何でも100年も使っていると痛んできて、ボロボロのなっていくのは仕方がない。いくら新陳代謝で絶えず再生されていると言っても、新陳代謝自体も衰えてくるのだから仕方がない。
身体全体が衰え、力はなくなり、バランスも悪くなり、耐久力も減ってしまう。背中がだる痛く、背丈も従来より低くなったのか、高い所に掛けていつも使っているタオルが掛け難くなった。
以前は足の速いことで知られていたのに、今では歩行器に頼って、遅れがちについて行かねばならない。それに疲れ易いので、途中で休みを入れないと長距離を行くのも無理である。家の中でも小股歩行になりやすく、ふらつき易いので、ついあちこちの壁や柱に手をつくことになる。疲れ易いので、一日二回ぐらいは昼寝をしたくなる。
それでも、まだラジオ体操や座禅は何とか続けているし、3度の食事は欠かさない。それなりに健康だし、頭はまだクリアだと自分では思っている。ブログを書くのも何とか続けている。
しかし、体の中でも最も微妙な感覚器官の衰えは、最早隠せぬところまで来ている。元々ぼんやりした触覚や味覚は、自分ではあまり変わっていないような気がしているが、もっと微妙な視覚、聴覚,臭覚の衰えは無惨なものである。
以前は見るよりも先に匂いで感じた、春の沈丁花、夏の梔子(クチナシ)、秋の金木犀、いずれも我が家の庭にあるのに、どれも匂わないようになってしまった。特に近くの家の塀の近くに植えられた金木犀が道路を真黄色に染めているのに、そこを通っても今は全く匂わないのが悲しい。当然、街の鰻屋さんやラーメン屋さんの前を通っても匂わない。
それでも匂いは匂わなくてもそれほど困らない。困るのはやっぱり視力と聴力である。目は早くから人並みに近眼、老眼などになったが、それに加えて、六十歳の頃ストレス性と言われたが、左眼の黄斑浮腫で中心暗点や歪みがおこり、今や碧眼状態になっている。そのため奥行きが判り難く、平面的に見える。見誤りを楽しむ術については繰り返さないが、それでも眼鏡や拡大鏡などの助けを借りて、何とかやりくりして済ましている。
今一番困っているのは老人性難聴である。未だ、ここ2〜3年ぐらいのことであるが、テレビの音を大きくして嫌がられたり、電話やスマホの音を聞きそびれることがあるようになってきた。
補聴器をつけたらと思ったが、両耳で百万円と聞いて、つい二の足を踏むことになる。満年齢で九十七歳とあっては、余命幾ばくかも分からないのに、それもどうかなと思い、ソニーの集音器を買った。しかし、これは音を集めるだけなので、食事の時につけると、自分の咀嚼音や、水道の音などがやかましく、平素は煩わしので、つい充電ボックスに置いたままということになっている。
女房の言うことがはっきり聞き取れず、聞き直すことが多くなったり、女房と娘の会話が聞き取れず、一人だけ置いてきぼりになるのが一番辛い。そうかと言って、百万円の補聴器を買うべきかどうか、散々迷ったげ句、すぐ近くに補聴器屋さんがあることを教えてもらい、そこへ何度か通い、結局買い求めた。
ここなら家から近いので微調整など、メインテナンスにも便利だし、私が死んだら、女房が使うと言う手ことも出来るのではないだろうか。まだ手にしてから日が浅いので、評価はもう少し先まで待ねばならないが、買ったからにはフルに利用しなければと思っている。