石牟礼道子さんのこと

 石牟礼道子さんといえば水俣病を告発した「苦海浄土-我が水俣病」の本で有名であるが、一昨日だったか、新聞を読んでいて、氏の「魂の秘境から」という時々掲載される連載記事に目が止まった。これは水俣病とは関係がなく、「食べごしらえ」という副題のついたもので、次のような鯛めしについての記載があった。

 「湯気の立っているごはんの上に透きとおった厚い刺身を四、五枚のせ、鉄瓶の口からお湯をしゅうしゅう噴き出させて、琥珀色の「手醤油」を垂らして蓋をする」・・・「青絵のお碗の蓋をとると、いい匂いが鼻孔の周りにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼きの急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった」

 『椿の海の記』という氏がまだ幼い頃の農村の様子を描いたものからの抜粋であるが、久し振りに氏の文章に接して思わずうまいものだなと、その表現力に感心した。昔の田舎のささやかなご馳走の様子が周囲の雰囲気まで含めて、目に見えるようで思わず唾を飲み込む感じにさせられた。

 もう随分前のことになるが、苦海浄土の本を読んだ時に、よくもこれだけ丹念に多くの被害者の話を聞き、直接加害者を告発するというより、自然と共生した生き方をしてきたこの地の人びとの、有機水銀による水俣の公害によって起こされた悲惨さを丹念に聞き取って、静かに、だがしっかりと記載した労作には頭が下がったが、その表現力の豊かさにも惹きつけられて、長い記録をつい読みふけったことを思い出した。

 池澤夏樹が個人編集の世界文学全集に石牟礼道子を日本の作家として唯一取り上げたのにもうなずける。戦後の高度経済成長に伴って起こった水俣の公害事件はメチル水銀による神経障害によるもので、今なお記憶に新しく、いろいろなことが思い出されるが、その時にはいつも石牟礼道子の苦海浄土が出てくることになる。氏は私より一つ上の同世代でもある。

  なお、二、三年前にノーベル文学賞をもらったベラルーシ人であるスベトラーナ・アレクシェービッチの「チェルノブイリを取りまく世界のこと」を読んでいた時にも、その丹念な被害者からの聞き取りの文章を読んでいて、思わず石牟礼さんの苦海浄土を思い出したものであった。