一億総活躍社会

 少子高齢社会で人口減少の結果、労働力が不足して経済が停滞するのを恐れて、政府は最近「一億総活躍社会」というスローガンを掲げて、女性や高齢者の積極的な社会参加を呼びかけている。

 しかし、「一億総活躍社会」などと言われると、我々老人にとっては戦争中の「一億一心、百億貯蓄」だの「一億総決起  」「 一億火の玉」といった嫌な押し付け標語を思い出して、つい反撥したくなる。

 もしかして 安倍首相にもっとも馴染みにある「一億・・・」の標語は「一億総中流」なのかも知れないが、それは今では「一億総貧困」になってしまっている。あるいはお祖父さんから聞いた「一億・・・」という戦争中の標語の記憶もあったのであろうか。それならこの標語のシリーズのおしまいが「一億玉砕」に続いて「一億総懺悔」だったこともご存知だろうか。

 敗戦後にどこからか打ち出された標語で、戦争に負けた責任は政府や軍部だけにあるのではなく国民皆が負うべきもので、皆それについて考え懺悔せよという戦争責任者を免罪し、戦争責任をうやむやにするために利用された標語だったのである。

 一説には、さらにそうではなくて本当は「一億の国民が十分働かなかったために戦争に負けて天皇陛下に対して申し訳ないことをしてしまった」と懺悔せよと云う意味だとも言われる。東京大空襲後焼け跡を視察した天皇に、焼け出された被災者たちが焼け跡にひれ伏して天皇に「我々の働きが足りないためにこの様なことになり申し訳ありませんでした」と声を合わせて言ったのを見ていたある作家が書いているので、こちらが本当の意味であったのかも知れない。

 それはともかくここへ来てまた戦時中の「一億一心」とか「一億総・・・」と同じように「一億総活躍社会」だから「皆働け」というのはいかにも安倍内閣らしいファシズム的スローガンである。政府が一億の国民に命令一下何かをさせようとする上から目線の呼びかけである。

 ただ無理やりにでも働かせるだけなら、あるいは決して難しいことではないかも知れない。下流老人ばかりのこの国では、貧しい腰の曲がった婆さんも、ヨタヨタの爺さんも健康に良いからと煽てて金をちらつかせれば、自分に鞭を打ってでも働いてくれるだろう。子供を抱えた貧しい女性も、子供の未来の夢でも見せれば幻想であっても、命を削って働いてくれるかも知れない。

 しかし今は立憲主義に基づく民主主義の時代である。昔以上に多様な人々、多様な考え方が社会の基盤になっている。いくら政府が一億の国民を思うように働かせようと思っても成果は上がらない。人々が働くためにはそれにふさわしい働きやすい基盤や働いた成果が還元される社会的な制度の整備が不可欠である。

 ところが現実はどうだろう。子供の貧困、育児の困難、非正規雇用の拡大、結婚しない若者、引きこもり、長時間勤務、過労死、家族の崩壊、孤独死など思い付くまま拾い上げるだけでも多くの社会的問題に直面する。関係するこれらの社会問題との関連で考え、その解決と組み合わせなければ、働かせようとしても無理な労働は普遍化も長続きもせず成果は上がらないであろう。

 それに「一億総活躍社会」が本当に必要なのか、正しい進むべき道なのかも考えてみるべきであろう。一億の国民が皆必死になって働かなければ国はやっていけないのだろうか?経済の高度成長が必須で、それしか国民の幸福に繋がる道はないのだろうか。

 一億の何割かは遊んでいるぐらいのゆとりのある国でないと文化は育たず、国は滅びるのではないかという考えもある。働き者と言われる蟻の世界でもよく働く蟻が20%、普通に働く蟻が60%で残りの20%は遊んでいると言われる。ところがよく働く蟻がいなくなると残りの蟻の20%がよく働くようになり、普通に働く蟻60%、遊ぶ蟻20%の割合も維持されるそうである。ゆとりがあるからこそ繁栄するのだと言われる。

 少子高齢化、人口減少は当分変わらないし、経済発展もすでに頭打ちでいくらあがいても最早高度成長は不可能である。それに経済力と幸福とは必ずしも並行しない。ここらで経済大国の夢から覚めて、幸福大国に目標を変え、外交力を高めて周辺国とも協調し、軍事予算を削り、文化の振興を図るなどして、小さくても幸せな国創りへと国の方向転換を考える方法もあるのではなかろうか。