが、いつの間にか周囲の世界がすっかり変わってしまっていることに気づかされることが多くなる。

私らの世代の人たちと違って、最近の若い人たちは外見でもいつの間にか背の高い人ばかりになって、満員電車などで若い男に囲まれた格好になると、まるで壁に囲まれたようで周りが全く見えなくなるし、女性であっても、もう昔の大根足に六頭身のような人は少なくて、惚れ惚れするような長い足にハイヒールなど履かれると、見上げるような高さである。着ている服装も昔と違ってそれぞれバラバラだし、女性でもスカートを履いている人よりスラックス姿が多い。顔の化粧も濃い。

外観だけでなくて、若い人は皆スマホやパソコンを巧みにあやつり、アベックでいても二人ともスマホを見ながらおしゃべりをしている。電車に乗るとほとんどの人がスマホを見ており、昔流行った夕刊や週刊誌を広げている人が殆どいなくなった。スマホで何を見ているのかと覗き見してみると、いい年をしたおじさんまでがゲームをしているのに驚かされる。こんなことでこの国の将来はどうなるのだろうと、ふと心配が心をよぎりさえする。

それに、昔は大学を卒業したらどこか大きな会社にでも勤めてサラリーマンになるのが普通だったが、この頃はパートで働いて給与が少ないことを嘆きながらも、自分の好きな音楽や絵、その他の趣味や、金にならないようなボランティアなどで自分のやりたいことや好きなことに生きがいを感じる人も多くなっている。

ある時、都心部の喫茶店の二階の窓から下の繁華街の通りを行く人を見ていて、ふと感じたことがある。昔も今も通りを行く群衆は同じだが、その内容は昔と今ではすっかり変わってしまっている。私が死んだ後もこの人の流れの外観は変わらないであろうが、その内容は時とともにどんどん変わり続けて行くのだろうなと思ったことがある。

こちらが歳をとっていく間に、周囲の世界はどんどん私の知らない世界に置き換わっていっているようで、時にふと感じた時には自分がいつの間にかどこか違った世界に紛れ込んでしまったような気がすることとなる。

今度は自分に目を転じて見ても、九十ともなればいくら元気でも八十の頃にはあまり感じなかった年相応の衰えを感じさせられるようになる。八十五を過ぎると周りの友人が急に少なくなってしまうし、それに伴って会合などの機会も減る。仕事もなくなってきて、次第に社会から締め出されてくるのも避けられない。

残った友人と話しても内容は体の不調のことや、政治や社会への諦めのことが多くなる。お互いに慰め合うような話題が多くなる。たまの会合の別れの挨拶は「生きていたらまたね」ということになる。実際にそれが最後になることも珍しくない。

私自身の体調は特に大きな問題はなく、一応は元気で毎朝体操をし、出来るだけ歩くようにもしているが、やはり昔のようには走ったりすれば息が切れやすくなったし、歩く速度も以前のようにはいかない。心筋梗塞も患っているのであまり無理はできない。

毎朝の体操のおかげか、最近はあまり転ばなくなったが、やはり体の平衡感覚は衰えへ、閉眼片足立ちなどをしてみると明らかなので、散歩の時などはステッキを持つようにしている。階段を降りる時には必ず手すりを持たないまでも、いつでも持てるように手を手摺に沿わせて降りるようにしている。

それに根気が落ちたのか、好奇心は昔とさして変わりないと思っているが、昔なら出た序でにあそこにも寄って行こうとしたのが、行く気はあっても、今日はもう疲れたからもうやめて帰ろうということになりやすい。

それに目や耳など感覚器のおとろへも仕方がない。老眼で細かい字が見えにくいのは当たり前だとしても、私の場合は現役時代にストレスによる左目の黄斑浮腫の続きで主として右目だけで見ているようなものなので、本を読むのには困らなくても、読み違えがあったりして読むスピードが落ちた。薄暗い所では女房が読める新聞も電気を明るくしないと読めない。また、立体視が悪いためか同じような色の机や椅子の上に置き忘れた眼鏡ケースなどが見えにくく、探してそこを見ているのに見えず見つからなかったようなことが起こる。

耳も特別日常生活で困ることは少ないが、三人が横に並んで喋っている時に、一人を挟んだ向こうの人の言うことが聞き取りにくい。テレビを見る時も少し離れすぎると、はっきり見えないし、聞こえない。女房との会話も時にちぐはぐになるが、これはこちらの聞こえ方が悪いのか女房の方に問題があるのかわからない。

会話といえば、お互い固有名詞が思いつかないことが多いので、「あれ」「それ」と代名詞でごまかしながらも、名前は出てこなくてもお互い脳で掴んだ映像が一緒なので話しは通じようなことが多くなる。それでも二人ともまだ普通名詞は忘れていないし、認知機能はまだなんとか正常範囲内ではないかと思っている。

それでも物忘れが多くなったことは確かで、動作が鈍くなったことと重なって、外出するのに時間がかかるようになったのが一つの問題である。電気、ガスに戸締りのチェックをして、近視用メガネに老眼鏡、鍵に財布、電車のカード、手帳にボールペン、スマホなどと出かける時の小物を揃えなければならない。それらを抜かりなく揃えることが一仕事である。あちこち探さねばならないことが起こるし、うっかり何か一つが抜けることもある。

せっかく靴を履き、玄関を出て鍵をかけてから気がついて、またやり直さなければならないことも起こるし、ガスの元栓や戸締りなどが心配になってまた戻らなければならなくなることもある。しかも若い時と違って、それぞれの動作が遅いので、余計に時間がかかる。これらも老いには欠かせないことなのであろうか。

最近は人生百歳の時代だと言われるようになって、実際百歳を超える人も多くなって、日常会話にもよく出てくるようになったが、私は百歳にはこだわらない。もうここまで来たら後は天命に任せるのが最善であろう。いつお迎えが来るかわからないが、出来れば最後まで、自分の体は自分で処理できる範囲に保ち、運命を天に任せるのが最良であろうと考えている。

 

「#Me Too」運動の報道で不思議なこと

 昨年アメリカで、ハリウッドの大物がセクシャル・ハラスメントを暴かれて失脚してから、多くの女性が「#Me Too」の呼びかけに呼応して、セクシャル・ハラスメントに対する告発が大きな運動となり、雑誌TimeのPerson of the year にも選ばれるなどして、それが日本にも広がってきて、日本でも声をあげる人が増えてきたそうである。朝日新聞もそれを取り上げて、今年に入ってからシリーズで『「#Me Too」どう考える?』という特集を組んでいる。

 そこでは男女を問わず、色々な人の意見や識者と称する人たちの意見などを載せていて興味深い。その集計結果などを含めて見ても、日本ではまだまだ男社会であることがわかるなど、時宜を得た記事であるが、ただこれを見ていて不思議に思うのは、これだけこの問題が大きな社会の関心を持たれるようになっているにも関わらず、日本の大新聞が何処も取り上げないこの範疇の事件があることである。

 元TBSの記者で安倍首相を褒め上げた本を前回の選挙の直前に出した某氏が伊藤詩織さんという女性に加えた準強姦罪といわれるものについて、被害者の告発で警察の逮捕状が出ていたのに急に上司からの命令で取り消された事件である。

 被害者はカミングアウトして、現在も民事訴訟で係争中で、ブラックアウトという本まで出して世間に訴えており、今ではニューヨークタイムズやフランスのフィガロ、その他のヨロッパの新聞も大きく取り上げている。

 これだけ外国でも取り上げられ、材料も揃っておれば、普通なら週刊誌などが喜んで大々的に取り上げるところであろうし、これだけ新聞やテレビがMe Too運動を取り上げるならば、その条件に一番ピタリと当てはまる絶好の事件だと思われるのに、どこも取り上げないのはどうしてであろうか不思議でならない。

 朝日新聞にしても、Me Too のシリーズ記事を出しながら、これまで4回分が済んだところではあるが、今までのところ「はあちゅうさん」や岩手日報の女性記者の名前は見たものの、何故か伊藤詩織さんの事件については名前さえ出ていない。

 知らなかったが、 NHKが1月22日の「クローズアップ現代」ではこの問題を取り上げていたそうだが、逮捕寸前で突如逮捕状が取り消されてことや、相手である某氏が安倍首相と昵懇な記者であることなどには全く触れずじまいだったそうである。

 疑えば、こんな所にも首相官邸からの見えない圧力がメディアにかかっていて、それへの”忖度”から強いて無視されているのではないかと思わさせられる。もしそれが真実であれば、もはや報道界の自殺行為である。

 官邸筋の圧力なり、それへの”忖度”であっても、このようなことが事実であれば、法治国家の崩壊である。戦時中の極端な偏向報道に対する戦後の報道界の深い反省ももはや失われたのであろうか。再び大本営発表に踊らされた暗い戦時の破滅への道をまっしぐらにつき進むことになってしまうのではないかと恐れる。それが杞憂であることを望むばかりである。

 Me Too運動はぜひもっと進めて欲しい。人口減少、少子化高齢化の日本の進む道は男女同権を実質的なものにし、国民の多様性を尊重、定着させて、多様な人材を育てていくよりないと考えるからであるが、それとともに政府とメディアとの癒着が法までも超えるようなことに対しては厳しく対処するべきだあろう。

 

憲法改正より先に地位協定改正を

 安倍首相は今年度の国会の開催なあたり、「いよいよ憲法改正を実現する時を迎えている」と述べ、強い意思を示した。自民党の総裁であるにしても、本来憲法を守らなければならない行政府の長である、同じ人間である首相が、憲法を変えようとする勢力の先頭に立つのはどうかと思うが、今年こそ積極的に憲法改正を発議しようとしているようである。

 安倍首相に言わせれば、憲法は「国の形、国の理想の姿を示すもの」だというが、憲法が国民が政府を縛るものだという憲法を無視して、政府が政府に都合の良いように国民を統制するものに変えようとしているのが政府の憲法改正の中心的な狙いである。ただ、先ずはどこからでも改正することに意義があるとし、わかりやすい自衛隊の軍隊としての承認や、非常事態時の特例など可能なところからでも始めようとしているようである。

 しかし憲法が首相の言うように国の形を示すものだとしても、その憲法よりも上位の法律があり、それが憲法に制約を加えるようであれば、憲法で国の形を決めることさえ出来ないのではなかろうか。現に日本は日米安保条約を結び、今だに米軍の駐留を認め、米軍との約束が憲法より上位にあり、そのため我が国の主権が甚だ侵害されているのが現実である。

 例えば、東京の上空ですら米軍との約束で日本の制空権が奪われているし、米軍の飛行機は日本国中自由に飛び回ることも出来る。アメリカ大統領の日本訪問は横田の米軍基地から始まっている。沖縄では米軍用機による事故が2017年だけでも25件もあり、それの対する日本側の要請は常に無視されているという事態が続いているのである。日本は未だに占領時代に似た米国の従属国に甘んじているのである。

 これをそのままにしておいて憲法改正をしても政府は国民を守ることは出来ない。不平等な条約を改変して、真の独立国になってから憲法改正を考えるのが筋道であろう。戦後に吉田首相が今の憲法を認めたのも占領が終わって日本が独立してから変えれば良いと考えたからだという話もあるようである。

 憲法改正よりも先に、国民の命を守るためにまずは日米地位協定の改正を行うことが政府の喫急の優先課題ではなかろうか。他国とアメリカとの間の似たような協定と比べても日米の地位協定は不平等なようである。しかも、他国が交渉でそれらの協定の見直しをしているのに、日米の間ではまだ一度も改正が行われたことがないそうである。

 北方4島に問題が解決できないのも、米国が日本のどこにでも基地を建設する権利を持つているので、ロシアが米軍基地が出来る可能性のある場所をわざわざ日本に提供するわけがないことでわかる。

 日米間の友好関係を損なわずに、地位協定を今少し独立国同士の平等な協定に変えていくことが国民を守る一義的な責任のある政府のとるべき所作ではなかろうか。憲法は日本が独立国家になったから変えても遅くないが、地位協定の改正には直接多くの日本人の日々の生活や生命がかかっていることであり、実現可能なことでもあり、ぜひ優先させてほしいものである。

 

 

 

 

時代とともに変わる日本人

 安倍首相や日本会議の人たちは憲法まで変えてもう一度戦前の日本を復活させようとしているようだが、歴史は不可逆的なもので、戦後70年も経てば、今更元に戻すことは不可能である。それに同じ日本人といっても戦前と今とでは日本人そのものが既にすっかりといっても良いほど変わってしまっていることも知るべきであろう。

 体格だけ見ても昔の日本人は多くの人が痩せ型で、今より引き締まった体型で、一般に背も低く、太っている人は少なかった。それに今ほど人々の間のばらつきも大きくなかった。

 体格だけでなく服装なども、学生は学生服、サラリーマンは背広、労働者は作業服、主婦はエプロン姿が多かったし、季節によって夏服、冬服、合服など皆が同じ時期に同じように一斉に衣替えをすることが多かった。今よりずっと一様な風景であったともいえよう。この風習は 戦後になってもかなり長く残っていたので、来日したドイツ人に日本には色がないと言われたことを思い出す。

 1961年に私が初めてアメリカへ行った時、驚かされたのは上陸したサンフランシスコで通りを歩く人を見て、毛皮のコートを着た女性のすぐ横をまるで水着のような格好をしていく人の姿があるという多様性であった。それ以前に日本で見ていたアメリカの漫画などに描かれていた極端な痩せや太っちょ、のっぽにちびなどの人々のばらつきの大きさが殆どの現実の姿であることにも驚かされたし、初めて望んだ国際学会に集まった人々のあまりにも多彩なばらつきに圧倒された記憶が今も鮮明である。

 当時はそれほど日本とアメリカでは人々の間のばらつき加減が違い、日本ではほぼ皆が一様に見えていたのに、アメリカではあまりにもばらつきが大きい当時の彼我の違いが明らかであった。

 ところが、それから半世紀以上も経った今では、日本の街で見かける人々の姿も当時とはすっかり変わってしまった。体格で言えば、背の高い人が多くなった。昔は稀に電車のドアに頭がつかえるような人を見ようものならおったまげたものだが、今ではそんな人は日常いくらでも見られる。女性も昔は大根足だの、六頭身だなどと貶されたりしたものだったが、今や惚れ惚れするようなスマートな長い脚をした人が多い。

 肥満はまだまだアメリカで見るような極端な肥満の人は少ないが、それでも腹が出てたるんだ中年男はもはや平均的な姿となっている。そうかと言って、今でも小さな人や痩せすぎの人も結構おり、昔と違うのは全体としてばらつきが大きくなったことであろう。

 体格だけではない。服装も男でも最近は勤め人でも昔のように皆が背広を着ているわけではなくなり、比較的ラフないろいろな格好をしている人が多くなり、背広を着ているのは管理職かセールスマンぐらいに限定されてきている。女性も今ではスカートを履いている人よりスラックスやパンツ姿が多くなったし、時の流行があるものの服装のばらつきも昔の比ではない。

  それに最近は外国からの観光客が急増し、日本で働いている外国人も増え、どこへ行ってもいろいろな人種の人を見かけ、日常生活でも昔の街の姿とはすっかり変わってしまっている。大阪の郊外都市である池田でも、アジア系、コウケジアン、アフリカンなどの”外国人”の一人や二人に会わないことはない。一番多いアジア系の人たちは言葉を聞かなければ区別できないことがあるので、実際にはもっと多いのではなかろうか。

 インバウンドと言われる観光客も増えたが、それだけでなく日本に住んで働いている外国人も確実に増えている。新生児29人に一人はどちらの親もか、一人は外国生まれという統計が二、三日前の新聞に出ていたので、これからそうした日本人も増えていくことであろう。

 テレビに出てくるレポーター、芸能人、スポーツ選手などにも随分”外国人”や外国生まれが多くなり、もはや大和民族だとか単一民族だとか言ってられない状態である。昔と比べたら外見も背の高さも体重も皮膚の色もいろいろな人がいるのが日本人ということになりつつあるのである。同じ日本人だと言ってもその内容は昔とは違っているし、今後その傾向はますますつおくなっていくであろう。

  もともと単一民族などと言っていた方が間違いで、歴史的に見ても縄文人がいた所に弥生人がやってきて混血が起こり、一部の縄文人が北や南に追いやられた古い歴史があり、その後も大陸や半島から次々と渡来人がやってきて混血していった結果、日本人なるものが出来たのであり、単一の民族がずっと住んでいたわけではない。

 これまでも外見上からオカメ型と般若型の違いなどが言われており、こんな経験もある。昔アメリカにいた時、車の運転免許証に人種を記載する欄があり、外見から係官が適当に判断してつけるものだから、私は見るからに東洋系の顔なのでOrientのOなのに、女房は般若型の顔貌からかMiscellanous(その他いろいろ)の Mとなり、人種別なんていい加減なものだなと笑ったことがあったものだった。

  遺伝的なものだけでなく、生活環境や食事などのよっても願望は変わるもので、日本人の顔も今では昔多かった鞍鼻が減り一般に鼻梁が高くなってきているし、人々の生活も変わっていくし、外国人との混血も増えていくので、それだけ容貌のばらつきも更に大きくなっていくであろう。

 もはや単一民族なのだとか言って自慢する時代ではない。いろいろな遺伝子が混じり合い、いろいろとばらつきが大きくなるほど発展する可能性が大きくなるものである。

  最近の社会の分断や排外主義にもかかわらず、単に外見だけからしても、日本社会の多様性は着実に進んでいっている。世界の交流も強くなり、人々の移動も激しくなり、混血も進み、人々の間のばらつきが大きくなっていく傾向を止めることは出来ない。どこの国でも同様で、地域による違いも薄められていく。

  東京五輪の基本理念として「多様性と調和」が挙げられ、「あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩する」と謳われている。もはや明治の日本への回顧は無理である。それより新しい日本人が新しい国や社会を作っていくことに政策の目標を合わせるべきである。

 右翼勢力がいかに大日本帝国の復活を強引に進めても、受け手の国民がもはや明治とは違う多様な日本人になってしまっているのである。戦前の日本の形でまとめようとしてももはやそれは儚い夢に終わるであろう。

 新しい多様な日本人を認め、そこに焦点を当てるより仕方がないであろう。多様性こそ貴重な社会の財産である、未来の発展はこれにかかっているといっても良いのではなかろうか。

 

関東大震災

 1月17日は1995年の阪神大震災から23年の記念日になるというので、神戸では追悼の慰霊祭が行われ、メディアもそれに関連したいろいろなニュースを載せている。初孫が生まれて一年目のことで、その孫ももう立派な大人になっているが、未だにごく最近の出来事のような気がしてならない。池田でもだいぶ揺れたし古い家の倒壊もあった。

 その後に起こった東日本大震災からさえもう7年も経っている。この場合はこちらではあまり揺れなかったが、それよりテレビによる実況放送が忘れられない。丘の上から押し寄せる津波から逃げてくる人に早く早くとせき立てている様とか、原発の爆発する様子など決して忘れられない映像であった。

 しかしその陰に隠れて、最近ではもう滅多に話題に上らなくなってしまったが、子供の頃の私にとってそれらに当たる大地震としては何と言っても関東大震災であった。その後、戦争に紛れて南海大地震などもあった。今の東日本大震災に当たるものが正に関東大震災であった。現在東日本大震災について語られるのと同じように何かにつけて人々は関東大震災の恐ろしさについて語っていた。

 関東大震災が起こったのが、1923年の9月1日の昼過ぎだったので、私が小学校に上がった(その頃は小学校に行くようになるのを上がると言っていた)のが昭和10年(1935年)だから、まだ震災から10年余りということである。阪神大震災から23年、東北の震災から7年といわれる今と比べると、当時の関東大震災についての人々の記憶や想いも想像出来るであろう。

 関東大震災を経験した人の話や、人づての話として、浅草の凌雲閣という12階建ての建物が崩壊したことや、地震そのものよりも地震で起こった火事が怖かったこと、震災の犠牲者の9割方の人は火事で亡くなったなどということを聞いた。殊に火事から逃れて被服廠跡の広場に逃げ込んだ大勢の人が、周りの火災から起こった旋風による猛烈な火に包まれて大勢が焼死したことなどが有名で、東京にいた時には、その現場も教えてもらったものであった。

 また震災の被害を受けた多くの人が東京や関東地方から関西方面に逃げてきて、そこに定住し、そのために大阪の人口も増え、大大阪と言われるようになったなどという話も聞かされた。親の転勤で東海道線で東京に行った時には、丹那トンネルを越えて神奈川県に入ると窓から見る世界が変わり、瓦の屋根の家が減り、ほとんどの家がスレートのような屋根で軽い感じのバラックのような家ばかりになり、それが関東大震災でほとんどの家が潰され建て直されてためだと聞かされたこともあった。

 また震災に伴った朝鮮人の虐殺事件についても聞かされた。何でも朝鮮人が井戸に毒を撒いたという噂が広まり、自警団が組織され、棍棒などを持って集まり、道ゆく人を誰何し、朝鮮人には発音しにくい「ゴジュッセン」などという言葉を言わせ、うまく言えないと朝鮮人だと決めつけられて殴り殺されたという事件で、日本人でも発音が悪いために殺された人もいたということであった。当時は今と違ってそんなことも案外平気で喋る人もいたようである。

 ただこの震災を契機に起こった甘粕事件のような左翼弾圧のような政治的な事件については子供は知る由もなかった。

 昭和13年と14年の二年間私は東京で暮らしたが、その頃の東京では軽い地震は度々あり、15年に関西に帰ってからは殆ど体に感じる地震がなかったので、その頃からの印象で関東は地震が多く関西は地震の少ない所だというのが何と無く私の常識のようになっていたので、阪神大震災が起こった時には本当にびっくりさせられた。

 関東大震災の噂が次第に聞かれなくなっていったのはどうも社会の軍事色が強くなり世間の噂もそちらに集中していったためのような気がする。

 その後、戦争中の昭和19年12月の伊勢湾から浜名湖あたりの東海地方にかけての昭和東南海地震があったが、戦争中でほとんど大きな問題としては報道されず、戦後昭和21年の12月には昭和南海地震と言われる大地震もあり、四万十川あたりで地区が全滅したり和歌山県でも津波なども起こり大きな被害があったようだが、戦後の混乱期でもあり、大阪の南部に住んでいた女房などはよく覚えているようだが、私にはあまりはっきりとした記憶がない。

 それはそうと、地震の影響は当然その時代の社会のあり方によって変わるもので、関東大震災の頃は殆どの家が木造で、それが密集していた東京などでは火災による死者が最も多かったのに対し、阪神・淡路大震災では建物の下敷きになって亡くなった人が多かったし、東日本大震災では原発の被害という大きなおまけがついたことが何よりの特徴で、それぞれの地震の時代を表していた。

 より小さな地震を数えれば、この国では地震の絶えることがなく、いずれまたどこかで大きな地震が起こるであろうと予想されているが、地震に備えるといっても予知が出来ない上、相対的に少ない頻度と日常生活の多忙さを見比べてみると、どれだけのことが出来るかなかなか難しい。せいぜい起こった時に慌てない心積もりだけでもしておくべきであろう。