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アメリカでの国歌斉唱拒否

 アメリカのNFLサンフランシスコ49ersクォーターバック(QB)であるコリン・キャパニック選手が試合前の国会斉唱でベンチに座ったまま立ち上がらず、起立を拒否し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と理由を述べ、人種差別への抗議であるとしたことが問題になっている。

 Twitterにも投稿されて、「さらにファンになった」という声もあれば、「チームや競技に対して失礼」との批判も飛び交った。しかし、チームは「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と同選手の決断を尊重するとの声明を発表し、NFLも声明で、演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではないと指摘した。

 キャパニックはその後の試合でも繰り返し、人種の不平等と、警察の暴力に対して抗議を続けており、チームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいているし、彼に同調したり、抗議を支持する動きも見られるようである。

 さらにオバマ大統領も9月5日、G20サミットの記者会見で、この国歌斉唱に起立しないで抗議を続けるコリン・キャパニックを擁護し、これは表現の自由の問題だとして、「彼は、憲法で保障されている表現する権利を行使している。スポーツ選手がそうした行動に出るのには、長い歴史があると思う」と述べている。

 「私は彼の真摯さを疑っていない」と、オバマ大統領は付け加え、「彼は話し合われるべき問題を重要視している。他のことはともかく、彼の行動によって、話し合われなければならない話題について、さらに多くの対話の機会を作った」と言い、さらに「行動する国民」の必要性を示しながら、「サイドラインにただ座って何にも気にしない人でなく、若者には、議論し、どのようにして民主的なプロセスに参加できるのかをじっくり考えてほしい」と続けた。

 また、キャパニックを非難する人たちに対しては、「キャパニック選手は徐々に彼自身の考えを深めていると思う。そうすれば彼を非難する人たちも考えるようになる。キャパニック選手は正義と平等に、的確に懸念を示しているんだと気づくはずだ。これが、私たちが前に進める道だ。時には困難を伴う。しかしそれが民主主義の流儀だ」と、オバマ大領領は述べた由である。

 最近、警察官による無抵抗な黒人の射殺事件が続いて起き、全米的に『Black Lives Matter(黒人の命だって大切だ)』などという抗議活動が盛り上がっていることなど、アメリカの人種問題を背景にしたものであり、キャパニックたちの勇気も賞賛に値するが、いろいろ問題はあるものの、それを可能としている国の民主主義にも敬意を払いたい。同様なことが日本で起こったらどうであろうかと考えないではおれない。

 日本では戦時中の国威高揚のための国歌や国旗の利用が極端であった反省から、戦後は国旗や国歌があまり公に利用されない傾向にあったが、ある時期から一部の勢力が政府と結んで国民の広い議論もないままに、戦前の「大日本帝国」が民主的な「日本国」に変わったのにも関わらず、昔の国旗や国歌をそのまま復活させた歴史がある。

 戦争に結びつく嫌な思い出と結びつく時代遅れの歌詞の国歌を復活させ、特に学校教育の現場では、天皇の「強制になっては良くない」との言葉にもかかわらず、上からの一方的な押し付けが始まり、国歌を斉唱しているか口の動きまでチェックすることまで行われたことを思い出してみると、アメリカとの違いが歴然としてくる。

 アメリカでは日本以上に1920〜30年代ごろから国旗や国歌が国の統一のシンボルとして重んじられるようになり、日本以上に国民の間に浸透しているが、それでも今度のことでもわかるように、民主主義の国として個人の人権が尊重されている様がわかる。

 日本で同じようなことが起これば、Twitterではネトウヨの非難で炎上し、それに乗じて連盟やチームは陰湿な方法を用いて陰で選手を除名するであろう。いや、その前に選手が忖度するので、そのような行為に出る選手がいない可能性の方が高いかも知れない。今の日本の報道関係者の姿勢から見ても容易に想像できる。

 日本の民主主義がいかに脆弱であり、為政者たちが「むら社会」ないし「世間」の隠然たる力に結びついていることからもアメリカとの違いが容易にわかる。