逆襲される文明

ローマ人の物語」や「ギリシャ人の物語」で有名な塩野七生は、「日本人へ」というローマ人の歴史に照らした、日本人への提言のようなエッセイをシリーズで出してられるが、最近その4番目の「逆襲される文明」と言う新書を読んだ。

 たまたまその中で、次のような文章が興味深かった。著者の文章なのか、他の人からの引用なのかわからないが、次のような文章であった。

 「民主政が危機におちいるのは、独裁者が台頭してきたからではない。

民主主義そのものに内包されていた欠陥が、表面に出てきた時なのである。」

(「ヨーロッパ人のホンネ」より)

 これに照らすと、今の日本はまさに民主主義に内包されている欠陥が表面に出て来ている感が強い。民主主義的な憲法を持ち、その下での議会制民主主義による政治が行われていることになっているが、不戦の平和憲法は時代とともの拡大解釈が繰り拡げられ、軍隊を持たないはずの国が今や世界有数の軍事力を持ち、自衛の枠さえ超えて集団自衛権と称して、国外で他国軍とともに戦うことまで可能とされ、さらに酷いのは、無理な憲法な解釈を止めて、現実と憲法との矛盾を今度は憲法を変えることで解消しようという本末転倒なことまで行われようとしている有様である。

 また立法と行政が渾然となって、政府が数の力で、憲法に決められた議会の開催要求を無視したかと思えば、開催初日に冒頭解散するなど、議会の運営を歪ませている。また、首相が行政府の長を立法府の長と間違えたり、憲法を守るべき政府が自ら憲法を変えることが歴史的使命だとして改正を進めようとするなど、この国の民主主義制度の劣化が明らかである。国民が政府を縛るのが憲法であるのに、それを政府に都合の良いように改正して、憲法で国民を縛ろうとしているのである。

 また選挙は一票の格差が大きいばかりか、小選挙区比例代表制投票率と議員数との乖離も大となり、議会の運営は与党の強引な進め方で、少数意見を聞く耳を持たず、政府への忖度で政治が曲げられ、司法までがそのチェック機能を果たせず、三権分立も怪しく、この国の政治では、まさに民主主義の形骸化が進んでいる。

 しかも官邸への権力集中が進み、メディアへの圧力が強くなり、秘密保護法や共謀罪なども成立して言論の圧迫がじわじわと進み、国民への監視機構も進むなど、次第に自由な生活に見えない圧迫が強くなりつつある。

 日本会議神道連盟といった右翼団体や宗教団体に閣僚の大部分が所属しているといった異常な事態にもなっているなど、民主主義とは合わない勢力が政府を支配していることも民主主義的な政治にはそぐわないことである。

 このままいけばそのうちに本当に独裁政権ができたとしても決して不思議ではない雰囲気になりつつある。日常の生活感覚からしても、これが続けば、今後10年20年先にどんな世界が待っているのか気になるところである。

老人の寿命と電気機器の寿命

 テレビやエアコン、冷蔵庫などの耐久家電といわれる電気機器しても、いずれも耐久消費財であり、何年かすればいずれは寿命がきて買い換えなければならない。現在使っているものも、いずれもいつかは買い換えており、現在使っているものは皆それぞれの何台目かのものである。毎日お世話になっている大事なマックのパソコンももう初めから数えて5台目になる。

 しかし、寿命がそこそこに長い機器類は、長年身近で当たり前のように毎日使っていても、故障することもなく、ずっと一緒にに暮らして来ているようなものなので、平素はついいつまでもそのままあるような思いで使っている。そうすると、最近のように使い手のこちらが歳をとって来ると、ふと何かの拍子に、これらの耐久家電とこちらの寿命とどちらが先にお陀仏するのだろうかと思ったりすることがある。

 最初はLED電球が出た時のことであった。それまで電球というものは時々切れて新しいものに買い直すのが普通であったのが、LEDなら10年保つと言われ、それならこちらの寿命の方が先に切れて、自分が死んで誰もいなくなった家にLED電球だけがなお煌々と点いている図が頭に浮かんだものであった。

 LED電球がそうなら、他の耐久家電のエアコンや冷蔵庫にしても、いつもトラブルもなく機嫌良さそうな顔をして動いてくれていると、何となくもうこのままこちらが死ぬまで変わりがないような気さえしていたが、こちらが長生きしたためかもしれないが、機器の寿命が切れる方が先のことが多かった。

 我が家では、最近これらの電気器具類が立て続けに動かなくなって、買い換えなければならなくなった。まず最初はこの夏に冷蔵庫が作動しなくなって買い換えたのを皮切りに、次いで電子レンジが壊れ、次いでオーブントースターも具合が悪くなって新調しなければならなくなった。さらには師走になって追い討ちをかけるように、今度はインターネットが繋がらなくなり、ルーターを入れ替え、ノートパソコンまで更新しなければならなかった。

  ところがそこでまたふと思いだした。もうこれだけ入れ替えたら、あとはこちらの命のある限りこのまま行ってくれるのではなかろうかと。百歳まで生きるとしてももう10年に過ぎない。新しい機器はそのぐらいはゆうに保ってくれるのではなかろうか。そうだとすると LED電球と同じで、こちらの命がなくなる方が先で、こちらが死んだ後もこれらの器具は健全にまだそのまま動き続けるのではなかろうか。

 残った機器の運命を心配してやらねばならないのではなかろうか?死人の手を離れたエアコンや冷蔵庫などは器だけなので、使われなければ、朽ち果てる運命を待つだけとなろうが、パソコンでは少しばかり事情が違う。

 主人のいなくなった後まで、多くの情報を抱え込んだままである。私の書いた多くの文章や写真などをぎっしり詰め込んだまま、だんだん古くなっていくのを待つことになるのであろうか。それともはハードディスクごと潰されて、全ての情報も一瞬のうちに無に帰するのであろうか。女房もやがていなくなるであろうし、跡を継ぐ者が誰もいない我が家では、最早全て成り行きに任せるしかないであろう。ここは割り切って考えておくべきであろうと思っている。

 

戦争を知らない若者たちへ

 このところしばらく音沙汰がないが、今年は北朝鮮の核実験やミサイルの発射が続き、それに対する国連の制裁が強化され、アメリカは今なお「軍事的な対応を含めて全ての選択肢がある」と言い、原子力空母や爆撃意を使って脅し、安倍首相がそれに乗って、「話し合いは解決にはならない、もっと強い圧力を」と叫び、選挙にまで「国難突破」と言って危機を煽り、それを利用してアメリカに言われるままの武器を買い、軍備増強にいとまがない。

 こうした状況下で、SNSなどにも色々な書き込みがあるが、それらの中には若者からのものであろうか、「アメリカがいつ北朝鮮に攻撃を始めるのか」「壊滅させろ」「戦争はいつ始まるのか」と言うよな無責任な書き込みが結構見られる。私たちが若かった時にも、戦争中ではあったが、敵陣突破、敵殲滅のニュースを聞いてやった!やっちまえ!と言った無責任な景気の良いことを言ったりしたものなので、若い人の無責任な発言をみだりに止める権利はないが、戦争の実態を知らないからそんなことが気安く言えるだけで、戦争とはそんなことを簡単に言えるような代物ではないことを知って欲しいものである。

 戦後七十年以上も経つと、現代の若者の親の代も最早戦争を知らない世代となり、あれだけ悲惨な思いをし、「二度と戦争だけはするまい」と殆どの人が思った戦後の誓いも次第に影が薄くなり、ほとんど伝えられえなくなって来た時代になっているような気がする。明治の初めから日米戦争が始まるまでと、戦後から今日までとがほぼ同じ長さになってしまった現在を考えると、我々が苦しんだ戦中、戦後の時代も、今の若者にとっては、私たちが若かった時に明治維新を振り返ったのと似たような感じなのであろう。

 東日本大震災津波が起こった時、三陸海岸の山手には過去の津波の苦い経験から「此処より下には家を建てるな」と刻まれて石碑があったそうだが、いつしか無視されて日常生活の便利さから海岸近くに街が発達し、今回の津波の悲劇を繰り返したと言われたが、どんな苦しい経験の言い伝えもせいぜい直接声の届く子か孫ぐらいまでしか言い伝えられないものであろうか。

 戦争がいかに悲惨なものであるかは、言葉だけではなかなか伝わりにくいもののようである。戦死とされたものの半数以上の人の死因が餓死だったことや、空襲で家族を失い、親を亡くして孤児になってしまった子もおり、国中が焼け野が原になったこと。食べるものがなく栄養失調になり、餓死する人も多かったなど、経験したことのない者には理解しにくいことかもしれない。

 最近の新聞の声欄に空襲で父を亡くし、無職の母が五人の子供を育てなければならなかった話が載っていたし、戦地での戦の実態についてはフイリピンのレイテ島の激戦に参加した大岡昇平の「野火」の普通にはありえないような日常を読めとする声も載っていた。こうした情報からも是非当時の人たちの思いを汲み取って欲しいものである。

 何より今の若い人たちに知ってもらいたいのは、勝とうが負けようが、戦争は決してカッコ良いものではないどころか、言わば、飯も食わず、水も飲まず、寝ることも休むことも許されないで、一日中泥水に浸かりながら、しかも、いつ敵に殺されるかわからない恐怖に耐えながら、果てしもない行軍を続けるような過酷なものとでも言えるであろうか。直接砲弾に晒されるのも怖いが、食う物がなくて飢え死にするのも耐え難いことである。

 こうした試練に耐えられるものは当然若者である。従って戦争になれば、直接戦争に駆り出されるのは若者である。しかも権力に伝手のない貧しいものがより犠牲になる。しかも今の日本では、国のためと思っても、実際はアメリカの命令によって戦わされる仕組みになっていることも知っておくべきであろう。あるいは大量破壊兵器が発達している現代では、それらによって瞬く間に殺されてしまうかも知れない。

 いかなる口実でも、戦争は絶対してはならない。戦かわなければならないのは、敵が実際にわが町に攻めて来た時だけである。家族や愛する人のために戦うのは当然であろう。しかし国のためと言われたり、そう思ったとしても、海外へ出て行って戦うことは絶対にしてはならない。国のためと言われても、それはその国への侵略行為に加担することになるからである。

 権力者は自分の利害関係から若者に対して愛国だとか正義だとかを振り回して、若者を洗脳し、将棋の駒のごとく利用しようとするが、それに欺かれてはならない。国と故郷とは異なることも知っておいて欲しいものである。国は国家という権力であり、故郷は家族を含めた生活である。守るべきは故郷であり日々の生活であって、国ではない。国は国家権力を守っても、決して国民を守るものではない。外国や国家権力のために戦うほど惨めなことはない。

 私らの世代はやがて死に絶える。この世は生きている人のためのものであるから、いかに生きるかは生きている者の判断でするのが当然である。ただ先人たちが津波などの災害の教訓を子孫に伝えたいと思ったのと同様に、私たちの世代の悲劇を二度と繰り返して欲しくないと願うばかりである。

 今度戦争が起これば悲惨さは前回よりも倍増する。人類滅亡にもつながりかねない。いかなる正義も悪も意味がなくなる。勝っても負けても、誰も生き残れるかどうかわからない。そんな馬鹿げたことは絶対にすべきではない。

 実際に故郷へ敵が攻め込んで来ない限り、絶対に戦争はしてはならないことだけは覚えていて欲しいものである。

疑惑の多すぎる安倍内閣

 昨年は「忖度」と言う言葉が時の言葉になったぐらいに、森友学園加計学園をめぐる安倍内閣の関与が国会でも大きな問題となって追求されたが、いまだ解決していないどころか疑惑はますます深くなっているのに、メディアなどに手を回したのか、最近のテレビや新聞はもうこれらについては殆ど報道しない。

 最近の一部の右翼の論調では北朝鮮の核やミサイルの問題などを取り上げて「モリカケ」問題を小さな問題として片付けてしまおうとする傾向もある。しかし、この問題がまだ決して解決していないばかりか、その他にも安倍政権をめぐる解明されねばならない疑惑の問題がいくつもあるのである。

 その一つはモリカケ問題が議論されている時から、これが本命だとさえ言われて来た千葉県の成田に新設された国際医療福祉大学医学部の設置にまつわる問題である。これもいわゆる国定戦略特区で出来た大学であるが、この学校の理事長も安倍首相の友達で、元の自民党渡辺美智雄氏の秘書をしていたことのある人物でもあり、これまでいくつかの病院の買取で辣腕を振るって来たという人らしい。

 この大学の設立にあたっては、医者の需給が余っているので日本医師会などが反対していたので、従来の一般臨床医を要請するものではなく、国際空港の地の利を生かした特殊なものを作るということで、特区の始まる以前から理事長が会議に出席しているところなど加計学園のケースとよく似ている点もあるのだが、特殊な医師の養成するのだと言いながら、千葉県とは地域医療の貢献の約束をするなど矛盾した行動をとり、医学部を作ってしまえば仕舞いだというような乱暴なことをしている点など、政府の裏の関与がないと出来ないようなことが積み重ねられていたようである。

 次には、日本では新聞もテレビも報道しないが、外国ではニューヨーク・タイムズもフランスのフィガロも、さらには北欧の新聞などまで、世界中で報道されている山口某記者の準強姦事件である。被害者がカミングアウトして告発し、逮捕状まで出て警察官が空港で待ち伏せまでしていたのに上からの命令で急遽取り消され、被害者が本まで出して告発しているが、この山口記者は選挙の前に安倍首相をよいしょした本もで書いている首相に近い記者なのである。

 アメリカでの女性俳優が上司や関係者からの性的嫌がらせを告発したのがきっかけとなりMe too 運動として広く広がって、セクハラが社会的な問題となっているぐらいだから、メディアにとっては格好な素材だと思われるのに、日本ではどこも報道しないのはどういうことだろうか、不思議でならない。おそらくどこかからの暗黙の圧力なり、忖度が行われているとしか考えようがない。

 そうしたところに、今度はスーパーコンピューターの会社を立ち上げ、国から巨額の資金を補助してもらっていた会社の社長が詐欺容疑で逮捕されたが、その男が上記の山口記者と共同で会社を立ち上げるとかで、政府の口利きで、その会社から高級マンションをあてがわれていたということである。ここにも安倍内閣が絡んでいるとか言われている。

 今日はまた安倍首相と一緒に食事をしたと首相と並んで写真をとっている評論家の三

橋貴明いう人が十代の妻に暴行したとして逮捕されたそうだが、すぐに釈放されたニュースがあった。

 いずれの場合も新聞やテレビの報道からの知識がほとんどで、それ以上の詳しいことはわからないが、火のない所に煙は立たないと言われる。種々の疑いの深いモリカケ問題の動向を見ていると、どれも否定するわけにもいかない。

 近代の内閣で、これだけ次々と公私を混同したような利益誘導型の疑惑をかけられた内閣はないのではなかろうか。当然、政府の責任で真実を国民に説明する義務があるであろう。ところが国会での答弁などを見ていても、丁寧に説明すると言いながら、証拠を消して逃げているばかりで、確固たる答弁すら出来ず、官僚やメディアに手を回してはないとし、返答を避けて逃げるだけで疑いは深くなるばかりである。

 国民の委託を受けて政治を行なっている政府がこれだけ多くの疑いを晴らすことなく政治を続けていることを国民がいつまでも許していてよいものであろうか。

官僚のやり方

 官僚は本来は政治家の方針に従って法を執行する役割を担うものであるが、今のように組織が大きくなると、政府からもある程度独立して自分の組織を守り、自分の組織の権益の拡大を図るようになるものである。

 昔国立病院にいた時、厚生省の官僚などと会議などで話す機会があった頃、官僚たちは自分らの省ことを「我が社」と呼んでいるのを聞いてびっくりしたことがあるが、役人の意識はおそらく今でもさしては変わっていないのではなかろうか。

 政治家の思惑や自分らの利害を考えて法律の条文をいかに解釈して読みこなすかが官僚の大事な仕事なのである。どんなに書かれた法律でも、文章の解釈には幅があるものである。その幅をどこまで広げ例外的な事象をもどこまで適応させられるかが官僚の腕の見せ所なのである。

 その結果が、憲法で軍隊を持たないことになっているこの国が世界的にも巨大な軍備を備えた軍隊を持ち、外国に攻撃に打って出ることの出来る航空母艦やミサイルさえ持つことが可能になるのである。

 そんな大きなことでも出来るのだからもっと些細な問題になると、政府の意向なり、自分たちの利害関係によって、法律も極端と言えるほどまで傍曲して読まれることがあるものである。正しい法律の適用を考えるよりも政府の方針を忖度したり、自分たちの利害から他の省庁などとの連携などが先にあり、それに法の運用をいかに合わせるかが考えられることになるのである。

 クリスマスの日の新聞に水俣病の認定をめぐる環境相と不服審査会の馴れ合い合意についての記事が出ていたが、それを見ても官僚の対応の仕方が興味深い。チッソの会社の破綻から補償を熊本県が肩代わりすることになったが、県が認定申請を棄却した人が不服審査会に訴え、最高裁が認定できると判断を覆したことが起こり、熊本県は認定業務を国に返上すると言い出したことがあった。

 そこで環境省が乗り出して、本来独立しているべき不服審査会と話を通じ、認定基準を一致させて厳格化し、県に認定作業を引き続きしてもらうとともに、補償費用をも抑えようとした由である。

 被害者救済よりも補償費を抑え、業務を県に引き受けさせるという自分たちの目的を優先させるためには、司法の判断に対してさえ反対して、不法に不服審査会に働きかけていたことは如何にも官僚のやりそうなことである。

 これは決して例外的な事象ではない。これを見ても国民へのサービスなどより政府の方針や自分たちの組織のあり方が優先する官僚組織の基本的な態度がはっきりと分かるというものである。

今年はどんな年になるだろう

 今年はどんな年になるだろう。

 私は今年7月には満90歳になる。もういつ死んでもおかしくない年だから、どんな年になっても構わないようなものだけれど、世の中がどんな風に変わっていくのか想像したくなるのが人情であろう。

 予測は難しいが、世界の大きな動きを見れば、一見世界の経済はなお堅調のようにも見えるが、矛盾も次第に高まり、行き詰まった金融資本主義は低金利政策などの人意的な操作で表面的には良く見えても、絶えずバブル崩壊の危険をはらんでいるし、際限のない格差の拡大が何をもたらすかわからない。

 それに、これまで資本主義の中枢機能を担ってきた米国の退潮が明らかになっており、変わって中国がすでに生産においても、消費においても、米国を凌駕するようになってきているし、インドや、インドネシアその他のアジアの経済の発展が顕著になり、従来の世界のバランスが明らかに変わりつつあることも注目すべきであろう。

 そういう中で日本ではますます少子高齢化が進み、人口減少が当分は止まらず、人手不足による国内市場の縮小などが避けられないのに、移民の受け入れには反対が多く、高度成長の夢が忘れられないのか、政策はそれにこだわりすぎている。人々の生活態度も変わり多様化してきたし、日本人自体が外国人の両親や片親からの出生が多くなり変化していっている。もはや高度成長の時代が蘇るはずがない。

 そういった将来への展望のなさから、大日本帝国へのノスタルジアを感じる人達が生まれ、嫌中、嫌韓などの右翼傾向を助長するようにになっている。この風潮に乗った安倍政権が、最近は天佑ともいうべき北朝鮮問題をフルに利用して、米国への従属を強め軍国拡張に走り、議会の多数を頼って憲法改正にいよいよ踏み出そうとしていうのが現状であろう。

 今年は明治維新150年に当たるし、天皇の交代もあるので、それらがフルに利用されることであろう。メディアに対する影の圧力もますます強くなるであろうし、未だに残る村社会の集団主義思考の忖度による陰鬱な言論抑圧も進むであろう。

 安倍政権に対する支持率や選挙の結果などを見ても、国民の底辺に今なお民主主義を守り、平和憲法を維持しようとする底流があることも確かであるが、それが流れを変えるまでの力になるかどうかは何とも言えない。見通しは決して明るくない。次第に戦前のような世相を肌で感じることが増えてきているような気もする。

 AIやAoTなどの進歩による生活環境の変化も徐々に進むであろうし、今年あたりはビットコインなどによる金融の撹乱が起こるかもしれない。ひょっとして大地震や他の天災が襲ってくる可能性もゼロではない。それに北朝鮮の問題がどうなるのかも気がかりである。何としても戦争だけは避けてもらわないと全てが崩壊してしまうことになる。

 こう見てくると、何が起こるかわからないが、あまり今年に期待はできそうにない。せめて身近なことだけでもうまく運んでくれたらと望むぐらいのところであろうか。

 

 

座敷牢

 最近の新聞によれば、大阪で、精神病を発症した娘を十数年にわたって自宅に作った二畳ほどの部屋に閉じ込め、外から施錠し、外界から全く隔離し、長年に亘り次第に衰弱して死亡した後も、死体をそのまま何日か放置した後に自首したという事件があった。

 新聞では親でありながら娘を監禁して死なせた凶悪犯行のような書き方であったが、私はすぐに昔の座敷牢を思い出した。寝屋川署の調べに両容疑者は「長女には精神疾患があり、十数年前から自宅の一室に隔離していた」と供述。娘が隔離されていた2畳ほどの部屋には布団と簡易トイレがあり、外から施錠するようになっていた。18日朝、両容疑者が布団の中で動かなくなっている長女に気づき、23日未明に、署に自首して発覚したということである。  

 今頃の人はあまりご存じないかしれないが、昔は座敷牢というものがあって、家族に精神病者などで暴れたりして周辺に迷惑をかけたりするような場合、親は世間に対して申し訳がないし、親に責任があると考えられていたので、自分らでは処理仕切れないような時には自宅に座敷牢を作って世間から全く隔離するようなことが広く行われていたのである。このケースはまさに現代版の座敷牢と言える。

 自首後の警察の調べに対して、「気持ちの整理がつかなかったので隠した。娘には精神疾患があり、外に逃げたり、暴れたりしないように、日常的に2畳ほどの部屋に閉じ込めていた」と供述している由である。

 確かにこれは犯罪に違いないが、昔のいわゆる「むら社会」の観念に囚われた親が娘の精神病を恥じ、世間にも申し訳ないと思い、必死になって座敷牢に閉じ込め、なんとかして世間から知られないようにと必死になって秘密を守り閉じ込め続けてきたのではなかろうか。

 昔なら当然のことであって、親の責任で周辺の社会に迷惑をかけずに処理することが求められたことなので、親は娘を哀れと思いながらも、親の責任として必死になって世間の目に触れないように長年にわたって努力し続けて来たものであろう。

 外に漏れないように幾つも監視カメラをつけたりしていたことがそれを裏付けているようだし、死後も状況の変化についていけず、途方に暮れて肢体をそのままにしていたのではなかろうか。

 精神病を発症したもっと早い段階で周囲が気付き、援助の手を差し伸べていたら娘を閉じ込めなくても、治療のレールに乗せる方法があったはずなのに、このような犯罪の方向にしか行きようがなかったのには家族だけでなく、社会にも責任があるのではなかろうか。

 今なお子供の人権が守られず、精神病が家族にとって恥ずべきことと考えられ、親が社会に面目ないと責任を感じ、世間から完全に知られないように、あくまで秘密に処理したいという家族の思いから発した出来事で、本人や家族からの申し出でもなければ、こういった家族の困難に対応し難い地域社会のあり方が、未だにこういうケースを生み出す下地になっていることを感じさせられる事件である。

 詳しいことがわからないので、的を外れている恐れなしとしないが、私の受けた印象は未だに残る古い社会の因習から抜け出せなかった悲劇ではなかろうかというものである。