読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

共謀罪を作る共謀

f:id:drfridge:20170512084046j:plain

 SNSを見ていたらこんな写真が出てきた。今国会で審議中の共謀罪を推進しようとしている自民、公明、維新のトップの三人の写真である。写真に重ねて共謀罪と文字が入っているので、まるでこの三人が共謀して組織的に憲法にも違反する犯罪を企む「共謀罪」の被疑者の写真の様な感じであった。

 国会の審議からも「テロ等準備罪」などという名称は後からとってつけた看板に過ぎず、「共謀罪」の真の狙いは国民を監視下におき、人々の内面にまで踏み込んで、無理矢理にでも政府の方針に従わせようとするものであることが明らかである。

 戦前の「治安維持法」の復活である。「治安維持法」の帝国議会での審議の時も「これは一般国民には関係がない」と答弁されていた様で、当時の新聞にもその旨出ていた。それが、実際にはどんどん拡大解釈されて、共産党党員だけでなく、最後には政府に反対する恐れのある全ての一般国民が捜査の対象となり、小林多喜二ばかりでなく、多くの無辜の人たちが国家権力によって虐殺されるまでになったことを忘れてはならない。

 今の多くの国民はその苦い経験を知らないためか、未だに一般人には関係がないという政府の口車に乗せられて「テロ対策の法案か」と思っている人も多い様だが、必ずや、やがては我が身にも降りかかってこないとは限らない怖ろしい法案だという認識を持ってもらいたい。朝日新聞の投稿川柳にも下記のものが載っていた。

   ゆくゆくは我が身を縛る縄をなう  埼玉県 水島 正

 十分考え、検討して反対して欲しいものである。「治安維持法」の時代を繰り返し、再び同じ過ちを犯し、普通の人が自分のまともに感じたことすら発言できず、隠しておかねばならない様な世の中には絶対になって欲しくないものである。「後の後悔先に立たず」ということにならないことを願うばかりである。

 写真を見て感じたように、いっそこの共謀罪を作るとすれば、むしろこの写真の様な憲法に違反して人権を踏みにじる様な法案を、共謀してごり押しして通そうとする彼らにこそ適用するのがよいのではなかろうか。

アジアを代表するのは誰?

 朝日新聞のザ・コラムに吉岡圭子編集委員の表題の記事が載っていた。アジアインフラ投資銀行(AIIB)やアジア開発銀行(ADB)についてのものであったが、表題を見て遠い昔、戦後間もない頃に、アメリカからの論評として当時在米の中国人作家、林語堂が何かの雑誌に同じような表題について論じていたのを思い出した。

 もう七十年も前のことなので内容は覚えていないが、日本の敗戦後間もない頃、アメリカが戦後のアジアに進出するのに、日本か、中国かどちらを基軸に考えるべきかについての選択に関するものであった。

 日本は敗戦で国土も荒廃してしまっていたが、アジアではそれまでの覇権国で、発展段階も他のアジアの国より進んでいたし、占領によって自由に操作できるので利用しやすいが、一方中国は同盟国であったし、何と言ってもアジアでは国土も人口も飛び抜けて大きい中心になる国なので、ここを拠点にする選択肢も強かったのであろう。

 中国を中心に考える場合、当時の中国はまだ蒋介石が支配していたので、日本から残っている工場設備などを中国に移して日本を二度と立ち上がれないようにするとともに、中国を盛り立てていくのが良いのではないかという計画が真剣に考えられていたようであった。

 ところが、中国の内戦で国民政府が負け、中華人民共和国が成立し、さらに朝鮮戦争が始まって有無を言わせず、アメリカは占領政策を急遽大幅に変更して日本を基地として使わざるを得なくなり、日本はそれに乗っかって、好機とばかりに産業復興の足がかりにしたので、日本か中国かの選択は消えてしまい、その後の歴史の繋がったわけである。

  その後は歴史の教えるとおり、朝鮮戦争ヴェトナム戦争の基地を利用した特需で日本は経済復興を遂げ、アメリカの従属国でありながら一頃はJAPAN AS  NUMBER ONEと言われるまでに経済成長を遂げたが、ピークを超えた後、ここ二十年ばかりは経済も停滞し、その間に遅れた中国の発展が素晴らしくなり、いつのまにか規模でもすでに日本を凌駕し、世界第二の経済大国になっている。

 こういう経過を経てADBと AIIBの問題なども起こってきているのである。歴史は後戻りはできない。アメリカの凋落も次第に隠せなくなっており、アメリカでさえ中国との均衡を図っていこうとしている。アジアの国々も今や日本以上に中国との関係が深くなっているか、深くなりつつある。

 人口から言っても、土地の広さやそれに伴うアジア諸国との距離から言っても、今や中国の方がアジアの中心であり、アジアを代表するといえば外から見れば日本より中国にならざるを得ないのではなかろうか。

 いずれは日本もADBにとどまらずAIIBにも加入して一緒にやって行かざるを得ない日がやってくることは避けられないのではなかろうか。今後のアジアは良し悪し別にして、中国を中心にして協調してやっていくしかないのではなかろうか。

 その時のためにも、そろそろ一方的なアメリカ追随を見直して、アメリカに梯を外されて慌てなくても良いような準備をしておくべきであろう。

 

 

ゴールデン・ウイークの過ごし方

 今年のゴールデン・ウイークは五月の一日、二日を休めば九日連続の休日となっている。

 我々老人にとっては平日であろうと休日であろうと、ゴールデンウイークであっても、大して変わりはないと言ってもよいが、働き盛りのサラリーマン世代にとっては一年を通じて貴重な最大の骨休みの休日であろう。自分が仕事をしていた頃のことを振り返ってみても、連続した休日はありがたいものであった。

 それでも外国と比べれば日本の普通のサラリーマンではこれが最大で、これ以上の長期休暇を取れる人が殆どいないと言われるから哀れなものである。昔、私は退職時にゴールデン・ウイークも利用して、次の仕事との間に十五日の休日を作ってオランダへ行ったことがあり、自分にとっては人生最大の休暇をとって自慢だったが、オランダで泊めてもらった家でその話をしたら、仕事を始めたばかりの主人の妹が「私はまだ一年目だが一ヶ月休暇をとった」と言われて返す言葉がなかったことを思い出す。

 それはともあれ皆さんはどのように貴重なゴールデン・ウイークを過ごしておられるのであろうか。私たちは五月の半ばから孫の卒業式に出席するためにロスアンゼルスへ行くこともあって、近くの散策や音楽会、展覧会へ行ったり、家で友人と会食するぐらいで、主として家でゆっくり過ごすことにしている。

 テレビで新幹線や道路の混み具合を放送しているのを見聞きしていると、多くの人が家族連れなどで旅行してるのだろうことが想像できる。外国旅行に行かれる人も多いようである。繁華街も満員だし、色々な催し物も花盛りだし、休暇の使い方は千差万別であろうが、それぞれ好きなようにせっかくの休日を有効に利用してもらいたいものである。

 ところで、四日にテレビの高速道路情報を聞いていてちょっと驚いた。明日の夕方ぐらいから上り線の渋滞がひどくなるようなことを言っていた。始めは何気無しに聞き流していたが、明日はまだ五日で金曜日である。まだ土、日と二日も残っているではないか。混雑するのは早くても土曜日ぐらいからでもよいのではないかと不思議に思えてきた。

 何故だろう。九日間をまるまる使って旅行する人は案外少ないのかもしれない。そういえば昨年信州の高原に行った時、旅行会社のパンフレットにたった四日間なのに長期滞在型と書いてあったのを見ても、同じ所に一週間も泊まる旅行は日本では流行らないのかもしれない。

 お金もかかるし、家族連れでも二、三泊ぐらいで、後は家でゆっくりするぐらいのプランが主なのかもしれない。昔なら故郷へ帰ってゆっくりする人も多かったであろうが、もう帰る故郷のなくなった人も多くなったであろうし、帰っても昔と違って故郷の家と言っても狭い都会の家やマンションであったり、ひとり親が住んでいるだけであったり、故郷にはお墓があるだけで泊まる家のない人もいるのではなかろうか。

 そうすると、九日間の休みも二、三日の旅行に、近くのお出かけ、あとは自宅でゆっくりといった組み合わせの使い方が多いのかも知れない。それなら金曜日ぐらいには帰って、土、日と休養して、月曜からのまたの仕事に備えようということで、金曜日ぐらいから高速道路も混むことのなるのであろうか。

 可哀想な日本人はまだまだ長期の休暇を楽しむすべを知らないのであろうかと、暇な老人はテレビの渋滞情報を聞いて勝手にストーリーまで作って想像し楽しんでいるのである。

こんな人に政治を任せている日本人

「九十歳になっても老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけれど、おい、いつまで生きているつもりなんだよと思った」

 アベノミクスの失敗でますますなけなしの金を大事にして財布の紐を固くしている老人に言っているのである。ひどいことを言う人だなと思ったが、この人は以前からいろいろと、問題になるような発言をしているのである。

「死にたいと思っても生かされたんじゃ敵わない。政府の金でやってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるよに・・・」

と老人の終末医療費についても文句を言い、

「喰いたいだけ喰って、飲みたいだけ飲んで糖尿病になって病院に入っているやつの医療費は俺たちが払っている。無性に腹が立つ」とも。

 まるで病人が好きで病気になったようなことを言いながら、自分は好きなように酒を飲んでいるのであろう。こんな発言をしたのが誰かはすぐに見当がつくであろう。

 こんなことならまだ許せるとしても、本音はもっと恐い。

「ヨーロッパで一番進んでいたワイマール憲法がいつの間にか変わっていた。(ヒトラーの)あの手法を学んだらどうかね」

 

 1930年代の米国の経済不況について「(当時の米国は)いかにしてそれを解決したか?・・・戦争です」とも言っている。

 こう言った政治家の発言はは普通失言として扱われるが、普通にリラックスした時に気軽に口から出てくるような言葉の中にこそ本人が日頃考えていること、思っていることが自然に出てくるもので、本心を表しているものと考えたらよいことが多い。もちろん気軽な時も用心して自分の本心を決して表さないようにしている口の硬い政治家も多い。

 最近、政府がこの独裁者ヒトラーの「我が闘争」という本を教育に使っても良いという閣議決定をわざわざしたたことをみれば、こういう言葉もますます単なる軽口として見過ごすわけにはいかない。

  このような場面を見ていると、こんな人が副首相の国はどうなるのだろうかと恐ろしくなってくる。やがてはヒトラーの大衆扇動術も真似したらと言いかねない。

 

追記: この人はその後も国会の答弁でも思慮の欠けた発言を繰り返している。

 社会保障費の増大に関しては、原因である政策の貧弱さを棚に上げて、若い人が子供を産まないのが悪いなどと言うし、リニア新幹線の政府からの出資金が他の場合同様に将来より高額に膨らむことを心配した質問に対し「私が生きているかどうかわからないのでなんとも言えない」と無責任な答弁を平気でしている。将来の予測を立てて将来のために判断すべき大臣が、先の将来にことはわからないとただ逃げるのはあまりにっも無責任ではなかろうか。

 

ラ・フォル・ジュルネ・びわ湖

 ここ数年毎年4月の末になると、待ちわびて、びわ湖ホールラ・フォル・ジュルネ・びわ湖(La Folle Journee)へ行くことになっている。

 このラ・フォル・ジュルネは、元は1995年、フランス西部の港町ナントで誕生したクラシック音楽祭で、 毎年テーマとなる作曲家やジャンルを設定。コンベンションセンターで、同時並行的に約45分間のコンサートが朝から夜まで繰り広げられ、入場料も安く、好きなコンサートを選び、1日中、音楽に浸ることができると言うことで始まったもののようである。

 それが2000年頃から世界に広がり、、2005年からは東京国際フォーラムで開催。ついで2008年には金沢、2010年には新潟、びわ湖、などでも行われるようになったものである。主にクラシック音楽であるが、会場の外では子供や学生の合唱や吹奏楽などもあり、ホールの周辺には屋台も出て、音楽の合間も湖畔を散策したりくつろいだりできるようになっている。私たちはもう五年以上は通い詰めていることになる。

 何よりもびわ湖ホールが魅力的なのである。湖畔にあってホールの外はすぐ湖に接しているし、ホールの中からも湖の景色を一望できるのがたまらない。国中で一番立地条件に恵まれたホールであり、ホールの中の構造も良いし、私の一番のお気に入りのホールでもある。

 そこで一日中ゆっくりと好きな音楽を聴いて、その間には広い湖の景色を眺めながらくつろいだり、食事をしたり、湖畔を散策するのがたまらない魅力である。ちょうど気候も良くなったところだし、湖畔の開放感がどこのコンサートホールでも味わえないない良さである。

 大阪からは少し遠くて不便なので、始終行くというわけにはいかないが、やはり湖畔の魅力のためか、何か気の利いた催しでもあると、自然とまた行きたくなるのである。

 このラ・フォル・ジュルネでは演奏時間もだいたいは1時間以内に終わるようなスケジュールが組まれており、一日に色々な演奏が次々に行われるので自分の好きなものを聴きながら、間には湖畔を楽しむことで一日を有意義に過ごせるようになっている。

 今年のテーマは「ラ・ダンス 舞曲の祭典」ということで、私は聴かなかったが、日本センチュリー交響楽団によるベートーベンがあり、ついで大フィルのハンガリー舞曲をはじめとするいろいろな舞曲の演奏があり、それを聴いたが、いつもの身振り手振りの大きな大植英次指揮が遺憾なく発揮されていて楽しかった。

 その他キオスクでは、難しい曲に挑戦していたピアニストや、よく訓練された子供から高校生までの合唱、湖畔での高校生の吹奏楽なども聴いた。今年は行かなかったが、この会にはびわ湖遊覧船のミシガンの船上での演奏もあり、昨年だったかに参加したが、湖の船上での音楽もなかなか乙なものである。

 湖畔でゆっくりするだけでも楽しいのに音楽付きではたまらない。毎年また来年も行こうと思いながら帰りの送迎バスに乗る次第である。

 

 

瓦屋根の家が減った

 昔、母が歳をとってから何処かへ汽車や電車で旅行したりするごとに、車窓から外を見て「藁屋根の家が減ったね」と繰り返していた。それがいつ頃のことであったろうか。私の記憶でも戦前は田舎へ行けば何処へ行っても藁屋根の家が続いていたものだが、戦後になって経済の高度成長とともに急速に姿を消していったような気がする。

 ところが最近では、今度は瓦葺の家がどんどん減っているようである。都会ではマンションや事務所など、新しく建てられるのは四角いビルばかりだし、住宅街でも最近の建物は三角屋根であってもほとんどがスレート引きのような軽量の屋根で、瓦を乗せた重量感のある屋根や建物はほとんど見られなくなった。

 私の子供の頃の記憶では、東海道線で東京へ行く途中、熱海を過ぎると車窓からの景色が変わり、瓦屋根の家が少なくなって、スレート引きのような、軽い感じの家が多く見られるようになり、あれは関東大震災の影響だと教えられたものであった。

 その時は震災後に急いで建てられたいわば一時しのぎの建物のような気がしていたが、おそらく重い瓦を乗せた古来の日本式の建物は屋根の瓦が重いため地震に弱かったので、その教訓からむしろ積極的に軽いスレート屋根にしたのであったのかもしれない。

 神戸の震災の時を見ても、昔からの重い瓦を乗せ、それを柱で支える構造の日本家屋の倒壊が多く、私の先輩も純和風の大きな屋敷に住んでいたが、この地震で倒壊しその犠牲になってしまわれた。その経験から、それ以後新たに建てられる家はほとんど瓦を載せることがなくなり、瓦の産地であった淡路島の経済に大きな打撃を与えてことがニュースになっていた。

 私の子供の頃が瓦屋根の全盛時代だったのではなかろうか。学校の唱歌でも五月の節句の歌に「甍の波と雲の波・・・高く泳ぐや鯉のぼり」というのがあったし、中学校の頃、通学で毎日乗っていた城東線(現在の環状線)から東の方を見ると、遥かな生駒山までどこまでも瓦の屋根が海のように続き、その間の所々のコンクリートの白い学校など浮かんで見える景色が特徴的であったことを覚えている。

 それがもう今ではどこを見ても、瓦葺の家は新しい家並みの間にわずかに残っている古くからの家だけのようになり、それすら老朽化が進んで次々に壊され、新しい家に変わっていくようで、瓦屋根はますます減少していくばかりである。

 何処かへ行く時に新幹線などの車窓から眺めて、改めて瓦屋根の減少を確かめる度に、母の言い草を思い出し、一世代経てば「藁屋根が減ったね」が「瓦屋根が減ったね」に変わるのだなと思わされるとともに、それなら次の世代になると、今度はすでに始まっているようだが、「三角屋根が減ったね」とでも言うことのなるのかも知れないと思う。

 事実、都会ではオフイスやマンションのビルばかりが増え、従来からの三角屋根を乗せた建物は次第に減り、ビルの陰に隠れてしまって来ている。この傾向が続けば、次の世代には日本の都会では本当に三角の屋根が少なくなってしまって、四角いビルばかりの時代がやってくるのかも知れない。

 私もいつまで生きられるかわからないが、周囲の風景もどんどん変わって行くのを感じさせられている。

 

先人の教え

 東日本大震災の時、ニュースで知ったのだが、今回津波に襲われた地域では、以前にも津波を経験したところも多く、当時津波にあってひどい目にあった人が、その教訓を子孫に伝えようとして、安全だった高台に石碑を建て、「これより下には家を建てるな」と刻んでいたそうである。

 リアス式海岸の続くこの地域では、明治二十九年、昭和八年、さらに昭和三十五年のチリ地震と何度も大きな津波に襲われており、そのための石碑の数も300基以上にも及んでおり、その先人の教えを守って被害を軽くした所もあるし、いつのまにか忘れられて大きな被害にあった所もあるようである。

 姉吉と呼ばれる小さな地区では、明治の津波では2人、昭和の津波では4人しか助からなかったという過酷な経験から、海抜60米の地点に、「ここより下には家を建てるな」と刻んだ石碑を建て、以来それを守ってきたので、漁業で生計を立てていて浜にいた住民達も、津波とともに高台の自宅に逃げ帰り、おかげで3人の子供を学校へ向かいに行った母親ら4人以外は皆助かった由である。

 先人の教えは守るべきであり、このように守ったところは助かったが、守れなかった所もあながち非難はし難い。災害は稀にしか起こらないものである。特別なことのない平素の生活の中では、万いつの場合の先人の教えよりも、その時々の生活の便利さの方がどうしても優先し、いつしか先人の教えも無視されることにもなりやすいのである。そんなわけで生活にも仕事にも便利な海岸べりに街が発達していた所などでは、今回の大きな津波で多くの死者や被害にあったようである。先人の教えもいつしか忘れられがちになっていたこともあろう。

 被害にあった当初は誰しも貴重な体験を何としてもいつまでも子や孫にまで伝え、二度と同じ目に遭わないようにしたいと一致して思うであろう。しかし災害は忘れた頃にしかやって来ないものである。直接災害にあった人たちは骨見に応えているので忘れることはないし、子や孫にも将来の教訓として話を聞かせるであろうが、実際に体験していない者にとっては話としては理解しても、日々の生活の中では、いつも先にしなければならないことに急き立てられているので、どうしてもそちらが優先することになる。

 東北の地震で言えば、高台に家や街を再建しても仕事は漁業なので、仕事のために毎日浜まで降りていかなければならないことになる。仕事の忙しい時や仕事の打ち合わせなどではどうしても海辺で済ませなければならないことが多い。必然的に、初めは特別だと思いながら、次いでは時々と、浜辺にとどまることが多くなる。そのうちに便利さに負けて浜辺に定着する人ができ、都合の良さから次第に同じような仲間がふえてくる。そのうちにそれらの人を相手にした商売なども浜辺に出来てきてやがては街になるということになりやすい。

 災害は何十年に一度ぐらいしかやってこないので、子や孫の時代になり、実際に災害にあったことのない人たちにとっては、実際の災害の怖さはわからない。やがて災害は意識の上で次第に薄らいでくるし、それより日常生活の繁栄や便利さが優先されてすべてが進んでいくようになってしまう。そして全く思いもよらないある日にまた突然の災害に見舞われ、また過酷な運命を繰り返すことのなりがちなのである。

 東北大震災からもう六年経ったが、今ではまだ皆が災害の恐ろしさを身にしみて感じており、再発防止のための措置が打ち出され実行されて来ている。しかしそれがいつまで続くであろうか。私が子供の頃は関東大震災の話をよく聞かされたものだが、戦後は戦争のことでいっぱいだったせいもあり、ここ何十年ぐらいはもはや関東大震災の話をする人はほとんどいなくなってしまった。

 今頃どうしてこういう話をするかというと、大震災のことより、最近はあの無残な戦争のことさえ知らない人が多くなってることを憂えるからである。実際に戦争を経験した人たちが少なくなっていくにつれて、記憶が薄らぎ、戦争の記憶も風化して来て、実際とは離れた理解をしている人たちも増えて来ているように思われる。親から戦争の話を聞いた子供たちが今や高齢者の仲間に入るようになり、孫の世代が中心となってくると、戦争の実態を理解するのが難しくなるのも当然であろう。

 戦争はもう遠い昔の歴史上の出来事である。そういう時に戦前復帰を意図する政府が出てきて、それに同調する世論が力を増せば、誰しも自分の国の長所は歓迎しても負の部分はできることならあまり触れたくないので、政府の宣伝に乗せられて侵略戦争ではなくて民族解放のための戦争であったとか、南京事件慰安婦の問題はでっち上げられたもので真実ではないとか、被害をいつまでも主張する方が間違っているのだというような主張までする人が多くなってきている。

  我々のように戦争を体験したものにとっては、大日本帝国帝国主義政策をとり、台湾や朝鮮を植民地とし、傀儡としての満州国を作り、中国大陸に侵略し、その結果として太平洋戦争となり、悲惨な敗北をきたしたことは変えようのない歴史的な事実である。

 その悲惨な戦争を通じて日本人は多くのことを学び、その教訓の上に曲がりなりにもその後の平和な経済大国を築いてきたのであり、以来年月が経ち、戦争を経験した世代が次第にこの世を去り、戦争を知らない人達ばかりになってくると、せっかくの先人達の貴重な教訓も忘れられがちになり、また同じ過ちを繰り返しかねないような傾向になってきていることに非常に憂慮せざるを得ないのである。

 歴史を振り返ってみると、戦争は決して急に始まるものではない。戦争が出来る国にするには、戦争が出来る国家体制にしていかねばならない。そのためには反対派を制御し、体制の整備から国民の意識の変化などまで、一段一段積み上げていかねばならない。こうして大勢の準備が整って初めて戦争が可能な国が出来上がるのである。そこまで行けばもはや引き返すことはできない。そのような体制が出来上がってしまうと、体制であるので最早誰もそれを止めることができなくなってしまう。勝つ見込みがあろうとなかろうと行き着くところまで行ってしまうことになる。

  日本の戦前の歴史を見てもまずは教育勅語や修身教育、戦陣訓、天皇崇拝、宮城遥拝などによる国民の教化、治安維持法などによる反対勢力の抑え込み、言論の抑圧、軍部の発言力の強化、政党の解散に続く大政翼賛政治による独裁政治等々の体制が固められ、国民精神総動員や隣組組織による相互監視システムなども出来、もはや引き返しが効かなくなり。誰も戦争に反対することもできない状態となって戦争が始まり、行き着くところが国中焼け野が原となり飢餓にさらされるあの惨めな敗戦となったのである。

 戦後七十年経った現在どのような世の中になっているか。安倍内閣によって、秘密保護法や安保関連法案などが出来、今更に戦前の治安維持法に当たる共謀罪取り締り法が審議中であり平和憲法の改定さえ目論まれている。戦時の加害に否定や、侵略戦争そのものの否定や戦前の大日本帝国の復活を唱える人まで出て来ている。言論の自由も次第に抑えられ、嫌中、嫌韓の世論が煽られ戦争の切迫さえ唱えられている。

 我々戦争を知っている世代はやがてはこの世からいなくなってしまうであろう。しかし生まれ育ち、生きて来た故郷だるこの国の運命には無関心ではおれない。戦後アメリカの従属国になったが、それを隠しながらも幸い経済大国になったが、今や少子高齢化で経済の発展も望めない。アメリカにとっては日本は前線基地に過ぎないのでいつ捨てられるかわからない。戦前への復帰は日本を孤立化させるだけである。

  先人の血の滲む貴重な体験からくる教えを今一度思い出して欲しい。広島の原爆の碑にも「静かに眠ってください。過ちは繰り返しません」と刻まれていることを忘れてはなるまい。それが戦前路線の終着地であったのである。ドイツのように二度までも世界大戦による国の壊滅を経験する前に、何とか賢明な道を選んでいつまでも平和で幸福な生活を続けられる国であって欲しいものだと願わざるを得ない。