私にとっての日の丸・君が代

 8月18日の朝日新聞に「沖縄で燃やした日の丸」と題して、1987年10月沖縄であった国体の会場に掲揚されていた日の丸を、引き下ろして火をつけ、逮捕され、器物損壊の罪で、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受け、今は僧侶になっている知花昌一氏へのインタビュー記事が載っていた。

 氏は1948年生まれで、沖縄が戦後米軍の占領下に置かれ、日本復帰を望んでいた頃は、日本復帰を願って日の丸が憧れの象徴であり、自ら日の丸を買って持っていたそうである。

 ところが、復帰しても米軍基地はなくならず、ベトナム攻撃の拠点として使われていたことに加え、自分の出身地である読み谷村で、祖父が殺されたことを知り、大勢の住民が集団自決したガマの調査に参加し、沖縄人が大日本帝国から差別されながら、政府や軍部の教育を押し付けられた上、本土防衛の捨て石にされたことなどを学び、その象徴が日の丸であったことを知ったのであった。

 当時は国が一方的に日の丸を国旗として、君が代を国歌として復活させ、卒業・入学式に強制させようと学校現場へ介入を強めた時期であり、読み谷高校でも、卒業式で女生徒が日の丸を外して捨てるという事件もあり、本人の事件も、大人として自分の主張の責任を取るために行った行為であった由である。

 今も、権力に弾圧され流罪になっても、決して迎合しなかった親鸞の生き方に惹かれて僧侶となり、命に関わることこそ譲れない。日の丸を焼いたことも、人間として間違ってはいなかったんじゃないかと思っているそうである。

 これを読んで、私も全く同感である。私の場合には、戦中の経験が大きい。皇国である大日本帝国神州不滅の三千年の歴史、萬世一系の天皇制、忠君愛国を信じ、身は鴻毛に等しく、陛下の為には死して国を守ると教えられた中で、純粋培養されたようなもので、その象徴が君が代であり、日の丸なのであった。

 敗戦後しばらくは、日の丸も君が代も見たり聞いたりしないで良かったが、いつしか、国民の同意も得ないまま、政府が勝手に君が代、日の丸を復活させて国民にそれを押し付け、いつの間にかそれを定着させてしまった。

 しかし、私は今なお、どうしても感情的にそれについて行けない。君が代を聞き、日の丸を見ると、嫌な過去が蘇ってきて、生理的に拒否したくなるのをどうすることも出来ない。戦争の後遺症であろう。

 国旗も国歌も国民が皆でそれを決めて、それを用いるなら、それに反対するものではない。しかし、誰にも好き嫌いの感情は避けられない。私の場合には、国旗や国歌はあまりにも、自分が否定している戦前戦中の生活体験に強く結びついいるものだから、生理的に排除したくなるのを止められない。

 最近は大分慣らされて来たが、それでも、今なお朝テレビが始まる時に、日の丸が出ると、思わず目をそむけるし、追悼式などで、君が代が流れ出すと、スイッチを切って終わるのを待つことになる。病院の院長をしていた時には、式典で君が代を歌う時には、口だけぱくぱくさせて誤魔化していた。

 非国民と言われようと、生理的に体が反応するのだから仕方がない。戦争で受けた傷跡は大きい。日本人じゃないと言われても、私の方が古くからの日本人であるのをどうしようもない。

 私の希望は、新しいもっと素晴らしい国歌を作り、希望のある新しい国旗を作って貰いたいが、これは一億二千万の出来るだけ多くの国民が納得する国旗や国歌を作って貰えば良いがと考えている。

 戦前に道を踏み誤り、大きな被害を受けた傷跡につながる国旗や国歌が嫌なだけで、希望に満ちた新しい国旗や国家は大いに歓迎するものである。もう死ぬまで私の心も希望も変わらないであろう。