国があって国民があるのではなく国民がいて国がある

 民主主義の国では人々がいてその人たちが国を作っているはずだが、日本の政治家は選挙さえすれば民主主義で、政府があって国民があると思っているようだ。政府が目指している自民党憲法改正案をみるとよくわかる。憲法は国民が政府を縛るためにあるものなのに、政府は憲法によって国民を縛ろうとしている。

 万事がそのようである。政府はまるで政府が学校の先生で、国民は生徒ででもあるかのように思っているのではなかろうか。イスラム国で二人の日本人が殺されたのを受けて、シリアへ行こうとした報道カメラマンの旅券を返さなかったら逮捕するぞと脅かしてまでして取り上げたようである。

 先生の言うことを聞きなさい。あそこは危険だから行ったらダメと言って力ずくで禁止するようなものである。国民は政府の方針に従うべきだと思っているのである。この国では個人の自由よりも国や組織の都合、理念よりもコストが重視されるのである。

 危険などについてのアドバイスは出来るだけ教えてあげるべきである。しかし、それを知ってもなお行かねばならないとする人の行動の自由を政府が取り上げる権限はない。もちろん本人は自分の責任で行くわけであるが、それでも政府は危険があれば援助し、いざという時には助け出す義務がある。それが民主主義の国である。

 民主主義の国では人々がそういう約束で国を作っているのである。そうでなければ自分で勝手に登ったのだから自己責任だと言って雪山遭難者を助ける必要がないことになるし、火事になっても、溺れても自己責任なら救急車の出動は不要ということになる。

 一緒に同じ国に住んでいるのだから困った時には助け合いましょうというところから国が出来、国の警察も消防も救急隊も出来たのである。これらは皆国民のために働くための組織である。警察が政府の要人の警護をするのも国民が作っている政府の安全を守るため、国民のために守るのであり、政府を国民から守るためのものではない。

 ところがどうであろう。今や国民を守るべき政府がどんどん国民をより大きな危険に曝そうとしているのではなかろうか。

 わざわざ尖閣諸島を国有化してそれまで暗黙の了解で棚上げしていたものを対立の材料として引っ張り出して中国と仲違いを決定的なものとし、”慰安婦問題”で過去の歴史を否定して韓国との関係も悪くし、再び東洋の孤児になりかねない。大きくなった隣国の中国や韓国と良好な友好関係なしに日本の繁栄はありえない。

 その上今度は更に集団的自衛権などと言ってアメリカに言われるままに”有志連合”に加盟しようとして、これまで折角良かった中東における日本の評判を潰して中東にまで敵を作ることまでしている。積極的平和主義などと言いながら次々と敵を増やし、国民の安全を危険に曝させようとしているだけではないか。

 さらに国内的にも沖縄の人たちの明らかな意思表示を無視して、政府は沖縄県知事に会おうともせず、補助金を削り、国民の意思をアメリカに説明もせず、力で軍事基地の移転を図っている。どう考えても民主主義国家の政府が取るべき手段ではない。国民を敵に廻してでも政府の方針を貫こうとしているのである。

 この政府は国内的な施策としても、経済的には大企業の減税、非正規労働者の増加、社会保障の削減や地方の切り捨てなどを進め、国民の格差拡大を促し、政治的には秘密保護法の制定、報道の自由の萎縮などとともに嫌韓嫌中を煽り、右翼の台頭を許してきている。

 こうしてこの国の姿はいつしか変貌が進み、やがては憲法改正で、戦争の出来る国にさせられ、否応なしに再び悲惨な戦禍に巻き込まれることにもなりかねない。国民の要望よりも、宗主国の要請が先んじられている姿が改まらない限り、この国の民主主義はおろか国の将来にも希望を託すことが出来ないのではなかろうか。