人の振り見て我が振り直せ

 昨日は二年ぶりで大学時代のクラスの同窓会に出た。卒業以来六十年近くなるので、皆もう九十近い年齢になっている。近頃は旧友たちも毎年二〜三人ぐらいの割で亡くなっていっているので、実数も減って来ているし、生きていても、どこかの具合が悪くて出席出来ない人や、たまたま都合のつかない人もあり、元々の百名のクラスメートのうち今回の出席者は十四、五名で、うち奥さんの付き添えが必要な者が五名ということであった。

 学生時代には名簿の順で、六名ずつのグループに分かれていたが、私のグループの友人に至っては、もう皆いなくなってしまい、私だけということになっている。歳が行けば仕方のないことだが、年々出席者が減り寂しくなるばかりである。もうこの会も今年で終わりにしようかという声も出る始末である。

 そう言えば、近年、私の関係していた他の同窓会もだんだんなくなってしまっている。小学校のは今年の春で終わったし、中学校と旧制度の高等学校のそれはもう何年か前に消滅してしまっている。その他でも、親しい仲間で毎年桜の時期にしていた集まりも殆どの人が死に、今年から開けなくなってしまった。昔の病院関係者の同窓会も今年で終わりということになった。もうそういう時期に来ているのである。昨日の集まりで来年はとにかくまたしようという結論になったのがせめての救いであろうか。

 昨日クラス会に出席した旧友たちを見ていて、つくづく思ったのは、それぞれ人によって違いはあるが、「あいつも歳をとったな」と思わずにはいられない例が多いことだった。眼鏡をかけているので誰かなと一見わかりづらい人もいたし、耳が遠いので正面を見ないと聞こえづらい人もいた。足腰が悪くて立ち上がるのに時間を要する人や、背中の丸くなった人、杖の要る人、歩くのが遅くなったと言う人、トイレに行くにも奧さんの付き添ってもらわなばならない人さえいた。

 それらに比べれば、私など特段悪いところもなく、まだ元気で普通に暮らしてられることは密かに自慢出来ることで、感謝すべきだと考えなければならないであろう。ただし、自分では以前と大して変わらず、そう思っていても、本当にそうなのだろうか。

 外観では、他の旧友たちとあまり変わりないに違いない。自分のことは毎日鏡に映る顔を見たり、入浴時などに自分の身体を見て、時には老化した肉体を意識することもあるが、日常生活の中では急に変わるわけもなく、いつも同じ見慣れた姿が続くだけなので、自分の変化をさして感じないが、例えば、最近は電車に乗っても席を譲られることが多くなったようなことを見ても、外見では自分の思いよりも老けて見られているのかも知れない。

 この頃では、どこへ行っても接する人が自分より若い人ばかりなので、つい自分もそれらの人たちとあまり変わらないような気になり勝ちであるし、いつも会う女房や親しい友人からはつい変化に気付きにくいが、時にこのクラス会のように月日を開けて会う同年代の友人を見ると、老いの現実を改めて認識させられる。

「人の振り見て我が振り直せ」という諺があるが、自分ではまだまだ元気な積もりでも、クラス会のような機会に同世代の人の振りを見て我が振りを考えて見ることも大事なのであろう。

駅や車内での中国語やハングルによる案内表示

 Facebookを見ていたら、最近多くなった電車などでの案内表示の中国語やハングルでの標記に文句を言っている人があった。写真は大阪の地下鉄のようであったが、最近の駅や電車の表示には日本語に続いて、英語、中国語、ハングルが順に出てくる案内がある。

 それに対して、その人が書いているのは、「御年寄が狭い駅の電光掲示板の前で中国語や朝鮮語が日本語に変わらず(*日本語表示が出るまで*)立ち尽くす光景をよく見かけます❗️電車に乗り遅れるばかりで無く非常に混雑した人口密度の高い駅の中で身体がぶつかり怪我をして居るのです‼️日本國民が迷惑して困っているという切実な願いが何故国土交通省に届き改善されないのかサッパリ理解出来ません。」という文章で、それに対するコメント欄には他の人が「次の駅どこか全く分からない。本当にやめてくれないかな?英語併記すれば事足りるだろ」「日本人が読めない、聞いてもわからない国民の生活を不便にして何をする気?」などと書いている。

 最近は観光日本というかけ声のもとで、政府も地方自治体も観光に力を入れており、事実、観光客も増え、心斎橋通りなどでは「今日は」というより「ニーハオ」といった方が通じるぐらいに中国や韓国からの観光客が増え、殊にデパートや薬、化粧品の店などが潤っているようである。

 大阪だけでなく、どこの街を歩いても、電車に乗っても、外国人を見かけるのが当たり前になってきた。私の住んでいる池田市でも、中国人の団体客がラーメン博物館などに来ているのを見かける。これだけ外国人、ことにアジアからの観光客が増えれば、当然それらの客に対する対応も必要になるので、どこでも中国語やハングルでの表示や説明が多くなっている。

 上記の人はどうも地下鉄の駅や車内での案内板の表示で、日本語が英語、中国語、ハングルと順に変わって行くので、それらの表示の途中で日本語が出ていない時のことを言ってられるようであるが、そんなに長い周期で変わるものではないし、さらに中国語の時なら簡体文字なのである程度想像がつくことも多い上、同じ漢字のこともあるので、そのために電車に乗り遅れたり、困ることは実際にはあまり起こらないのではなかろうか。また人混みの中で、そのために人とぶつかったりする危険性を言うならば、スマホを見ながら歩いている人の方がはるかに問題であろう。

 折角、外国からのお客さんが大勢来てくれるのだから、もっと色々サービスをして、お金を落としてもらうように努力することの方が大事ではなかろうか。観光客といっても8割ぐらいはアジアからの人たちだからそこに焦点を当てるのが当然であろう。

 そうとすれば言葉の問題は大きい。英語だけでは間に合わず、一番多い中国人や韓国人に焦点を合わせて対応し、なお余裕があるなら、需要に応じてベトナムやマレーシア、インドネシアその他の国の言語にも対応して行くべきであろう。

 上記の様な表示のおかげで日本人が大そう不便になったと考える人は少ないのではなかろうか。日本人の観光客なら、上記の様な表示でも多くは一瞥で判断出来るだろうし、他にも多くの表示があるし、他人にも聞けるので判断材料が得やすいであろうから、短時間だけ日本語の表示が切れたからと言って実際に困る人が出るとは考えにくい。

 おそらく文句を書かれた方は中国や韓国が嫌いなのではなかろうか。私などは書かれた中国の簡体文字やハングルを見て、日本語と比べられるので、ゆとりのある時には興味津々で、眺めては少しづつ中国の簡体文字やハングルを覚えたりするのを楽しみにしている。少しでも会話が出来るようになったらもっと楽しいだろうにと思ったりもしているが、おそらく大勢の中には外国人、ことに隣国の人をあまりよく思わない人もいて、こんなことにも文句の一つも言いたい気持ちになる人もいるのであろう。

 将来のことを考えれば、どうかするとこの島国に閉じこもりがちな日本人も、もっと広い心を持って、他所の国の多様な人々とも一緒にやって行くことを考えなければいけない時代になって来ているのに残念な気持ちがする。それは兎も角、さしあたりは観光立国で、出来るだけ多くの外国人に来てもらい、出来る限りのサービスをして、気持ちよく帰ってもらい、しっかりと儲けさせてもらうのが良いのではなかろうか。

ネットで拾った二題

 最近は嫌でもネットに繋がって情報を得なければならない世の中になってしまっている。毎朝起きたらパソコンの電源を入れて、メールに始まり、FaceBookTwitterなどに目を通している。自分なりに情報を絞っているつもりなのだが、要らない情報を消したり、飛ばして読んだりしているが、結構時間を取られて、何とかもう少し上手に必要な情報にだけ近づけないものかと考えているが、周囲にパソコンに詳しいものもいないので、おそらく随分無駄なことをしているのだろうが仕方がない。

 見る情報のほとんどは役にも立たないで、消すのに時間を取られているようなものだが、いい加減に選択しているからかも知れないが、時には思わぬ話を聞いたり、気の利いた商品にお目にかかったりすることもある。

 今回はそのようにして偶然でくわしたものだが、是非記憶にとどめておきたいなあと思った話を二つ書き留めて起きたい。

 一つはある飛行機の客室での出来事である。短い記事からの転記なので大雑把なことしか書けないが、ある機内で白人の女性がたまたま黒人の男性と隣り合わせの席になってそうである。その女性は黒人を嫌っていたのでキャビンアテンダント(CA)に席を変えてくれるように頼んだところ、CAは機長に聞いてくるから少し待って下さいということだった。やがて CAが戻ってきて、『ファーストクラスに空きがあります。機長は『そんなゲスな客の横で旅を強いられるなんてあり得ない』と言って謝っております」と告げた。それを聞いて我が意を得たとばかりに立ち上がろうとした女性を制して、CAは黒人男性に「どうぞこちらへ」と誘導して行ったという話。

 二番目は、ある小学校での話である。

この学校ではいつも放課後にその日にあった出来事を発表したりする「帰りの会」という 場を設けている由。そこで一人の女子生徒が話したそうである。

「わたしは今日 少し嫌な事がありました。 ◯◯くんとうさぎ小屋の当番でお昼休みに小屋の 掃除をしていたら、 ◯◯くんが掃除をせずに違う友達とサッカーをし て遊んでいました。 『ちゃんとやってよ』 そう◯◯くんに注意すると、ボールを顔に投げられ て鼻血が出ました。 嫌だし辛いし悲しいけど、わたしにボールを投げた 事はもう怒っていません。 一緒にうさぎ小屋の当番をやるはずなのに ◯◯くんがやらなければうさぎさんが可哀想で す。 二人でやればもっとうさぎさんのお部屋をキレイ にしてあげられたのに、 わたし一人でやっていたのでは限界があります。 ◯◯くんだけではなく、みんなもうさぎさんの事を 考えて、 ちゃんと当番の人は責任を持ってやって下さい。 よろしくお願いします!」

  これには先生も「何でうさぎ小屋の当番をサボったんだ。 皆で決めた役割を放棄した上に、 ボールを投げるとはどういう事だ!」かなり強めに声を張り上げてこの男子生徒を怒ったようです。

 ところが翌日、この出来事が大問題へと発展してしまいま す。 朝の職員室。 女性が怒鳴る声が響き渡ります。 「うちの子に体罰をしたんですって!? 大きな声で怒鳴ったら子どもが恐がる事くらい わからないの!? これは体罰よ!うちの子に土下 座して謝りなさい!」と。 昨日うさぎ小屋の当番をサボって 先生に怒られた男子生徒の母親であった。

 学年主任、教頭先生、校長先生を交えての大騒動。 さらに、事実確認を行うために昨日帰りの会で この事実を報告した女子生徒もその場へと呼び出されたようである。 「うちの息子がうさぎ小屋の当番をサボったくら いで なんで怒鳴られるの!?体罰にあたいする事件 よ! この学校は体罰が常習化しているんじゃないです か? 早くうちの子に謝罪して下さい。」 こう強く求める母親に 先生はどうすればいいのか分からず返答に困っていまし た。

 すると事実確認で呼ばれていた女子生徒が この母親に向かって 「◯◯くんのママも私と同じ女の子でしょ?  男の子に叩かれたり、物を投げつけられたりした ら嫌じゃないの? 悲しい気持ちにならないの? じゃあ、悪い事をした◯◯くんを怒った先生が悪 くて 謝らなきゃいけなくて、ボールを投げつけてきて 謝らなかった◯◯くんは謝らなくていいの? そ れを注意したり、ダメだって教えてくれた先生に 怒る ◯◯くんのママは変だと思うよ。」

 その言葉はそこにいた全ての”大人”が ぐうの音も出ない程的を射た言葉であった。母親もそれ以上文句も言えないでその場が収まったというモンスターペアレントの話であった。

どちらにもコメントをつける必要はないように思われるが如何であろうか。

投票日直前の首相の秋葉原演説

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 今回の衆議院選挙の最終街頭演説でも、安倍首相は秋葉原を選んだ。首相は都議選の時にも秋葉原駅前で街頭演説をしたが、大勢の聴衆から「安倍帰れ」の声を浴びせられ、「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」と言って一般の人たちからの顰蹙を買い、選挙でも敗退したので、そのリベンジをしたかったのであろうか。

 実際に現地で立ち会ったわけではないので詳しいことはわからないが、現在はSNSなどが色々な映像まで見せてくれるので、文字だけではわからないある程度の臨場感さえ感じさせてくれる。

 今回は、前回に懲りてか、あらかじめ大勢の警備員を配して聴衆をコントロールし、支持者を動員して、特大の「頑張れ自民党」と書かれた横断前を張って、反対のスローガンを首相の側から見えないようにし、前方に支持者を集めて日の丸や旭日旗を林立させ、できるだけ一般聴衆を遠ざけ、反対の声の通らぬようにしていたようである。

 こうなると選挙演説というより、まるで国粋団体の右翼の集まりのような雰囲気になる。支持者に言わせれば、日の丸は国民の統合の象徴だからというが、誰かも書いていたように、「自民党支持者が林立させる日の丸は、国民の統合の象徴ではなく、自分たちに従わない者に対する排除のシンボルに見える。だから気持ち悪く映るんだと思う。」というような雰囲気になっていたようである。

 首相が直接街頭で一般市民に訴えるのであるから、当然出来るだけ色々な考えを持った多くの聴衆に話しかけるべきものであろうが、これでは自分たちに都合の良い人たちだけを囲い込み、それ以外の人たちを初めから排除することになってしまうのではなかろうか。 

 安倍首相は未だに「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」と言って顰蹙を買った意味が分かっていないのであろうか。自分の政策を多くの国民に説明しようというのではなく、広く国民の声を聞こうとせず、自分の取り巻きだけでことを進めようとする独裁的な方策を取ろうとしていることを示すものである。

 しかも、FBの写真を見て驚かされたのは、日の丸に混じってアメリカの国旗まで何本か見られたのは何を意味しているのであろうか。アメリカとの協定を決める選挙ではなく、日本の将来の政治を決める選挙のはずである。まさかアメリカの植民地として今後ますますアメリカのご意向に従って行きますという方針の表わすためではあるまい。

 選挙の結果からすると、憲法改正で、ますますアメリカへの従属関係を深め、ひょっとすると、特別緊急事態法などで独裁政権が誕生するという恐ろしい事態にまで進んで行きかねない気さえする。

 私自身は百まで生きるとしても後10年、幸か不幸か、子や孫が日本にはいないので、この国がどうなろうと関係がないと言えるかも知れないが、前の戦争やその周辺の惨めな世界を経験して来ただけに、この国の人たちが再び同じような目に遭わされるのは耐えられない気がしてならない。

車内で化粧

 先日、電車の中での飲食について触れたが、最近は車内で化粧する女性も増えた。ことに朝によく見ることからすると、寝坊をして決まった出勤時間などに間に合わないので電車での移動の間にそれを済ませようと言うケースが多いのではなかろうか。

 昔は人前で化粧するのは娼婦と決まっていた。そのため、車内で化粧していて娼婦と間違えられて声をかけられた女性がいたという話を聞いたこともある。

 それでも今はそんなことにお構いなしに、当たり前のように電車の中で化粧している女性を見かける。 忙しすぎてか 寝坊のために時間がないのか、あるいは時間を有効に使うためにか、電車での移動時間を積極的に利用して化粧しているようである。

 見るとはなしに見ていると、最近は随分色々と沢山な化粧道具があることに感心させられる。それに化粧用のパフか何かのケースについた様な小さな鏡を見ながら、引き替え、取り替え、次から次へとバッグから小さな刷毛や小物の道具を出したり、入れたりして、よくもまああそこまで、手際よく化粧が出来るものだとあっけにとられるぐらいである。

 今の化粧は昔のように口紅に頬紅などよりも、目の周囲の化粧に重点が置かれているようである。アイシャドウをつけ、アイラインを引き、まつ毛までつけるようで、するべき仕事もなかなか多い。それを電車が最寄駅に着くまでに仕上げなければならない。

 電車が空いていて座れればやりやすいであろうが、いつだったか、私が座っている前に立った女性は立ったまま器用に化粧をして、つけまつげまでつけるので、感心して見ていたことがあった。

 もう終着駅が近づいているのに片方のまつ毛がまだ全然手付かずなのである。もう終点間際なのに間に合わない時にはどうするのだろう。片方だけでは余計に人前にも出られないにじゃなかろうか。他人事ながら気になっていたが、とうとう電車が止まり乗客が降り出したと思ったら、いきなりバッグからサングラスを出してかけ、あたふたと降りていった。慣れた仕草だった。ああいう手があったのかと感心されたものであった。

 

忖度が国を滅ぼす

 森友学園加計学園問題で官僚が安倍首相との関係を忖度して便宜を図ったのではないかと言う疑惑が国会で取り上げられてから、「忖度」という言葉が流行語のようになってしまった。

 しかし「忖度」は昔から日本の社会ではずっと大事にされて来たことではなかろうか。何よりも「和」を尊んで来た「むら社会」では、庶民は権力者の意向を「忖度」して、違った意見を抑えて大勢に同調し、皆が「むら社会」の「和」を保つことが大事だとされて来た。

 戦前の大日本帝国も「一億一心、百億貯蓄」「一億火の玉」などという標語からもわかるように、国民は独裁的な政府や軍部の方針に上から組み込まれるだけではなく、下からも政府の方針を忖度して協力した結果、耳の痛い異論は封じられ、反対者は排除され、皆がそのまま大きな流れに乗って突進し、戦争、敗戦という社会の破滅の道を突き進んでしまったのである。

 同じ「忖度」でも、弱者を思いやるのは素晴らしいことであるが、強者への「忖度」は単なる諂いだけではすまずに、大きな災難に繋がりかねないものである。今も、森友学園加計学園問題の場合の官僚たちがそうであるが、メディアが政府の意向を「忖度」して必要な報道を自粛するようなこともそれにあたるであろう。

 最近の世相は次第に戦前に似て来たように思えて仕方がない。政府の戦前復帰の政策に対して、それに群がる利益集団は言うに及ばず、官僚機構や地方自治体、メディアなどまでが政府の意向を必要以上に「忖度」して保身を計り、あわよくば利益にありつこうとする傾向が強くなって来たようである。

 先日の新聞でも、「梅雨空に『九條守れ』の女性デモ』という句が毎月公民館だよりに載せられていたグループの秀作に選ばれたのに、その句に限り掲載を拒否され、裁判沙汰になったことが載っていた。公民館は非掲載にした理由を「公平中立の立場であるべき観点から好ましくない」と説明したようであるが、裁判所は「公民館が俳句と同じ立場にあるとは考え難く、理由を十分検討しないで掲載を拒否した」として公民館側の敗訴となったそうである。

 しかし、これと似た、公共の場から市民の政治的な表現活動が排除されるケースは各地で相次ぎ、新聞によれば、金沢市では市役所前の広場で計画した護憲集会が不許可になったり、姫路市では労働組合の催しで安倍政権を批判するポスターなどがあったとして、市が途中から会場使用を中止にしたり、東京都の国分寺祭りでは護憲、脱原発を訴える団体が参加を拒否されたりと、全国的にあちこちで同様のことがおこっている。

 日本では、どこかで自治体が政府に「忖度」して何かを制限したりして問題になると、それを見、聞きした他の自治体までが問題になることを恐れて、右に習えで同じように政府の意向を「忖度」しなければならない雰囲気になり、同様なことが燎原の火のように広がっていくことが見られるようである。

 そうなると「忖度」が「忖度」を呼び、その周辺の事柄や場所にまで「忖度」が広がっていくことにもなりかねない。戦争体験者が戦争の体験をぜひ次の世代に受け継ぎたいとあちこちで精力的に話し続けてきた老人が、最近はだんだんと話させてくれる機会が減ってきたと嘆かれる話も聞いた。

 学校での教科書選定でも、学校の教師の選択によると言いながら、文部省や関係諸機関の思惑を「忖度」して決められる傾向が強くなってきているし、森友学園問題でチラと露見したように、教育勅語を教育に取り入れたり、国旗、国家を学校で強制したりする問題なども、一部の勢力が働きかけ、それを政府が暗黙のうちに後押しし、やがてその意向を「忖度」させて普及させていこうという傾向が顕著になりつつある。

 これまでの安倍内閣の政治姿勢を見ていると、憲法改正、戦争法、共謀罪、秘密保護法、北朝鮮による危機への対応、日本会議靖国神社日本会議教育勅語等々、最近問題となった項目を列挙するだけでも、世の中の右傾化が進み、戦前を思わすような動きが強くなってきているこの頃である。

 その波に乗って権力に対する「忖度」が流行り、反対意見が出しにくくなって来ると、いよいよ独裁的な政治の雰囲気となり、間違えれば「いつかきた道」で、また戦前と同じことを繰り返すこととなり、もはや後戻りできない破滅の事態に陥る危険性が増してくる。

 そう考えると、日本における「忖度」は日本の底流を流れる「むら社会」「和」、それに伴う同調主義、「タテ社会」などと密接に結びついたものであるだけに、一方的な「忖度」がひどくなるとこの国の将来までが心配になってくるのは私だけであろうか。   

 

沖縄の人の苦しみ

 自分の畑にヘリコプターが落ちて火災を起こしても、本人はおろか警察に行っても、警察も燃えたヘリコプターを調べたり、指一本触れることもできない。

 沖縄でまた米軍のヘリコプターが私有地に墜落、炎上した。まだオスプレイが墜落大破した事件から一年も経っていないのである。今回は住民にも乗組員にも怪我がなかったが、過去には今度と同じ大型ヘリコプターが沖縄国際大学に墜落する大事故もあった。

 米軍の飛行には何の制限もないので、沖縄の人たちは四六時中騒音に悩ませられている上に、頻繁に起こるこうした事故に恐怖を感じさせられるが、それに対して警察も政府も何もしてくれない。県や政府が同型機の飛行停止を求めても、米軍の処理が済んだら住民の要望など無視されて、飛行はまたすぐに再開される。今回も小野寺防衛大臣が飛行停止を求めても、米軍は96時間停止すると言うだけである。こうしたことが永年の常態となっているのである。

 日米安保条約がすべての日本の法律より優先するので、住民は泣き寝入りするより仕方がないような仕組みになってしまっている。しかも、こんなことがもう七十年以上も続き、さらに将来もいつまで続くか際限もない。主権がないというのはこういうことだと、何か事件が起こるたびに思い出させられる。直接危険に晒される沖縄の住民にとってはたまったものではない。

 沖縄へ行って少し高いところから周囲を見渡してみるとよくわかる。緑豊かに見える良さそうな場所は皆アメリカの基地やその関連施設であり、その間にぎっしりと詰まった市街地が沖縄で暮らす人たちの住んでいる所なのである。いかにアメリカ軍がゆったりと使い、沖縄人が狭いところに押し込まれるように暮らしているか、その格差の大きいのに驚かされる。

 これが東京や大阪だったらどうだろう。日米安保条約も基地の問題も法的には何も変わりがない。羽田を飛び立った飛行機は急上昇してアメリカ軍の管理空域を避けねばならないし、アメリカ人はパスポートもビザもなしに横田基地から日本国内に入ることも出来るのである。遠く離れた島に基地を集中するなどによって、皆の目をごまかしているに過ぎないことに気付こう。そうすれば沖縄の人々の苦しみもわかろうというものであろう。

 ここでは事故のあった沖縄のことだけを取り上げたが、見えにくくされているだけで、同じような不条理なことは日米安保条約が存在し、それが続く限り、日本中どこででも起こっていることなのである。日本の憲法より優先する日米安保条約を廃止しない限り、日本が完全に独立し、日本人が日本のことを決める日は来ないことを知るべきである。

 自分たちの事を自分たちで処理できないこんな不条理なことがいつまでも続いて良いわけはない。政府の隠蔽やごまかしに騙されないで、皆で理解して改善の声を大きくしていかねばならないであろう。

 復古主義憲法を変えたい人がよく「平和ボケ」などというが、「平和ボケ」より「植民地ボケ」の方がずっと怖いのではなかろうか