日本は立憲主義国家なのか

 かって国会の答弁で安倍首相は「私は立法府の長だ」と言って後で取消したことがあった。首相がまさか三権分立立憲主義を知らないわけはないだろうが、最近の政府の国会での行動を見ていると、ひょっとしたら三権分立という憲法の原則を知らないのではないかと思わせるぐらい、行政府が立法府を軽んじて、多数に乗じて自分の好きなように国会を運営しているとしか思えない。

 今国会だけでも、TPP法案、年金カット法案、カジノ解禁法案などを無理やり強行採決で相次いで成立させてしまっている。長い間の自民党政権の下でももこのようなことはかってなかったことである。

 TPPは審議の途中でアメリカの次期大統領が破棄することを明言しているにもかかわらず、アメリカを説得すると称して強引に通してしまい、カジノ解禁法案などは会期延長の機会を利用して突然上程し、わずか5時間半の審議で無理やり成立させてしまっている。

 強行採決でなく野党が採決を邪魔しているだけだなどと開き直っているが、国会は立法府であり、行政府ではない。意見の異なる党派を交えて慎重に審議した上で決定するのが立法府としての仕事であるはずなのに、質問に対しても真面目に明確な答えも出さないままに数を頼りに強引に採決しているのが実情である。

 これで三権分立と言えるのであろうか。行政府が立法府を無視して自分たちの思い通りに政治を進める今のやり方であれば、これは形だけの立憲政治の影に隠れた、もう立派な独裁政治と言えるのではなかろうか。

 安保法案が憲法解釈を曲げた明らかの違憲の法案であった上に、その後も憲法を無視した政治がどんどん進められていることに怒りと恐怖を感じるのは私だけではあるまい。

悪意が微塵もない差別発言

 Facebookだったかにある大学の女性教授が書いているブログに興味を惹かれた。「悪意が微塵もない差別発言」というタイトルで以下のような文章であった。

 『ゼミを終え、学生と帰宅途中、一人の学生が「先生、今日の晩御飯、献立決めています?」と尋ね、「先生、俺にも晩御飯作って下さいよ」と他の学生が言ってきた。

ゼミが始まる前、学生たちが就職について話をしていた。「専業主夫だけは避けたいよな」「そんなことしたら親泣くよな」と冗談交じりに笑っていた。

学生が「親に先生の写真見せたら『大学の先生というより小学校低学年の先生って感じね』だって」と無邪気に言い、「先生、若く見えるってことですよ。よかったですね」と他の学生が言っていた。

ここまで読み、多くの方は私が女性教員であることに気付いたのではなかろうか。ところで、皆さんは、これらの発言が差別的であることをご存じだろうか』と。

 先生が男であったら晩御飯作ってくださいなど言わないだろうし、可愛い、若いなどといった感想も話題にならないであろう。専業主婦は親が泣くほど恥ずかしいことだろうか。これらは決して悪意はないが、客観的に見れば明らかに女性差別の言葉である。今の学生たちはこのような時代を生きているようである。

 偏見や差別は歴史や文化に結びついて存在するものだから、社会が変化する中で積極的に変えていかなければ、時代に適合して素直に変わっていくものではない。いつも時代の変化に遅れて変わっていくものである。

 意識した悪意のある偏見や差別は政治的なもので、時代の変化に取り残された偏見や差別を利用して自己の反動的な運動に利用しようとするものであるが、それらに利用されないためにも、時代の変化に合わせて、意識して自分たちの見方や態度を変えていく必要があるのではなかろうか。

  昔はメクラ、ツンボ、チンバ、クロンボなどという言葉が普通に使われていた。昔覚えたデカンショ節にも「塀の向こうをチンバが通る頭見えたり隠れたり」というのがあったし、「チビ黒サンポ」という絵本なども子供に人気があり、よく売れていた。

 これらは殆ど悪意もなくその時代には普通に使われていた。しかし戦前の日本でチョウセンとかシナ人、土人などと言うことになると普通に広く使われていたが、明らかに蔑視の意味が含まれていた。

 しかし、時代が変わり現在では、平等な人権が尊重されるようになり、差別用語などの言葉は意識的に随分注意して使われなくなってきたが、まだまだ時代遅れの観念は残っているので、悪意のある差別語を別にしても、つい自然に発した言葉が差別や偏見を浮かび上がらせることがあるものである。

 社会に対する観念はいつも過去の長い歴史や習慣の尾を引いているので、そこが変わらなければ、つい何げなしに言った言葉の中に、その人が支配されている過去を引きずった観念と言葉の乖離が暴露されることになるのであろう。

 表面的な言葉は意識すれば変えやすいが、その元にある生活に根付いた旧弊や古い観念は徐々にしか変わらないものである。言葉は受ける相手があることだから注意すべきであるが、本当に変えていかねばならないのはその元にある深く根を下ろした社会や観念であることを意識すべきであろう。

 そういう意味で見かけたブログに興味を惹かれた。

 

 

 

矛盾したNHKのニュース

 昨日たまたま NHKのニュースを聞いたら敦賀日本原子力発電原発での冷却水漏洩の事故を報告していた。

 一次冷却水貯蔵タンク室で、作業員がタンクの配管弁を分解点検するために弁のボルトを緩めるた時に、高さ1メートル付近の弁と配管の接合部から水が噴出し、現場にいた15人のうち、弁から半径2メートル以内にいた18~60歳の10人が水を浴びた。うち2人は顔に直接水がかかり、残りの8人は作業着にかかったという。漏れた水は配管に残っていた推定約160リットルであったが、幸い水に含まれた放射能量は国への事故報告基準よりも下回っていたという。

 なお水を浴びた作業員についても、放射線測定器などで検査した結果、身体の汚染や身体内部への放射性物質の吸入はなかったし、水は常温でやけどはなく、けがもなかったということで、大きな事故にならず済んだようである。

 そこまでは事実であれば良かったあったわけだが、ニュースではそれに続いて「また、作業員の被ばくはなく、周辺の環境への影響もないということです」と言って締めくくった言葉が耳に障った。放射性物質を含んだ水を作業員が被ったことを報告しながら被曝がなかったというのは明らかに矛盾ではないか。

 原発の事故であり誰もが直感的に被曝の問題を思い浮かべるであろうから、問題となるような被曝は起こらなかったことを言いたかったのであろうが、明らかな被曝の事実を報告しながら、それを打ち消す「被曝がなかった」というのは幾ら何でも矛盾していることに気がつかなかったのであろうか。あるいはNHKのことだから問題をできるだけ小さく見せ、切り捨てるために、故意に矛盾に気づきながら被曝はなかったと断言したのであろうか?

 

 

 

 

 

政府が原発再稼働を止められないわけ

 日本経済新聞社と米戦略国際問題研究所(CSIS)の共催で8月26日に都内で開いたシンポジウムで、リチャード・アーミテージ元米国務副長官とハーバード大のジョセフ・ナイ教授は野田佳彦政権が打ち出した2030年代に原発稼働ゼロを目指す方針について「受け入れがたい」と強調したそうである。

  ともに揃って「日本の原発ゼロ方針は受け入れがたい」と明言。地震対策を踏まえた原発立地など安全対策を強化するのが重要との認識を示すとともに、原発増強に動く中国が日本の原子力技術を必要としていることもあり、対中の外交カードを維持する観点からも原発ゼロに反対する姿勢を明確にした。

  外国の識者が日本のことになぜこうまで高圧的なことが言えるのかと思われる方もおられるかもしれないが、この両氏は以前からジャパン・ハンドラーとも言われた、アメリカの属国日本支配の旗手であった人物なのである。今は公式には任務を外れているようだが、これらの発言から見ればなお対日政策とは密接な関係があるのであろう。原子力政策には初めから日米原子力協定が結ばれており、その枠組みの中で日本の原子力政策が運営されてきているのである。

 中曽根首相の時代に日本が自分で核兵器を作る能力を持っておきたいという願いもあって、核保有国以外で唯一再処理工場を認めてもらったという歴史が絡んでおり、日本の原発政策は全てアメリカの同意を得て進められてきたもので、日本単独で方針を変えることができないようである。

 そのような背景があるので、福島原発事故での恐ろしい被害に遭遇して、あれだけ多くの人々の原発廃止の強い希望があったにもかかわらず、政府は国民への説明もないままに強引に次々と原発の再稼動を進めているのである。

子供の疑問

 朝日新聞に子供の疑問として「歴史では偉い人の話ばかり出てきて普通の人のことが出て来ないがどうしてなのか。普通の人がどうしていたか知りたいのに」というのが取り上げられていた。それに対して「昔に文字になって、今も残っているものは偉い人のものばかりなのでそうなるのだ」と答えられており、「それでも普通の人たちのことも万葉集などには載っており、当時の普通の人の生活も一部わかっていることもある」というような返事が加えられていた。

 小学4年生の子の質問だったが、このぐらいの歳頃になると、学校で教えてもらったことにもそこそこ疑問を持つようになり始めるものである。

 私の子供の時の思い出では、地球儀にはどれにも小いさい日本のところだけが赤く塗ってあるのが印象的だったが、先生に「君たちはこんなに大きな地球の中のこんな小さな日本によくも生まれたものだ。こんな立派な国に生まれたことを感謝しなければならない」と教えられた。「どうしてこんな小いさな国がそれほど良い所なのだろう、他にもっと大きな国も沢山あり、どこが良いかわからないが、他にももっと良い国があるかも知れないのに」という疑問が膨らんだが、先生が「日本ほどこんな良い国は他にはないんだよ」と言われ、なぜこの国に生まれたのが良かったのかという疑問はそのまま分からないままになってしまったことを覚えている。

 また、もう少し後の、小学5年か6年の頃のことだったのであろうが、天皇の系譜を歴代の天皇の名前を暗記させられたりして子供なりに歴史にも興味を持った。その頃はちょうど神武天皇即位以来の皇紀2600年ということになっていたが、歴史で習った年代から計算すると、どうしても神武天皇が百何十年も生きていないと計算が合わなくなることを発見し、なぜなのか不思議に思って先生に尋ねたことがあった。

 国粋主義が世の中を風靡し、万世一系の天皇が称えられ、忠君愛国が国是であった世の中だったので、聞かれた先生ももどう答えたら良いのか困られたのであろう。今でも覚えている帰ってきた答えは、神武天皇といっても一人ではなく、その昔は何代もの天皇神武天皇といっていたのだということだった。おかしいなあと思いながらも納得せざるを得なかったものだった。

 こんなことも思い出した。いつ頃だったか忘れたが、勧められて野口英世の伝記を読んだことがあった。子どもの頃、囲炉裏に手を突っ込んで火傷をして以来片方の手が不自由になったが、そのハンディにも負けず我慢して一生懸命に勉強し、大人になって立派な学者になったことが書かれていたが、いいことばかりで周りにいる普通の人たちとは全く違っていて、別世界の話のように感じたのであろう。

 こんな偉い人は人と喧嘩をしたり、怒ったり、泣いたり、悪いことなどをしたりしたことはないのだろうか。こんな人も普通の人と同じように小便や大便をしたりもするのだろうか。あまりにも普通の人とはかけ離れた話ばかりだが、ファンタジーのある別世界でもなく、何か嘘の混じった話のようで、信じることができなかったことが忘れられない。そんな経験があったからか、以来伝記ものが嫌いになって、大人になっても伝記ものはなるべく避けていたものであった。

 大人は子供はまだ未熟なので、子供の質問には適当にその場を取り繕っておけば良いのではぐらいに安易に考えがちであるが、子供の頭脳は新鮮であるだけに、子どもの時に受けた刺激は強烈で、ものによっては後のちまで影響を残すものであるように思われる。

安倍・トランプ会談

 Facebookを見ていたらこんな記事が載っていた。

「あのね。あなたの会社にもいるでしょう? 会社の役員や上司が替わったら、人を出し抜いてでも一番最初に挨拶に馳せ参じる奴。トランプ・安倍会談を刻々と速報ベースで放送しているNHKをみていて、吐き気を催したー。発言するジャーナリスト、TBSの金平茂紀がつぶやいた」と。

 言うまでもなく、安倍首相が、次期大統領がトランプと決まった途端、大慌てで、まだ大統領に就任もしていないトランプ氏に会いに行った事に対する批評である。同じ感じでこの会談を見ていた人も多かったのではなかろうか。

 安倍首相はヒラリーが勝つとばかり思っていたものだから、選挙戦中にわざわざアメリカに出向いてヒラリーに会い、おそらくTPPの暗黙の了解でももらったのであろうか。アメリカの大統領選挙に間に合うように TPPを強引に議会で承認してクリントン大統領に媚びようとしていたのだろうが、それまで無視していた思いも寄らないトランプ大統領の出現に仰天したのであろう。現職のオバマ大統領を無視してまで、まだ就任してもいないトランプ氏に顔をつなぎに行ったのは外交的にもまずかったのではないだろうか。

 私的な会談なので内容は発表しないと言うが、おそらくその顔合わせも思惑通りにはいかなかったのではなかろうか。これは外交的にも失敗だったような気がする。一国の首相としてはたとへ属国であろうと、公の立場としては軽率だったと言われるであろう。トランプ氏に会うなら、南米で現職のオバマ大統領に会ってからの帰りにするべきであったであろう。

 アベノミクスが完全に失敗し、TPPも消失したとなれば、次はどうすべきか、ここらで慌てず、じっくりと真剣に次の行くべき方向を根本的に考えなければならないのではなかろうか。このままでは、ますますアメリカに振り回されて将来が見通せなくなるようである。

安倍首相の子供達へのメッセージ

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 このようなメッセージを安倍首相の名前で内閣府が発表したそうである。せっかく政府が子供達に呼びかけるのであれば、政府がこんな風にして子供達を援助するから安心して未来のために希望を持って頑張リましょうというような言葉が良いのではなかろうか。この手紙には政府の施策については何も書かれていない。自分たちで周りの人たちに助けてもらって、自主的に頑張ってください。政府はそれを何もしないが、見守っていますと、あくまで子供の自立を促しているものである。

 それも政府がやらないから民間の人たちが困った子供を助けるために、子供食堂を開いたり、勉強の手助けをしているのに、政府の責任をそれらの人たちに押し付けているだけで、貧しい子供達を助ける手も打たずに、善意の人たちの努力をまるで自分たちの施策であるかのように利用して、無為無策のまま子供にまで自己責任を押し付けているのを見て、多くの人たちが怒りをぶつけているのは当然であろう。

 現在言われている貧困家庭の子供の問題はかなり心配である。日本ほど教育に金のかかる国は先進国ではないそうである。義務教育の小中学校でも、給食費や制服その他学校関係の経費が払えない家庭も多く、高等教育となると公的な援助は皆無に近く、授業料は高く返済不要の奨学金もない。先進国でも教育関係の出費が最も大きいと言われる。

 昔は貧しいよくできる子供の進む道として軍関係と教師の道があったが、今はそれもない。しかも認知資本主義の時代と言われる如く、今後の社会では教育のあるなしによって将来が決められる時代である。会社が学生を育てる時代も終わった。

 そうした中でただ手を拱いて未来を決めるのはあなた自身です。思い切りチャレンジして下さいといっても、チャレンジする機会を奪われてしまっているのである。ただ精神力に訴えるのは昔どこの学校にもあった二宮金次郎銅像と同じであろう。

 軍事費や大企業への減税などを削っても貧困家庭を救い、子供の教育にもっとお金をかけるべきではなかろうか。