現役30年、老後30年

 地区の医師会から正月互礼会で、30年間継続会員の表彰をするという案内をいただいて驚いた。病院を辞めてから産業医をすることになって、医師会に入れてもらってから早くも30年も経ってしまったことになる。

 入れてもらった頃には、それまでの自分より若い医師たちばかりに囲まれていた職場と違い、大学時代の同期の友人もいて久しぶりで気楽に話せる雰囲気を喜んだものだが、産業医をいつまでも続けるわけにもいかず、年齢も考えると、医師会もせいぜい十数年の付き合いになるのではと予想していた。

 ところがいつのまにか気がついてみたらもう30年にもなったという感じである。現役の病院勤めがおよそ30年だったから、それと同じ期間がもう過ぎてしまったことになる。考えてみたら年が明ければ私も数え歳で90歳になるので当然のこととも言える。

 生まれてから一人前になるまでの30年が始めにあるので、丁度人生90年が三つに分けられることになる。それぞれの期間にそれぞれに色々な記憶や思い出があるが、過ぎ去った歴史は変えようがない。今ではそれを認めて生きるよりない。

 現役の頃にかけていた年金も、もう掛けただけの年数を貰らったことになる。昨年心筋梗塞をしたこともあったが、幸い今も元気で、時々労働者の健康相談の仕事さえできる幸に感謝しなければならない。

 世情は最近ますます嫌な方向に向かって加速度を上げているようで、将来が心配だが、こちらはいつまでも生きられるわけではない。幸か不幸か、娘や孫たちは誰も日本にはいない。今は余生を楽しく生きることにしている。

 

 

北方領土は帰ってくるか?

  FacebookのTBS Newsによると、「【速報】自民党の二階幹事長は日ロ首脳会談の成果について「国民の皆さんの大半はがっかりしている」と述べた。」ということらしいが、今度の日ロ首脳会談は少し良識のでもある人なら、初めから結果はわかっていたのではないだろうか。

 北方領土問題は冷戦時代からの対ソ連の国内向けの宣伝であり、問題にしているのは日本だけで、国際的に日本が主張できる根拠もなく、北方領土が返還されるわけがない。歯舞、色丹は平和条約が結ばれれば帰ってくる可能性もあるだろうが、国後、択捉はもう71年以前からロシア領になっているので、新たに戦争をして勝って奪い返すようなことでも起こらない限り、戻ってくる可能性はゼロであろう。

 固有の領土だからといっても、そんな理屈は国際的に全く通用しない。第一に北方領土は200年前にはアイヌ人の土地で、どこの国の領土でもなく、日本の領土でもなかった。明治の少し前になって、北海道が開拓され始め、アイヌ人を追い出した形で初めて

に北海道に続く島とされ、ロシアとの交渉で日本の領土と認められることになったものである。

 国境は近代国家成立後に全て人為的に決められたものであり、ヨロッパその他の歴史を見れば戦争などの力ずくで決められた国境が話し合いで元の戻った例はまずないのではなかろうか。話し合いで解決できる可能性のあるのはせいぜい細かい境界線の取引だけである。

 戦後のヨーロッパにおける国境線の変更は北方4島のような軽微なものではない。理屈がどうあろうとソ連が占領し、自国に組み入れ、しかも71年も自国の領土になっており、その間にロシア人の生活が根付いている土地はいくら元日本領土であると言ったところで返ってくるわけがないことを理解すべきである。

 竹島尖閣諸島のような小さな無人島でさえ主権の争いが続いていることを見ても、主張がどうであれ現在の実質的な支配者を話し合いで変更することがほぼ不可能に近いことが分かるであろう。

 もともと北方領土については、戦後日本は諦めており、当時の鳩山首相がそれを認めた上でソ連と平和条約を結ぼうとしたところ、日本がアメリカの許可なくソ連と平和条約を結ぶのを嫌ったダレス長官から「北方領土放棄を認めるなら沖縄も返さないぞ」と脅されたことから問題が始まっているのである。

 当時は冷戦時代の真っ最中で、日本は対ソ戦の最前線で、自衛隊も北海道に主として展開しており、机上演習では、ソ連が北海道へ侵入してきた時の作戦で、札幌は守りきれないので一旦放棄して山岳地帯に後退して反撃に出るというような作戦まで立てられたこともあったのである。

 そういう時代背景の元に、アメリカに追随してきた政府がソ連に対峙する政策の一つとして、むしろ対内的に北方4島返還を政策に掲げて今日まで維持してきたものである。国際的にも戦後に定着した領土を今更返還することなど考えられないであろうし、おそらく日本の官僚もそのことは十分理解しているはずである。ただこれまで引っ張ってきた問題をできれば政略的に利用し続けようというだけであろう。

 今度の首脳会談で元住民の島への願望を書いた手紙がプーチン大統領に渡されたといっても、今となっては元島の住民は日本では最早年老いた少数しか残っておらず、戦後に島に移り住み、今では島を故郷とするロシア人の方がはるかに多くなってしまっていることも知るべきである。

 日本はいかに厳しくても、すでに受け入れたポツダム条約に従い、北方領土返還の幻想を諦め、平和条約を結び、経済的な交流を強く深くしていくことが、平和のためにも相互の発展のためにも必要なことではなかろうか。

 

 

不時着?墜落?

 沖縄でオスプレイの事故があった。その報道がNHKは着水と言い、新聞は不時着と墜落に分かれていた。同日に2件もあったらしいが、一方は普天間基地での胴体着陸だったようで新聞では見かけなかった。

 海へ落ちたオスプレイの事故については、アメリカ海兵隊がsoft landinng=不時着と言ったので、それに従った新聞が多かったのであろうが、海兵隊の新聞(MarineTimes)や星条旗新聞、アメリカの新聞などではcrash-land=墜落と書いている。日本の新聞では琉球新聞だけが墜落といっているようである。

 写真を見ると、胴体が完全に二つに割れているのや、バラバラになって海に浮いたり岸辺に流れ着いたりしているのが判る。どう見ても不時着とは言えそうにない。やっぱり墜落なのであろう。

 日本のものであれば判断が分かれることはないであろうが、米軍の事故の場合は、日本人は事故機に触れることもできず、全てアメリカ軍が処理することになっていて、情報は全てアメリカ軍の発表に依存せねばならないようになっている上、さらに国内的な政治的な配慮まであって、独自の判断を下せなかったことなどこのようなバラバラな言い方になったのであろう。

 こういう事故が起きると、実は日本が完全な独立国でなく、安保条約に縛られたアメリカの従属国であることがはっきりする。国内で起こったことであっても、治外法権で日本人は何も手出しができず、全てがアメリカ軍によって処理されることになるのである。

 早速に沖縄県の安慶田(あげだ)光男副知事が14日、在沖米海兵隊トップのニコルソン四軍調整官に対し抗議に行ったが、安慶田副知事によると、ニコルソン氏は「パイロットは住宅、住民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ」と机を叩いて抗議に不満を示したという。若い出先の軍人なので政治的な配慮が欠けていたのであろうが、日本に対するアメリカ軍の基本的な態度が自然に出ているものであろう。

 とりあえずは中央政府もアメリカ軍に申し入れて当分オスプレイの使用を見合わせることになったようであるが、これで基本的な状態が変わるわけではない。

 1972年来沖縄でのアメリカ軍機の墜落事故は四十八件となるそうで、いくら従属国でも、ここらで政府としても国民の安全の願いに応えて、沖縄の基地問題も含め、安保体制の改善を考え交渉してもらいたいものである。

( 大手新聞から琉球新聞へ墜落から不時着へ表現を変えるよう圧力があったという記事もFacebookにあった。)

日本の住居表示

 最近インターネットのブログを見ていたら「日本の住所はわけがわからない!?不規則な番地に困惑する海外出身者」というのがあった。ある在日外国人は「日本に来て最初に気づくことはほとんどの通りに名前がなく、建物番号に秩序がないことだ」と言い、それもめちゃくちゃわかりにくいとしていた。

 外国では「〇〇ストリート〇〇番」といった道路名+建物番号式が多いので、街の中で目的地のたどり着くのが容易だが、日本では大きな通り以外には道路に名前がないので、殊に外国からの旅行者には分かりにくく困ることが多いようである。

 欧米の国ではどの道路にも名前が付けられていて、その何番かで建物が同定される道路名を基本とした仕組みになっているのが普通であるのに対して、日本では地域を細分する区画に地区名が名付けられていて、その中の番号などで建物が同定されるようになっている。この方式では道路に名前がなくても困らないわけである。建物の位置を同定する方式が違うのである。

 実地にその建物に行く人にとっては道路名式が便利なのは当然であるが、道路もない山や野原に家が建ち、それが次第に広がって村落を作ってきたような場合には道のない所に建物があることになるし、城下町や密集した部落などのように、細々と狭い曲がりくねった道や路地などを挟んで家々が立て込んでいるような町や村では道路は細切れなので名前も付けにくいだろうし、地区で捉えた方が分かりやすい。

 そのような村や町の発達の歴史や実情に合わせて、日本では遠距離を貫く街道などには名前が付けられている他は、地域の道路には名前がないのが普通である。細い道路が細々と入り組んだ部落や村落、町などでは道路より家並みや田畑の区画に名前をつけて位置を示すところが多かったので道路に名前をつける意味が少なかったのであろう。 

 その他にもその土地の歴史やその他の事情で、いろいろ必然性があったのであろうが、古い歴史のあるところでは、そこの都合の良いように地番や建物の場所の同定が行われるようになってきたのであろう。

 従って、日本でも大阪などでは太閤さんの時代から碁盤のような町が築かれ、それに従って縦横の通りに名前をつけて道路名式に場所を同定するようになっていたし、京都の上がる、下がる、東入、西入るなども、道路を基本にした同定方法による細やかな案内方法から来ているのである。それぞれ国や地方によって町の成り立ち方が違うので地方により、国により同定方法も違ってきたのはやむをえなかったことであろう。

 しかし交通が発達して人の交流が盛んになり、旅人などが知らぬ土地を訪れることが多くなってくると、そうした人たちの便宜も考えなければいけなくなる。そこで日本でも千九百六十年代から時代に応じて住居表示の改正が行われてきたが、上述のようにいろいろ地域によって異なるそれぞれの歴史にも結びついた住居表示法を全国一律に決めるのは簡単なことではなかったようである。その結果が現在の表示法になっているのであるが、当然問題が多い。

 実際にそこを往来する人から言えば道路名法式が便利に違いないが、道路名方式では目的の道路がどこにあるのかを見つけなければならない。他方、地区画名式では大まかな地域にはたどり着きやすいが、目的地を見つけるためにはその中を歩きまわらねばならないことになる。

 私の経験でも、知らない町で目的の建物を探す時など、GPSを持っていないので、現在地を知るのに今いる通りの名前がわかれば良いのにと思うことがよくあるが、殆どの道路には標識がないし、名前自体が付いていない道路が多い。また、どこかを訪ねた時も住所が分かっていてその町まで行っても、1丁目の隣に6丁目があったり、3番地の隣が5番地で4番地が飛んでいたりしてなかなか目的地にたどり着けないこともある。道路名方式でもドイツでやっと通りの名を見つけ、そこに出たが長い通りで、番地を探せば随分長い距離を歩かねばならないこともあった。

 どちらの方式にしても一長一短はあろうが、行政の関係などで町全体を俯瞰的に見て目的地を探す時などは道路名方式より地区名方式のほうが見やすい。しかし、実際に現地に辿りつきたい時には道路名方式の方が遥かに優れている。行政の見方か住民やそこを利用する旅行者などの見方かということにもなるのであろうか。

 幸か不幸か、住居表示方式を決めるのは住民より行政の方なので、日本では地区名方式が優先されることなったのが現状のようである。おかげで大阪市の中心部などではそれまで町と筋で名付けられた縦横の道路名方式で分かり易かった所まで、地区名方式に変えられて返って分かり難くなった所もあるようである。

 今日のように国内の旅行者や外国からの観光客が増えてきた現状を見れば、特別な場所は除くとしても、出来るだけ全ての道路に名前をつけて道路名と番号でどこでも容易に目的地にたどり着けるようにしてもらいたいものである。日本式の地区名式をとっていた韓国も道路名式に変更したそうである。

 観光日本を売り物にするのであれば、もう一度住居表示方式を見直しても良いのではなかろうか。

 

老いの傷跡

  誰しも歳をとると生きてきた長い年月の間に受けてきた色々な傷跡が体に残っているものである。いわば老人の勲章とも言える。目に見えるものもあるが、見えないものもある。内臓の傷跡も見えないが、もっと大きくても見えない傷跡は心の傷跡であろう。

 あの狂った大日本帝国や戦争から受けた傷跡もあるし、その後の社会で受けてきた大きなストレスなどは未だに心の奥底に癒えきらないままにひっそりと眠っている。しかし、これらについてはまた別のところで触れることにして、ここでは今も目に見える体の傷跡について話すことにしよう。

 幸いにも、私はこれまで大きな怪我や病気にかからずに済んできたので大きな傷跡はないが、かと言って何もないわけではない。小学校3年生の冬の工程で走っている時に右手の指が左手の中指に当たって、霜焼けが破れて出血した時の傷跡が今なお微かに残っているし、鼠径ヘルニアの手術を受けた傷跡もあるが、それらは今では自分で探さないとわからないぐらいで、普通は全く忘れているぐらいでここでは無視することにする。

 目に見える傷跡と言っても、誰にでも外から見えるものと、自分では見えても他人からは見えない感覚器の傷跡もある。私の場合、前者は帯状疱疹を二回もしているので、その傷跡が左脚にあり、後者に関しては現役時代に起こした眼底に黄斑浮腫の痕が今も続いており、他人にはわからないが自分では直接ものを見る時の障害として立ちはだかっている。

 帯状疱疹についてはまだ中学二年生の時に罹患し、左の大腿部の付け根から少し先にかけて無数の水泡が生じ、帯状疱疹に伴う神経痛のような痛みで苦しめられたが、当時はまだ一般に医学知識の普及しておらず、戦時中だったこともあり「水ぶくれぐらいで痛がるとは何事か」などと教練の教師に叱られて困った思い出がある。

 帯状疱疹は真皮まで犯されるので、治癒後も未だに水泡の後の痂皮組織の跡が残り、その部分は触っても感覚が鈍くなっている。その上、帯状疱疹のビールスは腰椎神経の神経根に残っているものなので、還暦を過ぎてからまた活動し、同じ左脚の同じ部分にまた発疹と痛みを起こしてきた。

 しかし、その時は病気の知識もあり、幸いなことに抗ビールス薬も出来ていたので、ごく早期に発見し、すぐ薬を使ったおかげで軽く済ませてしまうことができた。ただその後、いつしか左脚の後面にぽつぽつと幾つか白斑が生じ、未だに消えずに続いている。白斑の分布範囲が帯状疱疹の支配神経領域と一致しているのでおそらく帯状疱疹が関係した病変だと思われる。でも、脚の裏面ばかりで自分では見えにくいし、いつも外に曝すところではないのでほとんど気にはしていない。

 ただ、今なおビールスは腰椎の神経根に潜んでいるはずなので、体が弱った時に、いつまた悪さをしないとも限らないが、もうしばらく私が生きている間、出来るだけそっと大人しく眠っていてくれることを願うばかりである。

 それよりも困るのは眼の方である。こちらは同じ傷跡でも、それ自体が視力を妨げるからである。こちらも歴史は古く、起こったのはまだ五十代の頃である。物を見る時に光が集まる網膜の中心にある黄斑に浮腫が起こったのである。

 その部分の視細胞が浮腫のために拡散していわばバラバラになるのでそこに当たる光の量が変わらないと反応する細胞の数が少ないので、認識する脳の方からいえば、ものが小さく暗く見えることになる。したがって見ている視野の真ん中あたりが縮んで小さく、少し暗く見えることになる。細かい格子縞を見ると真ん中の部分だけ格子が歪んで小さくなっているように見える。平行線も真ん中だけが窪んで直線が歪み、線と線の間が狭くなる訳である。

 初めてそれに気づいた時に思ったのは、もし生まれつき両眼ともこうだったら、平行線とはこういうものだと認識したのではなかろうかということだった。確かに平行線は交わらないが、途中でひん曲がっていることになる。客体と目で見た映像を一致させればそうならざるを得ないのではなかろうか。

 初めて発見した時には目のことだけに心配したが、当時の眼科の医師から、これはストレスによることが多いものだが、まず片目だけで両眼に来ることは稀だと聞いて一安心したのであった。黄斑に浮腫があると、向こうから歩いてくる人を見る時、たいていは人の顔に注目するので顔が小さく見えることになる。したがって六頭身の人も八頭身ぐらいになる。それならせいぜいすれ違う女性は悪い左目で見て、顔がぼんやりした八頭身の女性を楽しむことにしようと開き直ったりしたものであった。

 以来、もう三十年はとうに過ぎているが、その間に浮腫は繊維化して瘢痕状になってしまったのであろう、今では左眼の視野には中心暗点があって、見たいものの真ん中が見えない。それでも、もはや八頭身女性は楽しめないが、右目が老眼はあっても健全なので何でも見えるし、本も読めるし、遠近感も何とか保たれているようなので、日常生活上困ることはない。

 九十歳近くともなれば、これ以外にも心筋梗塞でステントが入っていたり、尿の出が悪かったり、肛門の締まりが緩くなったり、便通が良かったり悪かったりするような細かい欠点をあげれば切りがないが、血液の検査をしても、血圧も体重も脂質も糖尿も何にも大きな異常はないようであり、体を動かすのにも不自由はない。好きなことはまず何でもできるので、健康だと思っている。

 元気な老人の傷跡はやはり勲章のようなもので、それより余生を楽しむことだと思っている。

最も近い他人

 都市が発展するとともに人が都会に集まるので、知らない人たちがお互いに近くに住み、近くで行動し、お互いに交流することになる。これまで全く知らなかった人たちもお互いに交流し合って仲間になったりする。

 しかし皆が仲間になれるわけではなく、人が集まれば集まるほど知らない赤の他人達に囲まれて、その中でごくわずかな人たちとだけ交流しているのが普通である。したがって人と人の距離は近くなるが、仲間ではない知らない人たちに囲まれて生活することになる。

 そう言った場合、人は人と付き合う時には自然と一定の距離を置いて付き合うことになるものである。その距離は民族や文化などによって違うようで、どこかで列を作って何かを待つような時の前後の人との間の距離は国によってその距離の取り方が異なるようである。

 ところが都会の日常ではそんなことを言ってられないことも起こる。その典型的な姿がラッシュアワーの通勤電車の中の光景であろう。最近はあまり通勤時間帯に電車に乗ることが少なくなったので少し実情に疎くなったが、高度成長時代のようなことはないにしろ、今でも東京などでは場所と時刻によっては乗車率が230〜240%などという電車もあるようである。

 こう混雑どころかすし詰めにされては、もう新聞は言うに及ばず、本どころかスマホさえ見ることも出来ず、知らない他人同士が体を密着させて走る電車の振動に任せて、押し合いへし合いじっと耐えて運命をともにするよりない。先日このラッシュアワーを経験したアフリカからの留学生が、それでも乗客が黙って我慢している姿にびっくりして、「アフリカだったら皆一斉に歌でも歌いだすよ」と言っていた。

 そんな時に乗客達はどんな顔をしているのかというと、大抵は眼をつむってじっと我慢しているようである。近くの人と目があったりするのを避け、トラブルに巻き込まれないよう黙って列車の振動による人の動きにも逆らわないようにするのがコツのようである。

 普通の場合にはいくら他人に近づくと言っても、恋人同士ででもない限り、こんなラッシュアワーの電車の中のように体をくっつけることはありえない。しかし、こんなに無理やり異常な事態に放り込まれても、それが毎日のことで避けられないとなると、じっと我慢するより仕方がない。皆が諦めて成り行きに任せて我慢しているのがこのラッシュアワーの光景なのだろう。

 駐車場の見つからない都心では庶民は電車で通勤するよりない。毎日毎日通勤でこんなに人権を犯されるのを我慢して通勤し、その上長時間勤務を強いられ、それでも反乱も起こさず黙々と運命に従っている姿。それが当たり前になってしまっているサラリーマンこそ考えてみれば、それこそ奴隷か荷物並みに扱われても、非難の声さえ上げられない異常で哀れな存在と言えるのではなかろうか。

科学者の戦争責任

ヒトラーと物理学者たち 科学が国家に仕えるとき」という本の書評が新聞に出ていた。フィリップ・ボール著の翻訳で、中身は戦時中のドイツの物理学者マックス・プランクやハイゼンベルクなどがナチ政権の民族差別的科学技術政策を後押しすることになった経過などについてのもののようである。

 詳しい内容は読んでいないのでわからないが、この国の世情が次第に戦前の不穏な雰囲気が醸し出されている時に、時宜を得た出版のように思う。戦争中の科学者への戦争協力については戦後世界的に広く反省がなされ、科学が再び戦争に利用されることのないように、科学者たちの種々の宣言もなされたことはまだ記憶に新しい。

 しかし時代が移り、戦争がなくならないばかりか、世界のどこかでは常に戦争が行われ、安全保障などとして世界中で軍備が増強され、国の軍事費は増加するばかりで、従来の原則を破って、日本からの兵器の輸出までが認められるようになっている。

 最近では兵器の大型化が進みその開発も大きな産業分野ともなり、産軍共同体などと言われることもあるぐらい政治的にも大きな問題となっている。当然これには基礎科学から兵器開発の技術的な問題まで科学的な基礎が不可欠であり、再び科学者の戦争協力の問題が クローズアップされてくるわけである。

 日本でも最近、戦後に行われた戦争に協力しない科学者たちの宣言をも踏まえて、実際防衛省なども絡むような科学研究にどこまで協力するべきかが問題になってきている。研究費で吊られれば弱い立場の研究者たちが政府の予算による圧力にどれだけ耐えて自分の良心を守れるであろうか?軍事研究と平時研究との境目は曖昧である。研究内容や資金源によって一線が引けるものでないだけに、この問題は容易ではない。

 曖昧な領域は自分に対する言い訳もしやすので、つい研究費に目が眩んで、それに馴染み、知らず知らずに深みにはまり、このぐらいならと自分で許容範囲を広げながら、気がつけばどっぷり軍事研究にはまり、ついには開き直ることさえ起こりうるであろう。

 この本の評者でさえ、「同じ立場に置かれたとき、彼らとは違って権力に真っ向から反対できる人が何人いるだろうか。僕は全然自信がない」と述べているが、これが科学者たちの平均的な姿ではなかろうか。

 結果としては今後も戦後の反省による宣言などはやがて半ば無視されて、政府主導によって軍事研究などに多くの科学者が動員されていくのはある程度やむを得ないこととになるのではなかろうか。

 しかし、戦争中に見られた人道に反する科学研究、例えば極端な方からいえば人権を犯した人体実験のようなものから、大量殺人兵器、生物化学兵器核兵器などの開発や改良に関する研究など非人道的な科学や技術はなんとか極力避けてもらいたいものである。

 それにはそれぞれの研究者たちの人間としての世界観、政治観や国家観、社会観、人間観などといったものに依存するよりない。科学や技術を扱う人間の、人間としての義務や良心が厳しく求められるわけである。