安倍政権はアメリカの出先機関か?

 最近のフェイスブックだったかに、沖縄の玉木知事のアメリカの支配がいつまで続くのかというような記事を見たが、政府は沖縄県民の度重なる反対の声を全く無視して、辺野古アメリカの空軍基地建設を進めている。

 民主主義を国是とする国で、これだけはっきりしている民意を無視してまでアメリカの基地を作ろうとする行為は、最早日本政府が国民を代表した政府ではなく、アメリカの出先機関であることを示しているとしか言いようがない。

 敗戦後70年以上経っても、依然として実質的にアメリカに支配されているのが仕方がないとしても、これだけ民意が一致して反対しており、現に米軍駐留による数々の被害が続いてきているのであるから、民主主義を標榜する国の政府であれば、先ずは国民に現状を説明し、アメリカとも交渉し、既定方針を再考し、出来る範囲ででも、沖縄の人たちの期待に応える努力をすべきであろう。

 ところが政府のしていることはどうだろう。国民の民意に答えるどころか、辺野古への基地移設は強引に進める一方で、アメリカの要望には腰も軽く、言われるままに、イージス・アショア 2基5000億円、F35戦闘機100機 1兆円、オスプレイ17機3500億円などと、アメリカから言われるままに、ここ5年間で総額27兆円という天文学的な数字の武器を買い、さらに辺野古工事にも2.5兆円、ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」を空母に改装、与論島宮古島石垣島など沖縄、南西諸島に自衛隊の基地を作り、中距離ミサイルを配備、アメリカの海兵隊に当たる部隊やサイバー空間を狙った部隊の創設など、憲法に違反して、攻撃的な自衛隊の拡充、強化まで急いでいる。 

 そのために急増する「国防費」の支払いのために、政府は国内の防衛関連企業に政府調達の武器の代金の支払い期限を2〜4年延期してほしいと要請することまでして対応しているようである。武器はどんどん新しくなりすぐに旧式になって使い物にならなくなるだけで、他の産業と違って何物も生まない使い捨てのものなのである。

 朝日新聞の日曜歌壇に「改憲し防衛装備した後に平和が来ると誰も思えず」という歌が載っていたが、人々の将来の不安や心配はまさにその点であろう。石垣島での仮想の戦闘図までSNSに出ていたが、まさか政府は再び沖縄や南西諸島を戦場にするつもりなのではあるまい。

  あまりにも高額な軍事費は庶民感覚からは実態をつかみ難いぐらいだが、3000億あれば国立大学の全学生の学費をタダにできるそうだし、F35戦闘機1機で都市部で定員90名の認可保育所を50ケ所、4500人分が出来るそうであるから、武器がいかに高額なものかということもわかる。

 誰しも思うのは、これだけの大金があるなれば、現在最も問題となっている少子高齢化で老人医療・介護をはじめとする社会保障費や生活保護費などの貧困対策などの国民生活に対する必須の費用などに回した方がどれだけ国民のためになることかということであろう。

 安倍政権は本当に国民のためを思っているのだろうか。アメリカに擦り寄って、限られた自分達だけの利益のために動いているのか疑わざるを得ない。

 

 

 

 

 

水道法改正民営化。フランスのヴェオリア社  松山市

コンセエション方式

種子法

移民させない 労働力としてしか見ない 雇用調整弁 低賃金

「日本が売られる」堤未果

ある友人の死

 九十歳も過ぎれば、既に亡くなった友人も多く、僅かに残った友人さえひとり、またひとりと消えていく。住所録を開くと、抹消した横線ばかりが目立ち、ページによっては誰も残っていないところもある。

 つい先日も残り少ない友人の一人が亡くなってしまった。家族ぐるみの付き合いをしていた中学校の時のクラスメートで、この春には二人で紀三井寺へ行ったところであった。

 以前に大動脈の手術をした他は元気だったが、前立腺で病院に受診することになっていると言っていたのが、この夏の初め頃だったであろうか。その後間も無く、「病院を受診した後、直行でこの施設に入れられたのだが、退屈で困っている」という連絡があったので、早速そこらにあった二、三の本などを持って、その施設に見舞いに行った。

 三、四階建ての新しいビルで、階下がクリニックで、上階はそれとは別の名前のつけられた施設になっている。この頃は老人ホームでも色々な種別があってわかりにくいが、初めはどういう種類の施設で、どうしてそこへ入れられたのか、本人に聞いてもはっきりしなかった。

 脚に痛みがあるとかの話だったが、行った時には痛みもないそうだし、一見では特に悪そうなところも見当たらない、室内では歩いているが痛そうでもない。本人は「閉じ込められて、何もすることがないし、飯は甘くて口に合わないし、外へは勝手に出ていけない」と苦情を言っていた。

 彼の子供はお嬢さん一人で東京在住で、奥さんは昨年暮れぐらいからだったか、大腿骨骨折で車椅子生活になった後から、他の施設に入ってられる。娘一人で両親の遠距離介護をしなければならない状況である。その時はお嬢さんの方が9月末までは東京で手が離せない仕事があるので、一人で家に置いておくのは危険だし、安全策として、仕事が一段落するまで施設に入れることにされたのだとばかり思っていた。

 従って、私としては、「部屋の中で一日中じっとしていては、かえって健康にも良くないから、少し体を動かすようにした方がよくはないか。外出できなければせめてベランダへ出てスケッチでもしたりしては」と奨めたり、模型を組み立てるのが好きなので、後日プラスチックの組み立てセットを持って行ったりし、「九月末になってお嬢さんの手が開くまでの辛抱だ。そしたらまた家に帰れるよ。」などと言ったりしていた。

 本人も元気そうで、家でしていた剣道の素振りをするため朴刀を持ってきて貰うとか、「黙ってここを抜け出して、信州を経て、東京まで行こうかとも考えているのだ」などという話などもしていた。ここを出たら「倉敷から小豆島へ一緒に行こう」という相談もした。

 ところがお嬢さんの仕事が一段落過ぎて、帰阪された頃になると、本人はもう元気がない。車椅子に座りぱなしになっているかと思えば、寝たきりのようになり、下肢に痛みもあるようで、むくみも出て来た。丁度、主治医の説明があるので、一緒に聞いて欲しいとのお嬢さんの要望で、主治医の説明を聞かせて貰った。

 その時、MRIの画像を見せてもらって全ての疑問が氷解した。実は前立腺の癌がもうあちこちに転移し、腰椎などは骨が半ば融解しており、目を覆いたくなるようなひどい所見であった。これではもう長くはないと思わざるを得なかった。

 病院を受診した時点で既に転移巣がひどく、年齢その他総合的に考えて、積極的な抗がん剤治療などよりも緩和治療を選択されたのであった。それが正解であった。私はそれまで迂闊にもその施設がペインクリニックの経営であることに気がつかなかったのだが、そのペインクリニックの緩和病棟という関係であったのである。

 入所当初より歩けるのに、一人では外へも出れないし、部屋の外は車椅子に乗せられるのだと言っていたのも、転移のある腰椎の骨折などを恐れてのことで、職員の応対もそれに沿ったものであった。本人がどれほど説明を受けていて、自分の病状を理解していたのかは分からないが、入所当時は退屈するほど元気だったし、痛みがあればペインクリニックに対応してもらえたし、病院で無益な癌の治療を受けて副作用などで苦しむより、正解だと思われた。

 それにしても、説明を聞いて、これでは長くてももう今年中は持つまいと思ったが、それから1週間か10日ぐらい後には、もう帰らぬ人となってしまった。阪大に献体を登録していたので、引き取りに来る前に、お別れの会をして、花に包まれた棺を見送ったが、本当にあっけない別れなってしまった。私の心にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。

 何事にせよ、初めがあれば終わりもあるもので、同い年の私も、いずれそのうちに後を追うことのなるであろうが、仲の良かった友達が先に消えて行くのはやはり寂しいものである。

 今は静かに冥福を祈るばかりである。

 

 

安倍政権はアメリカの出先機関か?

 沖縄県や沖縄の人々の強い反対を押し切って、いよいよ沖縄の辺野古基地の埋め立て工事の土砂投入を政府は今月中にも始めるようである。

 沖縄の基地反対の声は一部の人たちだけの声ではない。自民党から共産党まで全てと言ってもよい人々が一致して反対していることは、先の故翁名知事のオール沖縄の組織でも明らかであるし、それを引き継いだ現玉木知事の選挙やその後のはっきりした態度でも起きらかである。これまでの度々の選挙の結果でも証明されている。

 沖縄の人々の歴史を見ても、誰しも沖縄の人々の米軍基地反対の心情はよくわかる。戦争で四人に一人が死ぬという過酷な歴史の上に、米軍により土地を奪われて巨大な基地が作られ、沖縄の人たちは限られたところに密集して住まねばならなくなり、その上、今でも米軍の事故や犯罪などによる被害が次々に起こ理、苦しめられている。

 沖縄へ行って小高いところから周囲を眺めて見るがよい。緑豊かで良さそうに思える所は殆どが米軍の基地や、関連した区域、米軍用住宅地などであることがわかる。日本の米軍基地の殆どが沖縄に集中しているのである。アメリカの都合だけでなく、日本政府が内地の米軍基地によるトラブルを避けるために、多くの基地を沖縄に集中するように仕向けた面もある。

 そのような過酷な条件にさらされながら70年以上も耐えて、安保条約による基地などの本土の負担までを一手に引き受けさせられてきた沖縄の人たちが、これ以上の苦しみを避けたいと願うのは当然である。これまでの数々の選挙でも、民意は必死になってその意思を示してきているである。

 それにもかかわらず、政府は基地建設を問答無用で強行しようとしているのである。安倍首相が繰り返す「沖縄の民意に寄り添って」という言葉がいかに空々しいか誰にも明らかである。政府は沖縄の民意よりも、アメリカの都合を優先していることのである。

 いかに日米同盟を重視するにしても、これだけ沖縄の人々の一致した反対があれば、日本国民のための、沖縄の人々のための政府であれば、もっと沖縄の人たちと話し合いを続け、知恵を絞って代替案を考え、アメリカとも交渉して方針を変えるべきではないか。

 安倍首相は、それほどまでに沖縄の民意を無視し、強引に憲法改正などにまで走る半面で、アメリカの言うなりに、莫大な金を投じてイージス・アショアやF35戦闘機を100機も買うと決めて、トランプ大統領に褒めてもらい、自分のホームページのトップをトランプ大統領との握手の写真で飾るなど、いよいよアメリカの手先としての顔を強くしている。

 今朝の新聞の川柳に「アメリカのポチかと思えばカモだった」と言うのがあったが、まさにその通りではないか。安倍首相はどう見ても日本の国民のために尽くす首相ではなく、日本におけるアメリカの利害関係の代表者であるとしか思えないであろう。国民のために働く首相のいないこの国の将来が危ぶまれる。

 国民は皆事の成り行きを見守っている。日本の首相であるならば、せめて沖縄の人々の切ない願いにはもう少し努力を払うべきではないか。

大阪万博

 2025年の大阪万博が決まった。お祭り自体は嫌いでないので、喜ばしい感じも多少あるが、1970年の万博の時のように希望に満ちた未来が輝くといった感じにはならない。万博の時までにあの頃の心が踊るような高揚感が戻ってくるであろうか、甚だ疑問である。

 こちらが歳をとって、果たしてその時まで生きているかどうかも分からないし、今のところ、また会場を駆け巡りたいような気持ちも起こらない。今日では国としても、大阪としても、万博を契機として目覚しい発展が期待されるといった展望も描きにくい。

 人口は減り、高齢化が進み、経済も大きな発展が望める状態ではない。大阪の産業の現状も地盤沈下でパッとしない。会場と万博を契機としてもう一度発展を!というところなのであろうが、現実は長年放置状態になってきた夢洲をIRとされる賭博場と万博を込みで何とかして経済発展に繋げないかという期待に過ぎないような気がする。

 アメリカの賭博企業5社が既に万博関連の団体に加わっているようだが、万博のインフラ建設と賭博場のインフラ建設をかねて行おうという肚らしい。政府は2020年のオリンピック後の経済活性化のシンボルにしたいようだが、現在の経済状況の中で果たして高度成長時代の64年のオリンピックに続く70年の万博の再現のようにうまくは行くまい。

 今度は千里の太陽の塔のようなシンボルとなるものは作らないようだし、テーマも再三変更されて今ひとつ魅力に欠ける。大阪の経済状況にも70年頃の勢いはない。今回の万博は万博がうまくいけば儲けもの、むしろその後の博打のリゾートが本命のような気さえする。

 ところが、ラスベガスにしてもマカオシンガポールにしても、賭博商売は世界の大金持ち達よって成り立って来たが、あちこちに出來すぎて競争も激しくなり、その勢いも今はもう峠を越えて、賭博だけでは成り立たず、コンベンションや娯楽にも力を入れて行かねばならないとか言われ、ひと頃のような繁栄は望めないとされているようでもある。

 そうなると、あらかじめ皆が心配するように、庶民の賭博中毒者が増えることとなり、それに起因する借金、生活の乱れ、犯罪、治安の悪化などといった社会的にマイナスの面が強くなる恐れも大きくなることも予想され、政府や大阪府市の思惑がそのまま通るか心配になる。

  万博はもう決まった以上は、成功させてやりたいが、無理を強行して、経済的にも社会的にも負の財産として残らないように願うばかりである。

南京虐殺はあったか

 最近日本の右翼の人たちには南京虐殺などという事実はなかったという人までいる。

 しかしそういう人たちでも、日本が中国を侵略して南京を占領したことは否定していないであろう。何万人殺されたか、正確な数が問題なのではない。占領に際して一般住民の大量殺人が行われたことは、中国側の主張だけではなく、当時南京に滞在していたドイツ人牧師の証言もあるし、直接それに関わった旧日本兵の証言などもある。現在でも、なお南京に赴いて調査を続けている日本人もいるし、加害と被害の双方から聞き取ったルポルタージュ映画などもある。

 もう今日のように、殆どが戦争を知らない世代の人ばかりの時代になると、自分の国を良く思いたいので、過去の汚点を否定したくなる気持ちもわからないことはないが、過去の歴史を正しく認識することが、将来進むべき道を正しく示してくれるものである。

 イソップの少年が池の蛙に石を投げる話でもわかるように、加害者はすぐ忘れるが、被害者にとってはなかなか忘れ難いものである。日本人が空襲や原爆の被害を忘れられ難ければ、南京虐殺の歴史も被害者側には忘れられないのは当然であろう。

  記憶は得てして曖昧になったり、知らぬ間に都合の良いように変えられたりすることもあるものだが、それを前提にしても、まだ子供であったが、私にはその時に生きていた者として、色々な事実を思い出す。

 当時は田河水泡の漫画「のらくろ」のシリーズが子供達の間で一世を風靡していたが、のらくろは兵隊に行き、新兵から始まった次第に階級が上がっていくのであった。当然戦争にも行き、漫画の本にも中国の地図が載り、日本が占領した都市に日の丸がつけてあるコマのあったことを覚えている。それに倣って、私も中国の地図を広げて、新聞に載った都市を探し、日の丸の印をつけたりしたものであった。

 南京の城壁に並んだ日本兵が万歳を叫んでいる写真は何回も見せられた。それとともに日本軍が多数の敵兵を倒したとか、戦勝を祝った輝かしい戦争の記録などが新聞を賑わしており、当時は新聞とラジオぐらいしか情報源がなかったので、子供達もラジオのニュースを聞き、新聞を見ては喜んだものであった。南京陥落万歳という旗行列や提灯行列なども行われた。

 その頃新聞を賑わせていたのは二人の将校の百人斬り競争というのがあった。戦後否定されたが、当時は日本軍の勇ましさ、勝利の象徴のような扱いで、子供たちまでも応援するような気持ちで読んでいた。

 当時の話は新聞や報道でも敵兵を多く殺せば殺す方が良いというような書きぶりであったし、子供たちもそれが勝ち戦だと思っていた。弁衣隊という言葉をよく聞かされたが、軍服でなく普通人の格好をした敵兵、即ち一般住民を指していたようで、軍人ばかりでなく弁衣隊も多く殲滅したというようなことが書かれていたように思う。

 また当時のエピソードとして覚えているのは、揚子江に停泊していた日本の海軍から陸軍に「川にあまりにも多くの死体が浮いており、死体がスクリューに引っかかって軍艦が動かない」という苦情が寄せられたというのがあった。当時はいかに多くの敵兵を殺したかという自慢話の一環のような形で知らされたものである。

 当時の日本はまだ貧しかったので、軍隊にもゆとりが少なく、小銃一つにしても天皇から授かったもので、兵隊の命よりも大事だとされたし、兵隊は一銭五厘でいくらでも集められるが、軍馬はそういうわけにはいかないので、人間よりも馬の方が大事だなどとも言われていた。

 したがって、兵隊の人命尊重、人権などという概念も軽く見られていた。当時は戦地に初めて来た初年兵に戦地というものを知らせるためと称して、占領地の近くの村の適当な中国人を拉致してきて、棒にくくりつけて銃剣で刺して殺させるというような経験をさせた話も大ぴらに聞かされていた。

 戦時中に中学校では正課として教練というのがあったが、その一環として銃剣術が教えられ、そこでも地面に立てた杭に藁をつけて仕立てた人形を、敵兵に見立てて銃剣で突く訓練であった。戦争帰りの下士官が生徒たちに、「そんなやり方では人は殺せん」と怒鳴ってやり直しをさせたりしたものであった。

 そんな貧しい軍隊であったので戦争でも補給が一番の問題であった。「現地調達」という言葉が一般人にもわかるぐらい多用されていた。補給が間に合わないので兵隊の食料や日用品なども現地で適当に賄えということなのである。

 軍隊の運用ががそういう構造になっているからには、特に占領直後などでは補給が間に合わないので、現地で必要を満たさねばならない。当然略奪が行われたであろうし、若い兵隊ばかりなので、戦争につきものの殺人や傷害、婦女子への暴行などが起こったであろうことは想像に難くない。それを復員してきた兵隊が自慢して話していたものであった。

 そういう勝ち戦の経験があればこそ、敗戦直後に「アメリカ兵が上陸して来たら男は皆殺される、女は犯される、山へ逃げろ」と真剣に言われたのは戦時中にこちらがしてきたことを踏まえた警告だったのであろう。

 このような私の知っている範囲の当時の周辺事情だけから見ても、南京事件は起こるべくして起こったもので、種々の記録や発表と合わせて考えれば、それを否定することは困難である。嫌なことでも過去の事実は率直に認め、その反省をも含めた基礎の上に立って、初めて真の友好関係が築かれるものだと信ずる。

箕面尋常小学校の思い出

 昭和12年の7月7日に盧溝橋事件が起こり支那事変(日中戦争)が始まり、それからずっと戦争が続いて昭和20年の8月に敗戦ということになったわけだが、昭和12年といえば、私は箕面小学校の三年生であった。

 その頃は子供の目から見てどんな世の中だったのであろうか。まだ箕面市ではなく、私の住所は「大阪府豊能郡箕面村字牧落百楽荘」であった。箕面尋常小学校が村でただ一つの小学校で、同じ所に村役場も青年学校や家政学校などもあった。尋常小学校といったのは、当時の小学校にはまだ高等科というのがあり、中学へ進学しない子がそこへ行くことも出来たからである。

 小学校の正門を入ると、すぐ右手に二宮金次郎の像が立っており、その少し奥には奉安殿というコンクリート造りの祠のようなものがあった。この両者は当時の小学校では必須のもので、金次郎の像は、今のリュックを背負ってスマホを見ている姿に似ているが、山で集めた薪を背負い仕事をしながらも本を読んでいる姿で、「刻苦勉励」せよという子供たちの見本の像であった。

 一方、奉安殿の方は教育勅語が収められた建物で、当時は天皇から下賜された尊い物で、たとえ学校が焼けても、勅語だけは守らなければならないものとされていた。そのために焼けない頑丈な建物に収納されており、奉安殿の前では必ず頭を下げてから通り過ぎなければならないことになっていた。

 その近くに確か砂場があり、鉄棒が備え付けられていたように思うが、そこからが広い運動場で、その奥の正面に新しい鉄筋コンクリーと建ての新校舎があった。しかし、その後ろにはまだ古い平屋の木造の校舎が二棟並び、その北側には小さな運動場があり、その先は塀もなく、西小路と言われていた見渡す限りの田園風景が広がっていた。細い道が一本だけ箕面の駅の方まで続いており、背景が箕面の山であった。

 現在のようにすぐ北を横切る箕面市役所に繋がる道などまだなく、現在の市役所の場所は田圃の中の堤に囲まれた池で、堤につくしを採りに行ったりしたものであった。

 小学校にはもう一つ、校庭の東側にい少し古くなった鉄筋コンクリート造りの二階建ての校舎もあり、1年、2年が裏の木造校舎を使い、3年、4年が東の校舎で、5年、6年が新校舎と割り振られていた。

 当時の箕面は、郊外の宅地開発が進みかけていた頃なので、生徒も地元の農家の子と、開発された宅地の子が半々ぐらいの構成であった。地元には中井とか西川姓が多く、同姓の子が多かったので、姓ではなく名前で呼ぶことも多かった。農家の子の中には6年生の時、伊勢神宮へ修学旅行に行く時に、初めて汽車を見たという子もいた。

 クラスも男女は別で、一学年3クラスで松、竹、梅となっていたように思う。箕面村の範囲は今の箕面市よりずっと狭かったが、それでも子供の中には遠くから徒歩で通っている子もいた。大塚君といって箕面の滝勝尾寺の中間にあった「政の茶屋」の子がいたが、夏休み中、学校で行われていた朝6時からのラジオ体操に、毎日片道一里を越す道のりを欠かさず来ていた。今では考えられないようなことである。

 私の担任の先生は森田先生といって隣の萱野村から自転車で通っていた。校長先生は栗山先生といって豊中からの電車通勤であった。当時の箕面はまだ田舎の感じの残っている所で、阪急の箕面線も一両だけで走り、回数も少なかった。村長さんと同じ電車に乗って「今日わ」と挨拶をするようなのどかな雰囲気であった。

 阪急の箕面線」は今と同じように学校のすぐ横を通り、牧落の駅も今と同じ所にあったが、学校の塀などはなく、線路寄りにあった講堂の横から、自由に線路まで降りることも出来た。その頃一銭銅貨だったか、ニッケル貨だったか忘れたが、電車の来ないうちに硬貨を線路の上において、電車が通って、車輪に踏み潰されて硬貨がペチャンコになるのを見て喜んだものであった。今なら許されないような悪戯だが、先生にも知られなかったのか、怒られた憶えはない。

 当時はまだ今のような安全対策というようなものがなかったので、生徒が行方不明になると、便所の肥壺に落ちていないか、近くの野井戸に落ちていないかのチェックが捜索の優先事項であった。野井戸は開口部より中が広いので落ちると出られないということであった。池にも安全柵などなく、夏などには危ないから泳ぐなとは言われていたが、勝手に泳いで溺れて死んだ子もいた。箕面の川でも河原へ降りてチャンバラごっこをしたり、小魚を掬ったりもした。

 その頃の子供の遊びとしては御多分に洩れず、べったん(メンコ)やコマ回しなどもあったが、少し変わったものとしては、タンポポの首切り競争というのがあった。花の咲いたタンポポを茎の根元で切り取って、一人がそれを花を下にしてぶら下げ、もう一人が自分のタンポポの茎を同様に根元を持ってぶら下げ、交互に自分の花の首で、相手の花の首を打って、首を叩き落とすゲームである。首が落ちれば負け、落ちなければ次の相手と争うことになる。落ちにくくするのに、遠くまでタンポポを探しに行って強そうな花を選んだり、茎に塩をこすりつけたりと色々工夫もしたものだった。

 私は兄弟が五人で、ほとんどが年子だったので、私が三年生の時には、一年から六年まで一学年を除いて、どの学年にも誰か兄弟がいたので、校長先生はじめ先生たちも皆顔見知りになっていた。一年生の弟が「お漏らし」をして黙って家に帰ったことがあり、担任の先生が私に聴きに来たこともあった。

 その頃は土曜日は半日で、日曜日だけが休日であり、祭日としては正月元旦の四方拝、2月11日が紀元節、彼岸が春季と秋季の皇霊祭、4月29日が天長節、10月日が神嘗祭 、11月3日が明治節、23日が新嘗祭宮中行事が中心になっていたようで、どの家でも戸口に日の丸の国旗を掲げなければならなかった。

 もちろん、祭日は授業は休みだったが、それぞれ式典があるので学校に行かねばならず、生徒は講堂に集められ、教師や来賓の前で、校長先生が教育勅語を読むのを聴かねばならなかった。勅語は恐れ多いものなので、式典に間違いなどがあると大変なので、学校では前日に教頭先生による予行演習が行われた。

 勅語が読まれる時には聴衆は終わるまでずっと頭を下げて聞かねばならなく、御名御璽で終わったら、皆が最敬礼をしてから、やっと頭を上げても良かったのである。それと同時に、それまで我慢していた皆が一斉に咳やくしゃみ、鼻をすする音が聞こえたものであった。

 教育勅語の内容は子供には難しいので、内容を全て理解出来るわけではなかったが、教師の噛み砕いた説明もないままに、頭から丸暗記させられたものであった。従って御名御璽が何のことかわからず、終わりで最敬礼の合図ぐらいに思っていた。裕仁という字に印鑑が押されていたのだったことを知ったのはずっと後のことであった。

 「朕惟うに」というのもなぜ天皇はそんな変な言い方をするのか不思議で、皇后ならどういうのだろううか、天皇が「ちん」なら皇后なら「まん」ではないかと友人とこっそり言ったりしたことを覚えている。ただ我慢して教育勅語を聞いた後には、低学年の頃は、式が終わると紅白の饅頭がもらえたので、それが楽しみで、式が終わると饅頭をもらって走って家に帰ったものであった。

 学校の授業のことについてはあまり覚えていないが、当時は日本歴史が重んじられ、「豊原葦の瑞穂の國は我が皇祖皇孫の・・・」とか「神武・綏靖・安寧・・・」など、

教育勅語以外でもなんでも暗記させられたものであった。それに天皇を敬うことが忠心愛国の基本とされており、日本がいかに良い國だということが強調されていたようである。

 先生がある時、地球儀で赤く塗られた日本を示し、「地球はこんなに広いのに、君たちはよくぞこの小さい素晴らしい国に生まれたものだ」と言われたが、その時、ふと他に大きな国や地方が沢山あるのに、どうしてこの赤い小さな島が良いのだろうと不思議に思ったことを覚えている。

 学校の行事としては遠足で箕面の滝を過ぎ、政の茶屋を通って、当時はまだ細い山道を通って勝尾寺まで行ったことがあったし、六個山で裾の方から皆で包囲陣を作りウサギを頂上まで追い上げて捕まえるようなことをした記憶もある。

  また、 学校の周辺には八幡さんと阿比太さんという二つの神社があり、今は途絶えてしまったが、両方のお祭りが前後してあり、どちらもお祭りの時には、天狗といって、若者が竹を短く切って端を櫛状に細かく切り込んだ竹筒を両手に持ち、互いにこすって音を出しながら子供達を追っかけるという行事があり、子供達が集団で逃げ回って楽しんだものであった。

  また、箕面公園が比較的近いのでよく遊びに行った。滝まではよく行ったものだし、滝の上から滝の落ち口近くまで行ったこともあった。今と違って河原まで降りて遊べるところも多かったので、よく河原で友人と戯れたり、小魚を掬ったりしてびしょ濡れになったこともあった。

 その頃の箕面はまた昆虫の宝庫のような所で、日曜の朝になると、箕面の駅前では「昆虫採集の人はお集まり下さい」という声が叫ばれていた。集団で昆虫採集に行ったものであろう。我々はいつも行っていたので、そんな集いには加わらず、独自で歩き回り、蝶やトンボを探し、人の知らないアゲハチョウのよくいる場所などを知っており、人には内緒の秘密の場所などとしていたものだった。

 その頃は少なくとも子供達にとっては、まだ世の中にゆとりもあり、自由に遊んでおられたが、支那事変の始まりとともに、戦争の影が次第に世の中を覆って行きつつあった時代だったのであろう。村からの出征兵士も出るようになり、初めの頃は村総出で見送りに出たものであった。

 確か上等兵だったと思うが、「XX上等兵出征万歳」と書かれた幟を立てて、村長さんの発声で皆が揃って万歳を三唱し、列を組んで牧落の駅に向かい、駅では反対側のホームに小学生が並んで、紙の日の丸の小旗を振り、出征兵士を乗せた電車が出ていくのを「雲湧き上がるこの朝、旭日の下堂々と・・・」と歌って見送ったものであった。

 その頃は「祝出征・武運長久」と書かれた日の丸に皆で寄せ書きをしたり、白い割烹着を着た「大日本婦人会」のおばさんたちが、千人針や慰問袋などに精を出したりしていた。「贅沢は敵だ」「一億一心、百億貯蓄」などという標語が掲げられ、「パーマネントは止めましょう」という歌が流行ったり、「東洋平和のためならば」とか「満州は生命線」などと言われたが、どうしてそうなのか子供には誰も説明してくれなかった。

 それでも当時はまだ勝ち戦だったので、勝ちに乗じた優越感からか、中国人を「チャンコロ」とバカにし、中国のどこかの都市を占領するごとに、地図の上に日の丸を立てたり、旗行列や提灯行列をして祝ったりもしたものであった。

 当時の日本の軍隊は皇軍といっていたが、まだまだ野蛮な軍隊で、補給が十分出来ず、現地調達で賄えというやり方が多かった。必然的に占領地で略奪をしなければならなくなり、無辜の住民を殺したり、婦女子に暴行をしたりするようなことが起こった。箕面でも、戦地からの復員兵が見られるようになると、彼らは非日常的な経験を話したくてたまらず、子供のいる所でも平気で、戦地の自慢話などをしたりしていたものであった。

 その他にも色々なことがあったが、私の小学校時代はまだ戦争は遥かに遠い中国大陸で行われていることであり、内地では政府や軍隊、大政翼賛会や警察などによる統制が強められ、庶民の生活も引き締められて行きつつあったが、戦争景気もあり、紀元二千六百年を祝う色々な行事もあり、子供達の周辺の生活はまだ平和だったとも言えるであろう。そんな中で私は1941年(昭和16年)の春に小学校を卒業した。

 

老いの余禄

 卒寿も過ぎると、出来ることも少なくなってくるのはやむを得ないが、これだけ歳を取ったら、それなりの楽しみも増えるものである。

 例えば、何かの話で、名も知られていないような片隅の町のことが出て、相手が私がそんな場末の場所について知っていることに驚いて、「どうしてそんな所まで詳しいの」と言われたりすることが時にある。

 若い人たちにとっては未知の所でも、長い間生きていると、いつかの時点で、そんな所とも何らかの関係があったことがあったりして、そんな一つひとつがが記憶の底に溜っているので、平素はすっかり忘れてしまっていても、何かの刺激で蘇って来るわけである。

 ある時点で、そこらに友人がいたとか、何かの必要があってそこへ行ったことがあるとか、偶然そこに関連した出来事を知っていたとか、理由は百様で、楽しい思い出もあるし、苦い思い出もあるが、自然に収集されて多くの記憶が溜まってきたせいである。

 この間もバス旅行で東名道路を走っていたが、名古屋港の高い橋の上から名古屋駅前の高層ビル群などを眺めていると、自然に戦後まもなく、学生時代に過ごしていた頃の名古屋から、これまでの幾度とも知れない機会に遭遇した名古屋の光景が次々と脳裏に現れてきた。

 戦後まだ間もない頃には、駅前にはまだ木造のアロハアーケードが並んでいたことや、その後に出来たトヨタビルに「雀踊りのういろう」を買いに行ったこと、名鉄ホテルに泊まって熱田の伯父さんに電話したのが最後の会話となったこと、笹島から曲がって伏見町を通り広小路までよく歩いたこと、広小路筋の丸善で発売されるのを待って岩波文庫の富国論を買ったこと等など、取り留めもなく順不同に昔の光景が繰り出してきた。

 そうこうしているうちに、名古屋を過ぎてもう少し行ったあたりで、道路標識に「美合」という町の名前が出てきた。高速道路の出口があるのかどうか知らないが、特段何も変わったことがある町でもなく、恐らく殆どの人は一瞬で見過ごしてしまう標識に過ぎないが、私はチラとその名を見た途端、すっかり記憶の奥底に沈んでしまっていた遠い昔の話が、突然電気にでも触れたように飛び出してきた。

 上に書いたように、戦後名古屋に下宿していた時に、そこのおばさんに3〜4歳ぐらいの可愛い女の子がいて、その子が時に「見合いに行くの」というので、当時は結婚と言えばまだ殆どが見合い結婚だった時代だったので、どこかで見合いという言葉を覚えて、面白がってわざわざ話しているのだとばかり思っていたら、そのおばさんの里が「美合」だということが分かったという話を何十年ぶりかで思い出したのであった。

 歳をとると良くても悪くても、長年の記憶の蓄積が溜まるので、良いことばかりではないが、何かを切っ掛けに、すっかり忘れていた過去の記憶が突如として蘇り、他の人にとっては何の意味のないことだが、密かに楽しい思い出にひとり微笑んだり、嫌な思い出に顔をしかめることになるのである。これも老いの余禄であろうか。