てんご遊び

 この正月には米寿の祝いを貰った。まさかここまで生きるとは思ってもいなかった。まさに余生というべきか。残りの人生は短い。どっちみちやがて死ぬ。それまでの短い時間を大切に楽しまなければ勿体ない。この世に沢山不満もあるがこれまで何とか生かして貰っただけ有難い。今更何をやってもこれから先もう立派なことが出来るわけはない。

 自分のやりたいことをやらなければ詰まらない。下手くそでも人に笑われても、自分が好きで良いと思うことがあればやるのが良い。結果は問わない。どうせもう短い時間だ。大したことが出来るわけがない。中途半端で終るに決まっている。しかしもともと人生は結果でなく過程だ。どんな人生にも完成などなく中途半端な過程なのだから。

 年をとると開き直れる。人に頼らずに生きて行ける限りは自分の思うようにやってみることだ。世間の評価や他人の噂は周囲に迷惑をかけない限り問題ではない。自分らしいこと、自分が楽しめること、自分がやりたいことをやりながら途中で死ぬのが最高ではなかろうか。

 そう開き直って興味のあるものに出会ったらその度、気の向くままに好きなようにものを作ったり、絵を描いたり、文章を書いたり、出かけたり、散歩したり、写真を撮ったり、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、何でも気の向くままにしている。どれも中途半端で良い。自分では「てんご遊び」と総称している。

 これがいつまでも続くわけではない。体が自由に動いて好きなように出来る間のことである。自分がいつまでもやりたくても、やがて体が不自由になり、頭がボケて、自然がだんだん色々なことをさせてくれなくなる。それまでの間、どれだけの期間があるか知れないけれど、出来る間は貪欲に「てんご遊び」に耽りたいと考えている。