ステッキと杖

 最近はステッキは流行らないが、私の子供の頃にはステッキは伊達男の必須の持ち物のようなもので、ニュースに出て来たイギリスのチエンバレん首相はいつもステッキを持っていたし、チャップリンのあの歩き方はステッキあってのものであった。日本でも珍しいものではなく今でも親父の使っていたステッキが我が家には残っている。

  しかし最近の人はもう戦前のことなど知らないので、私がステッキを持って歩いているのに出くわすと「杖をついているの」と訝しがった。最もこの歳でステッキを持っていたら杖と思われるのが当然であろうし、私がステッキを持っているのも半分は杖の役割を期待してのことで、元々ステッキも杖も日本語とカタカナ英語の違いに過ぎず、老いを否定しようとして勝手にステッキと呼んでいるだけだから、他人から見ればどちらでも同じことであろう。

 私は仕事や何かの用で出かける時にはステッキを持たないが、散歩やハイキングに出かけるような時には、最近はなるべくステッキを持っていくようにしている。階段を降りる時や凸凹道を歩く時など、「転ばぬ先の杖」としての安心感が得られるし、坂を登る時など確かに杖をつくと二本足が三本足になるので楽である。

 それに自分ではステッキだと言っていても世間では杖と見てくれるお蔭で、電車に乗った時などにステッキを持っている方が持っていない時より明らかに座席を譲ってくれる確率が高い。女房と一緒の時など、譲ってくれた席に女房を先に座らすと、隣に座っていた人までが立って、また席を譲ってくれることにもなる。

 昨日は面白い経験をした。電車に乗る時、杖をついた若い人と一緒に乗ることになったが、私の方が先に乗り込んだ。優先席だったせいか、座っていた若い女性がステッキを持った私を見てすぐ立ち上がって私に席を譲ってくれた。しかし足の悪い若い人が続いて乗ったことを知っていたので、私は振り返ってその人に席を勧めた。一旦断ってからその人が座ってくれたので、私は車内の壁にもたれかかって立っていた。

 電車はそれほど混んではいなかった。座席は空いてはいなかったが、車内はざっと見渡せる程度であった。向かい側の座席にも松葉杖を両腕で抱えるようにして座っている老人いた。すぐ向かい側なので見るともなく眺めていたが、その老人が隣の中年のサラリーマン風の男に何やら話しかけている。話しかけられた方は初め不機嫌そうな顔をしていたが、どうも私が杖を持って立っているので、席を譲るよう話をしていたようである。やがてその中年男が立ち上がり、老人が私にそこへ座れと呼び掛ける。

 私は男が渋々立ち上がったのを見ていたので一応断ったのだが、男は優先席ということを知って、嫌々ながらも一旦立ち上がった以上、最早引き返すわけにもいかない。何も言わずに少し離れた方に行ってしまった。こうなればもう座らざるを得ないので、松葉杖の老人の横に礼を言って座った。ただ、何だかこちらがペテンにでもかけたような落ち着かない感じがして、黙って電車が梅田に着くまで、小さくなって座っていた。

日本はやはりアメリカの従属国

 アメリカのトランプ大統領北朝鮮金正恩委員長の会談がシンガポールで行われた。首脳会談というものは一種の政治ショウのようなもので、アメリカが北朝鮮の体制保証をし、北朝鮮朝鮮半島の非核化を約束したということで、具体的なことはまだ何も決まっていないので、今後どうなっていくかわからないが、まずは大筋の合意が出来て朝鮮半島が平和に向かい始めたことは本当に喜ばしいことである。

 ただ、このニュースなどを見聞きしていて感じさせられたのは、日本の報道が具体的なことが決まっていないことを取り上げて、成果を出来るだけ低く評価しようとしていることである。どうも日本はこの地域が平和になって、アメリカの勢力が弱くなることを恐れ、また日本が話し合いの蚊帳の外におかれることを懸念しているようである。この国はやはり完全な独立国ではなく、今だにアメリカの従属国である悲哀を感じざるを得ない。

 北朝鮮が核やミサイルの開発を進め、アメリカが最大限の圧力をかけると言っていた時には、安倍首相はそれに乗って先頭に立って「最大限の圧力を」と叫び続けており、アメリカが一時会談を中止すると言った時には、他の国が心配して何とか会談に漕ぎ着けようとしたのに、日本だけがそれ見たことかと言わんばかりに、早速会談中止を支持し「最大限の圧力を」と繰り返したことが日本の姿勢を端的に表しているようである。

 ところが、その後トランプ大統領が交渉を成功させようと考え直し、「もう最大限の圧力という言葉は使わないでおこう」と言い出すと一人浮き上がってしまったことになってしまった。この米朝会談の流れには韓国はもちろんだが、中国も関与しており、事前に金主席は二度も中国を訪問しているし、シンガポールへの飛行機も提供している。ロシアも絡んでいるようだが、日本だけが蚊帳の外へ置かれかねない。

 そんなこともあって、安倍首相がトランプ大統領に頼んだのが北朝鮮による日本人の拉致問題である。本来拉致の問題は日本と北朝鮮の2ケ國間の問題であり、この会議の中心的な課題ではない。拉致問題を絡ませて何とか日本もこの流れの一翼に乗せてもらおうとしたのであろう。

 拉致被害者の家族たちにしてみれば、これまでどれだけ政府に頼んでもラチがあかなかったので、もう日本政府はあてにならないと困り果てていたところなので、今回トランプ大統領金正恩委員長に会うのであれば、この機会にぜひ大統領に頼んでなんとかしてもらおう、もうこれが最後の機会だと悲壮な覚悟だったのであろう。拉致被害者の家族からすれば、もうトランプ大統領にしか頼るところがないのである。

 日本政府はこれまで拉致被害者の家族の痛切な願いを無視して、真剣に連れ戻す試みをせず、長期に渡って殆ど直接交渉をないがしろにして無駄に時間を空費したまま、拉致問題を政治的にのみ利用してきたのである。今回も、またもや自分たちの努力を後回しにして、トランプ大統領拉致問題を訴え、政治的に利用しようとしているのである。最早手遅れの感がないでもないが、政府は当事者でない米国に頼むよりも、一刻も早く北朝鮮と直接交渉して拉致問題を解決すべきである。

 米朝首脳会談に関する一般の人々の感想や意見を見聞きしても、最近の次第に緊張を高めてきている周辺世界の不安の中で、最大限の圧力ばかりを唱えてきた政府には最早この問題の解決の力がないことを知り、日本政府はあてにならず「トランプさんならやってくれるのではないか」と期待している声が聞こえてくる。自国の政府ではあてにならず、親分のアメリカ政府に頼らねば解決出来ないのではないかというのも情けないことであるが、やはりこの国は今だにアメリカの属国なのである。

 

 

万引き家族

 是枝監督の「万引き家族」という映画がカンヌ映画祭で最高のパルムドーム賞とやらを取ったというので、日曜日に見に行ってきた。噂に違わぬ興味深い映画であった。

 母親の年金をあてにした夫婦と嫁の妹、それに過去に何処かで何らかの経緯で家族として一緒に暮らしている少年を合わせた五人による家族としての共同生活。年金で足らない分を息子の日雇い建設現場の仕事や、少年との共犯による万引き、嫁のパート、妹の風俗営業まがいの怪しげな店での稼ぎなどで賄っている設定になっていいる。

 住居は大きなマンション群に囲まれた古い陋屋で、昔は隅田川の花火が見えたのだが今は花火は音しか聞こえない。そこへある時、偶然マンションのベランダで親の虐待にあって傷だらけになっていた少女を見つけ、家に連れて帰って一緒に住むことになる。

 こういった社会の底辺に追いやられた疑似家族の生活が描かれているのだが、血の繋がった普通の家族といわば他人の集まった家族、万引きとか、パチンコで隣席の人の球をくすねるような細やかな犯罪と社会によく見られるいわゆる犯罪、親による少女の虐待とその子の誘拐などの対比を静かに観客に突きつけている。

 やがて母親が死んで葬式代はないし、年金をストップされる恐れから母親の死体を庭に埋めることになるが、やがてふとした万引きの失敗から全てがバレて、偽装家族も消滅し、警察が関与することになる。こうした社会ドラマとも言えそうな筋書きを、正義を振りかざして訴えるというのではなく、事実を淡々と描き出して観客に考えさせようとしているのが良い。

 それに、これまで知らなかったが、安藤さくらという嫁さん役の女優の演技が素晴らしかった。今度テレビの朝の連続ドラマに出るそうなので楽しみである。彼女の取調べ室で泣く場面、樹木希林がパチンコ玉を盗んだのを見られて「しー」と合図する表情、それの家族の楽しみを表現した海水浴の映像などが忘れられない。

 エンタメの要素もあって充分見て楽しめる映画でもある。

 

 

 

嫁はんよりは早よ死にや

 インターネット上のある調査で、緩和ケアや死生観などについての質問の中で、夫婦で「自分が先に死にたいか、後に死にたいか」と尋ねたそうである。20~70代の既婚者694人に実施したものだが、男性ではどの年齢層でも「自分が先に」が多かったそうである。それに対して、女性では50代までは男性と同様に「自分が先に」が多かったが、60代以上で逆転、「自分が後に」が多くなり、70代では67%を占めた由である。

 「自分が先に」と答えた435人にその理由を聞くと、「パートナーを失う悲しみに耐えられない」が最多。「死ぬときにそばにいて欲しい」「パートナーがいないと生活が難しい」が続いた。この上位三つを選んだ割合は、男性のほうが高かった。一方で「葬儀や墓について考えたくない」や「パートナーの介護をしたくない」を選んだ割合は女性に多く、男性より10ポイント以上高かったという。

 「自分が後に」を選んだ259人に理由を聞くと、男女ともに6割が「パートナーの最期をみとってあげたい」を挙げていた。「パートナーの生活が心配」は男性で3割、女性5割だったそうである。

「嫁はんよりは早よ死にや」とは以前から私が友人たちに言ってきたことなのでこの結果を見てなるほどなと納得した。統計上でも男の方が短命なので、男が女より先に死ぬ方が順当なのであろう。

 私の経験でも、これまで病院などで亡くなられた患者さんの例を振り返って見ても、少なくともこれまでは、男が先に死ぬ方が良かったのではと思われるケースが多かった。

 若い人では事情が違うだろうが、ある程度歳をとってからは、旦那に先に死なれても嫁さんの方は元気に生き続ける人が多い。中には旦那に死なれると「これでやれやれ」と背伸びをして元気になる人さえいる。一番ひどかったのは、がんで死にいく亭主の横で「まだでっか。心臓が強いのでっしゃろか」と死ぬのを待っている?ような人までいた。

 もちろん、中には旦那が死ぬと奥さんまでショックで心電図に一時的な異常まできたした人もいたが、多くの場合は、女性は相手の死後に、以前より返って元気になって、生き生きとして末長く暮らしていかれるケースが多かった。

 それに対して、男の方は女房に死なれると弱い。途端に元気をなくし、小さくなってしまい、1〜2年のうちに後を追うように逝ってしまうのを見ることが多かった。

 これまでの男は食事や身の回りのことを全面的に奥さんに頼ってきた人が多いので、女房に死なれると忽ち日常生活が成り立ちにくくなる人が多いのであろうか。近くに娘でもいて面倒を見て貰えるような人はよいが、そうでないと全くの孤独になって、環境の激変に適応出来なくなる人が多いのかも知れない。

 少しだけ若ければ、70台でなら再婚する人も時にいる。嫁さんがしっかり者で、生前ずっと尻に敷かれていた男に多いのであろうか。大抵、不相応に若い女性を後妻に選ぶが、あまり幸せな余生を送れるとは限らないようである。中には一人になっても元気で長生きする人もいるが、もともと孤高を愛する人なのであろうか。

 夫婦のどちらが先に逝くかは「神のみぞ知る」である。同時に死ぬわけにはいかないだろうから、いつかはどちらかが先に死んで、どちらかが残されることになる。本来人間は孤独なものであるから、一人になった老後の生活も考えて、いかに対処すべきかをも考えておくべきであろう。

約束を忘れる

 若い時には他人との約束や、仕事のスケジュールなどは、少々多くても、一旦覚えてしまえばあまり忘れることはない。頭の中の記憶はなかなか保たれるものである。

 しかし歳を取ってくるにしたがって、何やかやと責任が重くなり、約束や予定も多く複雑になってくると、記憶は確かだと思っていても、約束事は必ず手帳にでも書いておいて、朝にでも必ず手帖を見て、その日の予定をチェックしなければならないことになる。それでも、仕事の上では落ち度がなくても、私的で些細なことなどはつい失念してしまい、女房や子供に怒られたりすることになりがちである。

 ところがもっと歳を取って、仕事から離れて隠居生活,するようになると、複雑な約束は減り責任も軽くなり、家にいることが多くなるので、何か約束などをして手帳に書いておいても、現役時代のように毎日出かける習慣がなくなると、決まって手帳を見る習慣も途絶え、せっかく手帳に書いてあっても、手帳を見ないために約束を忘れてしまうことが起こる。

 年齢と手帳の関係は、

  青年期は手帳がなくても頭が覚えている

  壮年期は手帳を見て確かめる

  老年期は手帳に書いてあっても見ないので忘れる。

ということになるようである。

 我々のような老年期になると、何かの会合で、案内の返事には出席となっているのに遂に現れない人が時に見られようになる。認知症でなくても、約束の日を記録するのを忘れることもあるし、記録していても決まって記録を見る習慣がなくなっているので、気がついたらもう約束の時間や日が過ぎてしまっていたということも起こるようである。

 悪気がないのだから非難しても始まらない。老人はこういうものだと初めから思って対処するのが老人のやり方だと考えなければならないし、それに合うように対処すべきなのであろう。

 そんなことを言っていたら、私が先日、ある人と会う約束をすっかり忘れていたことを相手からの電話で知らされて慌てた。これまで約束を忘れたことは皆無だったのでショックだったが、大して重要なことではなかったので助かったが、この失策は後まで尾を引いて自分を苦しめた。

 今でも時に仕事もしているので、毎週月曜日の朝には必ず手帖を開いて予定を確かめる習慣はついているのだが、その約束が月曜日の朝であり、その週の前半は特に何も大事な約束がないという意識が頭を占めていたので、その朝パソコンを見るのに気を取られていて、つい手帖を見るのが遅くなってしまっために約束に間に合わなかったのであった。

 歳をとると次第に日頃の緊張感が薄らぎ、手抜かりが増えてくるもののようである。まだ認知症にはなっていないと思うが、認知症認知症になっていないかどうかが自分でははっきり分からないところから始まってくるから、もう幾らか認知症が進んでいるのかも知れない。でももう少し成り行きを見ていくしか仕方がないであろう。

 

いくら何でもこれは酷い!

 いくら何でもこれはひどい!国民はもっと怒るべきだ。国会で散々あからさまな嘘の答弁を繰り返して、国民を騙し続け、公文書を改ざんし、それがバレても、今度はそれを全て官僚が勝手にやったことにして、官僚の処罰だけで済ませ、それで逃げ切ろうとする。なぜやったか聞かれても「それが分かれば苦労しない」とうそぶいて、「私自身の進退については考えておりません」と開き直っているのである。

 これが責任者である財務大臣の態度なのである。いくら何でもひどいじゃないかと思わない人はいないのではなかろうか。これだけ大掛かりに長期に渡って国民に迷惑をかけ、不正を続けた財務省の責任者である財務大臣が、それでも政治的な責任をとろうとしない厚顔には開いた口が塞がらない。

 誰が見ても安倍首相に忖度して行われたとしか考えようがなく、それを打ち消す証拠もないばかりか、客観的な書類や事実がますます真実を浮かび上がらせてきている上に、肝腎の改ざんの動機についての説明も出来ないまま、官僚だけに責任を負わせて逃れようとするのはあまりにも国民を愚弄するものではなかろうか。政府に忠実ならんとした官僚こそ哀れである。

 これまでの歴史を見ても、もっと程度な軽い問題で政治的責任を取って辞めた内閣や閣僚もいくらでもいるではないか。麻生大臣がやめれば安倍内閣が持たなくなるからという思惑などがあるのだろうが、誰が見てもこれだけ大きな不正があれば、少なくとも担当大臣が責任を取って辞職するのが当然である。それが国民に対する政治の責任である。

 国民がバカにされているのである。議会で多数派を占めているからといって許されることではない。東京でも大阪でも、この検察による不起訴に対して検察審査会への申し立てが行われたようであるが当然なことである。全面的に支持したい。国民的な運動を盛り上げてでも、麻生大臣を辞任させ、その原因を作った安倍内閣を退陣に追い込まなければこの国の民主主義が危ういことを強調したい。

 

年寄りは鞭打たれて働かされる

 以前に同じ表題で小文を書いた記憶があるが、最近の政治の動向を見ていると、いよいよ「年寄りが鞭打たれて働かされる時代」が近づいてきたことを感じないではおれない。

 何せ少子高齢化がますます進み、人口は減って行きつつある。どこも人手不足で、中小企業では後継者がいないので店をたたむところも多く、大学卒業生の就職率は百%だそうである。それでも人手不足なので、この国は極端に移民を嫌いながらも、研修制度などのいびつな形で外国人を入れないと3K職場などは回らない。

 老人ばかりが多くなって、社会保障費が膨らんで財政を圧迫し、老人の医療保険介護保険は破綻しそうだし、介護要員も不足し、やがて老人は十分な介護も受けられなくなるだろうと言われている。物価は上がっても年金は削られがちで、老人の生活は苦しくなりつつある。社会の格差が広がり、家族が崩壊に向かい、孤独な老人が増えている。

 一方、このように少子高齢化、人口減少で社会が大きく変わろうというのに、過去の夢が忘れられないのか、経済ばかりは高度成長を続けようとして、積極的に基本的な社会のあり方を変えようとしないばかりか、対米依存を強化しようとして膨大な軍事費を支出し、先の見込みがあるのか疑問なのに、日銀は極端な低金利政策を変えようとしない。

 人手不足を補おうとして「女性の輝く時代」だなどとおだてて女性の労働力を増やそうとするが、今だにセクハラ問題を起こしても、男性優位社会の構造は旧態依然のまま一向に改まらない。女性が積極的に自己発現のできる世界はまだ遠い。

 そこで最も目をつけられるのが有り余ってくる老人の労働力ということになる。幸い今の老人は昔より長生きするようになり、定年を60歳から65歳に伸ばしても、65歳を過ぎてもまだまだ元気な老人が多い。

 街の中で見ても、若い人たちがストレスでイライラしながら疲れ切って働いているのに、まだまだ元気で体力はあり、退職金をもらって多少のゆとりもあるこの年代の人たちが、職場で一緒だった友人たちと連れ立ってあちこちで歩いている様は、この世代が今の時代に一番元気なのではないかとさえ感じさせる。

 人手不足の社会がこの層を見過ごすはずはない。彼らを使わない手はない。会社は再雇用で使おうとするし、ハローワークで足りない分は老人人材センターを通じて老人に依頼することになる。老人の方では、社会のゆとりが少なくなるとともに、減らされる年金や老後の備えのために働かねばとの思いも増えてくる。

 そんなことで定年後も働く老人が増えている。まだ元気な老人が社会のために働くことは良いことである。定年後のやれやれ思う時期をゆっくり休むのも、羽を伸ばして自分の好きなことをするのも、社会のために尽くすのも良いことである。老人が皆、自分の意思で自由に人生を楽しめれば素晴らしいことである。

 しかし、老人の必然としての老化現象に伴う体力、気力の衰えは避けられないことを知っておかねばならない。老人が集まれば共通の話題は「どこが悪い?」「どんな薬を飲んでいる?」ということになり、どこも悪くないと仲間に入れて貰えない?ことが多い。老人と病気は切っても切れない関係にあるが、歳をとるほど、人によるばらつき、個人差が大きくなることが老人の特徴であることにも気をつけるべきである。

 現に自治体などの老人の人材センターから出向いた老人たちが仕事中に起こす事故が問題になりつつある。元気な老人が自分の意思で、自分にあった仕事をすることは良いことである。それにょって健康を保てることだってある。しかし、長年社会のために働いてきた老人たちが老後の生活をゆっくり楽しむ権利も奪ってはならない。ましてや働くことが悲劇につながることは避けるべきである。

 例え元気な老人でも、強制されて楽しみや休養の時間を奪われてまで働くべきではない。長年社会に貢献してきた老人は尊重されるべきである。ましてや年金や社会保障、介護が削られ、生活が圧迫されて、嫌でも働かねばならないように老人を追い詰めるべきではない。

 バラツキの大きな老人を一律に老人として見るべきでもない。平均値で老人に対処して政策をたてようとすれば、体の弱くなった老人が自ら鞭打って働かされることになるのは必定である。かっての姨捨山へのただの遺棄よりも、酷使して遺棄というさらに残酷な光景が繰り広げられることになりかねないのではなかろうか。