日本の危険な道

 岸田首相の国賓待遇でのアメリカ訪問について、本人は議会での報告で「首脳会談や米議会での演説を通じ、私のメッセージを日米両国、そして世界に伝えることができた」と胸を張り、スタンディングオベーションで迎えられた米議会の演説を自慢した。

 しかし、あらかじめこの会談により、自衛隊アメリカ軍の指揮系統の見直しが決められることになっていた通り、今後、日米間の軍事同盟の強化が進み、情報でも装備でも圧倒的に優越的な立場にある米軍主導により、自衛隊が事実上、米軍の指揮統制のもとに置かれることになることは明らかである。

 国会での答弁で首相は「法令で定めている通り、総理大臣が最高指揮官として自衛隊を指揮監督することに変わりはない」と言っているが、有事の際に日本の主体的な判断をいかに担保していくかについては、具体的な説明はなされていない。

 首相の「これまでと変わらない」との発言にもかわらず、アメリカ軍が指揮し、その下で日本の自衛隊が第一線で戦う責任を負わされることになったことは明らかである。対中国のアメリカの政策にがんじがらめにされ、いざという時にはアメリカの指揮下で自衛隊が戦わされることになりそうである。

 アメリカは指揮権を行使し、兵器や弾薬は大量に供給するも、アメリカ兵の消耗は避けたいであろうし、有利とあらば攻撃はしても、不利なら逃げられる立場を確保することになるであろう。第二次世界大戦の時もマッカーサーは ”I will return” と言って、一旦アメリカへ帰って、後に攻め戻ってきたのである。米軍指揮下にある自衛隊は、ウクライナと同様、アメリカの代理戦争ををさせられることになりかねない。

 世界の動きを大局的に眺めるならば、アメリカの一極支配は終わり、BRICSなどの台頭は抑えようがなく、多極的世界になるであろうことは間違いないであろう。その世界を生き延びるためには、当面、日米同盟から逃れられなくとも、最低限、中国を始めとする諸外国との外交を強め、中立を確保し、戦争を避ける努力をすることが不可欠であろう。

 今のまま、今の路線を突き進めば、この国の未来が思いやられる。日米同盟にがんじがらめに縛り付けられて奈落の底に落ち込みかねない。少なくとも隣の大国である中国とは、もっと強力な外交による善隣関係を構築、維持するべきであろう。

 

 

 

桜と兵隊  

 春はやはり桜である。今年も桜を見るために入院させられていた病院から無理に退院させて貰って桜を見に行った。桜を見ないと春になった気分になれない。

 それほどの憧れとも言える桜であるが、すっかり忘れてしまっていたが、桜を見ると戦争を思い出して嫌な気分が戻ってくるので、長い間、花見は気が進まない年月が続いていたことをふと思い出した。

 かって桜はパッと咲いてぱっと散るところから潔い武士道と結び付けられ、そこから軍隊の象徴とされていき、旧帝國陸海軍では至る所で利用され、桜と軍隊は切っても切れない間柄となっていたものであったのである。従って戦後もその記憶が強く、軍隊がなくなってもその亡霊には桜がいつまでもまとわりついてのであった。

 例えば、大勢で花見の宴にいても、ふと幔幕の後ろからやつれた兵士が覗く気がしたり、満開の桜並木を見ると「万朶の桜の花の色・・・」という軍歌の響きと共に、隊列を組んだ兵士の亡霊たちの軍靴の響きが聞こえて来たりしたものであった。

 神社の満開の桜の下には忠魂碑があり、「出征兵士万歳」の声が聞こえ、その歓声の端に赤子を抱いた若い女性の亡霊のような姿が浮かんだりしたものであった。また、海軍兵学校の校庭を埋め尽くす様に咲いた桜が目に浮かぶと「貴様と俺とは同期の桜・・・咲いた花なら散るのは道理・・・」という歌が思い出され その先に人間魚雷「回天」が海を背景に置かれた景色が思い出されて来たものであった。

 そんなことがどれだけ続いたことであろうか。桜は私にとって長らく戦争と結びついて離れられなかったのであった。それでも、いつしか忘れていたが、もう10年以上の前であろうか、大阪城公園へ桜を見に行った時、たまたま、迷彩服を着た自衛隊の兵士が2〜3人、桜の木の下で休んでいるのに出会し、思わず昔が黄泉がえりドキとさせられたこともあった。

 幸い、その後も戦争がなかったお蔭か、戦争の影がようやく消えて桜を本当に愛でることが出来るようになったのはいつ頃からだったのであろうか。今では桜はやはり春の象徴である。もう二度と桜と軍隊や戦争結びつけて欲しくない。桜のように散って靖国神社へ逝くような世の中だけは絶対避けてほしいものである。

 

春の服装

 1年ぶりにまた孫たちがやってきた。孫といっても、もう一番上が30歳になるので、それぞれの仕事の都合もあるので皆一斉にとはいかず、お互いに少しづつずれながらの来訪となった。

 こちらはますます歳をとっていくし、今年は突然の血小板減少性紫斑病という難病まで背負わされているので、もう孫たちに会えるのも、これが最後になるのではなかろうか。

 それはともかく、びっくりしたのは孫たちの服装である。まだ4月である。夏日に近いと言われる日も出没しているが、朝夕など我々老人にとってはまだ肌寒く、私などヒートテックの下着にシャツだけでは寒く、上にセーターやカーディガンを引っ掛けている。

 ところがアメリカからやって来た孫たちの服装には驚かされた。姉の方は水着にも近い様な露出度の高いシャツというのか、何というのか知らないが、上半身はそれ一枚、それに長いスカート姿、弟の方は半袖シャツに短ズボンという出立ちである。いくらなんでも寒いのではないかと心配させられるが、本人たちは当然の様な感じでいる。

 いくら温かいアメリカから来たと言っても、あまりにも大きな違いに驚かざるを得なかった。もちろんそれぞれが自分の好みに合わせて着れば良いことであって、他人が口を挟む様なことではないが、この違いは年齢の差によるものなのか、それとも日頃の習慣の違いによるものなのであろうか。

 それを見てつい昔のことを思い出した。1961年に初めてアメリカへ行った時のことである。当時はまだ貧しい敗戦国の日本で、300ドルしか外貨を持ち出せず、飛行機はまだ高く、貨客船で10日もかけて太平洋を横断してサンフランシスコへ辿り着いたのであった。

 そこで見た街の光景を忘れることは出来ない。5月の初めであった。街を行く人々の服装に驚かされたのであった。毛皮のコートを着て歩いている中年の婦人のすぐ横を、まるで水着の様な格好をした若い女性が颯爽と歩いて行くではないか。他の人たちもてんでバラバラな格好をして歩いている。

 当時は日本ではまだ衣替えの風習が残っており、5月までは冬服、6月から9月までが夏服ということで、6月1日に銀行にでもいくと皆の服装が一斉に白い夏服に変わっているのに驚かされたものであったが、アメリカではそんなことにお構い無しに、皆がそれぞれに好きな様な服装で過ごしているのであった。

 今でこそ日本でも衣替えの様な社会的風習も影を潜め、皆が好きな様に自分の服装を選んでいるが、それでも季節の変化に従って、だいたい似た様な服装に落ち着いているのは、周囲に合わせようとする日本の風習が、今でも残っているからであろうか。

 孫たちの服装を見て、昔を思い出し、改めて文化の違い、気候の違い、年齢の違いなどを感じさせられた。

 

 

患者から見た現代の病院

 既にこのブログでも述べたように、私は3月末に特発性血小板減少症で急に近くの病院に入院した。わずか5日間の入院であったが、連日長時間かけてのガンマーグロブリンの大量点滴注射を受けていたので、まるで鎖に繋がれた囚人の如くに行動を制限されていた。

 早朝病院の廊下を散策した以外には、殆どベッドしかない病室に閉じこもっているだけの生活であったが、そこで受けた現在の市中病院の印象は、昔医師として活躍していた頃の病院とはかなり違ったものになっているように感じた。

 病院の建物自体が昔より合理的に出来ているし、ITが取り入れられているので、外来の受付も検査室、採血室など全てがより有効に組織化されて造られ、運用されている。従って、全く初めての人はまごつくだろうが、慣れれば全てが快適に流れるように考えられている。もちろん、まだ発展途上なので万事OKというわけにはいかないが、昔の病院に比べれば、全てが効率良く、しかも安全に動くように仕組まれているように思えた。

 入院した病棟では、昔と違って定時にナースがパソコンを乗せた台車を持って病室をまわり、脈拍、血圧、酸素飽和度を測り、その場でパソコンに入力するので、カルテに書き込むようなこともなく、記録は正確に記録され統合されることになる。ただ気になったのは、昔の看護日誌などはもうないであろうが、その代替のパソコンの記録はどうなっているのであろうかということであった。

 今やどこの病院でもIT化が進み、一旦入力された全てのデータが一箇所に集まり、全てのスタッフが情報を共有出来るので、情報の偏りはまずなくなったであろう。しかし、その分機械の操作などに時間を取られ、患者との触れ合いの機会が減ることになる。微妙なことは入力時に取捨選択されるので、端折られて情報が捨てられていることもあるに違いない。

 それに昔よりはるかに検査やその他の所見が豊富なので、今では患者との会話によるやり取りや、診察による体の微細な所見などより、豊富な検査データなどの記録が優先し、それらの総合が患者の全体像として捉えられているので、微妙な所見や患者とのやり取りから得られる所見はどうしても適当にカットされることになるだろうし、患者と病院側の微妙な意思の疎通の拗れなどが生じやすいのではなかろうか。

 今回の入院で驚いたことは、外来での診察から入院して退院するまで、医師もナースも私の体を見ようとせず、直接の身体検査は一度もなく、聴診器を当てられることもなく、両大腿から足先まで広がっている点状出血斑を誰も見ようとはしなかったことである。それを見たのは病棟の一人のナースだけであった。

 血液検査の結果から、病歴や診察所見がなくとも、免疫性血小板減少性紫斑病との診断は出来るし、そうと決まれば、それに対する豊富な検査結果その他の情報をもとに、標準治療を進めることになり、効率的であろうが、個人によって異なる細かな所見などは無視されることになる。

 病院の患者の管理については昔よりはるかに進み、何をするにも患者の間違い、検体の取り違えなどのないように、名前のくどい程の確認、定型的な患者の状態の把握などの管理は徹底されているようであった。だが、定型から外れる患者と医師やナースの細々とした会話などが減り、患者に対する細やかな説明なども減ったような感じがした。

 給食も昔より良くなり、配膳時刻も適正だし、個人識別、栄養価を計算された食事が配られるが、おかしいと思ったのはお茶の給付がないことであった。水分をどれだけとっているかなど、栄養摂取同様重要なことだと思われるが、少なくとも一般患者については摂取水分量のチェックはない様で、各自が院内の自動販売機で水やお茶、ジュースなどを適当の買って飲むことになっていた。これから夏になって異常温度が続く時など、老人患者についての水分補給の確認などはどうなっているのであろうか。

 病院の運営、それに伴う外来や病棟でのI T化はかなり進んできて、運営の効率化、正確度は確実に増しているのであろうが、それに伴って切り捨てられたり見失われた部分も医療全体から見て無視出来るものではなく、患者中心の医療と言いながら、どうしても両者のコミュニケーションは後回しになっているような気がしないではなかった。

 Evidence Based Medicineは進むが、Narrative Based Medicineも無視されてはならないのではなかろうか。

 

 

 

 

96歳の難病

 私はこの7月が来れば、もう満年齢で96歳になる。以前に仲の良かった友人達はもう皆先に逝ってしまって誰も残っていない。五人兄弟だったが、今では白寿を迎えた姉と私だけになってしまい、姉は施設で死にかけているといっても良い状態である。父親が94歳で死んで長生きだったと思っていたが、もうその歳も超えてしまった。

 最近は百歳を超える老人も多くなったが、96歳といえばもういつ死んでも老衰とされておかしくない年齢である。これまで87歳で軽い心筋梗塞を起こした他は、これといった病気もせずに、普通に暮らせてこれた方がおかしいと言われても反論できない様な年齢である。

 そんなところに突然血小板減少性紫斑病が起こり、病院に入院させられた。自分では紫斑や点状出血斑などはあるものの、年並みの体の衰えは当然だが、普通に生活出来ているので、あまり問題にしたくなかったが、検査を受けた医師が血小板数が2千しかないことに驚いて、病院を紹介し、即入院ということになったのであった。

 病名は特発性(免疫性)血小板減少性紫斑病という指定難病であり、早速ガンマーグロブリンの大量点滴注射を一回4時間もかけて5日間続け、その後、最近になって使われる様になった、骨髄での血液細胞の増殖を刺激するという、一錠が5万円もする薬をのむ予定が組まれた。初めのうちは経過を見るために入院を続けることになっていた。

 ところで考えさせられた。もっと若い時にこの病気にかかっていたとしたら、いくら高額な薬で副作用の危険を冒しても、最善と思われる治療に賭けて見るべきであろうが。最早何時何で死んでも老衰と言って片付けられても良い年齢の老人が、残り少ない日時を医療のためだけに貴重な生活を犠牲にしても良いのであろうかと気になった。

 死なない人間などいない。平均寿命ももう過ぎ、残り少ない命の老人が、生活を犠牲にして治療に専念しても良いものだろうか。治療が功を奏したとしても、たちまち天命が来て命を落としては、何のための治療だったのかということになるであろう。ここは普通の生活が出来ているのだからそれを続けるべきで、その範囲での治療行為に限るべきではなかろうか。

 ここはエビデンス・ベイスド・メディシン(EBM)よりもナラティブ・ベイスド・メディシン(NBM)を優先さすべきだろうと考えて、医師と相談して、後の薬を止めて、止血剤だけもらって退院し、普通生活に戻った。血小板数が増えるかどうか様子を見なければわからないが、血小板がそのままで、結果が命取りになったとしても、それが天命であろうから後悔することにはならない。

 残された人生の短い時間を少しでも意義あるものにすることの方が大切だと思わざるを得ない。家庭生活を続け、桜を愛で、アメリカから来た孫達の顔を見、ずっと続けてきたクロッキーをも描き、快適な生活を少しでも味わいながら、血小板減少がどうなっていくのか運を天に任せて、余命を楽しもうと思っている。

サプリメント

 今日の様に社会のあらゆる分野の隅々まで資本主義が行き渡り切ってしまうと、その中で金儲けをして生きていくには、最早、衣食住といった人々の普通の基本的な需要に応えるだけでは、もうどこを見渡しても飽和し切ってしまっており、どこかに間隙を見つけて需要を掘り起こし、新たな需要を作って行かねば商売にならなくなっている。

 そんな間隙として入り込みやすいのは、人々がなくても良いが、あったら便利かな思うようなところであろう。実際アマゾンなどの広告を見ているとそんなものばかりである。生活周辺の電気製品やレジャー用品など、ありとあらゆる、どうでも良い様な物品の広告がぎっしり並んでいて、競争の激しさが分かる。

 そんな中でも、より多くの人たちの関心をを惹きつける分野となると、人の弱みに漬け込む商売である。中でも人の健康に関するものがよい。誰しも完全無欠な体を持っている者はいない。それに、誰しも年をとるし、どこかに弱みを持っている。それに社会的にいろいろなストレスにもさらされるので、誰しもどこかに不安を抱えている。それに高齢化の時代であり、不安の時代でもある。

 そんなことで最近盛んになってきた大きな市場は健康関連の分野である。運動器具から運動着、運動靴、健康増進具、健康補助具、野外用品など健康関連物質の販売、スポーツ施設やジム、レジャー用品なども大きな市場であるが、もっと直接身体に働く所謂サプリメントの類から化粧用品の類なども、人の弱みに漬け込むわけなので、より大きなチャンスを与えてくれることになる。

 サプリメントと言っても幅が広い。医用薬品に近いものから化粧品や食品に近いものまである。その内容は豊富で、法令上の区別ばかりでなく、種々の分類や呼称がある。医療用医薬品以外の一般人が薬局で普通に買える市販薬をはじめとして、保健薬、医薬部外品などと言われるものから、健康機能食品、特定保健用食品、機能性表示食品、栄養機能食品、健康増進剤、健康飲料、栄養補助食品、栄養強化食品、健康補助食品、保健用食品など機能の違いも曖昧な、名称もまちまちで、薬品に近いものから食品や化粧品に近いものまで種々雑多なものがある。

 こう言ったものが売られるのは良いが、一つ一つの掲げる効用は医薬品と違って弱く、副作用も少ないであろうが、製造過程で医用薬品ほど厳密には効果も副作用も検討されていない。むしろ心理的効果の方が大きい様なものばかりであるが、その結果が最近問題になっている小林製薬の紅麹によるコレステロール低下を狙った健康補助薬である。

 それについてはここでは触れないが、こう沢山の種類のものが出揃うと、あれもこれもと併用する人の多くなることも充分考えられる。一つ一つには問題がなくとも、違った種類のものを多くの服用するとなると、その併用による思わぬ危険性も考慮しなければならなくなるのではなかろうか。

 一つ一つについては責任を持てても、多くの出所からの多くの品物の併用については、すべてのものが同一の人体に入るのだから、当然全体としての作用、副作用をも考慮に入れなければならないが、それについては誰も責任を負わないことになる。

 サプリメントだからといって、良さそうなものをあれもこれもと併用している人も多い。現に私の友人を介して知っているある男性がサプリメントを20〜30種類も常用していると聞いて驚かされたことがあるが、広告に乗せられれば、あれもこれも良さそうで、いくらでも併用したくなる可能性も充分考えられる。

 サプリメントが人の弱みに漬け込む性質のものであるだけに、全体としての人体への影響を考える責任を誰かが取るべきではなかろうか。

 

歳を取れば諦めが大事

 歳を取れば誰しも体力が弱り、それまで出来ていたことが次第に出来なくなるのが悲しい。

ずっと続けてきた毎月の箕面の滝までの散策も、もう今年になってからは出来なくなったし、散歩の行動範囲も、以前は池田から隣の石橋や川西まで歩いて行っていたのに、もう今では電車に乗らねば行けなくなってしまった。

 梅田界隈など、以前はよくあちこち歩き回ったものだが、もう電車に乗って梅田へ出かけることさえ億劫になってしまった。免疫性血小板減少紫斑病にかかってしまってからは、危険を避けるために遠出は遠慮した方が良いことも関係して、どうしても行動範囲が限られてしまうことにもなった。

 足だけではない。体全体が疲れやすく、炬燵にでも入れば、出るのに何度「どっこいしょ」と掛け声をかけないと抜け出せないことか。家の階段でも、14段の曲がり階段を2階まで上がるだけで足が疲れてやれやれということになる。

 五感も衰え、以前にはよく見えた目も、今では片目で見ているようなもので、それもピントが甘くなり、しばしば読み間違いをする。漢字など譬へば、「焦る」とあるので、何をそんなに焦るのかと思ったら、「集る」だったりするし、耳も聞こえ難いので、会話の輪に入り難い。「梅」が好きだというのをてっきり「海」が好きだと聞き違えたりする。

 匂いなど更に感じなくなり、外から帰って来た娘が「今日はカレーなの」と言うのを聞いても、食卓にいる私にはカレーの匂いなどしない。鰻屋の前を通っても鰻の匂いがしないし、花の香りさえ分からなくなったのは悲しい。

 自分の両脚は他人に見せられないが、太腿の付け根から足の先まで、びっしりと小さな出血斑の後がいつまでも残っている。自分の体や能力にケチをつければキリがない。病院では特発性血小板減少性紫斑病と診断されている。

 歳を取らない人はいないし、誰しも必ずやがては死んでいくのである。96年もの長い間、良くも生きて来たかものである。もう友人達も、もう皆既に先に逝ってしまっている。父の死んだ歳をも超えた。自分の番が回ってきても当然である。もう長くは生きていないであろう。

 そう考えると体の衰えも当然のことであろうし、恐れることはなく、諦めるべきで、これまで自由に老後の生活を楽しませてもらったことに感謝し、むしろ現状を楽しみ、いつかは必ずやってくる死を待つべきなのであろう。