老人の眼

 人は視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚のいわゆる五覚によって外界を認識しているものであるが、歳をとるとこれらの感覚器官も老化して感度が落ちてくる。五覚のうちでも一番大事な視覚も誰しも長い年月の間にはいわゆる老眼やその他の色々な老化現象、それに長い人生の間にかかった病気などで、色々な欠陥が付きまとってくるものである。

 若い人から見ると老人になっても、特別病気でもなければ、大抵の老人は老眼鏡をかけたり、白内障の手術を受けたりして、目のことでさして困ることもないように思われるかも知れないが、眼というのは日常生活で朝から晩まで使わなければならないもので、単に風景が見えたら良いというものではない。

 字も読まねばならないし、外界のわずかな変化にも気づかなければならない。微小な変化で人の顔や物体などあらゆるものを識別しなかればならないような微妙で複雑な役割まで担っているものなので、なかなか視力だけで片付けられるというな簡単なものではない。

 いわゆる老眼と言われる調節障害や、白内障のレンズの濁りの他にも、眼圧が更新する緑内障もあるし、視野の中心部分の網膜の変化である黄斑変性やその他の網膜の変化、それに網膜剥離などもある。そういった色々な変化が多かれ少なかれ、老眼に伴ってくるのが普通である。

 私の場合も、五十代に起こった左眼の黄斑の浮腫の後遺症で、そちらの眼でものを見ると、視野の中心部分は黒くなって見えない。反対側の目で見ているので普通困ることはないが、左眼だけで見ると中心の近くでは直線も歪んで見える。こうして老人になると、日常生活で困るのは単にぼやけて見えにくいという調節力の問題だけではなく、外界を見るだけでも色々な問題が伴うようになるものである。

 まずは眼鏡の紛失である。これはまだ眼鏡をかけ始めた若い頃の方が多いのではなかろうか。ことにまだ老眼鏡を必要とせず、細かいものを見る時には眼鏡を外せば済んだ頃の思い出で、公衆電話をかける時に眼鏡を外して番号を見、そのまま置き忘れたり、眼鏡を頭にずらしたまま眼鏡がないと慌てたりしたことは誰にでもあることであろう。

 もう少し歳をとって老眼鏡がないと文字などが見えにくくなると、老眼鏡をかけて新聞でも読んで、は読み終わった後にそのまま移動して、定位置の眼鏡がなくなったりすることが起こるようになる。その対策として老眼鏡をいくつも買い、どの部屋にも置くようにしたが、それでもある部屋には老眼鏡が重なって他の部屋にはないということが起こる。眼鏡が勝手に歩くのである。

 それに老眼鏡があっても困るのは薄暗い所では眼のレンズが濁って来るためも加わって見えにくい。女房は白内障の手術をしたので薄暗いところでも新聞を読んでいるが、こちらは電気を明るくしなければ読めない。

 また見えていても、片方の中心暗転のために立体的な識別力も悪くなっているためか、ここへ置いたはずの眼鏡がないと騒いでも見つからなかったが、実は眼鏡ケースと置かれた椅子の革の色が似ていたので、探した時にそこも見たはずだが、見過ごしていただけと言うこともあった。

 また文章でもなんとか字は読めていても、本などの小さな活字を追っている時などに誤読するようなことも起こり易い。先日など「平成の終わりが見えた機会に・・・」とあるのが、「平和の終わりが見えた」と読んでびっくりしたし、昨日は「設問」と書かれているのが「股間」と読めて何事かと思ったりしたものであった。「限って」が眠くなった時に読んだためか「眠って」になったこともあった。

 歳をとるとあちこち傷んでくるのは仕方がない。どんな器械でも90年もそのまま使えるものはないであろう。眼にしても日常生活が過ごせるだけの機能があれば、こんなに有難いことはない。曲がりなりにもまともに動いてくれている身体機能を神に感謝せねばなるまい。何とかなだめたり、おだてたりしながら、楽しく余生を過ごす工夫をしていくのが賢明であろう。