奈良散策2万歩

 奈良の観光案内から、春日神社の藤を見て、帰りに国立博物館でやっている「春日神社のすべて」という春日神社所蔵の宝物類を見に行こうとプランを立てていたのに、いつの間にか藤も散ってしまい、そのままになっていたが、先日、思い直してしばらく振りで、奈良へ行って来た。

 観光地としては京都の方が見るものも多く場所も広いが、京都は街の中に観光資源があちこちに散らばっている感じなのに対し、奈良はずっとコンパクトだが、全体が公園のようで、鹿もいるし、その中に観光資源がばらまかれている感じで、ゆっくり楽しめるのは京都より奈良である。外国人などにも奈良の観光を勧めることが多いし、私自身も奈良の公園が好きなので、時に出かけて散策している。

 その時々で訪れる場所も違うが、今回は奈良ホテルの南に旧大乗院庭園というのを地図で見つけ、これまで行ったことがないので、どんなところか確かめたいと思い、そちらへ足を向けた。その後、奈良ホテルから東に広がる荒池や鷺池の浮御堂あたりの様子も久しぶりで確かめ、そこから春日神社へ行くことにした。

 その日は難波から近鉄で奈良へ行くことにしていたのだが、難波で近鉄電車に乗ってから人身事故のため運休と言われて、地下鉄で天王寺まで出て、JRの大和路線で奈良まで行くことになった。

 おかげで久しぶりのJR奈良駅であったが、駅周辺の変わりように驚かされた。駅が高架になり西側にホテルやホールが出来たのは知っていたが、東側にも広い広場が出来、ビルが立ち並び、昔の立派な建物の駅舎は保存されて観光施設になっていた。

 駅を出て三条通りを東へ進んだが、この通りも元はもっと狭い通りだったのが、両側とも拡げたのか、随分広くなって殆ど新しい建物が続いている。しかし藤田ホテルは昔のまま残っていた。

 その道を猿沢の池までまっすぐ進み、池の縁を南へ周ったあたりで休憩した。近鉄奈良駅からと違い、JRの駅からここまでは結構距離がある。写真を撮ったり、スケッチをして水分の補給もした。そこから少し東南へ行き、ビジネスホテルの南にある狭い路地を通って奈良ホテルの敷地に入り、クラッシックな教会の横を通って、坂を上り、奈良ホテルへ辿り着いた。

 ここばかりは昔ながらの木造の建物のままで懐かしさを感じるが、フロントあたりを少しばかり覗いただけで、今度は坂を下って正門から外へ出て、少し南下して旧大乗院庭園の入り口の建物に入る。

 この大乗院というのは江戸時代には旧門跡の大きな寺だったそうだが、明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となり荒れ果てていたそうで、その敷地内の高いところに奈良ホテルが建てられてということらしい。その後も低い部分にはゴルフコースが出来たりして荒れたままだったのを、最近になって庭園として修復されたということらしい。昔は池の西側に寺の建物が並んでいたようだが、いまは緑の山を背景にした池に赤い橋がかかっているオープンな感じの景色になっていた。

 ここでも小休止をとった後、今度は北へ荒池の間の道を通り抜け、荒池に沿って北の道を東へ入り、途中から池の東の緑地へ降りた。荒池から続く川のように細くなった池が浮御堂のある鷺池まで続いており、静かな緑地になっているが、まだ朝早いためかほとんど人もなく、鹿の群れが静かに身を寄せ合っていた。

 ここらは北の少し高くなった興福寺春日神社のある春日野と違って、低地で池が続いたりする湿地帯で、昔から何もない千萱などが生い茂った荒地だったのではなかろうか。浅茅が原と呼ばれ春日野から散策に来た人たちに歌などを詠まれることになったのであろうか。

 鷺池の浮見堂には休んでいる人もいたが、周りは緑と水の静寂に包まれ、朝の爽やかな風に吹かれて、いつまでも留まりたくなるような豊かな気分にさせてくれた。ここでもしばらくゆっくり休み英気を養ってから、橋を渡り春日野へと坂を上がった。

 春日野の林の間の道に出ると、そこでこれまで知らなかった珍しい建物に出会った。古い歴史があるような茅葺の建物で、大きく開いた窓が全て円形なのである。歴史がありながらモダンな感じもするユニークな建物である。ところが、周辺を回ってみてもどこにも説明がない。近くで作業をしていた人がいたので聞いてみたが知らない。

 どういう建物だろうかと思って、スマホで調べてみると、円窓亭というのだそうで、元は春日神社の経堂の一つだったのが、いつの時代かにここに移築されたものという。今でもあまり人に知られていないようだが、このあたりは梅林になっており、観梅の頃にはこの円窓亭を背景に梅の写真を撮ったりする人がいるそうである。

 次に、ここから少し北へ進み、一の鳥居から少し入ったあたりの春日神社の本参道に出、そこから長い長い道のりを本殿まで歩むことになる。流石にここまで来ると、平日の午前だというのに大勢の参拝客でいっぱいである。ただ昔と違うのは、半数以上が外国人だということ。所々で人が集まっていると思えば、鹿にせんべいをやりながら写真を撮っている人たちの集まりである。

 ようやく本殿近くまで行った所に茶店があり、「万葉粥」などと出ていたので、混み合う昼を避けて先にここで食べようかと思ったが、時間が早過ぎてまだやっていなかった。時間潰しも兼ねてと思い、すぐ横に入り口のある万葉植物園に入った。そこを見てから本殿まで行き、引き返せば適当な時間になるのではと考えた。

 万葉植物園にはこれまで入ったこともなく、さして期待もしていなかったが、思ったより広く、万葉集由来のいろいろな植物の解説展示があるほか、原始の春日山の名残をとどめる巨大な大木や、倒木から垂直に伸びた複数の木など珍しいものもあり、時期は過ぎていたものの、立派な藤園もあり、結構楽しめた。

 次に予定通り春日神社の本殿に行ったが、ここは案の定いっぱいの人。ここは何度も訪れているので、一見しただけで殆どパスし、裏道から廻って新しく出来た国宝殿へ行く。この辺りは修学旅行と思われる学生達で混み合っていた。この横が観光バスの駐車場になっているので、バスでやってきた人で溢れているようであった。

 這々の体で人混みを避けて、先の茶店まで戻って、そこの庭で茶粥を食べて昼の休憩をとった。食事をすませ、しばらくゆっくりしてから、今度は参道を戻り、途中から人混みを避け、参道から抜け出して国際フォーラムの前に出た。

 そこに続く広場では、ムジーカ・プラッツ2018という催しをしており、開催前であったが、すでに入場者が列を作り始めていた。広場の周辺にも人が大勢座り込んで、始まるのを待っているようだった。周辺の少し高くなった所の木陰に腰を下ろしてビールを飲んだが、まだなかなか始まりそうにないので、諦めて帰ることにした。

 いささか歩き過ぎた感じなので、スマホの万歩計を見ると19,000歩を過ぎていた。家に帰るまでを考えれば、確実に2万歩は超えることになる。知らないうちによく歩いたものである。

 そこから駅までは歩道いっぱいに駅の方からやってくる人人人の大行列。何処までいっても終わらない。反対方向に歩くのが大変である。もう午後になっているのに、まだまだ駅からやって来る人ばかりであった。ようやく近鉄奈良駅にたどり着いた。それでも、早く来てよかったものである。まだ午後1時過ぎ、おかげで帰りの電車はゆっくり座れて帰った。

映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」

 韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」を見た。1980年の光州事件を扱ったもので韓国では1200万人もの観客を動員した映画らしい。

 この時代、韓国では戒厳令が敷かれており、メディアの報道も完全にブロックされていたので、光州事件についてはなかなか国外にまで伝わりにくかったが、日本にいたドイツ人のジャーナリストが光州に乗り込み、現場の実態を外国メディアに公開して実態が広く知られるようになったと言われている。

 そういった事実に基づいて作られた映画で、映画ではドイツ人記者がたまたま掴まえた個人タクシーの車で行ったことになったいるが、実際には朝鮮総連や韓国の組織の協力があって送り込まれた記者で、タクシー運転手もその関係者だったという説もあり、韓国では今だに分かりにくい事件で、色々議論があるところなのだそうである。

 それは兎も角、映画の設定では、そのドイツ人記者が光州に行くことをたまたま知った個人タクシーの運転手が、ただ金のためにその記者を乗せて行くことになっており、その運転手は嫁さんに逃げられて娘と二人暮らしで、歌謡曲の好きな何処にでも見られそうな運転手ということになっている。サウジアラビアで働いたことはあるが、その記者とは英語でのコミュニケーションも十分でない。そのタクシーがソウルからはるばる光州に向かい、途中、戒厳令により封鎖されている検問所をうまく突破したり、山の中の迂回路を通ったりしてなんとか光州に入ることになる。

 そこで軍隊が学生を主体とするデモ隊を実弾で弾圧する現場に直面することとなり、ドイツ人記者とともに軍隊や警察に追われながら、被害者を運んだり、病院を訪れたりし、自分たちも警察に追われて逃げなければならなくなったりして、一緒に行動しているうちに記者と運転手との間の理解が自然に出来、なんとか逃れて生還することになるストーリーである。

 光州事件という深刻な事件を扱いながら、その中に入り込んでしまうのではなく、出来るだけ他所から来た人の中立的な目で、しかし次次に起こる残虐な事実を冷静に見て描き出している手法が成功の元だと思われる。お終いに近いカーチェイスあたりは余分な気もするが、なかなか見ごたえのあるよく出来た一件に値する映画だと思った。

 

アイヒマンはヒトラーの意思を「忖度」してユダヤ人を虐殺した

 以前にアメリカの空軍基地からドローンの無人機によるイスラム国への攻撃について、係りの兵士は倉庫のような部屋の中で、モニターの画面だけを見ながら、忠実に命令に従ってドローンを飛ばしていただけだが、攻撃される先では多くの無辜の住民までが犠牲になっている悲劇について書いたことがあった。

 それはヒトラーの命令を忠実に聞いて、真面目に多くのユダヤ人を殺戮したアイヒマンのケースと変わらないのではないかということを非難したものであったが、先日の朝日新聞の政治季評欄における早稲田大学の豊永郁子教授を読むと、ヒトラーの命令があったことは明らかでなく、むしろ否定的で、各地で展開された大量虐殺も含めて、これらの非道な行為は殆ど皆ヒトラーの命令ではなく、その意思に対する「忖度」が起こした可能性が強いという。

 「アイヒマンヒトラーの意思を法とみなし、これを粛々と、時に喜々として遂行していたことは確かだ。しかし大量虐殺について、ヒトラーの直接または間接の命令を受けていたのか、それがあがなえない命令だったのかなどは、どうもはっきりしない。」と書いてあり、ニュルンベルク裁判などで見ても大量虐殺に関するヒトラーの命令の有無についてははっきりしていないようである。

 この教授は前国税局長官佐川宣寿氏の証人喚問を見ていて、このアイヒマンを思い出したと書いてられる。命令がなくとも、大きな組織でトップの方針があれば、部下たちは組織の中での自分の立場を考え、トップの意向を忖度して行動することになりがちである。今の官僚組織などはまさにその典型であろう。

 忠実な官僚であればこそ、自己の出世欲や金銭欲、出世欲、競争欲などと現在の立場を考慮する時に、得てして基本的な人間としての立場を忘れて、周囲の雰囲気の中でいかに生きていくかが優先されることになりがちである。個人としては優れた人も、大きな組織の中では、その中でいかに利口に生きていくかを考えることになる。

 それがあらぬ「忖度」となり組織までをあらぬ方向に導き、誤りが発覚しても姑息な手段や、嘘をついってでも組織を守ろうということになる。ハンナ・アーレントが指摘したアイヒマンも真面目な官吏で、その行為も正にこういったことだったようである。

 森友、加計両学園に絡む佐川氏や簗瀬氏らは何とか国会での追及などをかわしたようであるが、官僚たちのこれら「忖度」の行為は、単に現政権における問題だけでなく、この延長線上ではアイヒマンのもたらした残虐行為と同じことが、将来また起こりうることを示す恐ろしさを知るべきであろう。

 

言葉で誤魔化されるな

 「戦闘」が行われても「戦闘行為」はなかったというような滅茶な言い方が通るのに呆れていたら、自衛隊の海外派遣では、憲法と海外派兵の矛盾を法規上無理やり整合性を取らすために、滅茶苦茶な言葉な使い方が広く使われているようである。

 最も驚かされたのは、同じ一つの英語<command>とあるのを、都合の良いように、ある場合には「指図」と訳し、違う場合には「指揮」と二つの日本語に分けて翻訳して勝手に使い分けて、日本語の公式文書を作っていることまであるそうである。元が一つなので、実際にはその元の<command>という言葉に基づいてことが進められるのに、なぜ日本語で使い分けねばならなかったのか。国民の目をごまかすためとしか考えられない。日本の官僚はそこまで自分たちに都合の良い文章を作らされいるのである。

 PKF(国連平和維持軍)が争い合う勢力間の仲裁だけでなく、交戦主体になったために、それに加わった自衛隊憲法上、禁止されている交戦を避けることが出来る言い逃れのために国内向けに無理な言葉遊びでごまかそうとしたのであろう。

 PKF(Peace Keeping Force)というのが部隊の名称であるが、日本ではPKFという言葉はほとんど使われず、PKOすなわち(Peace Keeping Operation )というのも、軍隊であることを曖昧にして、その行動に参加しているだけだと言いたいのであろう。

 さらに「武器を使用」しても「武力行使」にあたらないとも言われている。こうなると最早自己矛盾も明らかで、普通の日本語としては理解出来ない段階ではなかろうか。現実を欺くためにここまで無理をしなければならないのであれば、むしろ現実を変える努力をすべきではなかろうか。

 最近の国会での答弁を見ても、あまりにも記録や記憶がなかったり、それが後に出てきたり、改竄されたりしていることが多いが、元になる文章でさえ巧みに表現を変えられたりして、都合の良い解釈がまかり通るようになっているようである。

 戦争をしても戦争ではなく、長い間、事変とされたりしてきたこの国の過去を振り返れば、どんなことも美辞麗句に置き換え、解釈を変えて自分を欺き、他人まで欺こうとして、挙げ句の果てには破綻せざるを得ない歴史を今も繰り返しているように思えてならない。どういう結末が待っているのだろうか、空恐ろしい。

 

 

ソール ライターの写真展

 伊丹の美術館でソール ライター(Saul Leiter)の写真展を見た。ニューヨーク出身の写真家で、数十枚の写真を主とした展覧会であったが、この写真展を見て、久しぶりにガツンと頭を殴られたような気がした。

 昔は写真といえば、どこに焦点を合わすか、絞りをどうするか、シャッタースピードをどのぐらいにするかが基本で、全てはそこから始まったものであった。ところが最近はカメラの性能が良くなり、スマホででも精密な写真まで簡単に取れるようになり、日常生活でも、文字と同じぐらいにどこででも広く写真が使われるようになり、写真が誰にとっても身近なものになった。

 しかし、あまり簡単に取れるようになったので、写真の原点としての撮り方などを考えることがなくなり、結果として、最近見る写真はいつしかどれもパンフォーカスの表面的な写真ばかりとなり、いつの間にかそれに馴染まされてしまって、写真の原点に立ち返ったような写真、写真でしか出来ない表現と言ったものが忘れがちになっていたような気がする。

 このソールライターの写真展は私にそういった写真の表現の原点を嫌という程思い出させてくれた。世に溢れる写真の中で、報道写真や風景写真などを見て、その被写体に感心することは時にあっても、写真的な表現の仕方に驚かされることはあまりないが、この写真展は表現の仕方に警告を与えてくれた数少ない写真展であったといえよう。

 鋭いピントがあった点と周囲のボケとのコントラスト、それによる立体的な画面の構成が思わず昔の写真の原点に帰れと警告しているように思えた。ある一点に焦点を当て、周囲を極端にぼかして、目的物を鮮明に浮かび上がらせる方法は当たり前のことだが、最近はあまりお目にかからない方法である。

 高架鉄道から見下ろした下にだけピントを合わせた写真、雨に濡れた建物の中からガラスを伝わる水滴にピントが来ていて、その向こうに写るボケた人物のシルエットが主役になっている写真など、浅いピントで視野の一部だけを浮かび上がらせ他を極端にボケさせた表現などは写真でしか出来ない表現で、今ではあまり見られなくなってしまったが、今一度振り返って、こうした表現の仕方を利用しても良いのではないかと思った。

 もちろんこのソール ライターという人は本来画家なので、色彩感覚にも富み、「カラー写真のパイオニア」とも言われる人だけあって、写真の中の色彩の使い方がうまいだけでなく、写真にゼラチン絵の具や水彩で着色したような作品も中々味があり楽しませてもらった。

「橋本惠史のお愉しみ会」

 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールであった「橋本惠史のお愉しみ会」

というのに行ってきた。私が以前にある病院で一緒に勤務したことのある後輩の先生の息子さんが橋本惠史その人であり、案内をいただいたので、女房と一緒に出かけたのだった。

 大阪芸大を出たテノール歌手だということは聞いていたが、それ以上のことは何も知らなかったので、正直なところ、行くまでは、まだ社会的に名も売れていない個人の会で2000名も入る大ホールが果たして埋まるものだろうかとか、一体こんな広い会場で個人がどんなパーフォーマンスをするのだろうかなどと気になっていた。

 ところが心配は無用であった。数年前からはじめは300人ぐらいのところから始まり、今回が6回目ということで、広い会場もほぼ満席。催し物も、歌に踊りは言うまでもなく、40〜50人にも及ぶ共演者とともに次々と出し物が続き、本格的なメンバーを揃えたオーケストラから、小劇、おまけに本人の落語まであるという盛り沢山なスケジュールで、観客の反応も良く大成功であった。

 本人は初めから終わりまで、何度も衣装を変えての出演で大変だっただろうと思われるが、なかなか多能な人で、本業とも言える声楽だけでなく、劇の構成、アレンジなどもされるようだし、桂文枝に弟子入りして「歌曲亭文十弁」(ブントーベン)の名まで貰ったという落語も本格的なものである。

 それだけでも立派だと思われたが、まだ若い人なのにこれだけの共演者を集め、これだけ大きな催し物をオーガナイズする能力の素晴らしいさ、ちゃっかり多くの企業などのスポンサーもつけ、しかもこの催しがカンボジャに中学校を立て、音楽教育に貢献するるためのチャリティコンサートになっていると聞いては驚かないではおれなかった。

 世の中の高齢化が進み、経済は停滞し、人々の暮らしも景気も一向に良くならず、森友学園加計学園問題などをめぐる政治の混乱などで、あまり明るい展望が開けない世の中では、老人の気分も沈滞しがちとなるが、この催しに本人を始め、若い共演者たちの熱気に溢れた演技を見て、若者たちのエネルギーを感じさせられ、未来への期待も湧いてくるような気さえした。

 チャリティーの目的であるカンボジャの中学校が1日でも早く完成するのを願うとともに、この若者たちのエネルギーがますます発展して明るい未来が開けることを願わないではおれなかった。

 序でに、一つ付け加えたく思ったことは、戦争も縁遠くなった若者なのに、どうして

劇中に特攻隊やビルマの縦琴が出てくるのか、少し不思議な気がしたが、お父さんの影響でもあるのであろうか。私たちの戦争経験者からすれば、何らかの形で無残だった時代のこともいつまでも語り継いで行って生かして貰いたいものである。

LCACって何か知ってますか

 5月13日の新聞に、米軍揚陸艇夜間訓練、地元に不信感という見出しで、佐世保湾で今年の1月以来LCAC(エルキャック)という米軍の揚陸艇が夜間に騒音を出して訓練を続け、地元民が困惑しているが、地位協定のために政府は何ら関与することが出来ないという記事が出ていた。

 もともと、この駐機場は佐世保市内にあったのを、住宅地に近くて騒音が問題となったので、国が対岸の西海市に移転したものだが、移転に際して「夜間や早朝の訓練をしないよう米軍と調整する」という協定を国と市が結んで、移転を進めたものであった。

 それにもかかわらず、米軍が市への事前通告もなく訓練を始めたため、夜間の騒音や漁業者などへの危険性を憂え、市が滋賀防衛局に抗議したが、米軍は協定の制約を受けないとし、訓練を今後も続けるとしているそうである。

 国と市の協定よりも日米地位協定が優先し、米軍基地の管理権は米軍にあるので、日本政府は米軍の運用になんら関与することが出来ず、国と市の協定は「米軍と調整する」としているだけで、国は初めから米軍の訓練を止められないことがわかっていて、国民の目をごまかすために協定を結んだに過ぎなかったことが明らかになった。

 日米安保条約、それにもとずく日米地位協定のために、米軍による被害に対していつも泣き寝入りさせられてきた問題は、沖縄の基地問題だけでなく、日本国中どこでも起こることであり、今後も同様なことがいつまで続くことかもわからない。国は国民の安全と平和な暮らしを守るために、それこそ憲法を変えるよりも前に、地位協定の改定に取り組み、平等な条約に切り替えることこそが切実な問題ではなかろうか。

 それはともかく、LCACとは聞き慣れない名前だが、一体どういうものだろう。オスプレイは随分有名になったが、水上でも何か新兵器でも出来たのかと思って調べてみた。

 LCACというのはLanding Craft Air Cushionの略で、エアクッション型揚陸艇というのだそうである。戦車などの揚陸に使われとかで、自衛隊も6艇ほど所有しているとのことである。どういうものかというと、何のことはない。昔、宇高連絡その他でよく使われていた高速艇、ホーバークラフトの類なのである。

 一時流行ったホーバークラフトは速いが、騒音、振動、悪天候に弱い上、運行コストが高くつき過ぎたためにいつしか姿を消していったが、軍用ではこれらの欠点はあまり考慮しなくてもよいので、上陸作戦などで戦車やトラックなどの重量物の運搬に有用なのだそうである。

 ただ運転は難しいらしく訓練が必要なのだろうが、ホーバークラフトのことを思い出してみると激しい騒音が周囲で問題になるのも容易に想像される。あのやかましい音が静かな湾岸に毎晩のように響いては誰しも文句を言わないではおれないのも当然であろう。

 沖縄の人たちだけでなく、全ての国民が自らの生活を自ら決められる独立国になることを望んでいるであろう。国民に責任を持つ民主的な政府であれば、憲法改正よりも前に、一刻も早く地位協定の改定に取り組み、国民を苦しみから解放するべく努力すべきではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017/04/05 - LCACは全長26・7メートル、最大幅14・3メートルで排水量は85トンと比較的大きく、 おおすみ型に2艇ずつ搭載。おおすみ型は「おおすみ」「しもきた」「くにさき」の3隻が存在するので、海自全体としては計6艇を保有していることになる。
 
LCAC(えるきゃっく)は、エア・クッション型揚陸艇に対する呼称である。"Landing Craft Air Cushion"に由来する艦種記号が、転じてエア・クッション型揚陸艇そのものを指す略称として用いられている。 アメリカ海軍などで用いられている。また、日本の海上 ...