神戸港開港150周年

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 今年は神戸や横浜の開港150周年に当たるそうで、どちらでも色々な記念事業が行われているようである。神戸でも記念の芸術祭などが行われているというので、台風が去った翌日に女房と一緒に出かけた。

 最近はやりの芸術祭なるものは大抵会場があちこちに散らばっているので全部を見るのは困難である。それに面白いものもあるが、つまらないものもあるので、初めから全部を見るつもりはなく、港見物のウオーキングのつもりで出かけた。

 先ずは三ノ宮からポートライナーに乗ってポートターミナル駅で降り、先ずはターミナルの建物内で行われていた展示作品を見た。数人の作家の作品があったが、港らしいレイアウトに世界の海に関したテーマとして、ヨーロッパへ押し寄せるボートピープルや、イスラムキリスト教の相克を思わせる展示が興味深かったが、スマホを介さなくては解らない難点があった。

 そこから歩いてポートアイランドまでの橋を渡り、北公園の海よりの岸辺に並べられた「ひまわり」の作品を見た。40〜50本ぐらいの酸素ボンベの下部を切り取り、バルブの方に鉄製の黄色の花型を溶接して並べたもので、空間が広過ぎて少し迫力に欠けていたが、なかなかの力作であった。

 それを見てから帰りはポートライナーに乗った方が良いかと迷ったが、駅まで少し距離があり、逆方向になるので結局また橋を渡って戻った。今度は西側の歩道を通ったので神戸港の遠景を楽しみながらゆっくり戻ることができた。隣のピアには九州へ行く大型のフェリーが着岸していたが、その船の幅が馬鹿でかいのに驚いた。

 ポートターミナルまで引き返し、そこから海岸沿いに三ノ宮方向に歩き、次の第3突堤をフェリーターミナルまで行き、そこでまた作品を見て休憩、ピアの根元まで戻り、続いて第二突堤をパスして、第一突堤の先端まで歩く。

 第一突堤は2−3年前に来た時にはすでに場屋は何もなく、荒地にような岸壁に作品を展示していたようなことがあったが、その後地下千百メートルのボーリングで温泉が出たとかで、今は立派なホテルが建ち、その先には結婚式場のような瀟洒な建物もでき、ピア全体が生まれ変わって綺麗になっていた。

 その先端に新宮晋のモービルが並べられていたが、あまり新味がなく、広い空間にまばらに並べられた感じで、期待はずれであった。頼まれて仕方なしにに協賛したものであろうか。丁度、芸術祭用の海から眺めるためのボートが近づいたので手を振ったら結構反応が返って来た。

 そこからまた長いピアを根元まで引き返し、さらに高速道路の下もくぐって国道二号線まで北上し、西へ曲がって海沿いに歩き、やっとメリケン波止場の東に入り口にたどり着いた。

 ここで「神戸食の博覧会」をやっているというので昼食を取るべく心積もりをしていたのだが、台風のために中止となっており、用意されていたらしいテントなどもすべて撤去されていて、中止の看板以外、博覧会を思わせるものは何もなかった。

 仕方がないので、川崎の海洋館の上にあるレストランで食事をして一息ついた。食後は最後のエネルギーを使ってカモメリアを通理、モザイクまで行った。メリケン波止場あたりから大勢の若者たちの集団に出くわしたが、韓国の青年団体の日本体験旅行の一団であった。揃って平均的な日本人より背の高い若者ばかりに驚いたが、女房と「韓国人の方が日本人より肉をたくさん食べるからかな」などと呟いた。

 メリケン波止場にも、やなぎみわの作品があったのだが見過ごしてしまい、カモメリアからモザイクあたりは満員の人出で、こちらも歩き疲れていたのでモザイクの南端まで行って、引き返し神戸駅をへて地下道を通って高速神戸駅にやっとに辿り着いた。

 スマホを見ると朝から 16,000歩歩いたことになっていた。帰りの阪急電車で腰掛けてやれやれと息をついた。それでも、天気は良かったし、浜風も適当にあり気持ちの良いウオーキングであった。

 神戸は今回のように港を歩いて見廻るのもよし、後背の六甲連峰の山々で遊んでもよし、その中間のちょっとお洒落な街を散策してもよく、三層になって横長に広がった都会はいつ訪れてもその度にそれなりに満足させてくれる街で、気に入っている。

 

雨晴海岸

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 北陸の富山湾に面した高岡と氷見の間に雨晴海岸というところがある。「あまはらし」と読むのだが、女房が古典の集まりで芭蕉の「奥の細道」を通じて知ってから行きたいと言っていたし、雨晴というユニークな名前も気に入っていたので、機会があったら一度訪ねて見たいと思っていた。

 そこへ、この夏の終わりに娘たちが揃ってアメリカから帰国してきたので、大阪から東京へ戻るのに一度は北陸新幹線を利用してみるのもよいだろうし、私の行きたかった富山の新しい美術館の見学も兼ねて、皆で雨晴に一泊して富山見物に出かけることにした。

 最近の雨晴は冬の空気の澄んだ晴れた日などに海を通して立山連峰の雪景色が見られるというので、富山県の観光案内の写真にも使われているようで、多少名前も知られるようになってきたのではなかろうか。

 しかし、この地は古くから歴史的に幾重にも謂れのある所で、既に万葉の時代に、大友家持が越中国司として赴任しているが、JR雨晴の隣の駅が越中国分寺なのでこの近在に逗留していたものと思われる。家持は赴任のため別れた直後に弟の死を知り、

 かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波もみませしものを

と詠っている。その他にも家持はこの地でも多くの歌を詠んでいるようで、

馬並(なめ)ていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)

              清き礒廻(いそみ)に寄する波見に

というのもある。雨晴海岸は渋谿とか荒磯と呼ばれていたようである。

 それが雨晴の名前となったのは、今度は源平の時代に義経が東方へ逃れる道すがら、この海岸に今も残る小さな岩山の洞穴で雨宿りしたという話からのようで、その岩山の上には義経社という祠がある。ここで義経が祈願したところ雨がすぐ止んだところから雨晴と名がついた由である。

 そして最後の謂れが芭蕉の「奥の細道」にまつわるものであるらしい。芭蕉奥の細道をたどった帰り北陸道を通ったようで、この雨晴を通りがかって、

 わせの香や分け入右は荒磯海(ありそうみ)

と一句捻っている。ここらは大体は平坦な砂浜の続いた海岸であるが、この近くには海岸沿いに、海の中や海岸に小さな岩礁や岩山があり、義経岩もそうだが、そのすぐ沖には男岩、女岩などもあり、日本海の荒波がそれらに当たって砕けるので荒磯などと呼ばれてきたのではなかろうか。

 私たちが泊まった時には、海の彼方にかすかに立山連峰の稜線が認められるぐらい であったが、冬の空気の澄んだ時などで立山連峰の雪景色が眺められたら、きっと観光写真のポスターのように素晴らしい眺めだったに違いない。

 義経岩のすぐ上の小高い山の上に一軒だけ「磯はなび」というホテルがあり、そこに泊まったのだが、そこが思いの外に良かった。最上階の部屋からの眺めが最高だった。遥かな下に見られる日本海のゆっくりと湾曲して能登半島に続く海岸線が美しい。鳶が下に見える山と海の間をゆっくり舞っていた。

 このホテルは数年前に以前にあった温泉ホテルを今の経営者が買い取って、改築して新たに運営するようになったものらしいが、屋上の露天風呂も湯船が海に突き出したような構造で、開け広げな空と海の空間に挟まれてゆったりと湯船に浸かり、蝉の声を聞きながら遠くの景色を眺めて手足をゆっくりと伸ばして湯に浸かっていると、ついこんな幸せがあるのかと思われるぐらい身も心もリラックスしてしまう感じであった。

 素人なりに自然と一句も湧いてこようというものである。

    天上湯見下ろす海や蝉の声

 それに料理人が隠れた達人なのか、値段からしてさして高級なホテルとも思えないのに、料理の品も味もとても良く、美味しく満足して味わえた。北陸の一つの穴場と言えるかも知れない。是非一度行かれてはとお勧めする。

 元気な人であれば、海から山の上のホテルまでの急坂を上り下りして、海岸の眺めと山の上からの眺めを両方とも楽しまれることをお勧めしたい。

国際的いじめ International Bullying

 北朝鮮大陸間弾道ミサイルを発射したり、核実験を繰り返したりして、ここのところ国際間の緊張が高まっている。国連ではアメリカが石油禁輸などの一層強い圧力をかけることを望んでいたが、中国やロシア反対に合って、全会一致にこだわって譲歩した案になったが、制裁決議はなされた。

 北朝鮮の問題はもう長年にわたり議論され、国連での非難決議も何度も出されているが、一向にに解決されないまま次第にエスカレートして来ている。一般の報道などによると、北朝鮮という「ならず者国家」がいて、世界のルールに反して核やミサイルを開発し、世界の平和を脅かしけしからんということになっているが、こんなことを言えば袋叩きにでもあいそうな気もするが、少し見方を変えれば、これは何だかアメリカ主導の国際社会が寄ってたかって北朝鮮をいじめているような図にも見える。

 核拡散防止条約で核を持っている5ヶ國以外は核を持たないとする決まりも、アメリカの都合でイスラエルやインド、パキスタンが核を持つことは容認しながら、イランや北朝鮮が持つことには反対するという矛盾がまかり通っているし、核を持たない広範な国々の要望による世界中の核爆弾を廃止しようという核兵器全面廃止条約には核保有国が反対するという問題もある。

 北朝鮮の核開発もこういった世界情勢を踏まえた上で考えねばならない。北朝鮮の核開発はどこかの国を攻撃しようというものではなく、明らかに自国の生き残りのためである。イラクリビアがアメリカの都合で攻撃され滅ぼされたのを見て来た北朝鮮が、まだ朝鮮戦争後の平和条約も結ばれていない状況下で、横暴なアメリカからの挑発にも抗して生き延びるためには、核やミサイルを持って対抗出来るだけの軍事力を持つことが必須だと考えるのは当然であろう。

 そのために北朝鮮は「先軍思想」とかいって、この世界に生き残るためには何を犠牲にしてでも、とにかく核兵器を持って反撃出来るだけの力を持つことが不可欠だとして来たのである。したがって、今の状態を解決すべくいかなる話し合いがあっても、北朝鮮が核を放棄する条件の上での話し合いに応じる可能性は先ずないであろう。北朝鮮が核やミサイルを放棄すれば早晩国が滅ぼされてしまうと考えているからである。

 そうとすれば残された道は北朝鮮の核保有を認めた上で、その不使用を約束し、平和条約の締結し、長い目で将来的に世界的な核兵器廃止を目指すか、そうでなければ全面的な戦争で日本をも含めた東アジアを壊滅し尽くす悲劇に突入してしまうしかないのではなかろうか。

 世界的な経済制裁を強めるだけでこの問題は解決しないであろうし、日本をはじめ東アジア全体を巻き込むような戦乱を世界の人たちが望むとは考えられない。ここは困難であっても、前提条件なしで話し合いの場を設けて、平和的な解決の道を探るよりないであろう。

 北朝鮮を見ていると旧大日本帝国とよく似ているのでどうしても好きになれないが、それでも世界の平和と発展のためには国際的ないじめを止め、北朝鮮を国際社会に受け入れる寛容さをアメリカやその手先である日本や韓国が示さなければならないのではなかろうか。

 

老人は鞭打たれて働かされる−2

 何年前だったか忘れたが、「老人は鞭打って働かされる」という表題の文章を書いたことがある。

 その頃にはすでに老人問題が注目されるようになっていたからであろうが、最近の世の中の動向を見ていると、いよいよその危惧が現実になるのもそう遠くなくなって来たような気がする。

 何しろ高齢化がますます進み、それとともに少子化も進み、人口が減少していっている。働く世代が減っているのだから彼らの保険料に頼っている老人保険の財政が厳しくなるのは当然で、それが政府にとっては一番の問題のようである。

 それに経済の成長は望めず、少子化にも歯止めがかからないのに、経済浮揚のためや日米同盟強化などによる軍事費の増加などもあり、老人の増加に伴い年々増加していく年金や医療、介護などの費用の増大に如何に対処していくかが益々大きな問題になって来ている。

 当然老人の医療費や介護費用の増大に目がつけられ、自己負担の増大や老人医療の合理化、節約、ことに死前の医療の抑制などが具体的に取り上げられ始めて来ている。

 それとともに老人の社会保障のもう一つの柱である年金についても、年金の支払い開始年を遅らせ、75歳からにしようという案が考えられて来ている。

 あからさまに言えば、老人に働かせて年金を節約し、死に行く老人の医療費は無駄なので削って医療費の増大を抑えようということのようである。

 実際、現在では75歳ぐらいまでのいわゆる前期高齢者には比較的元気な人が多い。個々人についてみても、65歳で定年となって仕事の拘束やストレスから解放され、まだ体力知力もあるし、退職金などでささやかなゆとりもあり、職場関係などの知人、友人との接触もまだあり、75歳ぐらいまではまだ元気で、人生で最も楽しい時期を過ごせる人が多い。

 しかし、それもだいたいは75歳ぐらいまでで、後期高齢者と言われるそれ以後になると多くの人は老化が進み、健康上のいろいろな問題を抱え、通常の社会生活に支障を抱える頻度が高くなるようである。

 そこに目をつけたのが定年75歳案というわけであろうが、注意すべきは人は歳をとるほど個人差が大きくなるという特性である。若者のように、平均値で判断できない大きなバラツキが生じているものである。

 60歳でもすでに体力が落ちたり、病気のために普通の生活が送りにくい人も多い。平均的な姿で基準や物事などが決められると、平均以下の人にとっては過酷な負担が強いられることにもなりかねない。ガンにしても脳心血管系の病にしても最も多い年代は65〜80歳位の人たちなのである。

 個人の能力に応じてと言っても、経費節減が目的とあっては平均的な人が基準とされれば、その人たちがようやく生活が成り立つように調節されることとなるので、平均値以下しか働く能力のない老人にとっては生活すら成り立たないことになりかねない。

 その上、老人の健康は若者と異なり、ゆとりの少ないバランスの上に成り立っているものである。元気な老人といえども、僅かな負担や思わぬ病気で急に生活能力を落としてしまう可能性も多い。ましてや病を持ったり、介護が必要な老人までも働かなければ食っていけない世の中になる恐れもなしとしない。

 若い時からの長期にわたる過酷な労働から解放されて、やっと得られた定年過ぎの開放感、安らぎ感を得た人生最良の短い時間までも老人から奪い、隠居どころか、弱い老人までが鞭打たれても働かざるを得ない図は姨捨山に捨てられた老人よりも酷い残酷な世界ではなかろうか。

 若年層の負担を考えに入れても「長幼序あり、老人を敬う」古来よりの東洋の道徳に照らしても、お金のためにこれまで社会に貢献してきた老人を軽んじることのないようもっと意を払うべきではなかろうか。誰しも必ず歳をとる。老人の処遇は若者にとっても自分の将来を映し出すもので、決して無縁なことではない。

 

 

カタカナ略語

 最近の日本語にはやたらとカタカナ語が多くなった。日本語を学ぶ外国人にとって一番難しいのは難しい漢字や熟語などではなく、カタカナ表示の日本語だそうである。最近のコンピュータ関係の言葉はほとんど外国語、主として英語を訳したカタカナ語だが、それ以外の普通の言葉にも外国語を訳したカタカナ日本語がやたらと増え、我々日本人であっても老人にはわかりにくくなるばかりである。

 漢字の熟語などであれば、漢字が表意文字なので、文字からある程度意味が推測できるので、詳しくはわからなくてもどういう関係の言葉なのか、多少は推測できることが多いが、表音に過ぎないかな文字となると、似たような言葉から推測するぐらいのことしかできず、それも時には全く違った領域の言葉だったりということにもなる。。

 外国語から翻訳されたカタカナ語でも日本的な発音を基にしているので、本来の英語を知っていてもすぐに意味がわかるとは限らない。面白い例を示せば、かの有名な女優のAudrey Hepburnさんは日本ではヘップバーンで通っているのに、明治の時代に来た同姓のDr. James Curtis Hepburnは日本では全く違うヘボン博士と呼ばれて、ローマ字で有名である。同じ姓でもヘップバーンになったりヘボンになったりする。カタカナ日本語と英語は一対一で対応しているとは限らないのである。

 16世紀にポルトガルやオランダの宣教師などがもたらした言葉で日本語に定着したものや、庶民の俗語などでカタカナで書かれているものなどは、すっかり日本語の中に溶け込んでいるから、子供の時から自然に身についているので良いが、近年、といっても多くは戦後になって、入って来たカタカナ語はまだすっかり日本語になりきっていないものが多く、わかりにくいことが起こりやすい。

 ただでさえもそうなのに、最近はそれらの外国語から翻訳された日本語を、更に今度は日本流に省略した言葉を作ってしまうので、益々わかりにくくなってしまっている。始終こういった新しい言葉に慣れている若者にとっては何でもないことなのだろうが、そうでない人たちにとっては日本語でありながら、読めてもどういう意味なのかさっぱりわからない言葉が多くなってしまう。

 例えば次の10の言葉の中、どれだけ意味がわかるでしょうか。若い人ならともかく、そこそこ歳をとった日本人には中々難しい質問ではないでしょうか。

1.アイコ          2.クレカ          3.ケンタ

4.コスパ          5.スケブ          6.パシリ

7.フリマ          8.ポテチ          9.ラノベ

10.レスカ

 答えを見れば、なーんだと思われるでしょうが、いきなりこんなカタカナ語を突きつけられたら、簡単なことでも何の事かわからず戸惑ってしまうのではないでしょうか。

 それでも若者の間では、今もどんどんこのような言葉が大量生産され、大量消費される傾向にあるようです。もう50年も経てば一般にどんな日本語が使われるようになっていることでしょうか。英語ももっと浸透してくるでしょうから、アルファベットも入ってくるでしょうし、今よりもっとひらがな、カタカナ、ローマ字に漢字も混じった日本語の文章になるのでしょうか。

 我々のような今の年寄りには、全くといってもよいほどに意味の通じない日本語が書かれ、話されるようになっているかも知れない気がします。それでもそれらの文字を縦横に使って、新しい素晴らしい日本語になって行ってくれることを願ってやみません。

 

答え:1. アイスコーヒー  2. クレジットカード   3. ケンタッキーフライドチキン4. コスト・パーフォーマンス 5. スケッチブック    6. 走り使い

7. フリーマーケット    8. ポテトチップス    9. ライト ノーベル

10. レモンスカッシュ

「ありがとう」はポルトガル語からか?

 何かの話のついでに、有難うと言う言葉の語源が話題にのぼり、これがポルトガルの宣教師がもたらしたobbligado(=感謝している)から来ていると言う説が出た。これは時に聞かれる説であるが、辞書などでは多くは俗説だとして退けられているようである。

 少し調べてみると、「ありがとう」と言う言葉は「有り難し(ありがたし)」即ち「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」から来ているもので、本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」と言う意味を表したもので、枕草子の「ありがたきもの」では「この世にあるのが難しい」「過ごし難い」といった意味で使われていたものとある。

 ところが中世になり、「有難し」は「仏の慈悲など、貴重で得難いものを自分は得ている」という考えから、宗教的な感謝の気持ちを表すようになり、近世以降、感謝の意味として一般に広がり、今日の「ありがとう」と言う言葉になったと言うのが一般的な説明である。

 従って16世紀に南蛮人がやって来る前からある言葉で、ポルトガル語に由来するとするのは俗説と言わざるを得ないと言うのが大勢のようである。

 ところがその頃は「ありがとう」に当たる感謝の意を表す言葉としては「かたじけない」と言う表現がもっぱら使われていたそうで、「ありがとう」が広く使われるようになったのは江戸時代になってからと言われる。

 ポルトガル語と同じラテン系のイタリア語ではobligatoとなるので、「オリガトウ」だから、もう「ありがとう」にそっくりである。英語でも「大変有難う」などと言う時にmuch obligedなどと言うではないか。それに宣教師がもたらして日本語として定着しているポルトガル語の多いことも考えに入れるべきだろう。

 カステラ、ビスケット、コップ、パン、シャボン、ブランコから、漢字まで当て嵌められている金米糖、襦袢、合羽、如雨露、木乃伊などまでそうと言われているし、名詞以外でも「おんぶする」とか「ピンからキリまで」とか「おいちょ株」の「おいちょ」までポルトガル語由来なのだそうである。

 これらのことも踏まえて想像すれば、16世紀の後半にポルトガルの宣教師がやって来て、人々が異国の物珍しい色々な物に接し、その言葉を聞くようになると、必然的にそれらの珍しいものを手に入れたり、聞きかじりのポルトガル語を真似してみたりするのが流行し、それがハイカラに見え、人にも自慢するようなことがあったとしてもおかしくない。流行が次第に周囲にも広がっていき、社会に定着していくことはよくあることである。

 そう考えると、「かたじけない」という代わりに、従来からあった「有難し」という言葉にも引っ掛けて、「obligato 」即ち「ありがとう」と洒落てみた人があったとしても決して不思議ではない。それが巷に広がって行って、いつしか普通のの日本語となって「かたじけない」と入れ替わってしまったという可能性も十分考えられるのではなかろうか。

 「ありがとう」のポルトガル語由来説を俗説として頭から切り捨てるより、間違っていたとしても、そう考えてみる方がロマンがあり、楽しい気がするのは私だけであろうか。

 

老人の死因:老衰から肺炎へ、そしてまた老衰へ

 戦後間もない頃は、日本で一番多い死因は結核で、伝染病による胃腸病とか気管支炎肺炎なども多かったが、世の中が落ち着いてくるとともに、結核感染症が減り、以来ずっと脳卒中にガン、心疾患が3大死因となり、ガン、心疾患、脳卒中の順のまま近年に至っている。ところが最近は人口の高齢化のためであろうか、ここ1〜2年肺炎が3位に食い込んで来ている。

 そして、これらに続く4位、5位あたりを占めるのが、これまで大体、不慮の事故や、肺炎、老衰と言ったところであった。

 ただ、このような死因統計の元になるのは医者の書いた死亡診断書ということになるが、実際に個々の例について死因を確かめるのは、いろいろなケースがあって、いつでも簡単に決められるとは限らない。

 全ての死が医者の診療期間中に起こるとは限らないし、突然の死もあるし、受診していたとしても、診断が未確定の場合も多いであろう。そういう場合には診断名も推定に頼る他なかった。しかも、昔は診断機器も少なく、検査方法も限られていたので、その推定も今よりはるかに大まかなものにならざるを得なかったであろうと思われる。

 癌や脳卒中のように比較的判りやすいものもあるが、症状が出にくいような病気や高齢者などではその判断はより困難になる。したがって原因の如何によらず、自然に誰もが経過する心肺の停止などにより、心不全とか呼吸不全というのが死因にされたり、老人であれば明らかな原因が分からない限り、ほとんど老衰という病名がつけられるのが普通であった。

 昔は老人も少なかったし、それでよかったが、社会の高齢化とともに老人が増え、医学の進歩や、医療の分化も進み、診断能力が向上し、その上世界的に死因分類を統一しようという傾向が強くなり、出来るだけ曖昧な病名を避けようとする機運が高まってきた。

 そのため、厚生省も「高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。」と老衰死を定義したり、心不全や呼吸不全などの死因についても注意を促し、出来るだけ直接死因につながる局所病変を優先するように指導した。

 その結果、老人は年々増加して来たが、死因としては老衰の死因は減り、肺炎などで死ぬ者が多くなって来た。しかし、多くの老人は老衰していく中で肺炎を起こして死に至るもので、老衰と肺炎は共存し、お互いに影響し合う切っても切れない関係にあるものである。

 年月を経て傷んだ陋屋が大風によって倒れた場合のようなものとも言えよう。家屋の傷み方がひどければ僅かな風でも倒れるし、家屋が多少しっかりしていても風が強ければ倒れる。これを当てはめれば、前者であれば老衰が死因と言うべきであろうし、後者であれば肺炎が死因とする方が良いであろう。

 ただ、どこで線を引くべきかは必ずしも明らかではない。全体像を重視するか、強力な因子となった部分をとるか、見方によっても変わってくる。

 これまでは分化する医学や社会の傾向に乗って、肺炎の方が重視されて来た。しかし肺炎は老衰に伴ったものとは限らない。全ての年代に起こりうるもので、それに対する治療も工夫が重ねられて来ている。

 しかし、老衰に伴う肺炎は若年者の肺炎とは同じようにはいかない。肺炎の加療が若年者と同様に成功しても、それを老軀が支えてくれないことが多い。そのため同じ治療でも不成功に終わったり、成功してもまた再発したりすることにもなりかねない。

 そのような経験が積まれたこともあり、高齢者の増加や時代の変化にも乗って、老衰がまた見直されることとなり、最近では肺炎よりも老衰を重視する傾向が再び強くなって来ているようである。老衰は肺炎をほぼ包括するものであり、死因としても、部分としての肺炎よりも全体としての老衰とする傾向になって来た。

 どちらが良いかは別としても、現在肺炎が脳血管障害を抜いて死因の第3位になったが、やがては老衰がそれらを抜いて主な死因に登ってくるのではなかろうか。老人の主な死因はかっての老衰から肺炎に移り、今また老衰に移ろうとしているようである。

 科学的な医学の分化が進む一方で、社会の変化が否応無しに包括的な医療の対策を求めるのに並行して、老衰を非とした肺炎が再び老衰に置き換わる傾向は、分化と総合の関係の時代よる変遷を象徴しているようで、ある意味では、行き詰まる世界に未来への道筋を示唆するわずかな光明なのかも知れない。