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狭量過ぎる日本相撲協会

 昨年の暮れ辺りから大横綱白鵬についての風あたりが微妙である。稀勢の里との勝負の判定で審判に疑問を投げかけたことや報奨金の受け取りかtがおかしいなど相撲協会から難癖が付けられているようで、白鵬にしてみたらこれだけ努力して日本人になりきって横綱の責務を果たそうとしてきたのにそれがわかってもらえないという気持ちが鬱積しているように見受けられる。そのため今場所では場所の始めから終わりまで取材陣に一切何も話さなかったそうである。

 現在の相撲は横綱は三人ともモンゴルの力士だし、上位陣はでもモンゴル力士が多く、今注目の照の富士や逸の城もモンゴル出身とモンゴル勢なしでは成り立たなくなっている。あまりにもモンゴル勢が強く、それに比べて日本勢が不甲斐が無さ過ぎるのでそのやつかみも混じっているようだが、それにもかかわらず相撲は日本の国技で単なる競技ではない。神事に繋がる伝統を持つものでそれを維持していかなければならないことにこだわっているところに問題がある。

 かって相撲が外国勢にも開かれた時にハワイ勢が優勢を極めたことがあった。しかし最初の小錦が関脇ぐらいになり人気があり愛嬌のある頃は良かったが、曙、武蔵丸などが体格にまかせて横綱などを独占するようになるとなぜかハワイからの力士を取らなくなり、やがてモンゴル勢が多くを占めるようになってきた。コーカシアンでもグルジアとかブルガリアの力士はいてもハワイ勢は皆無になった。

 日本の生活方式が変わり日本人のハングリー精神がなくなり、相撲の人気も衰えるとともに日本人の強い力士が現れにくくなり、それを埋め合わすかのようにモンゴルの力士に依存しなければ国技としての相撲も成り立たなくなってきた。

 こうした日本の相撲の苦境を救ってくれたのが朝青龍であった。強いの何の忽ち横綱になり毎場所のように優勝を繰り返し、他の力士を寄せ付けないようになった。そのため人気は上がったが、彼は日本人と違って相撲をモンゴル相撲と同様な競技としてしか知らず、日本における相撲の競技以外の部分に無頓着であった。当然古い日本的な相撲の中で育った親分衆とは肌が合わなかった。

 折角相撲は強く人気もあったのに相撲以外の行動面で何かにつけて文句をつけられ、する事なす事にケチをつけられ嫌気がさして追われるようにモンゴルへ帰ってしまった。その後を継いだのが白鵬である。彼は父がモンゴル相撲の優者であるという育ちの良さもあり、性格も朝青龍と違って温和で、朝青龍のトラブルなども知っているので、なんとか日本に溶け込んで日本人になりきって頑張ろうとした優等生である。

 それにもかかわらず、あまり強すぎるためか、あるいは日本の力士があまりにも不甲斐がなさ過ぎるためか、なんとか日本人の力士にも勝たせてやりたいという心情からか、たまたま稀勢の里白鵬に勝った相撲では万才コールが鳴り止まなかったようなこともあり、白鵬にしてみるとこれだけ日本人になりきって頑張ってきたのにやはり人種差別の争えないことを感じ、自分の努力が何だったのだろうかと疑問を感じざるを得なかったようなことが今の問題の背景にあるようである。

 相撲が公正なものであるなら人種は全く問題でなく、先ずは相撲の勝負だけで判断すべきものである。次いで相撲をどう捉えるか。国際的に開かれた競技とするか、日本古来の傳統のある神事としてそれを守って行くべきか。日本の相撲協会がその点を曖昧にしたまま今日まで来てしまっているところに根本的な問題がある。

 国際的なスポーツとして行くなら柔道のように国際的なルールを決め、それに従って勝敗のみにこだわっていけば良いし、日本的な神事としての伝統を守って行きたいなら、それを大事にしてそれを理解した日本人を中心に力士を育て、例外的にそれを理解し、それに従える外国人のみに力士の資格を与えるべきであろう。

 日本人の力士希望者減少の穴埋めに安易に外国人力士を導入したが、日本の相撲の神事としての側面を十分教育もせずに、伝統的な神事でもなく単なる競技でもないというその時々で如何様にでも使える曖昧な姿勢のままで経過して来たところにいつまでも同じ問題を引きずっている原因がある。

 ハワイ勢の時も、朝青龍関の時も問題の所在がはっきりしているのに、これ以上どちらともつかない態度を取り続けていればいつかはのっぴきならない問題に発展することは明らかであろう。

 せっかく白鵬のような人格にも優れ、相撲も強い救世主のような良い力士に恵まれている今こそ相撲協会は従来の狭量な伝統にしがみつかないで、何が本質的に大事であり、何がもっと広く世界に受けいれられるように妥協できるかをはっきりさせて、大胆な改革を行うべきであろう。これ以上延ばしていては日本の相撲の命をなくしてしまうであろうことを恐れるものである。