自発的隷従

 翁名知事の死去による後継者選びの沖縄知事選で、玉木デニー氏が勝利して翁名知事の路線を引き継ぐことが沖縄県民の意思であることがはっきり示された。

 政府は何とかして辺野古基地建設を続けようとするであろうが、この選挙の結果は国内だけでなく海外にも広く沖縄県民の意思を示すもので、大きな視野で見れば、政府も本土や海外の世論も無視することが出来なくなり、県民の意向にもこれまでよりは配慮せざるを得ないであろう。 

 ところで選挙結果を見ていて気になったのは、若い人ほど基地建設に反対の人が多いのかと思っていたら、若い人ほど対立候補の基地容認派に投票した人の割合が多くなっているのが気になった。

 そう言えば、沖縄問題に限らず、これだけ無責任な政権運営を続け、憲法改正、軍備増強など、多くの人々の期待を裏切り、戦前復帰の右翼政策が強引に進められているにも関わらず、政府の支持者の割合が思いの外、若者に多い傾向も見られる。無関心で棄権する人が多いだけでなく、ネトウヨなどと言われる人も、若い人に案外多いのは何故であろうか。

 我々老人の目から見ると、若者はもっと反骨精神が強く、政治的に敏感に反応することが多いように思って来たが、今や時代がすっかり変わってしまっているようである。今の若い人は戦中、戦後の時代を全く知らないし、もう生まれた時から平和な世界に育ち、飢えや極端な困窮などにも縁がない。そうかと言って戦後の高度経済成長とも関係がない。停滞した経済が続く中で、明るい未来の展望も持てない。集団社会が分解され、スマホなどに囲まれて孤独化の傾向が強い。政治への関心も薄いのであろうか。

 沖縄の問題に関しても、日米安保条約の問題や自衛隊なども、自分たちが生まれる前からの既存の存在であり、その上に自分たちの生活が築かれて来たのである。そのような環境の中で、孤独な閉鎖的な日常を送っていると、最早大きく支配されてしまっている現状が当たり前で、対抗するにはあまりにもエネルギーを要し、何も米軍基地反対だなどと騒がなくても、いろいろ問題はあっても、日々の自分の生活さえ出来ればそれで良い、そっとしておいてくれという諦めに支配されていて、反基地闘争などがかえって煩わしく、反基地闘争などに反対という感情も起こってくるのであろうか。

 それは半植民地状態にも反発せず、もう「自発的隷従」という状態に陥っているのだとも言えよう。戦いに負けて奴隷にされた人たちも、初めは反抗しても、そのうちに現状に甘んじ、置かれた環境の中で利口に生きようとする。中には勝者に媚びへつらって他人よりも有利に立ち回り、仲間を支配しようとする者さえも現れる。

 その上、ムラ社会の伝統の強かった日本では、一般に大勢順応の傾向が強いし、今日のようなネット社会では人はしばしば自分が少数派に陥ったような心細さに襲われやすい。こう言った状態がこの国の現状なのだろうか。

 政府はアメリカが日本を守ってくれているというが、憲法より安保条約が優先し、アメリカの意向の範囲内でしか日本政府は何も出来ない。情けないことであるが、そういう状態が70年も続けば、それがむしろ常態となり、今や人々の間に「自発的隷従」という風潮が広がってきているのであろうか。

 それでも、沖縄の選挙結果を見ても、「自発的隷従」を断ち切ろうとする動きの強い高まりも現実であり、その動向が密かに多くの人々の心を動かしていることも確かである。日米安保についての関心も高まって来ており、世界情勢の変化もあって、将来への展望にも一筋の光が差し始めてきたような気もする。

 まだまだ将来のことは見通せないが、その光に希望を託して、先ずはこの「自発的隷従」を断ち切り、日米の地位協定の改正から始まって、完全な独立国になったこの国の未来を見たいものである。 

「被災し病院搬送も放置、死亡」 遺族、病院を提訴へ

 SNSを見ていたら上記のような表題が出ていたので、どういうことなのか確かめようと読んでみた。

 記事によると、『東日本大震災で被災した宮城県石巻市の女性=当時(95)=が市内の病院で必要な介助を受けられずに死亡し、精神的苦痛を受けたとして、遺族が近く同病院に損害賠償を求める訴えを起こす由であった。

 遺族側によると、女性は震災前に同病院に通院し、日常生活に全面的な介助が必要とされる要介護5の認定を受けていた。2011年3月14日、自宅周辺が水没して孤立していたところを自衛隊に救助され、同病院に搬送された。

 同病院は治療の優先順位を決めるトリアージで、女性を「自力で歩ける軽症の患者」を意味する「緑」と判定。女性は飲食介助や点滴といった医療行為を受けられず、搬送から3日後の同17日に脱水症で死亡した。

 遺族は「介護状態の認定に必要な主治医意見書は同病院から発行されており、女性が自力で飲食できないことを同病院は震災前から把握していた」と指摘。同病院は搬送を受け入れた時点で、必要な保護措置を講じる義務を負ったにもかかわらず、漫然と女性を放置して死亡させたと主張している』ということであった。

 ここでいうトリアージというのは、この大震災のような突然大規模な災害が起こり、多数の犠牲者が出た場合、一度に皆を診るわけにいかないので、出来るだけ多くの人を助けるために、生命の危険度に高い人から優先的に診れるように、まず大勢の対象者を呼吸をしているか、心臓が動いているか、意識はあるかといった基本的な状態だけから選別して、緊急度の高い順に手当を行おうとする方法で、世界的に似た方法がとられているものである。

 当然、東日本大震災の時にも、何処でもこのトリアージによって選別され、治療が行われたはずである。従って、その時点でその老人は一応歩けて意識もあったので、治療に緊急性がないとして緑の札を貰って、加療が後回しになったものと思われる。

 しかし、遺族側から見れば、その病院への以前からの通院患者であるから、病院としては患者の状態を知っていたはずであるのに、放置されていたと受け取ったのも当然であろう。いかに救急の時でも、主治医なり看護師なりで、顔見知りなり、以前の通院時の状態を知っている者がおれば、当然対処の仕方も違っていたであろうが、トリアージは集団を相手とした機械的な選別方法であるから、自力で歩けて特別大きな傷害が見られなければ順番が後回しになったのは当然であろう。

 大勢の人々を緊急に処理しなければならない条件の下では、個々の例の対処方法については必ずしも最良の方法ではないことは周知の上で、機械的トリアージを最良の選択として行なっているのである。その上非常事態であったので、病院としての対応もそれまでと同じようには出来なかったのも当然であろう。

 恐らく病院としての対応に落ち度はなかったのであろうが、遺族側の心情も十分理解出来る。以前から通院して病状も知って貰っていたはずの病院に受診したのに、震災後の混乱時だったとはいえ、診察を他の人より後回しにされ、そのためか否かは別としても、その後に病状が悪化して死亡してしまったとあれば、遺族が納得しがたいのも当然であろう。

 SNSの記事だけなので詳しいことはわからないが、緊急時で病院側に平素のゆとりがなかったことは当然であろうし、病院に落ち度があったかどうかは不明である。ただ、トリアージはあくまで集団を対象とした緊急時の便宜的な方法であり、到底個々の患者さんの要望に十分答えられるものではない。必然的に小さな落ち度をも伴いうるものであることをも理解しておくことも重要であろう。

 

 

核戦争よりもっと恐ろしい戦争

 第二次世界大戦を見てもわかるように現代に戦争は総力戦である。総力戦であるからには持てる全ての力が発揮される。最先端の技術が用いられる。

 それまでの常識は通用しない。第二次世界大戦の前には大艦巨砲の時代であったが、戦争となると最早大艦巨砲は通用せず、航空機の時代となっていた。戦争は前線における戦闘だけでなく、国家と国家の総力の戦争となり、大規模で、前線も銃後も変わりなくなり、大規模な都市に対する爆撃が行われ、国中を焼き尽くさんばかりとなり、戦争末期には原始爆弾まで使われ、この延長線上では、人類の滅亡さえ真剣に考えなければならなくなったことは周知の通りである。

 しかし科学の発展が止まることがない以上、戦争になれば、更に最先端の科学が利用されることになる。核戦争に対する反対の声が上がっても、核開発が止まったわけではないし、劣化ウランを使った弾薬の使用も行われている。やがて核弾頭もより強力なものとなるだろうし、宇宙軌道からの発射も考えられるであろう。

 更に今後の問題としては、当然AIの軍事利用もあろう。米軍などは既に無人の飛行機(ドローン)による攻撃を行っているが、今後の戦争ではAIがフルに活用されるであろう。無人のAIの判断によって攻撃するロボットの大規模戦闘が行われるであろうし、宇宙空間の利用による攻撃にも用いられるであろう。そこへの核爆弾の利用も加わるであろう。

 先の大戦でも条約で禁止されていた毒ガスも実際の戦闘では使用されたし、生物兵器の進歩もあろうし、それらの組み合わせも考えられる。総力戦であれば条約は無視され、ありとあらゆる手段が利用されることになるのは必然であろう。

 何れにしても、現在驚くほどの金額を消費して準備されているような兵器類は最早ほとんど役に立たず、もっと違った全く新しい戦略や戦術による思いも寄らない大規模な戦闘が起こる可能性も高い。その結果は本当に人類の滅亡に繋がりかねないし、地球そのもののの破壊さえ起こりかねないであろう。

 ただ核兵器のようなあまりにも大規模な大量破壊兵器の応酬は自分をも破滅させることが足枷となって、それより現在中東などで繰り広げられているゲリラ的な地域的な戦闘が世界的に広がるような、あらゆる権謀術策を使った、違った形の世界戦争の可能性も考えられる。こちらの方が陰惨で残虐、悲惨な結果を招くかも知れない。こういう戦略、戦術、諜報にあった武器の開発も進むであろう。

 最早、どちらが勝つかより、人類がどこまで耐えられるかが問題となり、人類が本当に最後の時を迎える可能性も十分あるであろう。最後の救いは人類の叡智しかない。

外見と中身

 私の古い友人が老人施設に入っているというので見舞いに行った。何でも、何処かが悪くて病院を受診したら、「そこから直行で、ここへ入れられてしまった」と本人は不満顔であった。 奧さんと娘さんの三人家族だが、奧さんは大腿骨の骨折などで車椅子生活の後、他の老人施設に入っておられ、お嬢さんは東京で仕事をしておられる。

 比較的広くてゆったりした個室に入っていたが、病気のことについて尋ねても何も言わないので、どういうことで入ったのか分からない。外見上は目立って悪そうでもないし、「勝手に抜け出して家へ帰ってやろうか」などと言うぐらいであった。

 どうもお嬢さんの仕事が忙しい最中で、一ヶ月ぐらい経つと、ひと区切りがつくようだったので、足が悪いと言っていたので、それまでの間、家で一人で生活させるのは無理なので 、ここへ入れられているのかと思った。

 従って、「一ヶ月辛抱しろよ、その間あまりじっとしていたら、かえって体に良くないから、なるべく部屋の中だけでも動いたり、本を読んだり、スケッチでもしたりしては」と動くことを勧めて帰ったのだが、少し不審に思ったのは、外出は出来ないし、室内以外は車椅子で移動することになっているというのが何故だか分からなかった。

 ところがそれから一ヶ月以上たって、お嬢さんの仕事が一段落ついて、大阪へ戻ってこられたのに、電話をしたらまだ入ったままだという。丁度また見舞いに行こうかと思っていた時に、お嬢さんから連絡があり、2〜3日前にそこで会うことになり、医師の説明を聞くので一緒に聞いて欲しいということで、説明の場にも同席させてもらった。

 そこでMRIの画像を見せてもらってびっくりしたが、それで事情がわかった。外見は昔とあまり変わらないのに、中身は全くと言っても良い程に違っていた。前立腺のガンが元らしく、そのあちこちへの転移が凄まじい。もう言葉で説明を聞くまでもない。全ての疑問が氷解した。

 先に病院を受診した時点で、既に多発性の転移を伴ったガンで、手術は不可能、抗がん剤やレントゲンその他の治療も効果はあまり期待出来ない。90歳という年齢も考えれば、緩和療法が一番良い選択肢だということになり、今の施設へ即刻入ることになったのであろう。

 そういえば私も迂闊だったが、この施設はペイン・クリニックの上にあり、ペンクリニクの医師が診ている緩和病棟に当たる施設だったのだ。本人が自分の病気のことをどれだけ理解しているのか分からないが、医者として診るのと、ただ友人として接するのとでは違うものであることを痛感させられた。これなら本人は知らない方が良いかも知れないとも思った。

 入った時から歩けるのに車椅子を強いられていたのも、脊椎への転移が強いためであったのであろう。最初に見舞った時には部屋の中では歩いてもいたし、少し動いた方が良いのではと言ったら、以前から木刀の素振りをしているので、それを取り寄せたりしていたが、先日は車椅子に座り切りだったし、以前より元気がなかったのは、その間にも病状が進んでいたためではなかろうか。

 おそらく面会に行った時には弱音を見せまいと、無理に張り切っていたので、余計に元気そうに見えたのかも知れない。今の所見からでは、そのうちに急速に動けなくなくなる日がやってくるのではなかろうか心配である。

 お互いの歳のことを考えると当然かもしれないが、元気だった友人がまた一人こんな風にに弱っていくのを見るのは辛い、残念であるが仕方がない。せめて、また今度会える時までは元気でいて欲しいものである。

卒寿のクラス会

 大学の同期の卒業生の同窓会に行ってきた。と言っても、卒業以来いつしかもう64年も経って、多少のズレはあるものの、もう皆が卒寿を迎えた老人たちの集まりである。

 長い間に、120名いた同期生も次々と亡くなり、残りはだんだん少なくなってしまった。私の特に親しくしていたも友人たちもいつしか皆死んでしまって、最早若い時の思い出話を語る相手も一人もいなくなってしまった。

 当然、同窓会への出席者数も年々減っていく。昨年には同窓会ももう止めようかという提案があったが、反対の方が多かったので今年も何とか開くことになったが、この一年にも4名が新たに亡くなり、出席者は15名だけとなった。

 欠席者もいるから、生存者の割合はおおよそ2割ぐらいというところであろうか。男の平均寿命が80歳そこそこということから見れば、まあ大勢がよく生きている方ではなかろうか。

 それでも、この歳になると、一年一年会うごとに、皆が歳を取り、弱って来ている姿を痛切に感じさせられる。死ななくても、昨年来ていて今年は来ていない者もいる。若い時なら何かの都合での欠席だろうというところだが、この歳では、もう弱ってしまって、出て来れなくなった者もいるだろう。

 本人は元気な積もりでも、安心のために奥さん同伴というのもいるが、奥さんに付き添われてやっと何とか出て来れた人もいる。

 老人介護施設に入っている者もいるし、サービス付き高齢者住宅に住んでいる者もいる。外見からしても、元気な者もいるが、痩せてフレイル、サルコペニアと言われるような者もいる。ガンを抱えている者もいる。それ程でなくても、背中が曲がり顔貌からもいかにも歳をとったと思わせる者もいる。

 元気そうな者でも、耳が遠い者が多いので、遠方からの呼びかけの聞こえないことも多いし、そうかと言って、マイクを使うと響いて余計に聞きずらいようである。

 出席者一同が順番にそれぞれの近況などを喋ったが、しどろもどろで要領を得ない者もいるし、とりとめもない話し方が続くことや、付き添いの奥さんが何度も助けを出さねばならないこともある。聞いている方は自分に照らして黙って聞いているが、昔はしっかりしていたのにすっかり衰えてしまった友の姿を見るのは辛い。

 また、途中の連絡で聞いたのだが、この同窓会のために家を出たのだが、会場まで辿り着けずに自宅へ引き返した者もいた。彼は以前の別の会の時も、出席の返事のまま現れなかったこともあったので少し心配である。

 そうかと言ってまだ元気で仕事を続けている者もおり、年をとる程人によるバラツキが大きくなる。ただ、気がついたのは、全般的に、こうした傾向が一年ごとに進んでいくのがはっきり読み取れたことであった。人によって異なるが、誰しも、冷酷に去っていく年月とともに、体力、気力が衰えていくのは如何ともしがたいようである。

 来年のこの会をどうするかの話では、同窓会があればそれが励みにもなるという意見もあり、とにかく来年は、会を昼にすることで、一応続けることに決まった。しかし、来年は何人出てこれるか、その後はどうなるか。遅かれ早かれ、そのうちにはこの同窓会も終わることのならざるを得ないであろう。

 寂しい限りだが、自然の掟に従うよりない。

道徳教育

 この春から道徳教育が小学校で正式の教課として取り上げらることになったそうである。個人の生き方や内面に関わることを学校で一律に教えることには大きな問題があるが、政府は学校教育の面でも益々戦前回帰路線を進めようとしている。

 道徳教育というと戦前の「修身」のことを思い出す。どんな内容だったか最早正確には思い出せないが、教育勅語を基本としたような話で、いろいろな”偉い人”の話があって、それを見習いなさいと言わんばかりの授業だったような気がする。

 個々の話はほとんど覚えていないが、「修身」に関して一番思い出すことは、中学を卒業してから、海軍へ行って、負けて帰ってきた後、まだ戦後間もない頃に、母校を訪ねた時のことである。

 どういう用事で行ったのか忘れてしまったが、職員室へ行くと、何人かの教師たちがストーブを囲んで色々談笑していた。そこにかっての「修身」の教師がいて「わしら修身など教えたが、今頃そんなことやってたら生きていかれへんわ」と言って驚かされたことが今も忘れられない。

 当時はまだ戦後の焼け野が原の街で、闇市が全盛だった時代である。教科の「修身」は占領軍の命令ですでに廃止されていたのではないかと思われるが、およそ「修身」の教えを守っていては生きていけない世の中であった。それこそ、他人のことなど構っておれず、闇市、買出し、筍生活、物乞い、売春、たかり、詐欺などなど、個人がそれぞれの才覚で、何とかやりくりして、どうにか日々を送るというような有様であった。

 およそ修身とは反対の世の中であった。そんな時代でも何とか皆がやりくりして生きていけるようにするのが道徳であり、教えられた「修身」が如何にインチキで価値のないものだったのかと思ったものだった。

 そういう経験からすると、「修身」が「道徳」に変わったところで、いかに薄っぺらで実際にはあまり役に立たないものを強制して、成功しそうもない従順な国民を再び作ろうと企図するのかと政府の方針を冷ややかな目で見ないでおれない。

 最近の朝日新聞に「道徳どう教えれば」というオピニオン欄があり、そこに道徳の教材の「手品師」という話が載っていたのでそれについて見てみよう。

「売れない手品師がある日、孤独な男の子と出会い、手品を楽しんでもらう。次の日も会う約束をするが、手品師にはその日、大劇場での仕事が舞い込む。手品師は迷った末、大劇場ではなく男の子との約束を守る」という内容の「誠実さ」について学ぶ単元があるそうである。

 私でなくても多くの大人なら、男の子に断って仕事へ行くのが普通ではないだろうか。折角の仕事のチャンスを逃しては将来生きていけないかも知れない。男の子の父親でも恐らく子供に断って会社の仕事にいかねばならないだろう。

 新聞でこれを取り扱った先生は、手品師が迷うところで読むのを中断し、各自に結末を考えてもらうと、様々な意見が集まるそうなので、多様な考えの人がいるのが分かると言っている。それの方が良いだろうが、教科書に結末が書いてあれば、子供達はどう思おうとも、忖度して教科書の記載を「正解」とするよう強制されることになるであろう。

 子供達はここで父親との約束を思い出すかも知れない。そして教えられた「誠実さ」と現実社会での「判断」(身の処し方)の乖離を学ぶことになる。同じようなことを繰り返して行くうちに、人生では表と裏を使い分けねばならないことを悟って行くようになるかも知れない。

 絶対に正しい道徳があるわけでなく、皆が自由に生きるために、お互いの自由を認め合うことを教えるべきで、一定の価値観を押し付けるべきではないだろう。「いじめ」をなくそうとしても、大人の世界に「パワハラ」などの「いじめ」があれば子供の「いじめ」もなくならないであろう。

 戦後にあれほど否定された「修身」を再び持ち出して”礼儀正しい従順な国民”を育てようとしても意味のないことで、時代錯誤であることを知るべきであろう。それより先ずは、大人同士が対等に自由に話せる環境を作ることの方が大事なのではなかろうか。

 

童謡は今や老謡

 我々が子供の頃に流行り、長く受け継がれてきたと思っていた童謡も、世の中がすっかり変わって今の子供には通じなくなり、最早老人だけが昔を懐かしむ歌になってしまっている感がある。

 例えば、童謡では代表的な「故郷」というのがある。「うさぎ追いしあの山、小鮒釣りしかの山、夢は今も巡りて、忘れがたき故郷」という、この国の大人なら誰しも子供の時に習った有名な歌である。ところが、最近ある小学校でそれを教えたら、生徒から「先生。兎って美味しいんですか」と聞かれたそうである。

 野山で兎を追いかけた経験もなく、動物園でしか兎を見たことのない子供にとっては「うさぎおいし」と聞けば「兎って食べたことがないけど美味しいのかな」という疑問が湧くのも当然であろう。今パソコンで「うさぎおいし」と打てば「兎美味し」と変換されて、「追いし」よりも「美味しい」が先にくるのだから、子供の疑問も当然であろうかと思わされた。

 もう今では、山で兎を見る機会もないであろうし、小鮒を釣れるような小川もない。人の住む都会の近くの山は全て開発されて、住宅が広がり、広い舗装道路が走ったりして、兎が住める空間も殆ど無くなってしまった。小川はコンクリートで固められ、危ないからといって鉄柵などで囲まれて人を寄せ付けない。もう今では大人でさえ、若い世代の人たちでは、歌のような「忘れがたき故郷」のイメージを持った人も少なくなってしまったのではなかろうか。

 私ですら都会育ちで、親も早くに故郷を出ているので、故郷と言える所がなく、子供の頃には友達が盆や暮れに「田舎へ帰る」とはしゃいでいるのを聞く毎に、帰る田舎のないのを嘆いたことを今でも覚えている。

 それでもまだ、実際に兎を追った経験はある。小学校の時、学校から箕面の六個山へ行って、生徒たちが山の中腹から大勢で山を取り囲み、皆で声を出したり、木や草を揺すったりして、穴から兎を追い出し、下へ逃げないようにして頂上に向かって追い立て、皆でだんだんと輪を狭めていって、兎を頂上に追い詰め、最後に先生が兎を捕獲するということをしたことがあった。

 そのように、その頃は大阪の郊外でも箕面あたりには、まだ自然がたくさん残っていた。山へ行けば、トンボや蝶々も多く、昆虫採集が盛んだったし、猿や鹿を見かけることもあった。川床へ降りられる場所も多く、小魚を掬ったりして遊んだ思い出もある。

 そのような子供時代の体験があるから「忘れがたき故郷 」も自然に心に響くのであろうが、子供の生活がすっかり変わり、テレビやスマホやゲームなどに囲まれ、スポーツや塾通いなどに時間を追われ、山や小川などの危険な?場所から締め出されてしまっては、子供時代の思い出も「忘れがたき故郷 」とはおよそ違ったものになっているのではなかろうか。

 他の童謡にしても、多くは大正から昭和にかけて作られたもので、その頃の世間の風物を取り扱っているものばかりである。「赤とんぼ」と言ってもいまでは殆ど見かけないし、「メダカの学校」もメダカは今では殆ど絶滅奇種である。「雨降り」と言っても「蛇の目のお迎え」の分かる子はいない。「鯉のぼり」でも「いらか」と言っても通じない」し、「焚き火」は最早一般には禁止されている。

 こう見てくると、大正から昭和にかけて作られ、学校で広められた「童謡」もそろそろその役割を終える時期が迫ってきているのではなかろか。これらの童謡が今一番喜ばれて歌われているのは子供ではなくて、老人ホームだそうである。それぞれに違った人生の生活体験を経て来た老人たちにとって、共通して一緒に楽しめる素材としては童謡が打って付けなのであろうか。

 それぞれの老人が子供時代を振り返って皆が一緒に懐かしく思えるのが童謡なのであろう。子供時代に戻って童謡を歌うことに反対する人もいないであろう。どこの施設でも、一緒に歌う機会があれば、皆で声を合わせて童謡を口ずさむことになるようである。「老謡」になってしまった懐かしい「童謡」も我々老人たちの世代とともに消えていくのであろうか。

 こんなことを書いていたら、新聞の折り込み広告に、童謡コーラスの会の勧誘が出ていた。「50才~70才,80才代のマダム&ヤングシルバーに大人気!元気、友達、健康、うた仲間集まれ!!」とある。やはり、童謡は今では昔を懐かしむ老人たちの老謡になっているようである。