大阪大空襲を思い出す

 知人の展覧会を見に天王寺美術館を訪れた序でに、公園の横の茶臼山町、堀越町から少し足を伸ばして、四天王寺を見てから悲田院町のあたりを散策して来た。

 戦争中から1960年まで、茶臼山町に住んでいたので、懐かしい所なのである。天王寺公園はかって住友家の屋敷があった所で、そのすぐ横に住友の社宅があり、そこに住んでいたわけである。その一画の突き当たりが我が家で、すぐ向かいが住友病院の院長の社宅、隣りは住友生命に勤めている人の家だった。 

 この家での思い出は、何と言っても、1945年3月13日の夜の大阪大空襲である。阿部野橋というターミナルから近い、言わば町の真ん中なので、ここらの空襲も激しかった。あの空襲の夜の景色はもう2度と見られないし、見たくもない。

 空一面から火が付いた無数の焼夷弾が降って来たのである。まるで一斉に打ち上げられた花火の真下にいるような感じである。空中から火が降ってくるのである。たちまち居並ぶ家屋に火がついてあっちもこっちも燃え始めたのであった。

 東隣の家は一時落ちた焼夷弾を消し止めたと言っていたが、結局、焼失してしまい、北側の大きなお寺の伽藍も燃え出したが、どうすることも出来ず、ただ傍観するうちに燃えて崩れ落ちた。そのうちに南の方の家にも火がつき、警防団の人に「火に囲まれるのでに逃げて下さい」と背突かれて、すぐ西の慶沢園の石垣をよじ登って、庭を抜け、美術館の地下へ逃げた。

 時々外へ出て、美術館から周囲を見てみると、空が赤く染まり、見える限りあちらもこちらも火の海であった。松屋橋通りから公園に入るあたりにあった武道館もみるみるうちに燃え上がり、焼け落ちてしまった。これでは我が家も焼けてしまっただろうなと思いつつ、朝になって恐る恐る家の様子を見に帰ったら、幸運にも我が家の一画だけがかろうじて焼けずに残っているではないか。

 しかし、家の後ろに回ってみると裏の塀は壊されており、そこから見ると我が家の北側は何もなくなり、今まで見たこともない光景。はるか向こうに上本町6丁目の近鉄のビルが見えるではないか。そこまでずっと一面の何もない茶褐色の焼け野が原が続いている。四天王寺室戸台風で倒れた後に、折角再建された五重塔も燃えて、なくなり僅か6年の命で終わってしまった。

 近くの広い通りまで出て、南の方を見ると、8階建ての近鉄百貨店(当時はまだ大鉄と言っていたような気がするが)の建物は残っていたが、骨格はそのままで中はすっかり焼け、どの窓の上にもは黒い煤がついていた。

 天王寺界隈だけでなく、大阪の中心部が殆どこの空襲で焼かれてしまい、一夜のことで全く変貌し、見渡す限りの焼け跡になってしまった。焼けて黒ずんだ蔵だけがポツンポツンと見えるだけで、あとは一面の茶褐色の瓦礫や燃え残った立ち木やガラクタの廃墟であった。

 戦時なので出来るだけ被害は隠し、小さく発表されるので本当のことはわからないが、あれだけの広さの街が焼かれたのだからかなりな人数の人逹が命を落としたり、傷ついたりしたに違いない。

 大阪中が焼き尽くされた感じで、今でも覚えているが、一面の焼け野が原の中を御堂筋だけがまっすぐに伸び、ガスビルと、本町のイトマンのビルだけがぽつんと寂しく残っている光景であった。

 当時はそれでもまだ、何も知らない「神国」の少年は「鬼畜米英何者ぞ、天皇陛下のために皇国はまだまだ戦うぞ」と戦意を燃やしていたが、この日本中の都市爆撃で戦の趨勢は決まったようなもので、あとは特攻作戦や最後の決戦、天佑や神風だけが頼りの負け戦で、急速に敗戦に向かわざるを得ない運命だった。

 この空襲で焼け野が原になったすぐ後に私は慌ただしく3月末には江田島海軍兵学校に行ってしまったので、それから後敗戦後しばらく経つまでの大阪の様子はわからない。

 父が「お前が海軍に行くようになったらもう日本もおしまいだな」と言った通り、4ヶ月で敗戦となり、復員して秋に家族の疎開先であった赤坂村を経て茶臼山に戻った。

 その頃にはもうアメリカの占領軍が美術館や椎寺町あたりにあった焼け残った青年会館だったかを接収して宿舎にしており、ジープに乗ったアメリカ兵があちこちで見られるようになり、パンパンと言われた売春婦などもうろつくようになっていた。

 天王寺の駅前から阿部野橋、市大の方へ下るあたりは闇市と化して大勢の人が集まり、傷痍軍人や浮浪児の靴磨きなどが目についた。学校もなく仕事もないし、急激な社会の変化について行けず、虚ろな顔で闇市をうろついたり、食料の買い出しに行ったりしていた。

 天王寺駅から四天王寺までの歩道には、お大師さんの日には、経木書きの出店がずらりと並んだりしていたものであった。それこそ食うや食わずの貧しい戦後の生活が続いていた。

 もう70年も昔のことで、今では戦争のことさえ知る人は少なくなったが、戦争だけは絶対するべきではないことを今の現役世代の人たちに伝えたい。

 その後朝鮮戦争が始まり、米軍の下請け仕事も出来、徐々に復興が進むとともに花火なども打ち上げられるようになってきたが、花火を真下で見ると空襲の夜が思い出されて嫌な感じが長く続いたものであった。

 それから早くも70年、いつの間にか経ってしまい、もう戦争のことも戦後の混乱も知らない人が殆どである。天王寺界隈も今では当時とは想像もつかないほど変わってしまった。

 近鉄百貨店が増築して大きくなり、アポロビル都ホテル、ご馳走ビル、天王寺駅ビルなどが整備され、立派な市大病院なども出来たが、それすらいつし変わって、あべのハルカスやQずモールなども出来、もう昔の面影は殆どなくなってしまった。

 茶臼山町の我が家のあたりも、いつの間にかラブホテル街に変わり、それも時代とともに大型化し、小さい所は立ち行かなくなったのか、潰れて駐車場になり、古い家を利用した料理屋や宗教団体の建物などに置き替わり、昔の住民も住居も殆ど残っていない。

  もうここらの空襲のことや戦後の闇市のことすら知っている人はいなくなり、古い住民でも代替わりで昔のことはわからないであろうが、空襲で焼け野が原になった光景を思い出す毎に、戦争だけはするなよ。庶民は犠牲を強いられ、惨めで辛いだけで、何も得るところはないよと言い伝えたい。

日本の恥

 下記のような記事をSNSで見て驚いた。開発途上国での話かと思ったら日本、それも来年にはオリンピックをしようという東京での話である。

 『東京入国管理局で12日、長期収容されているクルド人男性が体調の悪化を訴えたにもかかわらず、同局長の判断で家族らが求めた医療を受けさせませんでした。同局の前で、家族や友人、支援者らが夜を徹して「病院に行かせろ」と要請。夜に2度、救急隊が施設の中へ入りましたが、本人との面会すら拒否。男性は、13日の昼すぎに病院へと搬送されました。

 体調が悪化した男性は、同施設に約1年2カ月収容されているチョラク・メメットさん(39)です。12日の午前、家族との面会中に「息が苦しい」と語り、その後に体調の悪化を訴えました。午後から、家族が面会や安否確認を再三求めましたが、入管側は「問題はない」などの対応に終始しました。

 13日の朝、家族と一緒にメメットさんとも面会した「#FREE USHIKU」のメンバーは「面会所には車椅子で現れ、言葉少なに病状を訴えていました。本人は、施設内での医療は精神科医の診察と、夜に入管職員から鎮痛剤を与えられただけだと語っていました』というものである。

 この問題は、13日の衆院法務委員会でもが取りあげられたようで、弁護士らが緊急共同声明を発表し「被収容者の生命・健康に全責任を負うはずの入管が、病状を心配した知人が呼んだ救急車を医師の判断によらずに2度も追い返したのは言語道断」と非難している。

 入管の収容者に対する態度はこれまでもしばしば問題になっており、昨年秋には山本太郎氏も国会で取り上げており、それによると、昨年の4月には東日本入管センターのシャワー室で30代のインド人男性が首にタオルを巻き付けて自殺。命からがら脱出、他国の庇護と援助を求めてやってきたのに、24時間監視体制の下、鉄格子、施錠をした部屋で罪人のような取扱い。出身地、言語、宗教、生活習慣を無視した状況で、5名1組ほどでごちゃ混ぜに強制的に収容され、自殺の前日、仮放免申請の不許可を通知されたのだという。

 また、2014年3月30日には、東日本入管センターでは、カメルーン人男性が、死にそうだと痛みを訴え七転八倒する姿を入管職員が監視していながら、12時間余り放置、死に至らせたことも起こっている。

 さらに、2017年3月16日に東京入管から、同じ東日本入管センターに移されたベトナム人男性が、NGOによる聞き取り調査等によれば、男性が頭痛などを訴え、17日夜若しくは18日には口から血を吐き、泡を吹き、失禁。それまで収容されていたブロックから個室に移されただけで、2017年3月18、19、20日は3連休。その後も頭痛、頸部痛などを訴えたが、外部の病院には運ばれず、連休明けに来た施設の医師が診察、痛み止め、湿布を渡されて終わり。男性が痛い、痛いと叫ぶのに対し、職員は「静かにしろ」と言うのみで、同月25日死亡、死因はくも膜下出血であった例もある。

 更には、証拠保全された中にDVDまで存在した由で、男性が苦しみ、もがき続け、動かなくなるまでが記録された監視カメラの映像を山本議員も見ているという。

 こうした結果、全国の入管で、平成29年における自傷、自殺未遂の合計件数は44件。それにもかかわらず、なかなか医療につなげてもらえない。全国に収容施設17か所、そのうち24時間医師が常駐している施設は一つもなく、4、500人以上収容されている東京入管ですら週3日、午後だけで、それより医療を受けさせてくれと言ってもなかなか受けさせてもらえないのが問題と言われている。

 このような、数々の行き過ぎた入管の状況に対しては、国連からも、拷問禁止委員会から2度、移住者の人権に関する特別報告者の報告、人種差別撤廃委員会の総括所見、国連人権理事会からなどもと、再三懸念を示されているのである。

 それにもかかわらず、状況は改善の兆しなく、平成28年8月31日発付の法務省入国管理局総務課長、警備課長名では、「被収容者の適正な処分に係る経費について」という通知が出され、薬品等の使用機会の減少に努めることとか、入院・通院治療費では、外部医療機関の受診を抑制するよう努めることとあり、個別施設において急激な費用上昇が見られる場合は、収容者管理状況に問題がないか等について改めて確認するとまで書かれている由である。

 これが世界中の人々の人権を守る憲章を掲げてオリンピックを開催しようとする文明国のしていることであろうか。まさに日本の国の恥である。早急な改善は望めないのであろうか。 

 

離島の運命

 奄美大島へ行った時に観光と同時に考えさせられたことを書いておきたい。

 奄美大島佐渡島に次いで大きい離島である。都会に人口が集中する現在の趨勢では、離島は地続きの地方以上に衰退が進みがちである。御多分に洩れず、奄美大島も一時は人口が20万人を超えていたが、今や11万人と半減しているそうである。

 大島紬などの伝統産業は残っていても、大きな産業はないし、工場などの誘致も交通や物流の便を考えれば難しい。職場が少なく、大学もなければ、高校を出た若者は殆どが島を出てしまうことになる。益々発展から取り残される結果となる。

 奄美大島は古くは琉球王朝に支配されていた時代もあり、戦後はまた長い間アメリカの統治下にあったこともあるし、西郷隆盛流罪にされていたことや、隣の喜界島の僧俊寛の話からも分かるように、歴史的にも本土の人たちからは島流しの場所のような本土とは遠く離れた域外の土地の扱いを受けてきており、尚更の感がある。

 こういう所に対しては、政府の手当ても遅まきになる。住民の福祉のためより、国全体を考えた地政学的判断などの方が常に優先されることになる。そのおこぼれで住民が福祉にありつけるという結果になることが多い。

 沖縄についても同様なことが言えるが、アメリカとの関係がそれ違法に強いので、現在のような悲惨な状況が続いているのであろう。

 それはともかく、入り組んだ海と山に囲まれて僅かな平地に人が住んでいるので、島内の交通も不便である。島内の連絡も、昔は船で結ぶか、山越えで結ぶかしかなかったのであろう。今でこそ、多くのトンネルが掘られ、昔ならヘアピンカーブを上り下りして30分以上もかかった所が、今は数分で通り抜けられるようになっているが、これらのトンネルが作られたのが、全て平成になってからと聞いて驚いた。

 本州では、高度成長の昭和の時代に、主な幹線道路のトンネル工事などは殆ど済んでいたのに、ここは後回しになったのであろう。確かに人口や利用頻度などを考えれば、後回しになった理由も分からないわけではないが、島の住民から見れば本土の人たちより長い間不便な生活を強いられたということになる。

 平成になって島の道路などが整備されるようになったのも、単に順番が回ってきたというだけのことではなさそうである。地政学的に政府の方針が変わったことも関係があるように思われる。

 戦後、長らくは日本の仮想敵国はロシアであり、自衛隊は主に北海道に配備されていたが、平成になる頃から中国の台頭とともに、仮想敵国が変わり、自衛隊の配備が急速に北街道から南西諸島に置き換えられて行ったことに関係しているのではなかろうか。

 奄美大島では海を埋め立てて新しい空港が出来、近くの山には自衛隊のレーダー基地が作られている。その上、近く自衛隊の駐屯地も出来るようで、約六百人の自衛隊員が配置されることになっているそうである。

 島の人が「六百人と言っても家族を入れれば2千人位になるでしょうから、せいぜいお金を落としてくれて島の経済に貢献してくれれば」と期待していたのが印象的であった。

 そう言っていたら旅行が終わって大阪へ帰ったあくる日、テレビを見ていたら、早くも夜間に、自衛隊の大型トラックなどが20〜30台も陸揚げされて、走って行く様子が映し出されていた。

 沖縄の問題にも似ているが、自衛隊に基地建設で今問題になっている石垣島宮古島などでも、自衛隊の基地が出来たからと言って島民を守ってくれるわけではない。外国にまで届くミサイル基地ができるのだから、いつ、どこからかの攻撃の標的にされる恐れも出来るわけであり、自衛隊基地の建設には反対だが、島の経済にとっては少しでも潤うので歓迎だという、両面があることがわかる。

 基地建設などによる直接の利益につながる一部の人たちはそれを喜び、それに着け込んだ本土からの交付金なども絡んで中央と結び、何とか住民の平和な生活を守りたいとする素朴な願望からの反対を押さえ込もうとする図式化が進められることになるのであろう。

 また、奄美大島は沖縄に近いこともあり、今でも戦争の名残も僅かであろうが残っている。意識的に探したわけではないが、観光で訪れて海岸に旧海軍弾薬庫跡という看板が立っており、そこの山手に大規模に山を削った弾薬庫の跡今尚残っていたし、地図上には島の最南端には「海軍特攻隊の碑」と書かれた所も見られた。過去を知る人は今回の再軍備をどう思うであろうか。

 こうして、本土主体の政治は離島の住民の素直な気持ちなどは無視して、派手な観光宣伝の陰に隠れて、戦争中と同じように再び、離島は本土の都合によって単なる手段として利用され、島民はそのおこぼれで我慢しろというのが島の運命なのであろうか。

 自衛隊は国家権力を守るものであり住民を守るものでないことは沖縄戦で住民が身を以て感じさせられたことであったことを忘れてはならない。

 

 

奄美大島

 二泊三日で奄美大島へ行って来ました。伊丹から二時間足らずで奄美空港に到着します。ツアーだったので、空港を出たらすぐ大型の観光バスが待っていました。一瞬、こんな島で、こんな大きなバスで、大丈夫なのだろうかと思いましたが、大島と言う名がついているぐらいで、思ったよりずっと大きな島でした。南北間の距離は100キロ位もあるそうです。日本の離島では佐渡島に次いで大きく「淡路島を琵琶湖に沈めて、奄美大島で蓋をすると丁度良いぐらいの大きさだ」とガイドさんが教えてくれました。

 南国だけあって、流石に大阪より暖かく、ずっと西になりますので夜明けが遅く、7時過ぎまで真っ暗でした。冬でも暖かいので、正月に桜が咲いて、その後、梅が咲き、今はツツジが満開ということで、一年中花が咲いているそうです。ススキは枯れる間がないそうです。その代わり、秋の紅葉や落葉が見られず、山は一年中いつも緑に覆われている由です。

 木の種類も本州などとは少し違い、ソテツやシダの系統が多く、ガジュマルの森やアダン、もちの木などといった熱帯系の植生が多く見られます。またパイナプルに似たアダンの実をよく見ましたし、巨大なマメ科のモダマの自生している所へも案内されました。マングローブの林をカヌーで下れる所もありました。

 また、道端でひめハブを見つけましたが、猛毒のハブや耳の短い黒うさぎ、姿は美しいが鳴き声は感心出来ないルリカケスなどといった奄美特有の動物や鳥も見られるようです。

  かって琉球王国支配下にあった歴史からも想像されるように、言葉や風俗にも本州とは多少違った固有の文化が見られるのも、興味深いところです。「いらしゃい」という挨拶が、沖縄では「メンソーレ」で奄美では「イソーレ」ということなど、端的に奄美の位置を示しているようです。 

 もう一つ、何よりも素晴らしい奄美の自然は海の色です。汚されていないだけでなく、海底の地質の違いや、本州のように大きな海藻がないことなども関係しているのか、本州では絶対見られない美しいブルーの色から深緑、緑と、思わず綺麗だなと感嘆の声をあげたくなるような海の色をしています。見方によっては三色にも五色にも見えるようです。

 それに海岸線が概ねサンゴ礁に囲まれているので、岸辺をかなり離れた海の中に白波の線が引かれることになり、引潮の時にはそこらまで歩いて行けるようで、そこで潮干狩りなどが出来るそうです。島の南部の古仁屋港からグラスボートに乗ってサンゴ礁見物にも行きましたが、大小の魚が色々な形のサンゴ礁の周辺に集まっているのを観察することが出来ました。

 小さな島ですが、雨量が多いためか、山岳地帯にはいくつかの滝も観光コースに組み入れられており、北の方には、何万年前かに隕石が落下して出来た巨大なクレータの湾があり、その時巻き上げられた土砂によって、かって別の島だった最北部がくっついて、大島に取り込まれたのだそうです。

 二日目の夜には、そのクレータ湾の岬の先にあるプチホテルに泊まったのですが、ロケーションは抜群で、見渡す限り、270度が海で、エメラルド色の海に囲まれ、青い海と白い砂浜、岩礁の間にソテツのような大きな団扇のような葉をした植物が聳え、そのむこうから朝日が上る景色は思わず感嘆の声が出ずには済まないものでした。山のご来光も良いものですが、海と雲と日の出の組み合わせもそれに劣らないものです。

 最後の訪れたのが、田中一村の美術館でした。こここそが、そもそも奄美大島の旅行に参加した一番の動機だったのですが、期待に外れず、大作は30数点しかない、一村の奄美大島での作品の何点かの実物を見ることが出来、旅の目的を果たしたような気がしました。

 実際の風景を経験した上で作品を見ると、成る程こういう景色や植物、鳥などの世界に魅せられて、こういう描き方をしたのだなと言うことが感じられて、作品が一層身短に感じられたと言えるでしょう。美術館の周辺に、一村の絵の対象となった植物を集め、「一村の杜」という散歩道が拵えられていましたが、美術館の高床式のユニークな建物のととも、美術館の価値を一層高めているようでした。忘れがたい旅の思い出ともなりました。

 奄美大島は九州と沖縄の中間地点になりますが、いずれとも異なったユ二ークで魅力的な風物があり、機会があれば、また訪れてもよい所だというのが私の印象です。

忖度の恐ろしさ

 忖度という言葉は”忖”も”度”も「はかる」意で、本来は相手のことを慮ることで、悪いことではないが、上下関係や力関係のある中での忖度は、見えない力の行使に利用される。下の者が上の者に諂ったり、籠絡しようとすることに繋がるだけではない。権力を持った者が、直接命令や指示をするのでなく、わが意を忖度せしめて、間接的に命令や指示を実行せしめ、しかも己の責任は免れようとする狡猾で卑劣な方法であることを知るべきである。

 その典型が安倍首相に見られるものであろう。森友学園問題の時も、「自分が関係しているなら首相も国会議員も辞める」と大見得を切り、官僚たちが忖度してやったことで自分は一切知らなかったと言い、加計問題でも、忖度した官僚に責任を負わせて、自分は親しい友人でありながら最後まで知らなかったと主張していた。

 そんな後で、今度の統計調査の問題でも、都合の良いように操作していても、調査方法の変更は官僚が忖度してやったことで、自分は全く知らないと涼しい顔をしている。

 しかし、重大なことは、このように忖度が広がると、権力者側は命令や指示を出す前に、忖度することを暗示するようになり、それに応じて関係者たちは、出世のためや保身のために、指示より先回りして忖度し、競争相手より少しでも早く利にありつこうと努力することになる。権力が強力であればあるほど、その傾向は強くなる。あちらでもこちらでも問題が起こる前に、忖度して問題を回避しよう、させようとする力が働く。

 殊に、日本ではいわゆる”むら社会”の伝統があり、未だに大勢に和するを良しとする傾向が続いており、いろいろな議論なしの忖度がされ過ぎる嫌いがある。さらに忖度は忖度を呼びやすいので、特に注意が必要である。そういう社会では、忖度が嵩じると、仲間を売ることにさえ繋がりかねない。権力者にとっては万々歳である。戦前の日本がまさにそうであった。現在の政治風土がますます戦前に似てきたことを憂うるものである。

 現に、メディアの官邸に対する忖度が云々されているが、最近の記者クラブにおける特定記者の質問に対する妨害や、内閣官房からの質問制限とも取れる要請文など、報道の自由に対する抑圧の問題も起こっている。

 しかも、それに対する記者クラブの対応の中で、後で削除されたものの、「望月さんが知る権利を行使すれば、記者クラブの知る権利が阻害される。官邸側の機嫌を損ね、取材に応じる機会が減る」といった記者クラブの分断や、報道の側の忖度まで出始めていることは極めて危険視すべきであろう。

 それを踏まえ、戦前の翼賛政治を思い出して、それに現在行われている官僚などの政府に対する忖度などを照らして見れば、決して官僚たちの単なる処世術などと言って済ませられるものではないことが分かる。

 今の趨勢が続けば、忖度は表に出にくいだけに、させる方を増長させ、する方を促進させて、両々相まって政治の正道を外し、再び独裁への 道を開くことになる恐れが強くなる。

 政府をめぐる忖度は放置を許さず、厳しく一つ一つを追及して行かねば、取り返しのつかないことになることを認識すべきであろう。

 

 

 

 

風呂の蓋

 SNSを見ていたら風呂の蓋の話が出ていた。「風呂に蓋って何だろうか」と一瞬怪訝に思ったが、写真が添えられており、それを見ると突然古い記憶が蘇ってきた。そういえば、昔の日本の風呂には蓋があった。それを思い出して急に懐かしい気がした。

 記事は風呂の蓋を清潔に維持するためには風呂の「換気」より「乾燥」が大事だというものであったが、写真で見ると蓋はプラスチックでクルクル丸められるようになっていた。現代風のプラスチック?の浴槽に合う様に作られたものであろう。

 しかし、私に記憶に出てくるのはそれとは違って、木の湯船に被せた、取っ手のついた木の蓋である。風呂の様子は私の子供の頃と今ではすっかり変わってしまった。昔の日本の風呂場の、薄暗くて湯気が立ち込めていて、向こうの壁もぼんやりとしか見えない感じの光景が目に浮かんでくる。

 風呂場は元々は土間になっていたので、そこに置かれた大きな桶で作られた浴槽は湯舟などとも言われていた。多くは木製で、下の横に焚口がついているものが多かった。今の様に沸かした湯を浴槽に注ぐのではなく、水を満たしてから、浴槽の下に繋がる焚き口から薪などを燃やして湯を沸かす仕組みになっていた。当然、早く沸かすためには蓋が必要だったのであろう。

 風呂桶の下方に焚口があり、そこで直接火を燃やすものが原型であり、「五右衛門風呂」といって、大きな鉄製の釜をそのまま風呂桶としたものもあったが、私の子供の頃の多くの家での浴槽は、家の中の風呂場に作りつけられており、焚口は建物の外にあって、外から薪などを入れて炊く様に改善されているものが多かった。

 室内の湯船の大きさは色々だったであろうが、普通の家庭用のものでは、大約1mから1.5m四方ぐらいの大きさで、深さは50〜70㎝程度と深いのが普通であった。入浴する人はそこに座ったり屈んで入ることになっていた。小さな子供は立って入るか、大人の膝の上に座って入ったものであった。

 あらかじめ湯船にバケツで運んで、水を入れ、それを沸かして、適温になって用意が出来れば、湯加減を見て、同じ湯船に家族全員が順繰りに入るのが普通だった。入れ替わり立ち替わり入るので、入浴を終えた人は湯が冷めない様に蓋をして次の人に譲る様にし、それでも冷えれば追い焚きをして、温め直したりしたものであった。そのために蓋が必要だったのである。

 日本の伝統的な入浴方法では、先ず深い風呂のお湯に首まで浸かって、しばらくじっとして体が温まった頃に、一度湯から出て湯船の外で体を洗う。洗い終えたら、湯をかぶって石鹸などを洗い落としてから、もう一度湯船に浸かる。というのが一般的な風呂の入り方であった。

 同じ湯を何人かでシェアして使うことになるので、湯を汚さない様に、風呂桶の中では静かに体を浸して温まるだけで、そっとしていることが望まれたわけである。

 最後の人が使い終わるまで、出来るだけ湯が冷めない様に、また湯が汚れない様に注意して使うのが入浴の作法とされていたので、その一助として風呂桶の蓋も大事な役割を負わされていたわけである。

 ところが時代が変わって、現在の様に洋式や、それに近い細長で浅い浴槽が普及し、水道栓から直接浴槽に湯が入れられる様になると、事態は変わってしまった。

 簡単に浴槽を湯で満たせて、湯の貴重さも薄れ、浴槽を満たす湯の量も少なくて済み、同じ湯を何人かでシェアする必要もなくなって、利用する人ごとに湯も使い捨てられることとなると、空の浴槽に蓋は不要となり、いつしか蓋は消えてしまったわけである。

 我が家の場合も、いつ頃からであろうか。もう何十年も前から洋式のバスを利用しており、湯船の中で体を洗って、そのまま出て、外を濡らすこともない使い方をしてきたので、湯船の蓋など全く必要がなく、いつの間にか忘れられ、記憶からも殆ど消えかかっていたので、今回驚かされたわけである。

 給湯などが便利になった今でも、昔ながらの風呂で、昔ながらの入り方をしている人もおられ、人様々であろうが、ふと気がついてみると、長い生活の間に、風呂だけのことではなく、他の生活の備品やその使い方にしても、いつしか、すっかり変わってしまっていることに気がついて驚かされることがある。

 

 

統計を操作しても真実は変わらない

 厚生労働省の「毎月勤労統計」などの不正問題で、政府の統計に対する信頼が揺らぎ、国会でも野党の追及が続いている。

 これまでも、裁量労働制で働く人の方が一般労働者より労働時間が短くなると安倍首相が国会で答弁して、後で誤りを認めたり、ひとり親家庭の大学進学率が24%から42%に上昇したと誇ったのが、比較対象の誤りだったと判明したりと、間違った統計の利用が繰り返されている。いずれも比較してはならないものを、出てきた数字のみから比べていたものである。

 その上、政府はアベノミクスの効果を見せるために、首相秘書官が厚労省に働きかけて統計結果を都合の良いように操作している疑いも濃厚である。GDPの伸びが昨年6月に3.3%と宣伝されたのが、統計問題が追求されて2.8%に下方修正され、さらに日を変えて統計委員会の見解として1.4%と半減したようなことも起こっている。

 統計は数字を色々いじって、見せかけは変更できるが、統計の元になる真実は変えられない。いつしか真実が人為的な操作にしっぺ返しをすることを忘れてはならない。

 戦後に吉田茂元首相が「戦時中から、とかくわが政府は故意に、または無意識的に、自分に好都合な数字のみを発表することが癖になっていた」と記しているそうであるが、その誤った統計による判断が、あの無謀な戦争に結びついたものであり、その教訓を忘れてはならない。

 統計は真実を反映するためのもので、これが好ましいものであろうとなかろうと、表面を取り繕っても、真実が変わるわけはないのだから、真実と統計の乖離が大きくなると、必然的にいつかは何処かで破綻が生じることになるのである。

 そのために戦後の日本では「統計の真実性確保」をうたって「統計法」が出来たりして、出来るだけ実態を表す統計を取るように努力されてきた歴史があるのだが、戦後70年も経つと、いつの間にか、統計がまた次第に軽んじられ、数字が操作されて、関係者の願望に左右されるるようになってきたことが、最近の問題に結びついたのであろう。

 統計は真実を反映させるものであるから、冷静な目で見るべきものである。 真実に基づかなければ正しい行動は出来ない。統計を恣意的にいじれば、一時的にはその操作によって人を欺けても、いつかは真実と統計の乖離が大きくなって、必ずや何らかの破綻に結びつくことになる。

 例え止むを得ない事情で統計を操作するにしても、元のデータは必ず保管しておくべきである。真実は変わらないから、操作した本人が真実に裏切られることになる。統計は操作出来ても真実は操作出来ないことを知るべきである。

 経済的な種々の指標の数字と、多くの人が日常生活で感じる実態との乖離が強い今日のような時には、一度統計の分析方法や数値を見直して、真実に近附く努力をもすべきであろう。