アレクシェービッチさんのノーベル文学賞受賞の記事を読んで

 ウクライナ生まれのベルラーシのジャーナリストであるスベトラナ・アレクシェービッチさんが今年のノーベル文学賞に決まり、それについての彼女の作品の訳者である松本妙子さんの記事が新聞に載っていた。

 アレクシェービッチさんについてはこれまで全く知らなかったが、ジャーナリストらしく、これまで「戦争は女の顔をしていない」「チェルノブイリの祈り」「ボタンの穴から見た戦争」「死に魅せられた人びと」「アフガン帰還兵の証言」などルポルタージュ風と思われる多くの作品があり、邦訳も幾つか出ているようであるが、池田市図書館の蔵書には一冊もなく、日本ではこれまであまり知られていなかったようである。

 しかし、訳者の松本妙子さんの紹介記事はなかなか興味深かった。それを読んで、まず頭に上ったのは石牟礼道子氏の苦海浄土を読んだ時の感動であった。アレクシェービッチさんも徹底した聞き語りをしておられるようで、松本さんの文章から伺うと、「語り手の『私たちがいなくなってから作りごとを言わないで。私たちが生きている今のうちに聞いておいてちょうだい』といった言葉や、『他者の底知れない苦悩の淵に勇気を奮い起こして飛び込むのはとてもこわい』『国家というのは自国の問題や権力を守ることのみに専念し、人は歴史の中に消えていくのです。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切なのです』という言葉などから知る著者の心情に石牟礼氏と同じものを感じるのである。

 池澤夏樹さんが自選の世界文学全集を編んだ時、日本文学として唯一苦海浄土を選んだのは慧眼だと思ったが、アレクシェービッチさんの作品もおそらくそれの似た徹底した個人への密着した取材に根ざしているものではなかろうかと思われる。

 今ユネスコの世界記憶遺産登録で問題になっている南京虐殺事件などについても過去の歴史について政治家は自分に都合の良いように変えて解釈しがちなものであるが、事実はその現場にいた人たちが現実に見たものであり、その生の証言がそれに関する後に書かれたどのような調査報告書よりも確かなものである。

 また、先の大戦についての加藤陽子氏の著作などを読んでいて感じた違和感も、実際にその時代に生きていた者の体験とよく調べられた文献による歴史との間の齟齬のためと思われる。歴史は積み上げられた文献から作られていく一種の物語とも言えようが、実際の歴史はいつもそれとは少し乖離したところにあったものに違いない。

 ただ「人は歴史の中に消えていき」物語だけが歴史として残ってきたし、また残っていくのではなかろうか。そいう意味でこういった個々の生きた語り手の言葉を少しでも多く記録にとどめることは貴重な仕事であると思われる。

 アレクシェービッチさんの著作も是非一度読んでみたいものである。