時間に追いつけない

 若い時には年を取って時間が出来たらゆったりと流れる大河の辺に座って水が悠々と流れるのを一日中でもじっと眺められるようなことでも出来たらなあと、そんな景色を想像して軽い憧憬のようなものを感じたこともあったが、実際に年を取ってみたら、時の流れるのは年とともに速くなるばかりで、なかなかそんな悠々としたゆとりの時間などやって来ない。

 年と共に朝早く目が覚めて早く起きるようになっても、ゆっくり起き上がって身づくろいをし、インターネットを眺め、興味に惹かれて寄り道などしているとたちまち時間が経ってしまい、あわてて雨戸を開けて、朝飯を食らい、用を済ませ、テレビ体操をし、新聞を読んでいるとたちまち朝の時間が過ぎてしまう。

 時には近くの散歩や、月に一度はと決めた箕面の滝の”月参り”にも行かねばならない。何処へも行かなくても、そのうちにたちまち陽が上がって、日向ぼっこでもしながらお茶を飲み、中途半端に残ったインターネットを片付けたり、ブログの文章を書いたりしているとともうすぐに昼飯の時間になってしまう。正午のテレビのニュースを見ながら食べ終えると眠くなるので、半時間ばかり午睡を取る。

 終わればゆっくり起き上がって、午後は絵を書いたり、本を読んだりしていると冬だとたちまち東向きの書斎は薄暗くなり、電燈をつけねばならなくなる。傍の時計を見るともう五時頃。我が家の夕食は早いので、やがて夕飯の声がかかる。適当に仕事を片付けて食堂に降りる。夕飯にはちょっとだけお酒も加えてなるべくゆっくりと取る。

 それでも女房と二人だけの食卓では「あれがこうして、それそれ何といったね・・」などと話しながら食べていても長くても半時間もかからない。たちまち夕食も終え、後片付けなどを済ますともう七時のニュース、夕刊を読んだり、先の予定の日の調整をしたり、時には知人、友人などとの電話のやりとりや家の雑事をこなしたりしているうちに早八時が過ぎて眠気がさしてくる。

 若い頃なら眠いのを我慢して本でも読んでるうちにまた目が冴えてきて夜遅くまで起きていることになるところだが、老人は明日の朝のことを考えればもうそろそろ寝る準備をしなければならなくなる。こうして瞬く間に日が暮れて何もしなくても一日が終わる。

 これが特別出掛ける用もないルーチンの日の一日である。何もしていないのに瞬く間に日が終わる。それが明くる日も明くる日も続くこともある。サンデー毎日である。ここに外へ出かける仕事や用事が入ってくるとますます時間が無くなって一日の経つのが速くなる。午後にちょっとした用事で出かけても帰ればもう夜になる。

 今なおこちらが暇だからといって引っ張り出されて行かねばならない仕事も少し引き受けている。そんな用事で出かける日には昼食をいつもより早くして出かけ、用事が早く済んでも折角だからと本屋に立ち寄ったりギャラリーを覗いたりして帰ればもう夜である。そんな日は普段のインターネットやお絵描きなどが省略されることになる。

 ”光陰矢の如し”と昔から言われるがどうも時間の経つのは年と共に加速度がつくように速くなるようである。

 子供の頃には学校から帰って、ランドセルを放り出して、外で近所の友達と散々遊んでやっと日が暮れるといった感じで、一日がずいぶん長かったし、いつも仲々来ないお正月だとか夏休みなどが待ち切れなかったものだったのに、年をとるととも月日の経過が速く感じられるようになるのは何故だろう。

 恐らく一つは子供の時は出くわす日々の経験がどれも初めてのことが多く、何でも新鮮に感じられていたのが、年とともに日々が同じことの繰り返しとなり新鮮な経験が少なくなり、それだけ感動させられる内容が少なくなってくるので時の経つのも速く感じられるのではなかろうか。

 そんなことを話したら友人が教えてくれた、もう一つは年をとると何でもする動作が遅くなり、それだけ一日にすることの内容が希薄になるからじゃないかと。たしかにそれも関係しているに違いない。

 若い時なら何かで家を出る時でも思い立ったらさっと出れたのに、年をとると先ず決断に時間がかかる。決めても着替えをして火廻り、戸締りをし、用を足して、眼鏡や財布、鍵などを揃え、靴を探して履き、傘を持って行ったら良いかどうかを考え、外へ出てからも火を消したかな、鍵をかけたかなともう一度確かめたりしてやっと出かけることになる。することが多くて一つ一つの動作が遅くなるので効率の悪いことこの上ない。

 万事がこうだから一日に出来ることも限られてくる。当然内容が少ないままに日が経ってしまうというのも確かであろう。若い現役の頃はどうしていたのだろう。朝から晩まで働いてよく沢山のことをこなせていたものだなと思う時がある。

 とりわけ過ぎ去った時間は速く去っていく。昨日のことだと思ったらもう二日も三日も経っている。ついこの間行ったと思っていたら調べてみたらもう何ヶ月も前に行っている。戦争の悲惨な思い出も未だについ昨日のような気がしてならない。とても月日の経つのにこちらが追いつけない感じである。

 しかし時間が経つのが速いことには良い面もある。寒い冬も暑い夏もしばらく我慢しているうち瞬く間に過ぎていく。悲しいこと苦しいことも時が癒してくれる。今は二月だがもう梅が咲き始めている。まだ毎日寒いがもう直ぐ三月、やがて四月で 桜の花の咲くのもすぐだ。子供の時のように待ちわびることはない。向こうからすぐにやって来る。そのかわりまたあっという間に過ぎていく。

 そんなことを繰り返しながらまるで螺旋状の渦巻きのように時は過ぎていく。そしてそこに巻き込まれていくように最後の死へとまっしぐらに進んでいっているようである。こうして老人はやがて必ず死ぬだろう。でもやっぱり残ったこの世が平和で幸せであって欲しいと願わずにはおれない。