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”横船”

  横船と言っても少し説明しなければおそらく誰にもわからないであろう。玄関などの上がり框などでの靴の揃え方で出船、入船といえば誰にでも分かるであろう。靴を脱ぐとき室内へ上がろうとした方向にそのまま靴を置いておくのが入船で、反対に玄関から出かける時に便利なように外向きに靴を揃えるのを出船というわけである。

 それに対して横を向いて靴が置かれているのをそれにならって横船というのである。普通には使われないし、そんな靴の揃え方は普通しないが、我が家では横船がいつものように見られるのである。

 わが女房はよくできた女で、何でも手際よく賢明にこなしてくれるので、私にとっては掛け替えがない。女房がいるからここまで生きてこられたのだし、今も女房なしには生きられないだろうと感謝している。

 その女房は何でもすることが速い。外出していて帰りが遅くなったような時、今日はもう遅いから帰りに何か買ってきて手軽に済まさねば仕方なかろうと思っていると、さっき帰ってきたばかりというのにもう間もなく夕食の準備ができたという声がかかる。

 いささか驚いて食堂へ降りててみるともう既に食事の準備が整っている。それもメインも副もついたちゃんとした夕飯である。酒の用意まで出来ている。出かける前に下拵えがしてあるので帰ってから時間をかけずに仕上がるらしい。

 万事この調子なので速いなりにせっかちで待つのが嫌いである。最近はデパートの食堂などどこでも並んで順番を待たないと入れない所が多いが、待てないので結局諦めて少し不満でも空いたところで食べることになる。

 評判のケーキ屋さんもこの頃は並ばなければ買えない店ばかりのようだが、そんな店のケーキは貰い物でも回ってこないとありつけない。

 家を出る時も先に玄関を出れば、私が靴紐を結び鍵をかけている間に玄関周りの花の水やりをしたり落ち葉を拾い、道路に出ても私が門扉の鍵を閉めている間にもう十メートル以上も先まで歩いて行っている。私の方が歩くのが速いのでそのうちに追いつくことになる。

 何でも速いかわりにいささかそっそっかしい。食器など洗って片付けるのも速いが、皿もコップも同じに水切りラックに放り込むので、一度に重なって傷がついたり割れやすい。取っ手のついたコップなどいくつも取っ手が折れてしまう。

 だから我が家のキチンには”Scherben bringen Gleuck”という標語が貼られている。”破れると幸福がやってくる”とでも行った格言である。

 拙速だといってケチをつけるのだが、この習癖は治らない。何でも素早いので扉は大抵完全には閉まらない。アジャーである。靴の脱ぎ方もそうである。玄関を上がる時も急いで上がるものだから、靴も脱ぎっぱなしの入船のままということになる。何度出船に直していてもまたすぐ入船のままになっている。

 そう思っていたらいつからか最近は横向きのまま置かれていることが多くなった。”横船”である。なるほど、これなら脱ぐときも履くときも速やかに出来るというものである。こうして我が家の玄関ではいつも少なくとも一足、よく使うつっかけ靴は”横船”で置かれているというわけである。

 ”女房のすること何でも速いけど靴は”横船”扉はアジャー”

後記:最近知人の写真展を覗いたら、京都のお茶屋で”横船”に揃えた女性の艶かしい下駄を移している写真があり、上記の話をしたら、最近は廃れてきたが京都のお茶屋などでは女性は履物を”横船”に揃えるのが正式な作法だったことを教えて貰った。まさか女房がそれを知っていて”横船”にしているとは考えられないが、確かに脱ぐときも履くときも便利で合理的な方法なので、それが作法として定着していたことも十分考えられると感心したことであった。