私の暖房の歴史

 ようやく今年の冬も終わり、もう桜も満開である。ようやく抜け出せたが、歳をとるほどに冬が寒く感じられ、春が待ち遠しくなるものである。それでも今は昔と違って寒いと言っても知れている。今の家は気密性が高いし、エアコンや床暖房などで室温もかなり温められる。

 昔はそうはいかなかった。日本の家屋は夏用に建てられているようなもので隙間だらけだし、セントラルヒーティングといった考え方がなかった。暖房は火鉢などの局所的なものだけであった。冬は布団に潜っていても肩から冷気が染み込んできて布団に潜ったりしたものであった。今でも平安絵巻など見るたびに昔は寒かっただろうなと他人事ながら心配したくなる。

 さすがに北海道だと局所暖房だけでは間に合わないので、家庭でも石炭ストーブが使われ、北海道の勤務者にだけには給料にも暖房代が上乗せされることが多かった。したがって気温の低い北海道から東京や大阪へ来た人は北海道よりこちらの方がかえって寒いと言ったものであった。

 そんな時代の暖房手段は主としてこたつと火鉢だけで、あとは厚着をすることと、外では焚き火にあったたり、酒を飲んだり、風呂で温まることぐらいであったろうか。そんな生活の結果が今でも風呂は温まるものだという習慣から抜けきれず、長風呂で風呂で死ぬ老人が多いことに繋がっているのかも知れない。

 戦前の都会では普通の家の暖房の中心は火鉢とこたつであった。昔は灰を入れた素焼きの箱に炭火を入れ、灰を被せて火が長く保つようにして、それを木のケージに入れ、上から布団をかぶせた「櫓こたつ」が普通であった。電気器具が普及するようになって電気ヒーターに取って代わられたが、いずれにしろこたつに潜り込むのが全身が温められるので一番気持ちの良い暖房方法であった。

 ただ背中は外に出ているので、厚着をするか、厚手のマントでも羽織って暖かくせねばならないことと、一旦入ると動きにくく、外は寒いので、コタツから離れるのに勇気が要ることなどが問題であった。しかしこたつに体ごと潜り込むと暖かくそのまま寝てしまうと快適だったりもした。厚着をして動きも鈍くなるので、若くても冬になると肩が凝りやすくなったものだった。

 しかし何と言っても部屋全体を暖めるわけではないので、こたつから出ると寒いので、用があってもつい出たがらなくなり、あまり生産的と言えないのが欠点であった。エアコンなどのない時代には、夜は湯たんぽやコタツを入れた布団に潜って寝ていたので、朝起きるのが大変であった。朝方は一番冷えるものである。もう時間なので起きねばと思っても、外が寒いので少しでも長く寝ていたい。それでも仕事や学校があるので起きねばならない。思い切って起きるのが問題であった。

 若かったので私は夜中に排尿に起きることがなくてよかったが、年寄り、それも東北地方などの人は、寒い夜中に起きて、当時は便所は大抵外にあったので、零下にもなる所へ出ていかねばならなかったから大変だっと思う。栄養も悪い当時の東北で脳出血の多かったのもそんなことも関係していたようである。

 朝起きても水道管から湯が出るようになったのはまだ半世紀ぐらい前からのことだから、それまでは湯を沸かして洗面器に入れた水に湯を差して温め、それを大事に使うよりなかった。子供の頃アメリカ帰りの伯父の家でガス湯沸かし器を見て目を見張って眺めた記憶がある。

 瞬間湯沸かし器といえば、1970年の大阪万博の時、外国からの客を泊めて良い条件として湯が使える蛇口があるかどうかというのがあったので、その頃から日本でも湯沸かし器が普及しだしたようである。

 エアコンが普及するまでの暖房はコタツを除いては火鉢が主で、電気やガスのストーブが後から徐々に普及してきた。石油ストーブの普及は日本では遅れ、初めの頃はイギリス製のものが重宝がられたことがあった。薪ストーブは昔からあったが、都会では普通の家の構造に向かないので事業所向きであった。練炭火鉢などというものもあったが、それで一酸化炭素中毒を起こして死亡する事件などもあった。

 私が学生の頃に使っていたものは、もっぱら小ぶりの瀬戸物の火鉢で、勉強する時など厚着をして火鉢を抱え組むようにして座り込んで火鉢に手をかざしながら本を読んだりしたものであったが、本読みながらついウトウトすると、手が炭火のところに落ち、「あちち」となって目を覚ますようなことがよくあった。今では懐かしい青春の思い出である。

 今の若い人たちはもう知らないであろうが「股火鉢」という言葉もあった。ただ火鉢の横に座って手をかざすぐらいでは上半身は多少温まっても下半身は寒い。火鉢で全身を温めようと思えば、火鉢の上に跨って下から炭火の暖かさが伝わってくるようにするのである。行儀は良くないが一番効率よく温まるにはこれが一番であった。

 また両親の家の居間には真ん中に掘りごたつが切ってあり、皆がそこへ足を突っ込むとともに、部屋の片隅にはガスストーブがあり、うっかり近づくと危ないのでその周囲は立方形の金網で区切られており、その金網に母がよく濡れた布巾などをぶら下げて乾かしていたものであった。

  そんな炭火暖房の事情が変わり始めたのは1960年代の高度成長時代からである。今の若い人たちにとってはもうエアコンなどはあるのが当たり前で、火鉢を抱え込んで暖をとることなど考えられないであろうが、今でも我が家の軒先には昔使っていた大きな瀬戸物の火鉢が捨てられずに置いてある。

 火鉢が使われなくなって、もう今ではそれに不可欠であった火箸とか五徳などは死語になってしまったし、股火鉢などどういうことか説明がないと理解できないかも知れない。今ではユニクロヒートテックなどの薄くて保温性の高い下着も普及していて、冬の厚着のために肩がこるようなこともないであろう。

 半世紀も経てば世の中は考えられないぐらい変わってしまうものである。格差拡大や貧困が社会的な問題となっているが、生活環境は昔と比べれば遥かに良くなっている。若い世代の人たちは私から見れば幸福である。ずっと快適な環境の中で暮らしていると言える。もちろん今もいろいろな問題で頭を抱えておられるであろうが、将来は決して暗くはない。未来に期待して生きていって欲しいものである。

 今後世の中がどう変わっていくかはにわかには予測できないが、ただ心配なのは最近の戦前復帰を望む勢力の台頭である。他国に従属したままでの戦前復帰がいかに危険なものか、再び戦争に巻き込まれでもしたら、折角築かれてきた環境もたちまち灰燼に帰してしまうであろうが、それさえなければ今より良くなっても悪くなることはないのではなかろうか。

 なんとか人々が英知によって最悪の事態を避けて、現在のような緩やかな環境の中で暮らし続けていけるように願うばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貧しかったこの国では

炭火を入れた櫓こたつ 湯たんぽ 電気こたつ 電気毛布

股火鉢 五徳  薬罐、鉄瓶 火箸 灰押さえ 餅網 おかき 煙管タバコ

田舎では囲炉裏 

湯沸かし 熱田の家

電熱器 電気すと−ぶ

万博時代

ガス暖房 ガス中毒 ガスサーキュレーター

 石油ストー

電気サーキュレーター 床暖房

 

 

総入れ歯

 歯科の領域では「八十、二十」という標語があり、八十歳になっても二十本の歯が残っているように若い時から歯の手入れを怠らないようにということらしく、地域の健康祭などでも該当者の表彰式が行われてたりしている。

 しかし、私の場合は五十代で前歯が欠けて入れ歯を入れなくてはならなくなり、「八十、二十」どころか。七十過ぎからすでに自分の歯は下顎に左右一本ずつが残るだけとなり、自嘲気味に「八十、二」と言ったりしていたものであった。

 上顎は総入れ歯であっても、入れ歯は吸引力で吸い付いているので問題は少ないが、下顎の入れ歯は言わば歯齦にただ乗っかっているだけのようなものなので、残った二本の歯が入れ歯を支えているのだから大事にして置かなければならないものである。歯が二本だけとなると手入れがしやすいこともあり、以来できるだけ大事に取り扱ってきたつもりである。

 そのせいか、十年以上も二本の歯の時代が続いた。しかしやはり次第に歯齦が萎縮し、歯の背丈がだんだんと高くなり、徐々にぐらつき加減にもなって来る。いつまで持つか、時間の問題となる。二本の歯にかかる入れ歯の負担も無視できず、二年前にとうとう左の一本が抜けてしまい、右の一本だけになってしまった。

 歯医者に行こうとしたら以前に入れ歯を作ってもらった医者はもう亡くなって診療所も閉鎖されてしまっていた。仕方がないので近くの古くて良さそうな歯科医院を見つけて入れ歯の抜けた歯の所を補ったもらったが、同時にいっそのこと残る一本も抜いてもらって下顎も総入れ歯にしてはとも思ったが、一本でも入れ歯の支えになっているので大事にしておいた方が良いとの忠告も真っ当なので、最後の一本を大事にすることにした。

 自分の歯が一本だけになってしまうと、入れ歯を外して口を開けると土手のような歯齦に白い背の高い歯が一本だけ残っており、まるで寂しい野辺の土手に一人ぽつねんと立ったお地蔵さんのような感じとなった。いつまで持つかわからないが最後の一本だから大事にしてやろうと思ったものの、一本だけになってしまうと下顎の入れ歯の負担が全て一本の歯にかかってしまうので、もういつまでも持ち堪えられるものではない。大切にしていたが、おおよそ二年経ったこの正月についに最後の一本がなくなってしまった。朝起きたら歯がない。てっきり寝ている間に飲み込んでしまったのではないかと思ったが、ベッドサイドに落ちていた。こうして全くの無歯となった。

 いよいよ総入れ歯ということになる。これまで入れ歯になってからは返って歯のトラブルがなく、食物の咀嚼にも問題がなく肉でも普通に食べれたので、入れ歯で何の問題もなく、歯医者にも長らくかかったことがないと自慢していたものだったが、下顎まで何もなくなると今後は下顎の入れ歯が浮いて何か接着剤でも使わないと食事がうまく食べられないのではと不安になった。

 事実、抜けた最後の歯の部位がカラになったままの入れ歯ではそのまま食事をしようとすると咀嚼とともに歯が浮いてしまって食べられない。しかし、食事を口にする時少し上の方を見て食事を口に入れ、そのまま下顎の入れ歯をできるだけ動かさなくても良いようにして、注意深くゆっくり咀嚼するとなんとかいけるが、それでも途中で入れ歯が外れて食物に混ざり、噛めなくなってしまうことにもなる。仕方がないのでポリグリップなどという歯の接着剤を買ってきて、それを入れ歯に塗って食事をせねばならなくなった。

 それでも四、五日は何とかやっていたが、そのうちに外れやすい入れ歯に不要な力が加わったのであろう。下顎の入れ歯が真ん中で折れてしまった。こうなるともうどうにもならない。いよいよ下顎も入れ歯を作り直して、総入れ歯にするより仕方がない。

 以前の話では総入れ歯は健康保険では良い物は出来ず、自費では五,六十万かかるとかいう話だったが、もういつ死んでもおかしくないこの歳であれば、死んだ後に真新しい入れ歯だけが残るのは笑い話にもならない。どうしたものかと考えた。下の入れ歯の吸着には色々問題もあるようで、インターネットでも「よく吸着する下顎総入れ歯の作り方」などという歯科医用のビデオの広告などもあるぐらいなので、果たしてうまく行くのかどうか少し不安であった。

 しかし歯科医へ行って、まずは折れた入れ歯を直して貰い、欠けた歯のところを補ってもらうと、うまくフィットするし、穴の塞がれた入れ歯は思いの外、下顎によく吸着するではないか。「案ずるより産むは易し」で歯医者も接着剤など使わなくてもこれでいけるだろうからこれで様子を見てはということとなり、これまでの入れ歯のままで様子を見ることになった。

 以来、また以前と同じように何のトラブルもなく、総入れ歯でも何でも普通に食べられる。また何のトラブルもなく入れ歯の時代を過ごすことができている。総入れ歯は上も下もうまくフィットしており何でも噛める。人間の体の適応力の素晴らしさを感じるこの頃である。総入れ歯も決して恐れることはない。虫歯や歯槽膿漏で苦しむより早く総入れ歯にした方が良いかもしれないと勧めたくなるぐらいである。

 ただ、「エイッ」と言って口を開けて叫んだような時や急に咳き込んだ時などに、口内の圧力で下顎の入れ歯が口から飛び出すことがあることだけには注意しておかねばならない。それを除けば、今のところ、総入れ歯万々歳である。

漢字の読み方は難しい

 もう昨年のことになるが、安倍首相が「・・・云々」と書いてあるのを「デンデン」と読んで失笑をかったことがあったが、こういった覚え違いには時々出くわすものである。今は思い出せないが、私もある漢字の読み方を間違えて覚えていて、何年も経ってから何かの拍子の気がついて訂正したことがあった。

 滅多に使わない難しい漢字もあるし、読み方もいろいろあるので間違って覚えてしまう可能性もある。それに通常は振り仮名なしで使われるので、読み方がわからなかったり、間違えていても、困らないことも多いので、訂正される機会に恵まれないで済まされることにもなりがちである。

 ことに固有名詞となると、時に思いもかけない読み方をすることもあるので困ることも少なくない。普段にその地名なり人名に慣れている人たちにとっては当たり前のことなので、通常、振り仮名もつけずに使っているので、部外者にはなんと読むのが良いのか一層わからなくなる。

 地名について思い出すのは、子どもの頃親の仕事の関係で東京と大阪を行き来したが、東京にいた時は先生が大阪の枚方のことを「まいかた、まいかた」と呼び、大阪では先生が五反田のことを「ゴハンダ、ゴハンダ」と読むので吹き出したことがあった。今でも地方へ行った時など、読めない地名に出くわすことがあるが、幸い最近では道路標識にローマ字が併記されているので、それで読み方がわかることが多い。

 しかし、人名となると同じ漢字でも人により読み方が違うこともあるので一層ややこしい。「エンドウさん」と言うから、てっきり「遠藤さん」かと思ったら、「猿渡さん」であったり、次に「猿渡さん」に出会ったので、これはてっきり「エンドウさん」だと思ってそう話しかけたら、私は「サルワタリ」ですと言われたこともある。「上田」と書けば「ウエダ」と読む人が多いが、中には「カミタ」と呼ぶ人もおり、「カミタ」と呼ばれないと返事をしない人もいた。

 地名や氏名などの固有名詞はいっそのこと皆仮名書きに統一すれば良いがとも思うが、歴史的なものを引き合いに出して反対する人も多い。歴史を辿れば実際には固有名詞の漢字や読み方が途中でいつの間に変ってしまっていることも多いのだが、長年続いた漢字とかなの混合文化なので容易には変わらない。いつまでも年号と西暦が併用されているのと似たようなものであろうか。

 その上に、漢字の読み方で難しいのは漢字も生き物であるからその読み方も時代によって変わっていくことである。どの読み方が正しいかと言ってもその時代、時代の多くの人たちがどう読むかによって正しさも決まってくるものである。

 子どもの頃に喫茶店を「キッチャテン」と言うおばあさんがいて、私は間違えて読んでいると思っていつも気になっていたが、後になって「キッチャテン」と言う呼び名がなまっていつの間にか「キッサテン」と言うようになったのだと聞いて納得したことがあった。

 そんなことを言っていると、医学関係の日本語の述語には、昔漢学の素養のある人が外国語から翻訳したものが多いので、難しい言葉が多く、その読み方も難しいものが多い。そのため時代とともに誤った読み方をする人が多くなり、今では間違った読み方の方が一般に使われ、正しい読み方になってしまっているものが多い。

 以下の漢字をどう読みますか。試して見られてはいかがでしょう。

   口腔 今は コウクウ   昔は コウコウ

   洗浄    センジョウ     センデキ

   弛緩    チカン       シカン

   消耗    ショウモウ     ショウコウ

   貼付    テンプ       チョウフ

   脆弱              キジャク      ゼイジャク

   播種    バンシュ      ハシュ

 漢字も人間が使っているものなので、使う人間が変われば漢字の読み方も変わってきているのです。「・・・云々」もいつの日にか「・・・デンデン」と呼ぶようになるかも知れませんね。

この先日本はどうなるのだろうか

 先日稲田防衛大臣が文部省に教育勅語を教育に使ってどの部分が悪いのかという問い合わせをしたことが新聞に載っていたと思ったら、今朝の新聞には道徳や教育の基本方針として教材に教育勅語を用いることについて「憲法教育基本法などに反しないような形で用いることまでは否定されることではない」と政府が閣議決定したと出ていた。

 教育勅語明治天皇が臣民である国民に、天皇の命ずる教えに従うことを強いたもので、戦前の教育の基本理念とされてきたが、戦後、民主主義の日本になって、国会で排除、失効が決議されているもので、政府の都合で閣議決定などするべきものではないはずである。

 最近問題となっている森友学園が運営している幼稚園で園児が教育勅語を暗唱していたことがテレビだ報道されていたが、私は子供だった戦前の小学校で意味もわからず暗唱させられ、御名御璽で終わると最敬礼させられた当時を思い出し、身の毛がよだつ思いをしたばかりである。

 このような政府の下では、小学校で道徳教育が必須科目となったこともあり、教育勅語がその中に取り込まれていくことは必須であろう。近年の政府は法的には秘密保護法や、安保関連法、次いでは共謀罪の法制化を図って国民を縛り、北朝鮮尖閣諸島竹島などの問題を煽って周辺諸国との緊張を故意に高め、森友学園問題などでも馬脚を現した右翼勢力の伸長に手をかし、最近は過去の侵略戦争さえ全て正義の戦争とし、韓国の植民支配や中国侵略を否定しかねない主張までするようになってきている。

 ネットなどの右翼的な発言を見ていると、中国や韓国の悪口三昧で、戦争さえも辞さないような無謀な発言までが多くなってきているが、戦争の実態を知っているのか疑わしい。

 ここ数年、時とともに世情が戦前に似てきていることを感じてきたが、これ以上進むと戦前同様、もはや引き返しの効かない地点にまできてしまうのではないかと恐れる。戦前のあの暗い時代を知っているだけに、気が気でないこの頃である。

 戦前への復帰を望むのが右翼政府の願望のようだが、崩壊した大日本帝国と現在の日本国の違いも知っておくべきであろう。帝国の場合にはよかれあしかれ天皇陛下を中心とした独立国家であったが、現在の日本国は憲法よりも優先する日米安保条約に支配された従属国であり、最重要なことはアメリカの意向に従わねばならない仕組みになっていることが最大の違いであろう。

 次いで、日本を取り巻く周辺の事情も戦前とは全く異なり、特に中国が大きな存在になっていることも無視できない。国内的にも、今や少子高齢化が進み、戦争には向かない人的、社会的状況になっている。さらには核兵器やミサイル、AIを始め通信や電子関係の発達、宇宙関係その他、科学技術の発展が戦前とは比べものにならないことなども考慮しなければならないだろう。

 こういった状況の中では話し合いの解決か局所的な戦争しかありえない。それ以上の本格的な戦争は人類滅亡を結果するよりない。勝者のいない戦争になるからである。右翼の進む道に展望のないことは明らかで、それをできるだけ多くの人が認識することがこれから先、人々が平和で過ごせる唯一の道であろう。

 核戦争などで国土が全滅するようなことはもちろんだが、アメリカの政策に振り回されて局地戦などに引き込まれて故郷を再び灰燼に帰すようなことは、何としても避けて欲しいものである。

 私はもはやこの後そう長く生きることはできないだろうが、生まれ育ったこの国や地球の将来がどうなるかはやはり大きな関心事である。若い世代が正しい道を歩んでくれることを期待してやまない。

 

 

忖度

 最近世間を騒がせている豊中森友学園事件で、国会の証人喚問に出た森友学園の理事長であった籠池氏が、土地の購入に絡み、安倍首相の直接の関与はなかったが、官僚の「忖度」があって「神風が吹いたように」事態がスムースに動いたと言ってから、忖度という言葉がまた急に脚光を浴びた。

 最近はあまり使われなくなった古い言葉であるが、いかにも日本の非言語的な文化の状態を表す表現であり、日本人にはよくわかっても、直接外国語に置き換えるのは難しい言葉である。そのため、今回の森友学園問題についての外国人の記者クラブでの会見でも、通訳がこの忖度を英語に訳すのに困り、わざわざ通訳としてのコメントをつけて説明したそうである。

 忖度とは相手の気持ちを推し量ることで、似た言葉で斟酌というのもあるが、こちらは忖度して手加減するという動作が加わったものを指すようである。英語に忖度を訳すとなるとconjectureとか、surmise, あるいはread between the lines または read what someone is implyingといったところになるらしいが、これらはいずれも推測を意味するもので、日本語の忖度を正確に表現しているとは言い難い 。ニュアンスの違いをどうすることも出来ない気がする。

 「忖度」や「斟酌」は日本人が始終使う「よろしくお願いします」と同様、日本人の独特の言葉で、正確にそのまま英訳出来ない。今回の籠池氏の発言についての外国の報道では、

He hinted at "power at work behind the scenes"and that unidetified officials in the

Ministry had helped facilitate the deal.

などと書かれていたそうである。

 日本人は日常生活でいつも気遣い、気心、心遣いなどするのが当然の習慣であり、「忖度」も「斟酌」も説明されればすぐに理解できるが、言葉でのみコミュニケートするのが普通の外国人にとっては、理解しにくい言葉であろう。文化の違いが先にある。 

 外国で仕事をしている日本人がFBに書いていたが、彼は国境を越えるごとに「マインドのギアチェインジ」をするのだそうである。外国でのやり方を日本に持ち込むとKYと言われるので、帰国した時には三歩前進二歩後退で行くのだと言う。それでも日本では周囲のものが何も言わなくても皆「忖度」や「斟酌」をしてくれるので、日本人に生まれてよかったとつくづく思うそうである。

 

素人の憶測

 森友学園の土地の購入が問題になって、森友学園側は小学校設立の認可を取り下げたそうである。学校が出来ないと、その土地は学校を建てる条件で国有地を取得しているので、更地にして國に返還しなければならないのだそうである。

 もう校舎も九分九厘出来ているのでもったいない話であるが、法律がそうなっているのなら、結局は校舎も皆潰して国へ返すことになるのであろうか。そうなると、その跡地をどうするのかと言うことが次の問題となるのではなかろうか。

 素人なのでどうなるのか詳しいことはわからないが、更地になれば、以前に学校用地として7億円では安すぎると断られた学校法人があるらしいので、そんな所がまた買いたいと言ってくることにもなるのではなかろうか。

 どうなろうと私には関係のなことであるが、気になるのは、仮にそうした場合、この土地の値段がどうなるのであろうかということである。すでに1億3千万円で国が森本学園に売った実績があるのだから、同じ土地を再び高値に釣り上げるわけにはいくまい。森友学園の場合と同じ値段で話をつけざるを得ないのではなかろうか。

 そうなると以前に七億円で断られた学校は何もしなくても5億7千万円も安くしてもらって以前から欲しかった土地を手に入れることが出来ることになるのではなかろうか。森友学園のおかげでとんだ幸運にありつけることになる。

 もうしばらく、今の森友学園の建築中の校舎が壊され、土地が整地されて更地になるまでの辛抱である。待っていて良かった。うまくいけばまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」ような大儲けとなる。本当にそうなるのかどうか、詳しいことはわからないが、森友学園の事件の報道を追っていくと、ついそのようなことを想像してしまうが、どうなるのだろうか。

関東大震災の思い出

 今は大震災の思い出といえばほとんど東日本大震災のことだが、私の子供の頃には大震災といえば関東大震災を指していたものであった。 

 現実に関東大震災が起こったのはまだ私が生まれる前のことだったが、その傷跡はまだあちこちに残っていた。ちょうど今、東日本大震災についていろいろ話されるように、何かにつけて大震災の恐ろしさなどがまだ話されていた。

 関東大震災が起こったのは1923年(大正11年)9月1日の正午頃だったそうだが、東日本大震災では津波原発事故が被害を大きくしたものであったが、関東大震災の時は今よりも東京は木の家が密集していたこともあり、地震に加えて火災による被害が大きかったようである。

 よく聞かされた話で今でもよく覚えていることは、浅草に煉瓦建ての浅草十二階という当時としては高いのが売りの建物が崩壊したことや、大勢の人が火事に追われて被服廠の跡の空き地に逃れていたが、そこまで火の手が廻り、熱風が吹き荒れて多くの人が焼死したことなどであった。 

 またこの大震災で関東の方から多くの人が関西方面に逃げてきて、こちらに住むようになったという話も聞かされたし、東海道線で東京へ行った時に、丹那トンネルを抜け熱海を通り過ぎると景色が変わり、昔ながらの瓦葺きの家が少なくなり、掘っ立て小屋のような軽い感じの家が多く見られるのは震災のためだと教えられた。

 それに忘れてならないのは、震災の混乱の中で、警防団員?などによる朝鮮人の虐殺があったということである。朝鮮人が火をつけたとかいう噂が飛び、そのために街角で朝鮮人と思しき者を警防団の人が呼び止めて朝鮮人とわかると棍棒で殴り殺したという無残な話を聞かされたことである。

 朝鮮語では濁音と半濁音の区別がつかないのでビール瓶などと言わせて、ピールピンとしか言えない者はそれだけで朝鮮人とみなされて災難にあったようである。中には日本人なのに発音が悪かったために朝鮮人と間違われて殺された者もいたと言う話であった。

 幸い今度の東日本震災ではそのようなことは起こらなかったが、昨今の  SNSなどによる中国や韓国の人たちに対する「ヘイト発言」などの広がりを見ていると、またいつ何時同じようなことが繰り返されはしないかと気にならないではない。

 東日本大震災以外にも、最近だけでも阪神淡路大地震もあったし、熊本の地震もあった。東南海大地震の恐れも強いと言われている。地震国と言われ、いつ何時また大きな地震に見舞われると限らないが、天変地異は運命を受け入れるよりない。災害に対する覚悟や準備はできる範囲では考えていても、予想の範囲に収まるとは限らない。基本的には成り行きに任せるよりないのではなかろうか。