武器を買うより国民の生活の充実を

 自民公明の両党は来年度の税制改正大綱で、所得税やタバコ税の増税、新税の創設などで年間、計2800億円の増税を決めたようだが、企業向けには賃上げや設備投資に積極的な企業に法人減税も決めている。

 それに伴い、年金や高齢者医療の医療費、介護費用などは極力抑えられ、生活保護で支給される食費などの生活扶助まで、大都市の子どもが2人いる世帯や65歳の単身世帯などの低所得世帯の生活費を上回っているとして、最大で5%引き下げる方針を固たようである。それも原案では、食費や光熱費などの生活費にあたる「生活扶助費」を最大で1割以上減らすとしていう大幅な引き下げ案になっていたそうである。

 更に障害者施設が利用者に食事を提供する場合、食費の一部を公費で負担する制度の廃止も厚生労働省は提案していると言われる。

 少子高齢化で人口減少に向かい、国の借金の膨大さなどを考えれば、無駄な出費を抑えるのは当然であるが、国は他方で北朝鮮問題を故意に煽り、中国の脅威を唱えてアメリカの言うなりに、軍事力の増強、武器の購入などには金にいとめをつけないようである。

 防衛省自民党の国防関係の会合で、新たに導入する地上配備型の新型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の価格について、始め700億から800億とされていたが、その後1基当たり1000億円弱になるという見通しを示した。2基買うそうなのでで2000億円と言うことになる。

 これがどの程度の値段かと言うと、次回の増税で年収850万超のサラリーマン増税による税収増が1300億円と見込まれるが、それが全部吹き飛んでも足りない金額なのである。この武器の高価さが分かる。

 しかも、広い日本をたった二基の固定された「イージス・アショア」で守れるはずがない。「ないよりマシ」というぐらいのところであろう。アメリカに言われるままに買わされるようなもので、多少のカネと手間をかけても緊張緩和したほうが得である。日本独自の外交があってもよいのではなかろうか。

 ある人のTwitterの書き込みに、「アメリカを守るためのイージスアショア。さぁ皆んな、アメリカを守るために、必死で働こう。アメリカを守るためだ。文句を言うなよ。ウチら日本国民、アメリカのために命賭けるんだからな。」と言うのがあった。

  また安倍首相は、東京都内で開かれた保健医療に関する国際会議で、発展途上国の保健サービス強化などに、総額およそ3,300億円規模の支援を行うと表明している。生活保護費は引き下げるのに、海外支援で3300億円も出すんですかと言いたくなるではないか。そのほかにも、安倍首相が海外にばらまいている金額も莫大で、外国には気前よく、行く国々で金をばらまいている。

 日本の借金は過去最大で1024兆円にもなると言われ、人口減少、少子高齢化の上、経済の停滞、社会の格差拡大が進み、小児の貧困化が国連からも指摘され、人々の賃金も伸びず、将来に希望も持てない状態であることも考慮すべきであろう。 

 こう見てくると、たとえ北朝鮮問題などがあるにせよ、アメリカの言われるままに武器を買うより、もう少し外交力を強め、国民のために予算を使うべきではないかと言いたくなる。やはり安倍政権は国民のために政治をする政府ではなくて、アメリカの言うなりのアメリカ従属政府なのであろうか。

 



 

沖縄の米軍事故

 沖縄の米軍普天間基地に近接した保育園に米軍の飛行機からの落下物があったというニュースがあったと思っていたら、数日後には今度は近くの小学校の校庭にヘリコプターの窓が落ち、直接の被害はなかったものの飛び散った小石にあったって怪我をした子供がでた様である。

 校庭では多くの児童の授業が行われており、もう少しのことで大惨事にもなりかねなかったところである。当然早速米軍に対する抗議がなされ、当分の間飛行の停止が申し込まれ、防衛大臣も「あってはならないことであり、厳重に抗議する」と言い、米軍に申し入れた。

 沖縄における米軍の飛行機事故はしばしば繰り返され、ここ3年間だけ見ても

15年8月 うるま市の沖合でヘリが墜落

16年12月 名護市の沿岸でオスプレイが墜落

17年10月 大型輸送ヘリが飛行中に出火、東村の民有地に不時着

17年11月 嘉手納きちでステルス戦闘機F35Aのパネルを飛行中に落とした

17年12月 普天間飛行場に近接する保育園の屋根に、米軍機の部品とみられる円筒状の物体が落下(米軍は落下物でないと否定)

などがあり、ついで今回の事故と続いている。

 その都度、政府は一応抗議はしているが、安保条約に基づく地位協定で、いつもそうだが、今回も落ちた窓枠はすぐ米軍に返されるし、一応の謝罪はあっても、米軍は自分らの判断だけでいつも抗議は無視され、飛行も短時日のうちに再開されている。

 政府も米軍に対しては全く弱腰で、一応の抗議をしても、米軍の言うなりに再開を認めてきているのが常である。今回も人命に関わることであり、翁名知事が急遽東京にまで抗議に来ているのに、安倍首相は面会もせずに芸能人との会食に出かけた有様である。

 さらに酷いのは、米軍も認めている今回の事件んいついてさえ、”ネトウヨ”などから「ヤラセ」だの、基地の近くに学校を作った方が悪いのだのと言った被害住民に対する中傷の声さえあったことである。

 米軍は今回も機体の欠陥ではなく人為的なミスだということで、早速飛行を再開させているし、学校の上を飛ばないようにとの要望にも、最大限飛ばないようにすると言う返事だけで飛行をしないとは言っていない。

 米軍機の飛行については、アメリカ国内と同様に、沖縄でも米軍家族の住宅の上では低空飛行しないことになっているが、日本人の家屋についてはそのような制限はなく、日米協定により米軍機はどこをどのように飛ぼうと自由なのである。

 憲法よりも優先する地位協定が変わらない限り、このような状態は変わらないが、日本政府にはこのようなことが起こっても、沖縄の人たちの命や生活を守るために、アメリカとの条約改定に動く気配は全くなく、それより、アメリカに従属することを優先させている。

 こう言う事件の処理の仕方を見ていると、安倍政府が国民を守る国民のための政府ではなく、アメリカに忠実に従って、国民ではなく、アメリカに依存した自分たちの権益を守るための政府だということが具体的にはっきりとわかる。

 

大阪市とサンフランシスコの姉妹都市解消

 大阪市姉妹都市であるサンフランシスコ市がいわゆる”慰安婦像”を立てることを承認したことに反対して、姉妹都市を解消したそうである。60年以上も続いてきた姉妹都市としての交流をそのようなことで打ち切ってしまうのは勿体ないような気がするが、市長自らが打ち切りを決めたようである。

 そもそも韓国だけでなく、アメリカにまで”慰安婦像”が建てられることに対して、”慰安婦”の存在をを否定している大阪市長を含む維新の会や自民党、その他の右翼勢力などは”慰安婦像”があちこちに建てられることに神経質に反対し、その動きを阻止しようとしてきたが、アメリカに建てられる”慰安婦像”は、韓国での問題とと少し事情が違うようである。

 アメリカでの建立は直接日本の軍隊に強制された”慰安婦”だけを象徴するものではなく、戦争における性暴力一般を象徴するものとして、その犠牲者を弔い、二度と同じようなことを繰り返さないという願いを込めたモニュメントとされており、そう言われれば、日本の右翼勢力が言う直接軍隊に強制された”慰安婦”がいたかどうかと言う問題とは少しずれて考えられているものなのである。

 そうとすると戦争に伴った性暴力全般のあったことを否定するわけにはいかないのだから、過去の事実として受け入れざるを得ないものであろうが、日本の過去のマイナスの歴史を否定したい維新の会などの勢力は何としてもアメリカに”慰安婦像”が増えるのを阻止せんとして、2年前にサンフランシスコで行われた像の建設を許可するかどうかの公聴会に人を送り建設を止めるように訴えた。

 ところが、そこには韓国の元”慰安婦”であった人も証言するために呼ばれていた。その場でその証人を前にして、あらかじめ用意していた文をそのまま読んだのであろう「”慰安婦”などはおらず、実態は自ら志願した”売春婦”だ」と言ったものだから、議長がびっくりして、あまりの非礼さに"Sheme on you"と言って、たしなめる一幕があり、それも影響して反対であったろう人までが態度を変えて、全会一致で建設が承認されたと言うことらしい。

 それにもかかわらず、サンフランシスコ日本は総理大臣名で市長の権限で建設を止めなければ姉妹都市は解消だと要請していたようだが、この度サンフランシスコ市が正式に”慰安婦像”建立を許可したので姉妹都市解消ということになったのだそうである。

 南京虐殺にしてもそうだが、殺された人数が問題なのでなく、大虐殺があったことは否定しようのない事実であるのに、人数の評価で虐殺全体の事実をなかったことにしようとしたり、慰安婦の問題でも、銃剣を突きつけられて慰安婦にされたと言う済州島の事例の誤りを取り上げて、”慰安婦”問題が全てなかったと主張するような、歴史の歪曲は国内ではそこそこ通用したとしても、世界では通用しない。

 まずい誤った主張は人々の反発を買い、返って”慰安婦像”が戦時性暴力”のシンボルとしてフイリピンやインドネシアなど日本が侵略した他の国にも広がることにもなりかねないのではなかろうか。

 ドイツが今もなおアウシュビッツなどのユダヤ人虐殺の過去のマイナスの歴史に正しく向き合っているように、日本も否定しようのない過去の侵略や加害の歴史には嫌でも正しく向き合わなければ、やがてこの国は世界の孤児にならざるを得ないのではなかろうか。

 

老人の眼

 人は視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚のいわゆる五覚によって外界を認識しているものであるが、歳をとるとこれらの感覚器官も老化して感度が落ちてくる。五覚のうちでも一番大事な視覚も誰しも長い年月の間にはいわゆる老眼やその他の色々な老化現象、それに長い人生の間にかかった病気などで、色々な欠陥が付きまとってくるものである。

 若い人から見ると老人になっても、特別病気でもなければ、大抵の老人は老眼鏡をかけたり、白内障の手術を受けたりして、目のことでさして困ることもないように思われるかも知れないが、眼というのは日常生活で朝から晩まで使わなければならないもので、単に風景が見えたら良いというものではない。

 字も読まねばならないし、外界のわずかな変化にも気づかなければならない。微小な変化で人の顔や物体などあらゆるものを識別しなかればならないような微妙で複雑な役割まで担っているものなので、なかなか視力だけで片付けられるというな簡単なものではない。

 いわゆる老眼と言われる調節障害や、白内障のレンズの濁りの他にも、眼圧が更新する緑内障もあるし、視野の中心部分の網膜の変化である黄斑変性やその他の網膜の変化、それに網膜剥離などもある。そういった色々な変化が多かれ少なかれ、老眼に伴ってくるのが普通である。

 私の場合も、五十代に起こった左眼の黄斑の浮腫の後遺症で、そちらの眼でものを見ると、視野の中心部分は黒くなって見えない。反対側の目で見ているので普通困ることはないが、左眼だけで見ると中心の近くでは直線も歪んで見える。こうして老人になると、日常生活で困るのは単にぼやけて見えにくいという調節力の問題だけではなく、外界を見るだけでも色々な問題が伴うようになるものである。

 まずは眼鏡の紛失である。これはまだ眼鏡をかけ始めた若い頃の方が多いのではなかろうか。ことにまだ老眼鏡を必要とせず、細かいものを見る時には眼鏡を外せば済んだ頃の思い出で、公衆電話をかける時に眼鏡を外して番号を見、そのまま置き忘れたり、眼鏡を頭にずらしたまま眼鏡がないと慌てたりしたことは誰にでもあることであろう。

 もう少し歳をとって老眼鏡がないと文字などが見えにくくなると、老眼鏡をかけて新聞でも読んで、は読み終わった後にそのまま移動して、定位置の眼鏡がなくなったりすることが起こるようになる。その対策として老眼鏡をいくつも買い、どの部屋にも置くようにしたが、それでもある部屋には老眼鏡が重なって他の部屋にはないということが起こる。眼鏡が勝手に歩くのである。

 それに老眼鏡があっても困るのは薄暗い所では眼のレンズが濁って来るためも加わって見えにくい。女房は白内障の手術をしたので薄暗いところでも新聞を読んでいるが、こちらは電気を明るくしなければ読めない。

 また見えていても、片方の中心暗転のために立体的な識別力も悪くなっているためか、ここへ置いたはずの眼鏡がないと騒いでも見つからなかったが、実は眼鏡ケースと置かれた椅子の革の色が似ていたので、探した時にそこも見たはずだが、見過ごしていただけと言うこともあった。

 また文章でもなんとか字は読めていても、本などの小さな活字を追っている時などに誤読するようなことも起こり易い。先日など「平成の終わりが見えた機会に・・・」とあるのが、「平和の終わりが見えた」と読んでびっくりしたし、昨日は「設問」と書かれているのが「股間」と読めて何事かと思ったりしたものであった。「限って」が眠くなった時に読んだためか「眠って」になったこともあった。

 歳をとるとあちこち傷んでくるのは仕方がない。どんな器械でも90年もそのまま使えるものはないであろう。眼にしても日常生活が過ごせるだけの機能があれば、こんなに有難いことはない。曲がりなりにもまともに動いてくれている身体機能を神に感謝せねばなるまい。何とかなだめたり、おだてたりしながら、楽しく余生を過ごす工夫をしていくのが賢明であろう。

 

 

 

続々出てくる大企業の不正

 このところ日本を代表するような大会社の不正事件が相次いでいる。東芝やシャープの経営破綻は別としても、タカタのシートベルトの不正に始まり、神戸製鋼の製品に関する書類の不正があったと思えば、次いで日産や三菱の車の製品検査の不正、三菱マテリアルや三菱アルミ、東レなどの品質保証の不正と次々に社長が頭を下げることになり、外国からは、日本は謝罪の文化だと揶揄される事態になっている。

 戦後の高成長時代には技術は世界一、製品はどこにも負けないなどと自負していた日本の産業も、こうなると、やがては高度成長で追い付いてくる新興国に対しても技術の高さを自慢できなくなってくるのではなかろうか。

 従来の感覚では日本の大企業に限っては、厳正に規律も守られているのが当然で、それが日本の産業界の常識のように思われてきたのだが、最近のこの有様は一体どうしたことであろうか。

 最近の少子高齢化や会社の能率化、リストラなどで、高度成長時代を支えた人がいなくなり、人手不足もあり、昔の優秀な技術やノウハウが次の世代に正しく伝わっていないようなことがあるのかも知れない。

 しかし私が思うには、この背景にあるものは、ここ数十年の社会の大きな変化や、グローバル化などに乗せられて、会社の姿勢が従業員重視から株主重視へ大きく変わったことが影響しているのではなかろうかということである。

 以前は日本の会社は一家のようなところが多く、顧客や株主も大事だが、従業員は会社一家の一員であり、一旦仲間に加わったからには、どんな社員も死ぬまで一切会社が面倒見ていこうという建前であったのが、最近は株主こそが大事で、そのために経営努力して利益を上げる金儲けが最大の目的となり、従業員の能力は手段としてしか認めない感じになってきている。こうした会社の風土の変化がそのような原因の背景にあるのではなかろうかと思えて仕方がない。

 昔から株主優先の経営手法を取ってきたアメリカなどでは、それなりのノウハウでやって来ているのであろうが、まだそういう歴史の浅い我が国の経済界では、まだそうした新しい企業文化に慣れきっていないところにいろいろな問題が隠れているのではなかろうか。

 この際、改めて品質管理の立て直しが必要だと言われるが、品質管理を立て直し、秘密主義を廃止して出来るだけ公開するなども手を打たなければならないが、もう少し掘り下げて、株主優先が避けられないにしても、もう少し従業員あっての会社であることを思い出し、従業員の待遇改善に勤めて、従業員の生きがいや、やる気を喚起する工夫などにも改めて目を向け、従業員を重視尊重する経営風土にすることが必要なのではないかと思うが如何だあろうか。

明石市の子育て支援

 子育て支援が問題になっているが、新聞によれば、明石市では中学生までの医療費、第二子以降の保育料、市営施設の子供の利用料などを、全て所得制限なしで無料化しているそうである。

 泉房穂市長によれば、所得制限をつけないのは、所得制限をつけると、親の所得によって子供を勝ち組と負け組に二分することになり、子供を親の持ち物のように捉えることにも繋がるからという。子供全員を対象として中間層の子や孫にも恩恵が及ぶようにした方が、納税者として市の財政の支え手を担っている中間層の理解が得やすい利点もあったそうである。

 新聞によれば市長がこのような優しい社会や子供への強い思いを抱くようになった原点は、4歳下に生まれつき障害を持った弟がいたことで、養護学校を避けてなんとか地元の小学校へ行けるようになったが、兄である今の市長が登下校に責任を持たされ、冷たい視線を浴びながら弟と一緒に通学し、世の中の理不尽さを子供心に憎んだという経験にあるのだそうである。

 

 運動会で弟が走りたいというのを「迷惑をかける」と両親も自分もやめるよう求めたのを振り切って、弟は走ったが、皆に随分遅れて嬉しそうにゴールインした姿を見て涙が止まらなかったという。弟が笑われたらかわいそうと言いながら、本当は自分が笑われたくなかったのだと気付いたそうである。

 最後に、「幸せを決めるのは本人であり、それを支えるのが周囲の役割なのだ」と、言われていたが、それが上のような施策に反映しているのであろう。今まで知らなかったが、明石の子育て支援が成功することを祈りたい。最近あまりない良い記事を読ませてもらった。

国際的いじめ International Bullying

  北朝鮮国連制裁にもかかわらず、2ヶ月あまりの沈黙を破って今度はアメリカ本土まで届くICBMを打ち上げた。それに対して、アメリカのトランプ大統領国連加盟国に北朝鮮との一切の関係を断つよう要請し、中国に対しても石油の供給を止めるように言っているようである。

 北朝鮮という国はこれまでの色々な情報を見ていると、戦前戦中の日本そっくりなことが多いので、どうしても好きになれない国であるが、そうかと言って、トランプ大統領やそれに乗った安倍首相などの話し合いではなくどこまでも圧力をかけ、その圧力で相手のやり方を変えさせるという政策には同調できない。

 話し合いの解決を前提としない圧力がどういう結果に結びつくのか見通しがあるのだろうか。圧力が極端になれば、窮鼠猫を嚙むことになる可能性が高くなる。それがどういう結果になるか考えただけでも恐ろしい。

 新聞などでは北朝鮮が殲滅されるというような記事も見られるが、一旦戦争になれば、被害は北朝鮮だけでは済まない。韓国の首都のソウルは休戦ラインから僅か50kmしか離れていないので、戦争の勝敗の如何にかかわらず、壊滅の危機に陥るであろうし、被害は朝鮮半島内にとどまるはずもない。

 日本の米軍基地が出撃の基地として使われるであろうから、当然日本も攻撃目標になる。沖縄の基地が目標になるだけでなく、日本を攻撃しようとすれば、例えば、敦賀湾の原発を狙うのが最もたやすいことではなかろうか。海辺に並ぶ地上に固定された原発はミサイルの絶好の標的であり、北朝鮮からのミサイル攻撃でなくても潜水艦による通常兵器の攻撃によってでも、その破壊は容易であろうし、破壊されれば放射性物質の拡散による被害がどれほど広がるかは東日本大震災原発事故を見れば容易に想像できる。しかもそれを防ぐ有効な手立てはない。

 北朝鮮が完全に破壊されたとしても、同時に日本列島の被害も莫大なものとなり、数え切れない死者が出ることも避けられない。アメリカは攻撃するだけで逃げれば済む。 ICBM が仮にに米本土まで届いたとしても、被害は局所的なもので、全体に影響するような被害を受ける可能性は低い。幸い、中国やロシアは平和的な解決を主張しているが、アメリカによる北朝鮮攻撃は絶対にやめさせ、話し合いの道を探すべきである。

 メディアの報道や世間の話などでは、北朝鮮という”ならず者”国家がアメリカを盟主とする国連の政策に反対して核やミサイルの開発を進め、理不尽な挑発を繰り返していることは断じて許されるべきではなく、核開発を放棄しなければ国連による制裁を解かないのが正義であるというのが当然のことと見做されているが、もともとなぜ北朝鮮が資源も貧しい小国でありながら、他のことを犠牲にしてでも国連決議にも反対して核やミサイルの開発を進めるのか、今回の危機のそもそもの原因についても考えてみるべきではなかろうか。

 誰の目にも明らかなことは、北朝鮮の核やミサイルの開発が他国を先制攻撃するためというよりは、他国から攻撃され滅ぼされるのを防ぎ、なんとか反撃能力を高め、攻撃を諦めさせ、自らが生き残るための唯一の手段と考えていることであろう。

 北朝鮮の側から見れば、朝鮮戦争は未だ休戦状態で終わっておらず、アメリカは未だに戦争相手国なのである。その上、アメリカを盟主とする西欧社会に逆らったイラクアフガニスタンリビアなどの小国は、結局アメリカに反対したために滅ぼされたという現実の歴史を目の当たりに見てきているのである。

 そうなれば自国を守るためには最低限、反撃できるだけの備えを整え、容易に攻撃されないようにしておかねばならないことになる。それが核とミサイルの開発なのである。

 世界の核兵器は五大國が核不拡散条約によって独占しているが、その規制もアメリカ主導の国連の都合で、インドやパキスタンはその保持を許され、イスラエルについては黙認されるという大国の御都合主義がまかり通っていることもある。  

 そうなれば、一概に北朝鮮だけに核開発をやめさせる道理は通らないことになる。イランに対する核をめぐる制裁の問題もあるが、北朝鮮はイランのような大国でもなく、未だアメリカとの平和条約も結ばれていないので、いつ攻撃されて潰されてしまうかも知れない恐怖に駆られても不思議ではない。

 世界の中で核保有国だけが核兵器を持ち、他の国には持たせない核拡散防止条約も、核を持たない国が一致して核兵器廃止を唱えているのに核保有国が依然として核兵器を独占し破棄に応じない現状では、自分たちだけが核兵器を持ちながら他国の核保有を禁止するのはどう見ても道理が通らない。

 ましてやアメリカなどが自分の気に入らない弱小國を潰してきた歴史は、どう見ても、大国の横暴としか言えない。いかに小国といえども生きて行く権利は大国と同様にあるはずである。当然弱小國が自国の生き残りをかけて、最低限の防衛手段を持とうとするのも当然であろう。

 こう見てくると、現在の北朝鮮の問題は決して変わった”ならず者”の独裁国家核兵器やミサイルを開発して平和な世界を脅し、挑発を繰り返す危険な行為をしているといった世間一般に広く行き亘っている構図とは大分異なった姿が本当のところではなかろうか。

 アメリカを盟主とする西欧社会が北朝鮮という自分たちのいうことを聞かない国を排除し、出来れば潰してしまおうとする”いじめ”とも言えるのではなかろうか。北朝鮮はそれに耐えて、必死で生き延びようとしているのであろう。

 やはり、この北朝鮮問題の解決は”弱いものいじめ”ではなく、話し合いによる北朝鮮生存権をも認めた上での、大国をも含めた世界の全ての核廃絶につながるものでなければならないのではなかろうか。