あまりにも情けない日本政府

 昨2023年11月29日に米軍横田基地所属の米空軍CV22オスプレイ屋久島沖で墜落し、搭乗していた8人全員が死亡した。

 その後米軍は23年12月6日に世界中に配備する全てのオスプレイの飛行を停止し、事故原因を調査していたが、今月8日、特定の部品の不具合が原因だったとして、安全対策を列挙し、運用停止措置を解除した。ただし、部品の名称などは明らかにしていない。

 日本国内での飛行再開については、日米両政府間で「引き続き緊密に調整する」としていたが、防衛省はその後、沖縄県や東京都など41自治体・関連団体に事故原因や安全対策について説明したということで、14日には沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場で午前中から、米海兵隊MV22オスプレイが次々と滑走路を離陸したようである。

 木原稔防衛相は15日の記者会見で、米軍のオスプレイの、那覇市の市街地上空の飛行の再開について「運用能力を回復するための一連の段階的かつ慎重なプロセスの一環として基本的な飛行を行ったもの」との認識を示し、容認する考えを示すとともに,自衛隊オスプレイの再開をも許可した。

 那覇市上空は、航空管制上の出発・進入経路が設定されており、木原氏は「従来、普天間飛行場周辺で設定されているルートを飛行した」と説明。「米軍オスプレイが今後求められる任務に対応するため、基本的な技能の練度を回復した上で、順次基本的な任務やより高度な訓練を経ていく」と述べたそうである。

 屋久島沖を含め、これまでのオスプレイ事故による死者は65人になる由である。ただし、「10万飛行時間あたりのオスプレイの事故率は1.93%と海兵隊の全航空機の2.45%を下回っているし、フィリピン航空2.47%、大韓航空2.58%など民間航空機より低率だともいう。

 しかし、世界中で飛行を3ヶ月も停止しなければならなかった措置から見ても重大事故だったことがわかる。事故原因の究明もないままの運用再開は、米軍の兵士の命の軽視もあるが、

日本にとっても、幅広い住民の安全に関わることであり、再会には十分な理解が求められるものである。それを詳しい原因を伏せたまま、米軍から言われるままに飛行再開を容認する日本政府の態度はあまりにも情けない。

 沖縄県の玉城知事は「(飛行再開は)到底納得することはできず、認めることはできない」としているのは当然であろうし、事故のあった鹿児島県の塩田康一知事も13日夜、「防衛省からの説明は事故原因、安全対策について、県民が理解するのに十分な、分かりやすい情報提供ではなかった」とするコメントを出している。

 国民の安全を保障する根拠もないままに、アメリカに言われるままに、ただ、容認し、追随していくだけでは、政府はあまりも国民に対して無責任ではなかろうか。国民の生命を守るのが政府の基本的な使命である。日米安保条約地位協定の制約があるにしろ、米軍のいかなる都合があるにせよ、少なくとも日本政府は事故の詳細や処置の詳細を知り、国民に説明した上で飛行再会を了承すべきではなかろうか。

 アメリカに言われるままに、ただ黙々とそれに追随するだけしか能がないのは、あまりにも情けない。日本政府こそ沖縄県に同調すべきでであろう。アメリカの植民地、属国、従属国から抜け出す方法はないのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漫画家鳥山明氏の死

 先日メディア一斉に鳥山明氏の死を報じた。まだ68歳で急性硬膜外血腫による突然の死亡だったということである。

 その名を見て一体どういう人だろうか分からなかった。説明に「ドラゴンボール」の漫画で一世を風靡したとあったので、「ドラゴンボール」という名は聞いたことがあり、漫画かアニメでかなり有名な人だったのであろうことが分かった。どうも世間ではあまりにも有名な漫画家ようである。

 私も漫画は子供の頃から親しんできた方で、「のらくろ」や「タンクタンクロウ」、「冒険ダン吉」などの漫画を読んだし、手塚治虫は中学校のクラスメートだったので、戦争中から自作の漫画を見せてもらったりしていた。戦後も手塚や長谷川町子、赤塚不二雄その他の漫画は結構見ていた方であった。

 それでも鳥山明と言われても分からなかった。「ドラゴンボール」と聞いてそんな漫画もあったなあと思い出したが、名前だけで実際に見たことはなかった。「ドラゴンボール」の他にもいろいろな作品を描いて随分有名な漫画家だったらしいが、私は何も知らず、死亡広告で初めて名前を知り、驚かされたことになったわけである。そんな有名な人が同じ社会にいて、死亡の知らせで初めて知ったことはショックであった。

 いつしか、もうこういう時代になってしまったのだなと思わざるを得なかった。これまで私が親しんできた名前の人たちは、いつしかもう殆ど死んでしまっていて、近頃新聞やメディアを賑わせている人たちは、いつの間にかもう私より若い人たちばかりになってしまっているのである。

 かって自民党菅首相が沖縄へ行って「私は戦後生まれなので、沖縄戦のことは知らない」と言ったのを聞いて、もう日本の政治家には戦争の記憶もないし、戦後のアメリカ支配のこの国しか知らないのだなと思ったものだったが、いつの間にか時が流れ、戦争も戦後の生活も、高度成長の時代さえ知らない若者までが増えていることを思わざるを得なかった。

 同じ日本人だと思っていても、何となく同じような世間が続いている積もりでいても、実はいつしか人はどんどん入れ替わり、今実際に出くわしている人々はもう皆新しい時代の日本人であり。もう戦争を知っているような人はわずかに生き残っているだけで、その人たちもやがていなくなってしまうであろう。

 一世を風靡した漫画家が私よりずっと後で生まれ、この世で活躍し、皆に惜しまれながら、私よりも先に、まだ68歳だかで急に亡くなってしまったということである。自分が年をとったことを自覚させられたとともに、時代の変遷を強く感じさせられた次第であった。

元横綱白鵬を助けよう!

 新聞報道だけだから詳しいことはどこまで当たっているかわからないが、相撲界では時々不祥事が起こっている。大相撲の取り組みや勝敗についてでなく、それを運営する相撲協会に関するものである。どうも未だに尾をひく部屋制度やその上に立つ大元の相撲協会という時代遅れの閉鎖社会に問題があるように思えてならない。

 一頃もてはやされたハワイ勢が姿を消してからもう長くなるが、その後一人もハワイ勢がいなくなった経緯もわからないし、一時もてはやされた貴乃花も、横綱をやめてから相撲界の改革を唱えながら、相撲界から完全に締め出されてしまい、一族郎党全て姿を消してしまったという歴史があるところに、今度の白鵬の事件である。

 元白鵬宮城野親方が育てた弟子の元幕内の北青鵬の暴力問題で、管理責任を問われ、相撲協会の臨時理事会で「委員」から階級の最も低い「年寄」への2階級降格と3ヶ月の20%報酬減額の処分を受けたと報じられている。部屋の運営を担う師匠の立場も追放され、同一門の親方衆が協議したが、部屋を現場のまま存続させるのは難しいことになったようで、所属力士らは伊勢ヶ濱一門に転籍させれるようである。

 宮城野親方(元白鵬)が暴力を知りながら加害者に注意せず、協会への報告をおこたった点が問題とされたということらしいが、若い体を張った力士が集う所であるから、これまでも時々暴力事件は問題になって来ており、果たしてそれらの過去の事例と照らし合わせて妥当な処分であったのであろうか。

 というのも、近代の相撲の歴史を見て、現役時代の白鵬ほど日本の相撲界に貢献した力士はいなかったからであり、彼を中心としたモンゴル力士たちによって大相撲は生き続け発展し、今日の隆盛を迎えることが出来たのである。その不出世の元横綱を遇する仕方として果たして妥当であろうか。「恩を仇で返す」と日本人の倫理観まで疑われそうである。

 元貴乃花相撲協会の改革への意欲を、パワハラとしか取れない嫌がらせで潰し、相撲界から追い出した協会の歴史を見れば、今回の元白鵬に対する処分も何か陰湿ないじめのようなものが背景にあるのではないかとの疑いを払い得ない。

 処分された事件も相撲界ではこれまでもいくらもあったことで、とりわけ悪質とも言えない事件のようである。白鵬のモンゴル育ちのための文化の違いや、それによる判断のずれなども考慮すれば、相撲協会の判断はどう見ても正当化され難いのではなかろうか。

 どこまで当たっているかはわからないが、あまりにも厳しい協会の処分は、勘繰れば現役時代のあまりにも大きかった人気に対する反感や妬みなどが含まれたものではないかと疑われるし、モンゴル人に対する偏見なども関係しているのかも知れない。

 罪状と処分の酷さとこれまでの功績とを考え合わせる時、どうしても閉鎖された社会である相撲教会の側に大きな問題があるように疑われてならない。社会的には、この処分によってむしろ協会の閉鎖性、保守性が問われるのではなかろうか。第三者による冷静な判断を仰ぎ、相撲界を救ってくれた恩人に対する今回の処分が本当の妥当なものであったかどうか判断されんことを切に望む。

 大相撲のあり方についても問題になりながらずるずるとそのまま現在まで来てしまっているが、神事なのか、色町に結びついた遊興の世界なのか、それともスポーツなのか、何が一番中心なのかをいつかははっきりさせなければ、他のスポーツのような世界的なスポーツとはなり得ない。

 ここらで相撲協会の閉鎖的な権威主義を廃し、もっとオープンな組織に変えていかなければ大相撲の将来が危ぶまれる。そろそろ八角親方にも退場願って、もっとオープンで民主的なスポーツ世界として改組し、神事や遊興は付け足しと割り切ることが必要bなのではなかろうか。

消えない大阪大空襲の記憶

 また3月11日がやってきた。東日本大震災からもう13年も経つが、今でもTVで見た津波が押し寄せて来て、見る間に家々が飲み込まれて流されて行き、先に山の上に逃れた人たちが後から登ってくる人たちに「早く!早く!」と声をかけている姿。原子炉の上からヘリコプターが水をかける映像、原子炉が爆発して白い煙が舞い上がる姿などが、つい先日のことのように思い出される。

 それに、今年は元日の夕方から能登半島地震、テレビをつけたら突然「逃げてください!逃げてください!」と叫んでいるではないか。それに夕方になると、今度は羽田空港の旅客機の火事の映像が続き、輪島の火事も間に挟まれ、おとそ気分も一気に吹き飛んでしまったのであった。

 以来テレビは能登半島地震のことばかり、嫌でも地震のことばかりが気になるが、それとともに3月になると、私にとっては今でも思い出されるのが、1945年3月13日に深夜から14日未明にかけての大阪大空襲である。

 これについては、すでにあちこちで書いているので、ここでは詳しいことは全て省略するが、見渡す限りの空の端から端まで、まるで花火のように火の玉が降って来たこと、みるみるうちにあちからもこちからも火の手が上がり、どうすることも出来ず、一方的に火を浴びるだけで、天王寺公園の美術館に逃げたこと、朝が明けると、そこらはもう見渡す限りの焼け野が原で、あべのハルカスの所にあった大鉄百貨店も丸焼け、見渡す限りの焼け跡で、阿倍野橋から上六のデパートの鉄筋建てまで何もなくなってしまって、すぐそこに見えたことなどを今だに鮮明に覚えている。どれだけの人たちが亡くなったか知る由もなかった。

 その後4月の初めには海軍兵学校に入学するも4ヶ月で敗戦。それから長い惨めな戦後の生活が始まったのである。思い出は必然的に繋がっていく。もう今では空襲を生き延びた人も少なくなり。戦後の惨めな生活さえ知らない人が多くなってしまっているが、以来79年経ってもいまだにアメリカの属国から脱し得ないのはどう考えても情けない。

 

 

映画「フィラデルフィア」

 先日たまたま家のTVで表題の映画を見た。1993年のアメリカ映画で、トム・ハンクス主演でアカデミー賞などももらっている作品らしいが、エイズとゲイにまつわる偏見を法廷で覆していく物語である。 

 これは1987年に大手の法律事務所にいた弁護士が、彼のエイズ発症に気づいた雇用者から解雇され、法律事務所を訴えた裁判で死亡する直前に勝訴したという実話の基づいたものらしい。

 当時はまだエイズはゲイの間で多い病気で、まだ詳細がわかっておらず、治療法もなく、感染経路も不確かで、罹ればば死に至るのが必須の病気として恐れられ、単に接触するだけでも感染するのではないかと、ゲイに対する偏見とも結びついて、エイズが社会的に問題とされていた時代であった。

 それでトムハンクス演ずる弁護士を雇った大手の法律事務所では、彼にエイズの兆候を見て接触によるエイズの感染を恐れ、トムをなんとか処分しようとしたが、ゲイやエイズで馘にすることは出来ないので、ハンクスの作った報告書を隠したりして、仕事の邪魔をし、仕事の能力を口実に解雇したのであった。

 思わぬ処置に、真の理由を怪しんだハンクスは、事務所を訴えるべく、色々な弁護士にあたるが、なかなか誰も引き受けてくれないので、自分で訴訟に踏み切ろうと色々調べる。

 最終的に頼まれて断った黒人の弁護士は同性愛者を嫌悪していたが、医師に通常の接触では感染しないことを確かめ、たまたま図書館で色々調べているハンクスに出会い、自分にまで向けられる周囲のエイズに関しての偏見の強さを知り、ハンクスの調べていた書類などをも見て、事件の受任を決意する。

 以下は法廷でのやり取りとなる訳であるが、そこでもエイズに対する偏見が露わになったりして、最終的には陪審員の評決で勝訴する。ただし、法廷で倒れ、裁判のすぐ後で自宅で息を引き取るという筋書きになっている。

 法廷劇の部分が多く地味な映画とも言えるが、場所がフィラデルフィアで、裁判に象徴的とも言えるシティホールのウイリアム・ベンの像が出てくるし、バックグラウンドの音楽もなかなか良い映画であった。

 今ではエイズに対する理解も進み、治療法も確立して事情はすっかり変化したであろうが、人々の未知なものに対する不安や恐怖などが容易に偏見にも結びつくことを歴史が教えてくれた出来事であったと言えよう。

 

 

白寿の祝い

 この3月8日は姉の誕生日だが、今年は白寿の誕生日である。百の字の上の一を取れば白になるので、100歳にひとつ足らない99歳を白寿と言って、昔からお祝いをするのが習慣である。私の属している医師会でも、正月の互例会で例年その表彰式があり、今年も一人、比較的親しかった開業医だった先生が表彰された。

 昔からのしきたりで、今も数え年で行なわれるのが普通なので、表彰された先生も満年齢で言えば98歳なので、まだ一年先のことかと思っていたそうである。そう言えば私も再来年まで生きていたら白寿、身震いする様な感じである。

 姉は大正15年生まれ、私は昭和3年生まれだが、昭和元年は一週間ぐらいしかなかったので、姉とは二つ違いである。姉は4〜5年来、施設に入っているが、思えば、二人とも長く生きてきたものである。

 父が94歳、母が96歳で他界しているので、長寿の遺伝子に恵まれていたのであろう。戦中戦後の貧しく厳しい世の中を乗り越え、特段、健康に留意して暮らしてきたわけでもないが、よくぞここまで生きてきたものかと思わざるを得ない。

 我々の世代はまだ「貧乏の子沢山」という言葉が生きていた時代で、我々兄弟も元々は七人兄弟だが、一番上の二人は共に夭折しているので、実質、姉が一番上で女一人で、あとは殆ど年子で続いた男四人の五人兄弟であった。

 今から思えば多過ぎるぐらいの兄弟であったが、いつしか一人減り二人減って、三人が何とか90歳にたどり着いたが、弟が死に最後に姉と二人だけになってしまった。

 その姉も、このところ施設に入り、一人だけになった息子が始終、面会い行ったりして面倒を見ている。一昨年暮れぐらいから体調が衰え、昨年の誕生日まで持てばと思っていたこともあったが、幸いにもその危機を乗り越え、それから丸一年。昨年も暮れには食欲もなくなり、正月まで持つかなと危ぶまれ、誕生日までは無理ではとも考えられたが、何とか満98歳の誕生日絵を迎えられた。

 施設でも白寿の誕生位祝いをしてくれる様だが、こちらも久しぶりで面会に行って、その後息子と我々でお祝いをしようと思っている。

世代の長さ

 女房がこの3月2日で90歳になるというので、一昨日娘が近くのレストランで誕生日祝いをしてくれた。

 ところで、その娘が今月の終わりには還暦を迎える。その上、アメリカにいる孫が丁度30歳になった。90歳、60歳、30歳と丁度綺麗に30歳毎に並ぶことになる。もう一人上の娘が64歳になるので、正確ではないが、今時は、一世代がおおよそ30年ぐらいだということを表しているものの様である。但し、孫は未だ独身なので、この間隔は次の世代にはもう通用しない。

 一昔前までは一世代はおよそ25年くらいと考えられていたものである。 ところが今や世界的に、ことに先進国では、婚姻年齢が遅くなり、世界的に少子化が問題になってきており、必然的に世代の交代も遅れていくことになるのであろう。

 若い女性はクリスマスと同じで、24歳までが華で、25歳を過ぎるともう婚期を逃してしまっているなどといわれていた時代もあったが、今や結婚する女性の年齢も遅くなり、30歳超えの花嫁も珍しくないばかりか、結婚自体をしない女性も増えている。

 世代間の間隔が25年間ぐらいだったわけだから、その頃なら75歳、50歳、25歳といったものであったのであろう。当然80代、90代ともなればひ孫も出来、子供の数も多かったので、正月などには大家族が一堂に集まる様な機会も多かったことであろう。

 以前、私の小学校の最後のクラス会をやった時に、昔の土地の旧家の息子だった友人が、

自分を中心にして写した大家族の記念写真を見せてくれたことがあったが、それが私が見た大家族の最後の記録となってしまった様である。また、私の父が90歳を超えてから、ひ孫のいないことを嘆いていたが、今の私はそれを嘆く気にもなれない。

 行き詰まった資本主義のこの世が此の先がどうなっていくのか心配であるが、それとともに多くの国が少子高齢化し、人口減少が進んでいく先には、どんな世界が人類を待ち受けているのであろうか。最早、私が確かめることは出来ないが、あくまで希望は持ちたいが、果たしてどうなるか不安も拭いきれない。